それでも明日は来た

4年 後藤彰仁


 部活を辞めるタイミングは何回もあった。過去の試合映像を全て振り返った時、そう感じた。

 

ずっと育成で頑張ってきた選手、公式戦に出られていない選手の多くが、

 

「このまま続けててもいいのかな、辞めようかな」

 

と悩んできたと思う。自分もその一人である。

 

自分の場合、辞めなかったのは偶然である。

 

偶然①「一年時にトップチームが素晴らしいサッカーを構築した初シーズンであった」

 

ずっと、育成チームのベンチ、よくわからんけど、上下運動を強いられるWB、負け続けるサタデー、ボコボコにされることの多い練習試合。大学でもこんなサッカーをしなければならないのかと。一年目は辞める要素が満載である。

週末にトップチームが見せる素晴らしいサッカーを応援しながら、憧れを抱かせてもらえなかったら、多分やめていただろう。今シーズンの試合を自分が一年生で見ていたら、何の希望も持てずにやめていたであろう。

 

 

 

偶然②「二日後に育成遠征試合」

 

1年の3月、自分は実力に見合わず、セカンドの試合に招集されていた。セカンド召集の3試合目、vs学習院戦で死んだ。(語彙力がないわけではない、「死んだ」が適切な言葉である。吉岡と樹立はわかるだろう。)当時の自分にとっては、相手が訳わからんぐらい強いし、ミス連発して、ビビって、思考が止まっていた。3mのパスも怯えるほどであった。その試合の記憶は、試合終了後に名指しで干されて、泣いた記憶しかない。4年間で最悪の試合である。メンタルは壊れた。翌週にAの選手と顔を合わせなければならなかったら、部活に行っていなかっただろう。

しかし、ここで育成チームは遠征合宿に行く。これは運が良かった。1週間、顔を合わせなくてもいい。合宿でもそこそこ良いプレーができ、洋平さんから「ちゃんと戦えてたよ」という声もかけてもらい、メンタルを立て直すことができた。人の言葉に助けられるのはこれが初めてだと思う。

 

 

 

偶然③「B2でも良いチームだった」

 

2年生4月、それまではセカンドに呼ばれていたりしていたが、1年生の入部、M坂の覚醒などがあり、B2に落とされる。これはAチームに上がって公式戦に出るという目標にとっては絶望的な出来事であった。しかし、当時のB2は良い選手が揃っていた。天才ドリブラーA塚、怪我から復帰後の立川、B2を引っ張ってくれる鶴さんと神辺須さん。また、B2をめげずに見てくれた藤山さん、イトさん。他にもスタッフなど色んな支えがB2にあった。今もある。この人たちのおかげで、B2であってもサッカーが楽しいものであり続けられて、向上心を持って、部活を続けることができたと思う。本当に感謝である。(若干、立川からの叱責に凹むことはあったが。)

 

 

 

偶然④「OBコーチに槙さんとナカシンさん」

2シーズン目が終わり、新しい育成コーチに槙さん、ナカシンさん、隼さんが就任した。これまで、あまり評価されてこなかった守備の献身性を槙さんに褒めてもらい、自信がつく。ゴールカバーだけはサボれずやり続けてきて良かった。

自信がつくと、守備の出だしが格段に上がる(多分、これは眠っていた)。そして、ナカシンマジック。武蔵戦のスタメンのアンカーに後藤、SBに小川原。記入ミスかと思ったら、ガチだった。たぶん、ナカシンさんじゃなければ、こんな起用はしなかっただろう。引退後、もう一回試合を見直したが、ビルドは下手で見ていられないものだった(今も)が、あらゆるボールを狩り取れていた。これがAチーム昇格への大きな試合となった。

この後の数試合をアンカー後藤でもたせることができた(?)隼さんの指導にも、もちろん感謝している。オフ明けにAチームに入ることができたが、できれば、もう少し長い間、指導を受けたかった。

 

 

 

夏の双青戦までにリーグ戦に出られなかったら辞めると覚悟を持って、臨んだ3シーズン目。

最初の2試合は、Aの雰囲気に慣れることができず、硬さがあった。次の試合で、何か残さないと終わりだなと確信していた。

 

 

偶然⑤「玉川戦、ボランチ起用」

 

