天邪鬼

 (僕の理想のFeelingsは、あくまで佐田ちゃんみたいなFeelingsです。)

 

 

 

 

 

 

訳あって、年末年始に深夜のアルバイトをしている。

 

最初の一日二日は仕事にも慣れず、眠くて仕方なかったので余裕もなかったのだが、昼間は寝ている訳だから、三日目くらいからはもう昼間起きているのと気分的には変わらなくなってくる。

どうやらそういうものらしい。

深夜にバイトするのは初めてだったので多少不安もあったのだが、結局二日もすれば普通に働いている自分がいて、存外拍子抜けである。

 

だが慣れというものには弊害もあるもので、とにかく退屈な気分になるのだ。

眠い中でやっていればまだマシな単純作業も、目が覚めてしまっているとどうにも耐えられない気分になってくる。

 

そういうわけで、仕事の退屈を紛らわせるために色々考え事をしている間に、ふと、「そういえば、Feelingsの催促をされていた」と何となしに思いだした。

思い出してみると、退屈な時間に考えるには十分なテーマだろうと思い、まあ、今の自分が卒部に際して、「何を書こうか」と考えてみたわけである。

ここでは、そこで考えたことを整理して、その一部を書くことにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大したことは話せない。

 

 

 

それが最初に思ったこと。本当に。

結局、4年間を通してAチームでプレーすることはできなかったし、ピッチ外で目立った役職を持って、何か事務的な仕事をやったわけでもない。

 

4年間ただただ、自分のことだけを考えて、サッカーをやってきたと思う。

自分がどういうサッカー選手なのか、どういうサッカーが好きなのか、そもそもどういった人間なのか、常に考えていたことといえば、ほとんどは自分についてのことだ。

 

今までも、考えることがなかったとは言わないが、真剣に向き合ったとしても一日二日程度。

元来良くも悪くも、大雑把で、めんどくさがり、寝れば大抵のことは忘れてしまう、そんな人間なのである。

 

話は少し変わるが、深夜バイトの休憩時間に読んでいた本がある。

元伊藤忠商事社長の丹羽宇一郎さんが書かれた、『人は仕事で磨かれる』という著作である。

まだ一回しか読んでおらず、その内容を整理しきれてはいない。なのであえてここでこの本について深く言及することは控えるが、このFeelingsを書く上でかなり影響を受けてしまっていると思う。

 

 

 

話を戻すと、僕の大学4年間は、「自分と向き合い続けた時間」、といってほぼ間違いない。

 

この表現は少しかっこよすぎるか

 

そう思うと、「自分と向き合わざるを得なかった時間」と言い直した方がしっくりくる。

正直にいってしまえば、他人のことを本気で考えられたことなどほとんどない。自分のことだけで手一杯。

 

サッカーというのは集団競技であって、自ずとそこには一緒にプレーをする奴らがいる。そいつらとコミュニケーションを取らずに、一人こそこそと物事を考えている訳にもいかない。

だが同時に、サッカーで評価されるのは常に個人の能力。

仲間のために、といくら頑張ったところで、その仲間が評価されて、自分が評価されなかった時、本当に心から喜べるのだろうか?

少なくとも、今の自分は純粋な心で喜ぶことはできない。

 

そういったわけで、本当に自分のことだけで手一杯だった。

 

人から言われた文句をいちいち気にしてしまっている自分。

怒鳴られたらかえって冷静になっている自分。

自分ができていないのに、他人に強く当たっている自分。

悩んでいる仲間に、心から声をかけてやることのできない自分。

 

どんどんどんどん嫌なところばかりが見えてくる。望んでもいないのに。

 

なぜだろうか。

なぜこんな苦しい思いをしながらサッカーをやっているのか。

サッカーやりたかったはずなのに、人のことばっかり気にしている。

そんな自分を否応なしに思い知って、けどサッカーに向き合う以上、そこから目を背けることもできず、向き合うしかない。

 

 

これ向き合ってることになってんのか?って、思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このモヤモヤした気持ちは、結局のところネガティブな出来事の末に晴れた。

しばらく忘れることはできないだろう、苦い記憶。

ここで詳しく話すつもりはないが、要するに、決めるべきシュートを外してしまった。

 

絶対に決めなければいけないゴールだった。

 

なぜ外したのか、珍しく、死ぬほど考えた。

 

 

なぜあんな簡単なボールを?

