あの日サッカーをあきらめて良かった
学会発表のために論文を要約したり、卒論発表の資料作りを進めたり、
おそらく理系の東大生のほとんどが通る道でもがき、苦しみながらも
今朝はもう何度目だろうか、いつものように三脚を立ててカメラをセットし、少し高いところから
僕はサッカーを眺めていた。
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僕は2020年5月8日、2年生の春学期に東京大学運動会ア式蹴球部(以下ア式)テクニカルユニットの一員、テクニカルスタッフとなった。
テクニカルスタッフとは、主に練習の撮影を行ったり、
対戦相手のスカウティングをして試合のゲームプラン決定の一端を担ったり、
自チームのパフォーマンスを分析し、選手を中心に時に監督やコーチなどの指導陣にもフィードバックを送ったりする
一般に”サッカーアナリスト”などと呼ばれている役職である。
しかしこの頃は新型コロナウィルス感染症の感染拡大により、活動は中断を余儀なくされた。
各々の部員は各々の時間を過ごしたことだろう。
フィジカルトレーニングに明け暮れる部員、選手としての自分の課題を見つめ直す部員、サッカーから距離を置き学業に力を入れる部員、就活に力を入れる部員。
出口の見えない長いトンネルに漂うその空気は、鉛のように重苦しいものだったと記憶している。
とはいえ、僕自身はというと高いモチベーションを保っていた。
既に高い戦術眼を持ち、期待されていた俊哉を筆頭する同期のテクニカルスタッフたちに追いつく。
そしてチームの勝利に少しでも貢献する。
僕は”非日常”の多くをサッカーに費した。
とにかくサッカーを見た。
毎日何試合も見た。
戦術本を何冊も読んだ。
数百の戦術分析記事を読んだ。
見た試合を自ら分析し、その試合についての有識者の戦術分析記事と照らし合わせ、答え合わせをする日々。
インプットだけでは身になっている実感を得るのが難しく、アウトプットの機会を自ら作るために
”きのけい”というペンネームでTwitterでの発信を始めた。
そして時は経ち、多くの方々の多大なるご尽力のおかげで僕たちは一歩一歩、”日常”を、そしてサッカーを取り戻していった。
公式戦が再開。
当時のア式は山口遼監督の下、東京都大学サッカーリーグ2部で戦っていた。
スカウティングを担当したのは計4試合、そのうち初めては玉川戦。
試合終了間際に途中出場の伊地知さんがゴール前にピンポイントクロスを上げ、和田爽さんがこれを押し込んだ。
2-1、決勝点だった。
続いて昇格を争う上智戦にも4-2で勝利し、折り返しの一戦は0-1と苦汁を嘗めたものの
玉川戦は再び和田爽さんのPK弾が1-0の決勝点となり
2部2位で1部への昇格を決めた。
そもそもテクニカルスタッフが試合に与えられる影響は、定量的に評価できるものでは到底なく、
クラスター対策のためにスカウティングミーティングを行う(選手にプレゼンを行い、資料を提示するだけでなく口頭で対戦相手の情報を伝える)ことすら叶わなかった当時の自分の貢献などきっと微々たるものでしかなかっただろう。
それでも、多くの困難を乗り越えて掴んだ昇格という結果は格別で
僕にここでの居場所を与えてくれた。
3年生になった。
林陵平監督が就任し、テクニカルスタッフのエースであった俊哉はほとんど学生コーチへと立場を変えた。
サッカーアナリストとして横浜F・マリノスのJリーグ優勝に貢献した、杉崎健テクニカルアドバイザーを迎えた。
「テクニカルユニットを引っ張るのは俺だ」
いつしかそのような自覚は明確に芽生えていた。
ではどのようにして引っ張れば良いだろう。
そして僕は、その年の個人テーマを”データ改革”と定めた。
テクニカルユニット内のサブユニットとして存在していたデータ分析ユニットの長になった。
サッカーはピッチ上の22人それぞれが自由に動き回り、異なる意思決定を連続的に行いながら互いのゴールを目指す非常に複雑なスポーツだ。
一般的なスポーツや、類似のゲーム構造を持つチェスや将棋といったボードゲームと比較すると選手の数は多く、ピッチサイズも大きいのはもちろんのこと
ボールを保持しているチームに攻撃する権利が与えられるため、攻守の切り替わりがいつ発生するか予測不可能であり
その間も試合は途切れることなく続いていく。
さらには選手が移動可能なスペースに境界や制限がなく
