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長谷川希一(4年/FW/福島高校)


簡単に言えば、『ブラッシュアップライフ』の4周目が僕の1周目と言えるかもしれない。
勉強に取り憑かれて、うっすら一人で生きてきた。
 
始まりは、小学生、担任の貝沼先生に辞書に付箋をつけているのを褒められて、とにかく辞書に付箋をつけるのに夢中になったことがきっかけだった。
貝沼先生は厳しかった。昭和の生き残りの指導スタイルで、生徒を制圧していた。周りの生徒たちと同様、僕も先生を恐れていたが、先生に知的好奇心の扉を開いてもらったのもまた事実だった。
褒められたことが嬉しくて、次第に給食中にも辞書を引くようになり、別に貼らなくてもいいところにまで過剰に付箋をつけた辞書の上部は付箋の厚みでパンパンに膨らんでパイナップルのようになった。先生はすごいすごいとそのことを学年便りで取り上げて、僕と辞書の2ショットが載った。僕が初めて「メディア」に載った経験かもしれない。
 
僕の家は共働きで、僕は学校が終わると祖父母の家に帰るおばあちゃんっ子だった。
仕事を終えて19時ごろ迎えにくる母とは「迎えにくるまでに宿題を終わらせておく」という約束を交わしていた。
祖父母の家には、祖父の趣味の漫画が壁一面にあった。祖父がやっていたバスケ、ゴルフ、テニスを中心に、スポーツ漫画がずらりと並んでいた。ジャンプは通っていないが、僕も僕なりに漫画に人生を指南されて育ってきた。
漫画は何日あっても読みきれないし、読み切っても何回も読み直した。
そのために、漫画を早く読むために、学校から帰るとすぐに宿題を終わらせるようになった。
 
でも勉強に取り憑かれてからは、次第に祖父の部屋に行くことも少なくなり、リビングで祖母がくれるお菓子を片手に勉強ばかりするようになった。
 
中学生になると、近所の県立図書館が会議室を自習室として開放しているのを知った。そして入り浸った。最後の1人として退出するのを生きがいに感じるようになり、どうしようもなく集中できない日も最後まで残りきり、勉強で飽和した頭に心地よさを感じながら毎晩暗がりを帰った。
 
自分には世界を救いたいという動機はなかったが、みんながDSなどに見出したゲーム性をたまたま勉強に感じ、勉強以外の世界を知ることなくそのまま大学受験期を迎えたので、勉強以外に目を取られることなく、熱中し、没頭した。そして人よりも少し大袈裟に1位を目指した。高3の春、コロナ禍で学校が休校になって、今まで学校が埋めていてくれた時間を自分でやりくりしなければいけなくなった時、自分には1日の過ごし方が勉強しかないんだと思って情けなくなった。そこでハッとした自分もいたが、その時にはすでに受験期に入っていて、なんとか自分を誤魔化して勉強に打ち込んだ。
 
家でも図書館でも学校でも、勉強するときはいつも1人。1日のほとんどを勉強に費やすので、大体は1人で過ごした。組織に属してはいるけど、うっすら1人。そんな生活を送っていた。
 
そんな僕が人と繋がれた唯一のコミュニティ。
僕にとってサッカーはそんな風に位置付けることができるかもしれない。
 
僕が出会ったサッカーが、キックの飛距離を競う個人競技じゃなくてよかった。
おかげで僕は喜怒哀楽をピッチで感じながら精神的にも肉体的にも健やかに育った。
小中高とキャプテンを任され、勝利も敗北もみんなで噛み締めたのが楽しかった。
 
サッカーと勉強、そのどちらにも深くのめり込んでいく中で、両者は分け難いほど密接に絡み合っていった。
サッカーを続けているから勉強をする気になるし、どちらかがうまくいかなくてももう一方を頑張れば自分を立て直せる。部活がない日は勉強にも集中できない。両者は僕にとっては両立できるはずのもので、学年もサッカーへの熱量も学校の成績も、毎年上がっていった。
 
