C’est la vie.
森田桃香(2年/スタッフ/不二聖心女子学院高校)
フィーリングスを書くにあたり、すべてフランス語で書いてみようと思ったが、まだ完璧ではなく淡々とした文章しか書けないため諦めてしまった。卒部フィーリングスではフランス語で書くと宣言しておこう。実りある大学生活であったと胸を張れるように。
拙い日本語ではあるが、最後まで読んでいただけたら幸いだ。
まず、私について少し紹介をしようと思う。サッカーのプレー経験はないが、観戦は好きで今も見ている。私と同じく山梨県出身の父の影響で幼い頃からヴァンフォーレ甲府の試合に連れていってもらったが、私はサッカーの複雑な戦術や詳しいルールが分からなかったため、声を出して応援するしかなかった。青基調のユニフォームを着て、スタジアム全体で応援をする雰囲気に幼いながら魅了された。私のちょっとした自慢は、エスコートキッズとして一度ハーフナー・マイクと手をつないでピッチ内に入場したことだ。ただ、活気に満ち溢れていたスタジアムに手をつないで入っただけでとても緊張していた。唯一覚えているのは、右手でつないだことと、彼の背が高く大きな手だったこと、それだけ。手をつなげたことがとても嬉しく、「もう手は洗わない!」と言っていたくらいだ。しかし、中高時代は親元を離れ寄宿舎で生活していたため、地元山梨と、そしてサッカーとも自然と離れていってしまった。
中高では、富士の裾野に広がる広大な自然の中でのびのびと過ごした。中学では水泳部、高校では写真部と、学内ではいろんなことに挑戦した。また、福祉に当時から興味を持っていたため、障がい者ボランティアへ定期的に参加するなど課外活動も頑張ってきたと思う。第一志望の大学の推薦を無事貰え、大きな波はなく比較的順調に私の人生は進んでいった。
そんな中、サッカーを忘れていた高校三年生の私にもう一度サッカーの楽しさを思い出させてくれるきっかけがあった。それは天皇杯である。2022年10月16日、ヴァンフォーレがJ2ながらもサンフレッチェ広島相手にPK戦で天皇杯を制し、ACLへの切符を得た。広島相手では無理だろうと思い、日産スタジアムには足を運ばず、父の運転で寄宿舎へ帰っている時に試合を見ていた。だが、1-1でPK戦になる前、「もしかしたらあのチームに奇跡が起きるのではないか」と思い、コンビニの駐車場に車を止め、車内の小さなスクリーンに釘付けになっていた。甲府が5人全員成功し、見事PKをものにしたあの瞬間の胸の高まりは、今でも鮮明に思い出せる。あの地方の、小さなJ2クラブがJ1の格上クラブに勝ったという事実は、山梨県民であることの誇りとサッカー観戦の楽しさを改めて認識させてくれた。
上京し、新たな環境での大学生活に不安を抱えていた私は、体育会には入らず、福祉系のボランティアサークルに入った。フランス留学もきまり大学一年生前期はそれなりに楽しい日を過ごしていた。だがなにかが足りなかった。サークルもそれほど活動しておらず、そこまでのめり込めない。楽しかった反面、言語の壁に悩まされた留学も行ったらそれっきり。フランス語の勉強は続けるものの、そこまで熱中することはできなかった。ACLの観戦も行っていたため、サッカーとの関係はかろうじて切れてはいなかったが、熱狂するまでには至らなかった。なにかが違った。
そんな時、中高の友人がア式での話をしてくれたことを思い出した。マネージャーをしていて楽しかったことから大変だったことまで様々なことを共有してくれた。彼女がア式を大好きだという姿や、選手との関わりや活動を通して楽しむ姿、時に真剣に悩んでいる姿を見て、とても羨ましくなった。その友人に見学をしたいと頼み、気づけば二回見学に行っていた。選手が真剣にサッカーに向き合い、成長しようと奮闘する姿を見て、彼らのサポートをしたいと強く思うようになり、入部を決断した。
一月の始動合宿から、私はまずマネージャーとして活動を始めた。最初は何が何だか分からず、先輩マネージャーの動きを真似て業務を行うしかなかった。どうすれば練習がスムーズに進むのかを第一に考え、ピッチ内を忙しく動き回る先輩の姿はとても眩しく映り、同時に自分の無力さを痛感した。慣れることに必死で、他のことを考える余裕はほとんどなかった。
しかし、マネージャーとしての業務に少しずつ慣れていく中で、プレイヤーとも会話する機会が増え、グラウンド業務も入部当初と比べてスムーズになっていったことで、部活に行くことが私にとって楽しみになっていった。
しかし、マネージャーとしての業務に少しずつ慣れていく中で、プレイヤーとも会話する機会が増え、グラウンド業務も入部当初と比べてスムーズになっていったことで、部活に行くことが私にとって楽しみになっていった。
また、入部当初からトレーナーに興味を持っていたが、まずはマネージャーとして慣れてから考えようと思っていた。しかし、選手が怪我をした際にすぐ駆け付けて応急処置をしたり、テーピングを巻いたり、DLでリハビリを見ているトレーナーの姿を見て、純粋にかっこいいと思った。怪我から復帰した選手が笑顔でサッカーをしている姿を見て、自分もその過程に携わりたいと思うようになり、グラウンド業務だけでなく選手やチームのためになることを他にもしたいと考えるようになった。
移行期間を経てトレーナーになる決意を固めたのは10月である。私はまだ知識も経験も不足しており、名ばかりのトレーナーである。自分には何ができるのか、逆に何をしたいのかを悩む日々が続いている。自分で勉強したことや先輩トレーナーから教えていただいたことも、自分一人で実践できるかと言われれば、まだ不安な部分が多い。しかし、いち早くチームの役に立てるよう、貪欲に吸収し、成長していきたい。
移行期間を経てトレーナーになる決意を固めたのは10月である。私はまだ知識も経験も不足しており、名ばかりのトレーナーである。自分には何ができるのか、逆に何をしたいのかを悩む日々が続いている。自分で勉強したことや先輩トレーナーから教えていただいたことも、自分一人で実践できるかと言われれば、まだ不安な部分が多い。しかし、いち早くチームの役に立てるよう、貪欲に吸収し、成長していきたい。
現在は、1回の練習において最低3人とコミュニケーションを取ることを心掛けている。以前と比べ、大丈夫!で済ませず、違和感があることや具体的な状況を話してくれるプレイヤーが増えたことがとても嬉しい。同時に、彼らのプレイヤーとしての人生を支える重みを強く感じている。だが、悩み、足掻いた先に成長があると信じ、今は全力でトレーナー業務に向き合っていきたい。
「ア式はおれの全てだから」
そう私に打ち明けた前主将の言葉が胸に響く限り、絶えず努力を重ねる覚悟だ。
Merci d'avoir lu jusqu'à la fin.
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