Life is a Journey
野原瑛真 (1年/MF/Newport High School)
Hi, I’m Eishin Nohara. なんで英語で書き始めたかって?それは、僕が中高ずっとアメリカで暮らしてたっていうのを、ちょっとアピールしたかったからだ(笑)。これから書く僕の話は、他のア式のプレーヤーや普通の受験生とはちょっと違うと思う。だから、「受験勉強のハウツー」とか「サッカーで成功する秘訣」を期待してる人には、あんまり参考にならないかも。でも、帰国子女ってこんな感じで人生を歩んでるんだよ、っていう一例として読んでくれたら嬉しいな。だからちょっとだけ肩の力を抜いて、この旅に付き合ってほしい。
Chapter 1: ニューヨーク――初めての挑戦
僕は東京で生まれたけど、1歳くらいのときに父の転勤で急にアメリカのニューヨークに行くことになった。正直そのときの記憶はほとんどないけど、幼少期の断片的な思い出は今でも鮮やかに残っている。
ニューヨークでの生活は、僕にとっていろんな初体験の連続だった。その中でも忘れられないのが、教会に併設されたプリスクールでのエピソード。英語が全く話せなかった僕は、ある日トイレに行きたくなった。でも、どう言えばいいのかわからない。頭の中で「I’m pee pee(僕はおしっこ)」とか浮かんだけど、「いや、絶対違うでしょ!」とプライドが邪魔をして結局何も言えず…。最終的に失敗してしまった。これは僕の「人生最初の大恥」だったけど、同時に「次はちゃんと伝える!」と決意した瞬間でもあった。
こんな爪痕を残したプリスクールだが、日本人の子どもが多く、クラスの8割は駐在員の家庭だった。さらに近所のコミュニティも日本人だらけ。親たちは東大卒がほとんどで、「浪人したの?それともストレート?」みたいな会話が日常的に飛び交ってた。当時の僕には「ストレート?曲がるってこと?」と意味不明だったけど、その空気感だけは何となく感じ取ってたよね。
学校が終わった後は「習い事」に通ってたけど、英会話やKUMONみたいな勉強系じゃなくて、野球、水泳、空手、サッカーといったスポーツばかりだった。特にサッカーは、父が「一回やってみろ」と押して始めたもので、当初は他のスポーツの「おまけ」みたいな存在だった。
でも、初めてボールを蹴ったあの日から、僕のサッカー人生が始まった。ボールを追いかけてみんなでわちゃわちゃ群がり、点が入ったら全員で大騒ぎする。その楽しさがたまらなくて、いつの間にかサッカーが僕の生活の中心に。ニューヨークでの生活が終わる頃には、完全に「おまけ」から「本命」に昇格していた。
Chapter 2: 日本での生活――伝統文化との再会
ニューヨークでの生活を終えて日本に帰国した僕は、父と母の母校でもある学習院初等科に入学した。ここでの生活は、ニューヨークの自由な雰囲気とは全く違ったものだった。
全員同じ制服を着て、同じランドセルを背負い、持ち物には鉛筆一本にまで名前を書かなきゃいけない。そして、給食は一口も残してはいけないし、食べ終わるまで一言も話してはいけないという厳格さ。極めつけは、卒業前にふんどしを履いて遠泳をするという伝統行事。僕は最初、「これ、マジでやるの?」と思ったけど、実際にやってみると不思議と誇らしい気持ちになった。
この学習院での生活を通じて、僕は「思いやり」や「感謝」といった価値観を自然と身につけることができた。ニューヨークでは感じなかった「日本らしさ」を学べたこの6年間は、今の僕にとっても大切な基盤になっている。
そしてもちろん、サッカーへの情熱は変わらず健在だった。学習院のサッカー部ではキャプテンを務め、豊島区のトレセンにも選ばれた。他にも水泳ではジュニアオリンピックに出場したし、空手では黒帯一歩手前まで進んだ。でもやっぱりサッカーは特別だった。ゴールを決めたときの高揚感や仲間と喜びを分かち合う瞬間――それは他のどんなスポーツにも代えがたいものだった。
Chapter 3: シアトル――再びの冒険
順風満帆だった日本での生活も、父の転勤で再び大きく動き出した。次の行き先はニューヨークではなく、ワシントン州のシアトル。イチローがいたマリナーズの本拠地、そしてスタバ発祥の地として知られるこの街で、僕の第二のアメリカ生活が始まった。