とはいえ優先順位を言ってしまえば、勉強が先んじていると考えていたのもおそらく事実で、自分にとってサッカーは趣味の域を出ないだろうし、「特技はサッカーです」と言える烏滸がましさも持ち合わせていない。そんな自分の価値を結局一番上げてくれるのは勉強なのだろうと、究極2択を迫られれば勉強を選ぶべきなのだろうと、なんとなく気づいていたのだと思う。
 
高校に上がるタイミングで、スポーツ推薦の選択肢もあった。が結局は進学校への進学を決めている。僕に人生の2周目があるならば、スポーツ推薦で高校を選んでみようかとも思うが、それが今の人生と比べて「ブラッシュアップ」されたものと呼べるかはわからない。
 
この優先順位の思いが行きすぎて、転じてサッカーは究極自分に必要ないと思ってしまった時期があった。
 
それが高校2年生の秋であり、僕は東大進学を目指すことを理由に部活を途中で辞めている。自分を説得しようとする人の手を、東大の名前を出して振り払った。県内トップ高でも東大進学者が片手で容易に収まる地元福島で、東大を目指すと言えば、それ以上何も言われることはないのだった。
その選択が失敗だと知った時、僕は孤独を深めていた。コロナ禍による休校で、好きだったはずの勉強にも追い詰められた。模試も受けれず、自分が今どこにいるのかもわからず、本当に東大なんか行けるのか、そのプレッシャーを1人でただただ背負い込んだ。
 
いつしかサッカーを辞めた後悔から派生して、サッカーというもの自体が自分にとって嫌な思い出になってしまい、勉強も積極的にしたいものではなくなっていった。
 
結局、小学生からずっと好きだった「勉強」と「サッカー」を嫌いになるという形で地元福島での生活を終えた。東大に受かったからこそこうして人生を振り返れているが、受かってなかったらと考えると、恐ろしい。
 
 
 
大学でサッカーをもう一度やるというのは、自分にとっては勇気のいることだったが、ある意味では必然だった。サッカーは自分にとってなくてはならない存在で、サッカーで作った後悔はサッカーでしか掻き消せないのだと気づいていた。
大学でサッカーをやり直して、辛い記憶を上から塗り、今ある後悔を後悔未遂にするんだと、大学受験を頑張っていた。
部活を辞める時、揉めに揉めた両親は、大学でサッカーをやり直すと聞いてとても喜んでくれた。自分はプロではないけれど、自分がサッカーをすることで喜んでくれる人がいるというのがとても嬉しかった。
 
だが実際にア式に入ってみると、それはそれで卑屈になってしまう。
今までよりも数段高い競技レベルに、あっけなく振り落とされてしまった。
 
当時のOBコーチが「あの子は間違えてア式に来ちゃったのかな」と言っていたのも無理はない。受験期のブランクで体はついていかず、そんな自分に心も折れた。次第に浪人組も生き生きしたプレーを見せ始め、ブランクを言い訳に使えなくなって、ただただ自分の実力不足が恥ずかしくなった。
練習も苦しいが、辞めるのが一番苦しいことも知っている。自分にとって新しいことが多すぎて、でも逃げることはできず、体の芯から疲弊してしまった。
 
怪我も重なると最悪だ。自分に合わない強度に無理やりついていって、簡単に怪我してしまった。「こんなにきついならいっそ怪我して休みたい」そう思うと怪我するし、いざ怪我をすると後悔する。グラウンドの端でリハビリをしながら、オセロでパスした時みたいに自分と差が開いていくのを目の前で見つめるしかなかった。
 
そんな時に、ピッチ外活動、通称ユニット活動の存在を知った。
 
サッカーで何も結果を出せなそうな僕が、自分がいなくても何の問題もなく練習が進んでいくのを外からぼんやりと眺めるしかない僕が、ア式に所属していると実感できる唯一の方法に思えた。他大では大人がやってることも、東大生だから学生で完結できる。その独自な感じにも惹かれた。
 
実際、ユニット活動は自分に合っていたと思う。
東大トレセン、画像班、映像班、試合速報、広報責任者、サッカーWebサイトでのア式の連載など、自分のほとんどを費やして熱中していった。いつの間にか授業中にslackを見てしまう癖がついた。
 