常に1人の選手は少なくとも10人の味方選手、および11人の相手選手と相互に影響を及ぼしあう。
こうした特徴はサッカーをより不確実で、それゆえに魅力的なスポーツたらしめている。
よって、この”複雑系”としてのサッカーを、システムの入力に対する出力を
データを活用して客観的に評価・改善するというフィードバックサイクルを回すことができれば
その不確実性をコントロールし、チームの勝率を高められるかもしれない。
進振りにより、希望通り工学部システム創成学科知能社会コースに進学した、僕の学問における興味が
サッカーに結びつくまではそう時間はかからなかった。
人はそれまで全く異なると思われていた、その人にとって2つの興味ある分野が何かの拍子に結ばれた時
強烈な知的好奇心が湧き上がるらしい。
少なくとも僕はそうであり
数字の羅列でしかなかったデータに、サッカーという命を吹き込むことを目指した。
データを活用するためには、まずはデータを集めなければならない。
テクニカルユニットでは、既に偉大なる上野さんら先輩方が
彼らの最後の1年間を使って、データ収集の土台作りをしてくれていた。
”ア式のデータ分析2020”という記事は、僕がテクニカルスタッフとして活動することを決めた理由の1つだった。
ただひたすら家に篭り、何時間もパソコンと睨みあう毎日。
学部や学外の講義で身に付けたプログラミングの腕を発揮し、一意奮闘してコーディングに取り組んだ。
松尾や、僕の誘いに乗って途中入部を決めてくれた中学からの同級生であるもりしのサポートを受け、
パッキングレートをはじめとする手集計データのテンプレートや収集プロセスを今一度整備し直し、あるいは拡張し
当時のほとんど加工に適していなかったウェアラブルデバイスのデータから、スプリント数、加減速数、ヒートマップ、パスマップなどを可視化することに成功した。
データ分析ユニットが属人化しないよう適宜共有しながら
意欲のある後輩たちに、定期的にプログラミングの授業を行った。
しかし、そうした活動の代償として
現場に赴く時間を確保することがどうしても難しくなってしまった。
データをやっとの思いで収集できるようになったものの、毎週待たずしてやってくる試合のペースに間に合うよう、それを有効活用していくほどのリソースを割くことまではできず、またその能力も不足していた。
そしてその現場では、もちろん相手が格上ばかりであったという情状酌量の余地が、もしかするとあったのかもしれないけれど。
1部でまったく勝てなかった。
令雄がスタメンを外れて亜細亜に0-3で敗れた日の夜、”今日の試合はどう感じた?”という主旨の、陵平さんからのLINE。
それまでの過程で適切なコミュニケーションを取れていなかったために、感じていたフラストレーションを正直に吐き出したところ議論はヒートアップし、衝突した。
そんなこともあった。
しかし幸か不幸か、その翌週の大東文化戦で1-1とようやく初の勝ち点を獲得。
その後はスカウティングを担当した学習院戦で3-1と初勝利を上げるなど、少しずつ上昇気流に乗っているように思えた。
直後に再び新型コロナウィルス感染症の影響によりア式のリーグ戦は中断。
上り調子だった選手たちのコンディションは振り出しに戻り、続く連敗。
そして状況を好転させることができないまま、最下位で1年での2部降格が決まった。
その間中山を主軸としてFLUXというソフトを導入し、かなりの試行錯誤を繰り返しながら試合のリアルタイム分析に挑戦した。
並行して、データ活用に関する取り組みの幅も徐々にだが大きく広がっていった。
”ア式のデータ分析2021”を執筆し、これを”きのけい”で宣伝したところバズった。
Sports Analyst Meetupという日本のスポーツアナリストたちの情報共有の場で、ロングトークを行う機会をいただいた。
”テクニカルユニットが面白いことに挑戦している”とOBの方々からご支援いただき、映像分析プラットフォーム”Bepro11”や新しいCatapult社のウェアラブルデバイスを導入した。
これに伴い、データ収集に割かなければならなかったリソースは減少し、
次の課題は、どのように(データを活用して)選手へとフィードバックしていくか
といったことになった。
終盤には2、3人からなるフィードバック班なるものを複数編成し、選手個人と対応付けてコミュニケーションを増やすことを試みた。