 

 

 

 

もう無理矢理にでも気分を晴らそうと思って、一人車を走らせて、釣りに行った。

 

 

 

 

その道中、車を運転しながら、無駄にクソ綺麗な朝焼けを見たとき。

 

なぜかは今でもわからないし、そこに理屈もクソもないのかもしれないが、

 

「誇りを持てていないからだ」と思った。

 

「自分がやってきたことに、自信がないからだ」と。

 

いつのまにか周囲に流されてしまっていた。

そのことに、心のどこかで失望していたのかもしれない。

 

確信に近い思いだった。少なくとも、心の靄は、晴れたと感じた。

 

 

 

僕みたいに、選手として大したことのないFWがいうのは本当に恥ずかしいことだけど。

 

最後にゴールを決められるかどうかは、「そこにたどり着くまでの自分の行いを信じられるかどうか」、だと思う。

 

仲間がつないだボールを、ゴール前で、何のためらいもなく、「自分によこせ」と思えるかどうか。それくらい、自分の行いを信じることができるかどうか。意識的でも、無意識でも、そう思えるかどうかだと思う。

 

この確信に近い思いと、悔しさを持って初めて、ただただ純粋にボールを蹴ることができた気がした。他人のことは関係ない。関係あったとしても、どうしようもない。

行動を変えること、そしてそれを信じられるまでやり抜くこと。

自分にできるのはそれだけだし、そうすることでしか成長できないと思った。

 

この気持ちの変化が、実際の変化としてどのように現れたのか、それは周囲の仲間の目をもって判断してもらう他ない。

だけど、少なくとも自分の中では、指針のような、行動の基準のようなものができたような気がする。価値観といってもいいかもしれない。

現時点ではそこまで完成されたものでもないが。

 

偉そうにいうつもりもない。こんなに悔しい思いをしてきたのに、今でも時たまその気持ちを忘れてちゃらんぽらんになっていることも多い。

 

だけど、これから先何度脇道に逸れ、立ち止まったとしても、最終的にはここに立ち戻って、歩みを進めるんじゃないかと思う。

 

 

誇れるかどうか。自分の行動を、かっこいいと思えるかどうか。

 

昨日努力した自分が、今日の自分を見て、誇ってくれるかどうか。

 

結局、努力に報いてくれるのは、他人ではない。

時を待って報われるわけでもない。

 

まずは、行動すること、そしてその自分に報いるように、やり続けること。

そうすることによって、結果を待たずに、常に報われ続けているのではないか、と、少し思えるようになった。

 

しかしまあ、こういう思いでやっていると、三日坊主という言葉が身にしみるというか。

この思いを持って三日もそれをやり続ければ、たいていの大事なことは継続することができるだろう。

問題は、元来適当な人間が三日もちゃんとやるかどうか、ということで、この点は本当に悩ましいけれども。

 

悩ましいけれども、同時に思う。

人はそう簡単には変われないのだ。

明日から急にバリバリ意識の高い人間になれるわけもないし、ラテン系になって気軽に愛をささやくこともできない。というか、そうなりたいとも思わない。

自分に報いる行動を取り続けて、少しずつ変わっていくのだと思う。

そこで変わること、変わらないもの、それらが堆積して、僕という人間を形作っていくはずだ。

 

 

 

ただ、「自分に報いる」という思いが、青天井になりすぎてはいけない。

まあ、根っからの天邪鬼で、大抵うまくいった時ほど謙虚になりたがるし、うまくいってない時ほど傲慢に振舞っているから、自然とある程度はできているのかもしれないが。

しかし、いつもそうとは限らないから、何かしら制約が必要だろうと感じる。

 

僕にとって、それは「他人の目」なのではないか、と今は思っている。

つまり、あえて言葉にすれば、今の自分を見た他人が、「誇らしく思ってくれる」かどうか。少しでも「こいついいな」と思わせられるかどうか。

一目置く、という言葉があるが、それに近い感覚。

 

他人の目というのは、時に自分を縛る、煩わしいものに思えるかもしれない。

けど、それがあるからこそ、ダメになりそうな時に、一歩踏ん張ることができる。そう思う。

 

 

正直にいえば、最高学年になるタイミングでAに上がれなかった時、退部しようと決めていた。

充実したシーズンだったから。これでダメなら、これ以上はないだろうと感じていた。

実際に、内倉にもLINEでそう伝えた。

 

あいつの言葉に動かされたわけではないけれども、結局週明けにはグラウンドに向かった。

 

なぜそうしたのか、もうはっきりとは覚えていない。

結局その後中断期間が明けてからも、身が入った練習はできなかった。

なぜやっているのか、わからなかった。

 

そのまま、引退が迫った九月に怪我をした。

もうほんとに終わりにしよう。

早めに引退して、旅行とかした方がマシだ。就職するんだし、時間もあんまり残ってない。

 

想像してみた。

ここで辞める自分を見て、後輩・同期はどう思うのか。

一年は?