怪我が治ってプレーに復帰してからも、ユニット活動への熱意は冷めなかった。
 
でもだんだんと、ユニット活動に強くしがみつくようになってしまった。自分を救ってくれたユニット活動に、依存するようになってしまった。サッカーは相変わらずうまくいかなかったが、「僕はユニット活動してるし」と思えば気も紛らわせられた。
自分は選手であるのに、ユニット活動にばかり力を入れて、サッカーの評価をユニット活動で覆い隠そうとしていた。
「ここはサッカー部で、自分は肝心のサッカーはうまくいっていないが、ユニット活動を頑張っているので、総合的に見れば自分は価値のある人間であるはずだ。」人の価値を総合値で測るのは自分がうまくいかなくなった時の常套手段だ。
ユニット活動を否定しているわけじゃない。サッカーでうまくいかない自分を、ユニット活動で誤魔化した自分が残念だ。
 
思えば自分は、今までずっと総合値人間だったのかもしれない。何かの項目に特化できたことがなかった。小中高のキャプテンも、サッカーの能力というよりは、学校での真面目そうな態度が評価されていたのだと思う。
 
就活はその事実をはっきりと自分に突きつけてきた。
就活でサッカーの話を早々に切り上げ、ユニット活動の話ばかりする自分を俯瞰して、自分は小学生からサッカーをずっとやってきたのに、就活で話せるほどの実績が一つもないんだなと思った。
周りの就活生を見渡せば全国優勝クラスも当たり前にいて、自分がサッカーの話して勝ち目あるのか?と思いながら面接を受けた。
小手先の真新しさで勝負する自分のガクチカの横で、正々堂々心の芯から出た言葉と経験を話す他の就活生を見て、眩しかった。
 
僕には細い命綱が何本かあって、その全てに均等な力でしがみついてきたけど、太く立派な一本の命綱を持つ他者を目の前にすると、不安になってしまうのだった。
 
「何事も、意味がないとやっちゃいけないのかな」
自分が好きだからやってきただけなのに、それに意味を説明しなきゃいけない就活に直面してしまうと、漠然とした焦りも生まれ始め、
どんなに好きだとしても、就活に打ち込めば打ち込むほどサッカーへの熱量は薄れていくし、
結局就活には受かって、Aチームからは落ちた。
 
就活が終わったらサッカーに打ち込もう。そう思っていたけど就活が終わったら卒論が来た。卒論はちゃんとやろうとすれば大変だった。何かに打ち込めば僕だって一流になれると思っていても、結局人生で何か一つに打ち込める時間も勇気ももう来ないんだろうなと思っているうちに人生が終わってしまいそうだ。
 
高校まで過ごした福島での生活はシンプルで、目指す方向も取り組むこともみんな一緒だし、もう決まっている選択肢の中で自分が決めた目標に向かって時間を全て捧げて頑張っていれば報われた。
でも東京に来て、やることが増えて、その気になれば全てに手を出せる言い訳のできない環境に置かれて、今までやってきたことを続けるだけでも理由が必要になって、自分は何をするべきなのか、周りの様子を見ながら生きるようになってしまった。
誰と比べるかによって自分の価値は簡単に上がったり下がったりする。そしてどこを見ても自分より上がいた。
そうやってうだうだしている間に時間だけがすぎて、何か決めなきゃと焦ってはまたうまくいかない。
 
どっちも選びたいのに、やりたくない優先順位付けに追われて、選んだ方を見れば満足して切り捨てた方を思い出すたびに後悔してしまう。
 
みんなそういうもんなのか、自分の要領が悪いのか分からず悔しい。
とまた誰かと比べてしまう。
 
 
そうしているうちに、一度もリーグ戦に出れないまま、シーズンのほとんどを育成チームで過ごす生活を3年間も繰り返してしまった。僕だけじゃないし、と心の拠り所にしていた育成の同期もみんなAチームに上がってしまい、育成で自分だけ3年生みたいな気まずい時間を過ごした。就活で使っている写真が自分だけ練習試合ユニで、恥ずかしかった。
 