2試合、右SB起用でアピールすることができずにいたが、ついにボランチ起用される。メンバー発表前に大谷さんと、中盤だったらもう少しアピールできるんですけどねと話していての出来事だったので、ここしか無いと思った。大谷さんにも「チャンス来たな」と言われたのを覚えている。舞台は整った。あとは自分の感覚を信じて、ボールの行方をイメージして、狩り取りにいくだけだった。

これが4年間で最高のプレーである。

https://youtu.be/X0vFLBsY6Vw?t=1720

 

 

 

偶然⑤「リーグ戦第1節vs東工大」

 

せっかく波に乗ってきたところでの緊急事態宣言。コロナ禍でやる気が途絶えそうなところだが、リーグ戦の初戦が東工大だったことでモチベーションを保つことができた。幼稚園から一緒だった同期、高校の先輩と公式戦の舞台で戦える最後の試合だったから。翠嵐がリーグ戦で3人もピッチに同時に立つことなんて、今後ないのではないかと思う。

 

 

 

偶然⑥「杉山と周平さん」

 

ビルドアップが下手だと、東大ア式では出番がない。普通。でも、自分には出番があった。それは、可変システムの導入があったからだ。このシステムは杉山と周平さんがいなければ、生まれることはなかっただろう。このシステムのピースにいい感じにハマることができて、リーグ戦に出場することができた。素晴らしい選手が先輩、後輩にいて良かった。

あと、そもそもコロナ禍という状況下でも、リーグ戦を開催するに至った春歌やみくをはじめとした学連担当スタッフ、コロナ対策の人たちにも感謝したい。

 

 

 

偶然⑥「吉岡の(名誉の)負傷vs玉川」

シーズン途中、肉離れにより2ヶ月間のリハビリ生活をしていたが、フィジカルスタッフのかな、まいみ、なぎがリハビリメニューを手伝ってくれたこともあり、残り2試合を前にして、復帰することができた。怪我明けにしては、非常に体が動けていて、自分でも驚いた。そして、昇格決定戦でベンチ入りすることが奇跡的にできた。これだけでも幸せなことであるが、まだ良いことは起こる。吉岡が捨て身でPKを獲得したことにより、名誉の負傷。

 

ここで、自分にラスト3分出番が回ってくる。なんとか、怪我の後遺症は耐えてくれ、昇格への3分間をやり過ごすことができた。

そして、内倉さんがボールを蹴り出し、笛は鳴った。

 

昇格決定のホイッスルがなった時、ピッチに立っていることがどれだけ光栄なことか、自分にはもったいない瞬間であった。

 

 

 

振り返ってみると、良い3年間を過ごした。人に恵まれ、助けられ、チャンスを与えられた。

 

4年目はあまり振り返らない。

コロナによる3度の部活停止、一ヶ月ほどの育成落ち、セカンドの試合が無い。一番苦しい1年間だった。育成の同期の頑張り、セカンドに茶谷と自分しかいなかったこと(國學院戦後の茶谷のスピーチの横で泣きそうだった)、新屋カー&飯、たまに勝てる育成での試合、大学初得点、吉本さんにラインコントロール、拍について褒めてもらったこと、ちょっとの楽しさ、嬉しさや踏ん張らないといけない理由が繋がって、1年間やり通すことができた。関わってくれた多くの人に感謝したい。

 

 

こんな感じで多くの人がくれた偶然、支え、頑張り、なんでもない言葉でなんとか4年間やり通すことができた。

 

苦しい時でも、グラウンドに来れば、同期、先輩、後輩が活路を見出してくれるかもしれない、あとちょっと踏ん張る理由ができるかもしれない。そんな東大ア式だった。

 

ほんとは自分で道を切り開けたら良いのかもしれない。

 

でも、自分はこんな人間だ。

 

後藤 彰仁














タイトルで「それでも明日は来た」と書きましたが、明日が来ないこともありました。

コロナ禍で県外への移動が規制される中、祖父が癌により亡くなりました。命日、僕は病院に行くことができず、最後の時に立ち会うことができませんでした。だからこそ、天国にいるおじいちゃんに僕がリーグ戦に出ている姿を見せてあげようと、底力を見せることができたと思います。3年目の奇跡のようなボール奪取には、取らなければならない理由がありました。本当に力を与えてくれてありがとう。まだまだ、頑張ります。

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