毎試合後に、豊富なデータを記録したマッチレポートを作成した。
僕にとって激動の1年だったように思う。
僕は、完全に燃え尽きてしまった。
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最終学年となった。
僕は既に現場からは離れようと決めていた。
システムエンジニアとしての実務経験を積むために、長期インターンシップを始めた。
学部では研究室配属が決まり、サッカーと絡めた研究がしたいと教授に熱く語り
論文を読む生活が始まった。
その頃には”きのけい”もそこそこ大きいアカウントになっており、国内外の最先端のサッカーを扱う専門誌『footballista』へ寄稿した記事の数も10を超えていた。
優秀な後輩たちがいた。
おかぴは正式に学生コーチとなり、後のチームの1部再昇格に大きな貢献を果たすことになる。
引き続き杉崎さんによるフィードバックも得られる環境で
スカウティングも、リアルタイム分析も、データ分析も、”自分にしかできないこと”の余地はそこまで大きくないだろうと思っていたし
テクニカルユニットのチームの勝利への貢献。
それは彼らに任せて、引き継げるものはすべて引き継ぎ、
ピッチ外におけるテクニカルユニットの価値の向上を目的に切り替えた。
新歓に来てくれた1年生の前で話をしたり
試合のLive配信で解説をしたり
複数のメディアに取材していただいたりと、
その過程で人前で話す機会はこれまで以上に増え、良い経験ができた。
ジャンクSPORTSに出たことは、もちろんその中でも特に印象的だった。
『footballista』には高口を推薦し、僕だけではなくテクニカルユニットとして執筆して欲しいという依頼もいただくようになった。
学部での、サッカーをテーマにした研究活動を通して得られたものは非常に多く、これは今後何かしらの形で部に還元していきたいと思う。
チームは堅実に、着実に勝ち点を積み上げ、2位で危なげなく昇格を決めた。
今はきたる1部での戦いに向け、準備を進めていることだろう。
最終節
何度やっても勝てなかった、大東文化との一戦は
0-1で破れ、ア式引退が決まった。
松井の横で試合の解説をしていた僕は、一時の解放感を感じるとともに
なぜか釈然としない感情を抱いていた。
それは現場と距離を置いたことで
それぞれが葛藤を抱えながら、苦しみながらも4年間を戦い抜いた尊敬すべき同期たちの
選手としての最後の成長にあまり寄与することができなかったことが一因とも言えるが
正直に言えば僕のア式で過ごした日々は充実しており、
ア式とそれ以外との、機会損失という観点でのトレードオフを考慮すれば
その時々の限界を尽くしたという感情もあった。
根源的に潜むのは、もっと大きいもののように思えた。
「俺のア式に対する熱意は、サッカーに対する熱意は、本物ではなかったのだろうか?」
そんなことはない。
僕はア式が、サッカーが、大好きだ。
そう、怖かったのだ。
怖くてたまらなかった。
「今ここで立ち止まったら、俺はサッカーをあきらめたことを必ず後悔する」
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ア式は僕の憧れだった。
埼玉県の中高一貫校である栄東中学・高等学校のサッカー部は、進学に力を入れていることもあり決して強くはない、
というかほとんどの大会で1~3回戦で負けるくらいの実力であった。
選手間にそれなりに意識の差はあったし
特にキャプテンだった中高それぞれの最終年は、
いかにチームを牽引するかということに苦悩し続けた年だった。
しかし、高校1年生の時は先輩にも出場機会にも恵まれた。
彼らの引退をかけた、浦和学院とのあの一戦
2-3、あと一歩のところで敗れた。
愛すべき先輩に”これで最後だね”と言われ、人目も憚らずボロ泣きした。
それでも僕のサッカー人生におけるハイライトの1つだった。
サッカーの本当の楽しさを知った気がした。
紆余曲折を経て、僕は東京大学に合格した。
ふと、雨降りしきる御殿下でア式の育成(B)チームに引き分けた一戦を思い返す。
思えば大学サッカーを肌で感じ、ア式を初めて意識したのはあの試合だっただろうか。
そして僕はまだ見ぬ先輩たちのfeelingsを読んだ。
「最高の環境で、あの頃の感情の昂りを、また味わいたい」
僕はそう奮い立ち、ア式への入部を決めた。
サッカーをやめるには早すぎたし、やめるという選択肢もなかった。