3年生までに心が何度も折れて、その度に怪我が重なってさらに心折れた。
いつしかケガは慢性的になり、痛み止めを飲まないと、試合に出れない状態になった。
慢性的な怪我に苦しみ退部したみっちーの気持ちが少しわかった気がした。
 
そうした意味でも自分にとって大学4年生はサッカー人生最後の年で、だからこそ自分のサッカー人生はどのような結果で終わるべきなのか、真剣に考えた。
自分の持っている時間を週6回も躊躇なくサッカーに注ぎ込める日なんてこの先一生来ない。高校生の後悔は大学で取り返せるかもしれないけど、今年を逃したら、もう一生取り返せない。
 
結果が良くても悪くても、ラストシーズンの自分が大学生活の表紙になると思った。
 
そしていろいろ考えて、ラストシーズンは、ユニット活動をセーブしてサッカーに打ち込んだ。
自分にとって結果は周りを納得させるためのもので、過程は自分を納得させるためものだ。結果が出なければ、過程が日の目を浴びることはない。
 
何かを得るためには何かを犠牲にしないといけない、というのは、開き直りに聞こえてしまって、自分の可能性を狭めてしまっているだけではないかと抗いたくなる。
なのにまたこの言葉に負けて、大事なものを捨ててしまった。
 
サッカーの方は、リーグ開幕戦で目標だったリーグ戦出場を果たし、シーズンを通してAチームに居続け、最終的にはチーム内2位の5ゴールを取れた。
 
3年生までの状況を踏まえれば、ラストシーズンの結果はよくやったと思う。
自分のサッカー人生で一番楽しかったシーズンだったと思う。
僕も笑顔で引退した。
 
でも、少し時間が経って粗熱が取れると、だんだん心から喜べなくなってくる。
これが、自分のサッカー人生で一番楽しかったシーズンなのか、と。
 
本音を話せば、
3年生からAチームにいて、リーグ戦の雰囲気を知っておきたかった。
4年生にもなって、試合前後に準備でバタバタしたくなかった。
頭の中で夢見た、思い出してにやけてしまうようなスーパープレーをしてみたかった。
〇〇要員とかじゃなくて、普通に主力であり続けたかった。
 
いつも自分が気づいたタイミングですぐ、自分を正し、正しい方向に努力してきた。
振り返っても、自分の行動/大きな決断には理由があって、何度繰り返しても同じ道を歩む気がしてくる。決断のタイミングはあの瞬間しかなかったと思うし、常に最速最短を目指してきた。後悔はしていない。満足もしている。
 
でも、その割にこれか、と。
 
他チームから見たら、「あの子のポジションにもうちょっといい選手が入ったらア式は強いんだけどなあ」の「あの子」なんだろうなと思いながらプレーしていた。
自分がコーチだったら、「谷とかからポジションを取るのは難しいけど、あいつからならポジション取れるぞ」と選手を鼓舞するんだろうなと思ってしまう。
自分は「今年の」Aチームにいるだけで、僕が目指してきた歴代のAチームの基準には到底達していないのだろう、相対試験的な選抜の結果入れただけのAチームに価値などあるのか、とさえ思った。

 
自分の結果は今まで試合に出たことがなかったにしてはいい結果というだけで、自分が思い描いた、理想の結果では全然なかった。
 
3年間育成にいた自分が、ラストイヤー頑張って、Aチームに行けてリーグ戦に出れたら超すごいんじゃないかと思って頑張っていたけど、いざAチームに行ってみると普通に自分の実力不足を感じているうちに終わった。
 
そんな自分も、去年からは想像もできなかったくらい上出来なのに、
なりたい自分になれてしまうと、
次のなりたい自分がすぐに出来上がって、
今の自分には慣れてしまってうんざりしてしまう。
 
気づいたり、考え始めたりするのが人よりも遅いのかもしれない。
1.2年くらい、遅れて生きている気がする。
 
 
 
ただ、こうして考えているうちにも、ア式を嫌いになったことはない。
ならずに済んで本当に良かった。
今まで、夢中になったもの、好きになったものは全て最後苦しくなって、嫌いになって終わってきたから。
 