シアトルでの現地校初日、僕は早速「文化の違い」という名の落とし穴にはまった。授業の始めに先生が「自分のPronounを書いて」と言ったとき、僕はEISHINと自信満々に書いたんだ。だって、「どう呼ばれたいか書け」って言われたら、そりゃ名前を書くのが正解でしょ?って思うじゃん。でもそれを見たクラスメイトたちは、机をバンバン叩きながら爆笑。「あれ、何か変なことした?」と思いつつ周りを見渡すと、みんなは「he/him」とか「she/her」とか書いてるわけ。そのとき僕は、「え、これ、名前書くやつじゃないの!?」って頭が真っ白。どうやらこの欄は「自分が呼ばれたい性別を示す代名詞」を書く場所だったらしい。簡単に言うと、「あなたの性別に関する敬意を表して正しい呼び方を教えてね」っていう意味だったんだ。アメリカでは、性別の多様性を尊重するのがすごく大事だから、こういう文化があるわけね。
これ、日本で言うなら、「テストで名前を書く欄があったから『名前』ってそのまま書いちゃった」みたいなノリだよね。「正しい答えを書く」のは大事だけど、コンテキストを完全に読み違えるとこうなる、という典型的な例だと思う。でも、この経験があったからこそ、文化の違いは分からないまま避けるんじゃなく、恥をかいてでも向き合うべきなんだなって学べた気がするんだ。
それでも、現地校での授業は徐々に楽しめるようになっていった。最初は文化の違いに戸惑いながらも、気づけばめちゃくちゃ面白いと思える授業がたくさんあったんだ。たとえば陶芸の授業。これ、ただの粘土遊びじゃないんだよね。自分だけの土器を作って、それを焼き上げて完成させるんだけど、僕の初作品は何とも言えない形の歪んだ鉢。先生には「これ、すごく抽象的で現代アートっぽいね」と謎の褒め言葉をもらったけど、実際にはただの失敗作だった。それでも、自分で何かをゼロから作り上げる過程がすごく楽しくて、この授業が大好きになった。
そして一番テンションが上がったのは、3Dプリンターを使ったデザインの授業。「好きなものをデザインしていいよ」って言われた瞬間、僕の頭には自分だけの超カッコいいスマホケースを作ろうというアイデアが浮かんだ。試行錯誤を重ねて完成させたケースには、自分の名前とサッカーボールのイラストが彫り込まれていて、正直「これ、商品化できるんじゃない?」ってくらい気に入った。周りの友達にも「そのケースどこで買ったの?」って聞かれて、「自分で作ったんだよ」って答える瞬間のドヤ感、たまらなかった。
こうした授業は、ただ知識を詰め込むんじゃなくて、自分で考えて作り出す喜びを教えてくれたんだよね。正直、日本の学校ではこんなクリエイティブな体験はほとんどなかったから、毎日が新鮮で、好奇心が刺激されっぱなしだった。「学ぶって楽しいんだな」って心から思えたのは、この自由な教育環境のおかげだったと思う。
こうした授業は、ただ知識を詰め込むんじゃなくて、自分で考えて作り出す喜びを教えてくれたんだよね。正直、日本の学校ではこんなクリエイティブな体験はほとんどなかったから、毎日が新鮮で、好奇心が刺激されっぱなしだった。「学ぶって楽しいんだな」って心から思えたのは、この自由な教育環境のおかげだったと思う。
Chapter 4: スポーツと勉強――二刀流生活
シアトルでの生活が本格的に始まると、僕の毎日はまさに「スポーツと勉強の二刀流」で埋め尽くされた。アメリカの部活動はシーズン制だから、秋は水球、冬は水泳、春はサッカーというローテーション。要するに、一年中何かしら体を動かしている状態だったんだ。どのスポーツも楽しかったけど、やっぱり僕の心をがっちりつかんで離さなかったのはサッカーだった。
高校最終学年の春のサッカーシーズンは、特に忘れられない。僕たちのチームは「超強豪」と呼ぶにふさわしいメンバーが揃っていた。州代表の選手やプロを目指すようなプレーヤーがゴロゴロいて、リーグ戦ではほぼ無敗。観客席も毎試合盛り上がって、地元新聞に名前が載ることも珍しくなかった。僕もその一員としてプレーできたことが誇らしかった。でも、そんなシーズンにも終わりがやってきた。プレイオフの準決勝、僕たちはPK戦の末に惜しくも敗北。結局、州4位という結果でシーズンを終えた。このときの悔しさは今でも忘れられない。でもそれ以上に、チームメイトと一緒に過ごした時間、喜びも悔しさも共有した日々が、僕にとって一生の財産になったんだ。
それだけじゃなくて、アメリカのクラブチームにも所属していたんだけど、そっちは正直、学校のチームほど強いとは思っていなかった。でも後になって知ったんだ。このクラブ、現在ではLiverpool FCのユースという名前に変わっているらしい。当時の僕にはそんな事実、全然知らされてなかったけど、今思えば「え、もしかして結構すごい環境でやってた!?」って感じ。気づかないまま、いい環境でプレーしてたのはラッキーだったのかもしれない。