しかし、直面したのは実力が通用しない現実。
度重なる負傷。
僕は井の中の蛙であったことを突きつけられた。
チャンスだと意気込み、怪我を押して出場した双青戦ではむしろ不甲斐ないプレーに終始し
以降、何度もトレーナーの方々のお世話になった。
その間、同期たちの成長を
隣で一緒にボールを蹴っていた彼らの成長を
ピッチ脇でただ眺めることしかできなかった。
心の底から悔しかった。
何より、ギリギリ復帰してベンチに入れてもらえた新人戦では
出場機会が回ってこないことを望んでいた、サッカーが怖くなっていた自分が本当に情けなかった。
ア式での1年目は、何もできなかった。
選手としての成長を感じることができなかった。
積み上げてきた努力と成功体験は、粉々に砕かれた。
最初は日本のトップだからという希薄な理由で東大を目指し、
当時”東大で何を勉強しているの?”と聞かれても、ア式と学業の両立に精一杯で”サッカーしているんだよね”としか答えられなかった僕は
どこかで必ずレールが途切れるとわかっていながら、無心でレールを敷き、その上をただ歩いてきただけで
その切れ目に到達することさえできず、途中でレールを踏み外してしまった僕は
それどころか僕という人間自身のアイデンティティまで奪われてしまったかのように感じた。
「俺は今日、サッカーをあきらめたんだ」
2020年2月1日、僕は自分自身の手で
選手としての僕の人生に幕を下ろした。
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2022年10月29日。
ア式を引退して1週間が経ったこの日。
OBコーチとなった久野が、育成チームの練習試合の人数が足りないから、最後の1本は4年生の選手でチームを組んで引退試合という位置づけにしようと言い、グループLINEに連絡が来た。
元選手だった僕は恐る恐る、自分の出場は可能かを個人LINEで尋ねた。
”足引っ張ってもええよ笑 やろやー”
僕は3年ぶりにア式のユニフォームに袖を通した。
右センターバックで残り15分での出場となったが、その時点でのスコアは1-2だった。
この3年間、頭の中で再生し続けたイメージを体現する感覚は、あまりにも最高だった。
真鍋がファーストディフェンダーとしてプレスをかけたため、最終ラインを上げた。
相手が苦し紛れに出した縦パスは予測通り。
インターセプトに成功した。
”ナイス慶悟!”
まさかの令雄の声。
入部して早々Aチームで活躍していた彼が、自分にそんな言葉をかける日が来るとは。
嬉しかった。
何と篤と久野のゴールにより3-2と逆転した僕らは、一応有終の美を飾ることができた。
そこで、あの釈然としない感情が何であるのかが少しだけわかった気がして
僕の心は軽くなった。
僕は、”サッカーをあきらめたことを後悔する”ということを、ひどく恐れていた。
この過去は一生ついてまわるのではないかと、ひどく恐れていた。
しかし一方で、
「これまでがこれからを決めるのではない。これからがこれまでを決めるのだ」
この言葉に出会い、その過去の選択が未来を決めてしまうのではなく
未来の選択によって、過去の持つ意味は変えることができると考えるようになった。
そして僕は、その過去の持つ意味を変える、すなわち
”サッカーをあきらめた自分を肯定する”
そのための方法は、自分の成長しかないと考えていた。
サッカー選手として、自分が成長する可能性をあきらめたことを肯定するということは、
テクニカルスタッフとして、それを遥かに上回る速度で成長することによってしか成し得ないと信じて疑わなかった。
だから立ち止まることを極度に恐れた。
実際、その恐怖心は僕の中でとてつもない原動力となり
テクニカルスタッフとしての3年間で大きく成長することができたと、これは胸を張って言える。
しかし、あまりにも自分の成長に囚われすぎていた。
僕のやってきたことのいくらかは、テクニカルユニットやア式にとって直接的に価値あるものだったという感覚はあるけれど
一方でその多くは、自分の成長のためだけに行った自己満足となってしまった。
”いつかア式の役に立つ”を免罪符にしていただけ。
ア式の選手としての最高の思い出は?
ー神辺須さんが、”お前のアシストで決めたゴールが今までの人生で最高のゴールだった”と言ってくれたこと。
ア式のテクニカルスタッフとしての最高の思い出は?