いくつかの別れを経験して、のめり込んじゃダメなんだと思うようになった。のめり込んでも辛い別れが待っているだけなんだと。
だからラストシーズン、サッカーに打ち込む一方で、ア式には夢中になりすぎないように、すんなり次に進めよるように、一定の距離を置くようにしていた。
 
筋トレは人がいない練習前に済ませ、練習後も部室に残りすぎず、熱い話もあまりせず、満足して引退できるよう結果だけを追い求めた。引退したらもうグラウンドには行かず、SNSでこっそり応援するだけで、今のフォーメーションもよく知らない。
 
好きだからこそ距離を取ったし、距離を取ったからこそ今でもア式に入れて良かったと思えている。今後もずっとア式を応援できそうで嬉しい。
 
人よりも少し早めに動き始めて、感情の起伏を作らず、何かが終わりそうと感じたら別の何かを始めて、終わりと始まりと交わらせて悲しくならないようにする。自分が常に選ぶ側なんだと言い聞かせて、後手を踏まないように、どんなショックも受け止められるように、いろんな命綱を用意しておく。
結局僕はこんなふうに生きていくんだと思う。
 
ア式ロスにもなってないし、足も痛いままだし、またサッカーをしたいとも思わない。
中学生ぶりにドラマをまた追い始めて、ライブとかも行きだして、
あんなに自分を占めていた部活が、いつの間にか無かったことになっていく。
ぽっかり空いた穴も、少し経ったら埋まってしまった。
 
多分満足することはない人生だと思うけど、割り切って優雅にも過ごせない。
人と等速で摂取していては間に合わない。
サッカーが歩くと怒られるスポーツなのだとしたら、僕の人生はサッカーと似ているのかもしれない。これからも忙しなく走って生きていく。
走る意味も走りながら考えていこうと思う。
 
 
 
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ここからは感謝ゾーン。
 
まずはLB会の皆様、大変お世話になりました。
主務として、至らぬ点は多々合ったと思いますが、武田さん、和田さん、利重さん、井田さん、藤原さんなど、たくさんの方々のご尽力のおかげで穏やかな任期を過ごすことができました。
スポーツ経験者だけが出せる、何歳になっても変わることのないみなさんの屈託のない笑顔が大好きでした。
 
 
両親へ。
今まで、何不自由なく生活させてくれて本当にありがとうございました。
 
バスケ、バレー、サッカー、ゴルフ、テニスといろんなスポーツに触れてきた家系のもとに生まれ、最初からスポーツをすると決まっていた気がします。
家のテレビではいつも巨人の試合が流れていて、
その影響でお父さんとキャッチボールをし始めて、僕も最初は野球少年団に入ろうとしていました。
すると、そのような素振りをし始めた時期に、いつの間にか家から野球道具がなくなって、あるのはサッカーボールだけに。仕方なくサッカーをするようになったのを皮切りに、サッカーに夢中になり、今に至ります。そして野球道具を片付けサッカーボールを置いたのは家系で唯一サッカーをしていたお父さんの仕業だろうと、聞いています。
 
お父さんありがとう。サッカーを選んで本当に良かったです。
いろんなスタジアムにも連れて行ってもらえて、サッカーはプレーするだけじゃないと気づかせてくれて、今ではサッカーで就職先を選ぶくらい、サッカーにどっぷりハマりました。
本当にありがとう。
 
お母さんにはサッカー以外の全てを教えてもらいました。
そのおかげで何のストレスもなく1人暮らしをできています。
1人暮らしで自炊していると答えるとみんなからすごいねと言われるけど、その度にお母さんのしつけの凄さを実感しています。
僕が何の問題もなく一人暮らしできてしまったことで、実家に帰らなくなって、逆にお母さんが悲しそうなのはちょっと可笑しいけど、社会人になってもできるだけ帰省するようにします。
本当にありがとう。
 