入部してから、奴らが見ている先輩の姿は、ほとんど育成の選手だけだろう。

特別な年だから。

そいつらに、ダサい姿だけ見せて、「こんなもんか」って思わせていいのか?

 

それだけは嫌だった。最後までかっこはつかないかもしれないけれど、その姿を見せるだけでも、ちょっとはマシかと思えた。

 

最後に、もう一度だけ真剣に、サッカーをやる理由ができた。

 

ずっと、欲しかった気がする。目標を失っても、サッカーをやる理由。

それをくれたのは、育成の同期、後輩。感謝しても、しきれない。

 

最後二ヶ月で、伝えたいことは伝えたし、できる限りみんなと話した。

一緒に筋トレもした。飯も行った。

最後の方は、試合でも、マシな姿を見せられただろうか。

それは、お前らがそれぞれで判断してくれればいい。

 

 

勝手に言わせてもらえば、最後の二ヶ月は、お前らのおかげで最高に楽しかった。

 

 

調子がいい時に傲慢になりすぎては、誠意がある態度とは言えない。

落ち込んでいる時に自らを卑下しすぎるのも、誠意がある態度とは言えない。

 

謙虚な態度というのは、こうした「他人の目」に自分が適うかどうか、といったことではないか。

 

「他人の目」に適うようにと過ごしていたら、苦しい時に、こうして救われることもある。

 

自分に報いる行動を取ること、そして他人からこいつは報われるべきだ、と思ってもらえるような行動を取ること。この二つが、これからの軸になるだろうという気がしている。

 

「自分の目」と「他人の目」、その両方を意識し続けていく必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だいぶ綺麗なことを書いてはみたが、僕と付き合ってきた仲間にはもうわかっているだろう。

現実はまだまだ、自分に振り回されっぱなしである。

すぐにめんどくさがる。いいと思っても、わざわざ悪いという。大したことではないのに、人の失敗談をとかく話したがる。いつも一言多い。ダル絡みして自分で収集つかなくなる。とか。

どうしようもない、完璧からはほどほど遠い人間である。

すぐに変わることはないし、それが自分だといえば、そうなのだから仕方ないという気もする。

申し訳ないけど、辛抱して付き合ってほしい。

 

 

 

これまでも、これからも、ア式で一緒にサッカーをした人たちは、大事な仲間です。一緒にサッカーをした時間は、宝物です。

天邪鬼なので、今後も態度には示さないかもしれないけど、この気持ちは変わりません。

失くしてしまいたくはないので、気に食わなくてもなんとか辛抱してください。

辛抱ならなくなったら、言ってください。

見放すのだけは、勘弁してほしい。

 

 

 

これからも一緒に楽しんでいきましょう。

 

 

 

 

最後に、なかなか感謝の言葉を言ってこなかったし、面と向かって言うのもらしくないので、この場で。

 

いつも支えてくれた両親に、自分のサッカーの結果を楽しみにしてくれた祖父母に、

 

「ありがとうございます」と、言わせてください。

 

これからも、迷惑かけ続けますが、許してください。

これを読んだとして、読んだよ、なんてわざわざ言わないでください。

普通にして、普通にそこにいてくれれば、それで十分だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

色々書いてはみたけれど、書けたことより書けなかったことの方が多い。

綺麗に書いてしまっている部分も多分にある。

 

けれど、確かなことは、このチームで過ごした過程に後悔はない。

結果は思い通りではなかったけど、残念だったけど、その過程に後悔はない。

自分の変化に後悔はない。

誰になんと言われても、僕にとってはマイベスト。今更どうこう言っても変わらない。

 

そう思えば、自分も少しは「サッカーに磨かれた」のかもしれない。

ただただ必死にやることしかできなかった、というのが本音だけど。

 

最後2試合、育成にいるほとんどの人間と一緒に試合ができたこと、勝てたこと、点取れたこと、それだけで幸せ。

 

怪我してサッカーできなかった奴らも、全員含めて、勝手に期待してます。

 

頑張って。

 

 

 

4年間、ありがとうございました。

 

 

 

わんこそば食い過ぎて、店のトイレで吐きました。

 

 

 

 

4年 神辺須蓮

 

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