ー昇格を決めた玉川戦の直後、歓喜の中で知朗さんが”スカウティング資料良かったよ”と言ってくれたこと。
ー吉岡さんが、”あの個人分析のおかげで相手に対応できた”と言ってくれたこと。”あのマッチレポートを見れば、自分の課題を探せる”と言ってくれたこと。
ー学習院戦のFKで、スカウティングミーティングで伝えた通りのボールを杉山が蹴り、それを八代が決めてくれたこと。
ー古川や植田が、”自分のプレーの問題点と解決策を教えて欲しい”と頼ってくれたこと。
ー希一が、”試合前に慶悟さんの作った動画を見たらイメージが湧いてゴールできました!”と言ってくれたこと。
ー石丸が、送った動画通りのゴールを決めて”人生で一番嬉しかったゴール”と言ってくれたこと。
ーそして、令雄の声。
そうか。
当たり前だけれど、これらはすべて他者との繋がりの中で生まれたものだ。
自分のためではない。
誰かのために。
もう一度選手としてピッチに立つことで、そのことに気づいたのは何とも皮肉なことだった。
僕は、
「あの日サッカーをあきらめて良かった」
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僕は過去の持つ”後悔”という意味を変えるための選択をとり続けたし、これからもそうし続ける。
僕にとってそれは
サッカーを知ることだった。
サッカーを知るために、学問を修めることだった。
そして何より、知ったサッカーを他者と共有し、心を通わせることだった。
「後悔するのは命を終える時だけで十分だ」
テクニカルユニットの後輩たち
偉そうなことを言うと、僕の中では、
テクニカルスタッフとして最も重要なのは
選手と同じ目線に立ち、
サッカーを通じて心を通わせることなのだという結論に至った。
もちろんそれを、サッカーを知る努力を怠って良い理由、結果が出なくても良い理由にしてはいけないことに注意して欲しい。
松尾も中山も高口も皆も、かなり好き勝手やっていた僕についてきてくれてありがとう。
おかぴ、真っ直ぐに意見をぶつけてきてくれてありがとう。
”いつかア式の役に立つ”を、”ア式の役に立つ”にしてくれることを願っています。
稲田さん
偉大なテクニカルスタッフの先輩でした。
何と先日は卒論のアドバイスまでしていただきました。
底知れぬ懐の深さで、どんな時もサポートしてくださったからこそ
僕は引退を迎えることができました。
内倉さん
たかが一部員でしかなかった僕がサッカーをあきらめた時に
してくれた行動、かけてくれた言葉は
当時の僕の救いになりました。
キャプテンとしてのプレーも、振る舞いも、格好良かったです。
陵平さん
テクニカルスタッフとして、人として、
コミュニケーションの大切さという重要なことを学びました。
あの時チームから外すようなことをせず
また現場を離れてからも会えば声をかけていただきました。
大きな力になれずすみませんでした。
遼さん
僕にサッカーのすべてを教えてくれました。
テクニカルスタッフとして僕が初めて話しかけた日
それまで見せてくれたことのなかった”真剣な眼差し”で、会話してくれたことをよく覚えています。
僕が今もサッカーに携わり続けているのは間違いなく遼さんのおかげです。
昨シーズンに観た、レアル・マドリー対パリ・サンジェルマンの試合で僕は経験したことがないほど魂を揺さぶられ、気づけばサッカーの試合を観て初めて泣いていました。
サッカーに生きる人にそう感じさせるようなサッカーを
あるいはかつてサッカーに生きた人に”久しぶりにボール蹴りたいな”、そう感じさせるようなサッカーを
目指していけたらと思っています。
今後もよろしくお願いします。
そのほか多くの相談に乗ってくれたおがをはじめとする、一緒に道を歩んでくれた同期、楓さんをはじめとするOBコーチ、スタッフを含むすべての先輩・後輩、女子部監督の藤岡さん、LB会の皆様、ア式の景色を見せてくれた辻先生、僕のサッカー人生に関わるすべての皆様
ありがとうございました。
最後に母へ
感謝を伝えるのが非常に苦手なので、この場を借りて伝えます。
小中高と、
毎日のようにウェアを洗い、お弁当を持たせてくれて
毎週のようにサッカーの試合を見にきてくれて
僕がサッカーをあきらめた選択を、何も言わずに尊重してくれて
ありがとうございました。
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”きのけいのそのアイデアめっちゃおもろいな。俺の今までのサッカー人生になかった視点だわ”
先日新たなチームの選手がかけてくれた言葉だ。
僕は嬉しかったと同時に、ア式での3年間、いや
4年間の経験が強く活きていると実感した。
そんなことを思いながら梯子を降り、三脚を片付けて
僕は少し遅れて、チームの輪に加わった。
ご苦労様でした、そしてありがとう!いちOBより
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