3の冬、中学校で親に感謝を伝える手紙を書くという行事があった。
反抗期はなかったけど恥ずかしさは感じていた僕は、親に手紙を書くというのが恥ずかしくて、その手紙を詩みたいなキザっぽい形式にして、自分の本音があまり伝わらないような形にして書いた。
行事にはみんなそれぞれ親も参加して、書いた手紙を手渡しで親に渡すことになっていた。僕はお母さんに手紙を渡した。
お母さんは他のお母さんたち同様ワクワクした表情で手紙を開けたけど、読み終えると真顔になって、いらないと言った。こんな形式的で気持ちがこもっていない手紙はいらないと。
 
僕はその時のことをすごい覚えていて、申し訳ないことをしたなと思っていました。
 
手紙はまだ恥ずかしくて、feelingsという形でだけど、あの時よりも直接的な表現で、感謝を伝えたつもりです。あの時から気持ちはずっと変わらず、本当に感謝しています。
いつもありがとう。
 
もしかしたらまだちょっとひねくれてるかも🙇
 
 
徹さんへ。
1年間という短い時間でしたが、本当にお世話になりました。
たくさん試合に出れたからというのもありますが、大好きです。
練習からずっと楽しかったです。
最終戦後に言った言葉も、嘘じゃないです。
1年でも早く出会いたかったです。
今後もそっと応援しています。
 
 
同期へ。
みんなが同期で本当に良かった。
あんまり詮索しすぎない感じが、心地よかったです。
 
悔しいけど、章には色々お世話になって、そのおかげでAチームに何とかくらいつけたと思う。詮索してくるし指摘とかアドバイスが芯を食いすぎて、途中避けてた時期もあったし、このまま章に服従することになるのかなって思ってた時期もあったけど、章は男子校出身というだけで、本当は優しい心の持ち主何だなと思う。
僕にも後輩からサッカーの相談をされることはあって、その時はいつも章のプレー見た方がいいよと言ってました。章はすごいから。
僕の知らない映画もたくさん知っていて、やっぱり物知りってかっこいいなと思ってました。
本当にありがとう。これからもよろしく。
 
あと洸。
Aチームに上がって最初の練習の前、部室の玄関でおかえりって言ってくれて泣きそうになった。そして周りのことは俺がやるから希一は自分のことに集中してって言ってくれて、泣いた。ポジションも同じで、僕がフォワードしかできないせいで洸が慣れないインサイドハーフで出ないといけない日もあって、本当はフォワードで出たいはずなのに、色々迷惑をかけてしまったと思う。
 
毎日練習前のグラウンドには洸がいて、黙々とシュート練習している姿を見て僕も頑張ろうって思えたし、本当に尊敬してる。ありがとう。
 
俊翼、1年間フィードバックありがとう。
俊翼がいなかったら僕は育成で引退していたと思う。
最初のフィードバックで、今シーズンの目標を決めようってなって、リーグ戦で1点とるを目標にして、妥当だねって言ってたのに、5点も取れたよ。僕が一番びっくりしてるし、俊翼のおかげだと思う。
俊翼はライブ配信で解説をしていることが多くて、僕がゴールを決めると嬉しそうに僕のゴールを解説してくれるのが嬉しかった。俊翼の喜んでいる声を聞くために、配信も繰り返し見直してた。僕がファールを受けると配信しているとは思えないくらい怒ってくれるのも嬉しかった。
ゴールを決めた週のフィードバックでは毎回最後に僕のゴールシーンを切り抜いて見せてきて、褒めてくれるのが嬉しかった。
本当にありがとう。サッカーの恩人です。
 
新家、戻ってきてくれてありがとう。
1年生の時に怪我して、正直結構辛かったけど、新家が一緒にリハビリしてくれたおかげで乗り越えられたと思う。
怪我をしてからは、ゴールは全部新家に捧げようと思って、頑張ってた。
そこから3年生まで、育成の練習試合ではゴールを決めれることもあったけど、公式戦どころかAチームにもいけなくて、そのタイミングで新家が休部して、恩返しできなかったなって悔しかった。
だから戻ってきてくれるってなった時は本当に嬉しかったし、今度こそ公式戦で点を決めて新家と喜びたいって決めて頑張った。
新家のおかげで救われた人、いっぱいいると思う。
本当にありがとう。
 