一方で、スポーツだけじゃなくて勉強も並行して頑張る必要があった。親の駐在がいつ終わるかわからない状況で、日本に帰っても教育についていけるようにするというのが僕のミッションだった。現地校の授業が終わったら、そのまま部活。その後、急いで帰宅してオンライン塾の課題に取り組むという、文字通りハードな毎日。でも、どっちも中途半端にはしたくないという意地だけで乗り切った。時には「もうこれ無理じゃない?」と思うこともあったけど、不思議とやればできるものなんだよね。なんというか、アメリカでの自由な雰囲気が僕のモチベーションを保ってくれた気がする。好きなことを思いっきりやればいいという文化の中で、全力を出し切るってどんな感じか、少しずつわかってきたんだと思う。
シアトルでの二刀流生活は、確かに大変だったけど、僕にとって自分の限界を試す特別な時間だった。そして、それをやり切ったことが、その後の僕の挑戦に繋がっていくことになる。
Chapter 5: 帰国――東大への挑戦
高校を卒業し、日本に帰国した僕は、帰国子女枠での東大受験に挑戦することを決意した。日本の一般入試とはまるで違う仕組みで、試験内容はまさに「帰国子女スペシャル」といった感じだった。TOEFLのスコアや課外活動の実績、小論文、面接、そして高校での成績や履修科目が評価される多角的な試験で、一般的な「テストの点数勝負」とは全く異なるアプローチだったんだ。こういう試験形式って、正直言って僕にはありがたかった。というのも、これまでの経験がそのまま活きる試験だったからだ。たとえば、課外活動。サッカーや水泳での実績だけじゃなく、現地校でのボランティア活動や、マーケティングの全米大会での実績や経験も評価された。こういう日本ではあまり見られない活動はここぞとばかりにアピールした。そして面接では、帰国子女としての個性を全面的に押し出した。先生たちに、自分の経験がどう学問に活きるのかを熱く語りながら、「きっとこれ、いい印象を残せたんじゃない?」と思ったよね。
でも、全てがスムーズにいったわけじゃない。帰国後、僕は帰国子女専用の塾に通い始めたんだけど、そこで出会った仲間たちにかなり助けられた。同じようなバックグラウンドを持つ人たちとの交流は、居心地が良かったし、受験に対するプレッシャーを分かち合える環境だったんだ。海外生活を経験してきたからこそ感じる孤独みたいなものが、そこで少し和らいだ気がする。そんな支えもありつつ、ついに東大合格という目標を達成したときは、やっとここまで来たという達成感と安心感で胸がいっぱいになった。帰国子女枠での受験は一般入試とは全く違うチャレンジだけど、これまでの経験があったからこそ、この試験を乗り越えることができたんだと思う。
エピローグ:旅の続きを描く
人生という旅はまだまだ続く。東京、ニューヨーク、シアトルを経て再び東京に戻り、東大で新しいスタートを切った僕の物語は、まだ始まったばかりだ。この先にどんな挑戦が待ち受けているのか、どんな出会いがあるのか――すべてが未知数だからこそワクワクする。
僕の話が、読んでくれた君の心に何か小さな刺激を与えられたなら嬉しい。そして、もし君も自分の旅の途中で迷ったり、立ち止まったりしているなら、僕の物語を思い出してほしい。人生は、どんなルートを選んでもきっと面白い。そしてその旅の先には、まだ見ぬ景色が広がっているから。
僕の話が、読んでくれた君の心に何か小さな刺激を与えられたなら嬉しい。そして、もし君も自分の旅の途中で迷ったり、立ち止まったりしているなら、僕の物語を思い出してほしい。人生は、どんなルートを選んでもきっと面白い。そしてその旅の先には、まだ見ぬ景色が広がっているから。
P.S.
東大に入ってから「なんのサークルに入ろう?」、「部活やろうかな?」など色々考え始めて、最終的にはア式蹴球部に入ったが、大学入学後の話はまた第二弾で書こうと思う!
この合格をきっかけに、僕の新しい冒険が始まる。それは、東京大学という舞台での生活。自分の帰国子女としての個性をどう活かし、次のステージで何を築いていけるのか――その答えを探す旅が、ここからまたスタートしていく。
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