大智、折田。僕が育成でうまくいかない時も、頑張れたのは2人のおかげでした。
2人ともサッカーにストイックで、練習後ももう帰ろうよって言ってもあと5分だけ!って自主練してたり終電まで部室で筋トレをしてたり、本当に尊敬してる。
2人には勝手に親近感を覚えていて、だからこそ2人がAチームに上がっちゃった時は悔しかった。でもそれ以上に嬉しかった。
公式戦で活躍している姿を応援席から見て、自分はここで何やってるんだろうって思ったけど、試合中は心から2人のことを応援している自分もいた。
本当にありがとう。
 
 
 
後輩へ。
2~3人いる推しを中心にして、全員可愛い後輩たちでした。
ラストシーズンは自分のことに精一杯で、あまり話せなかったけど、練習中などは思ったことは隠さず伝えようと決めていました。
 
特にみんなのいいところ、すごいところ、真似したいのにできないその人だけの長所に関して、なるべく多く声に出して伝えようと思っていました。
 
練習の強度が上がったり、チーム状況が悪くなったりすると、ネガティブな言葉が増えていくし、みんな言いやすい感じになっちゃうけど、どんな状況でも輝いているその人をその人たらしめている部分が必ずあるということを伝えたかったです。
 
シンプルな言葉が好きで、みんなにはえぐいとかすごいとかかっこいいとかしか言ってなかったけど、その言葉の裏にはその人に合わせた僕なりの感情がありました。
 
個人的な話をすると、星には本当に感謝している。
リクルートの時から星を一番信頼していて、主務関連でたくさん仕事を振ってしまって、引き継ぎといえば聞こえはいいけど、大変な思いをさせてしまっただろうと思ってる。星を他の役職に取られたくないと思ってしまった。主務になってくれて本当にありがとう。
最初は1人で全部背負いこんじゃうタイプなのかなって思ってちょっと心配していたけど、そうでもなさそうで、他の人に頼りながらやっていける星もすごいし、協力してあげてる周りも見る目あるなと思う。これからも頑張ってね。試合とか見にいく予定はない僕でも、星に言われたら理事会だって出ます。
 
あと、荒は本当にすごいと思う。変わった名字が多い東大生の典型として、「名字が荒ってなんだよ」って最初は思って距離をとっていたけど、いいやつだと思う。
自分より上手い後輩を見るとビクビクしちゃうから、試合中も同サイドとかになるとちょっと嫌だったし、守備で怒られて落ち込んでたけど、点を決めると駆け寄ってくれて頭なでなでしてくれて、その度に荒と一緒にプレーできてよかったなって思ってた。守備でお世話になっている分、攻撃で恩返ししようと思って頑張った。来年荒の色紙に僕もお礼の言葉書きたいくらい感謝してる。ラストシーズン応援してる。
 
横田もすごいと思う。キャパオーバーで怒られることもあると思うけど、やってること自体は本当にすごいと思う。時期が被ってよかった。ア式に来てくれてありがとう。
 
あとれおな。僕に守備を教えてくれてありがとう。
誰に頼ろうか、1人で考えようか迷ったけど、れおなにお願いしてよかった。
 
あと詠、応援してる。入部式で初めて見て、キザで苦手なタイプだなって思ったけど、練習も真剣で、人よりも悩んで苦しんで、もがいている姿を見てそこから応援してる。本当は礼儀正しくて反抗期なさそうな感じもいいと思う。
 
旭と慈央も、本当に応援してる。
部室に行ったら慈央と旭がいて、黙々とそれぞれ準備している感じが好きだった。
筋トレの補助の時だけ慈央を呼んで、靴履いてないんすよとちょっと嫌そうに手伝ってくれる感じも好きだった。
慈央は家もめちゃ近で、いつでもお家来てねとは言っていたものの、一回本当に来そうになって、咄嗟に予定があると断ってしまったのは反省している。
 
 
あとの2人は僕の推しなのでこれからもこっそり応援してます。
 
これ以上書くと、またア式のめり込んでしまいそうです。
残りは心の奥の方にとどめて、次に進みます。
それでは、さようなら。

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