プロローグ
井上知哉(1年/テクニカル/富山中部高校)
初めてのfeelings、何を書こうかと先輩たちのものを読み漁ると大体の人が最初は大学入学までのことを書いているので自分も例に倣って生い立ちについて書こうと思う。この機になるべく自分のすべてを書こうとしたが、非常に冗長な上に大して面白くもない文章になってしまったのでよほど暇でもない限りこの先に進むことはお勧めしない。
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「サッカーが嫌いだ。」
心の中で、これまで何度その言葉を繰り返しただろう。私はサッカーをすることが好きだったのだろうか。サッカーを見ることが好きだったのだろうか。はたまたサッカーにかかわっている自分が好きだったのだろうか。そもそもサッカーのことは好きだったのだろうか。その問いへの答えは、まだ見つからない。確かなのは、あれほど嫌いだったはずのサッカーに、私は今もなお関わり続けているという事実だけだ。これは、その答えを探すための物語。私とサッカーをめぐる、長くて不器用なプロローグである。
今まで誰にも言っていないネガティブな内容も含むので、これまでの指導者やチームメイトたちに見つからないことを願う。もし高校以前の自分の知り合いが今この文章を読んでいるのならすぐにでもブラウザバックすることをお勧めする。(ブラウザバックしてください。頼むからお願いします。)
2006年11月25日兵庫県に生を受けた。両親は一般的に見れば教育熱心な人であり、小さい頃から英会話、エレクトーン、水泳を習っていた。しかしその当時一番熱中していたのは野球であった。野球こそが世界一のスポーツだと思っていた。対して野球と対をなすスポーツであるサッカーは大嫌いだった。
しかし転機が訪れる。小学2年生の夏休みに富山に引っ越しをすることになった。当時の自分に今の姿を見せたら驚くだろう。兵庫から引っ越しても阪神を応援し続けると誓った姿はもう跡形もなく消え去った。
この後私はサッカーの楽しさを知ることになるのだが、この経緯も偶然の重なりによるものだった。引っ越し直後、地域の野球のスポ-ツ少年団に入ろうと見学に行くと監督っぽいおじさんに人がいないから入っても試合ができないかもしれないと言われた。試合ができないのなら入る意味もないかと思い断念。ここから私の野球愛は小さくなる一方である。
ここからは本格的にサッカーの話をしよう。私が初めてサッカーに触れたのは小2の秋頃。仲のいい友達が休み時間にサッカーをしていた。サッカーが嫌いだった自分はあまりしたくなかったがサッカー以外の選択肢がなかった。こんなスポーツ何が楽しいんだかと思っていた。
が、気づいたらサッカーの虜に。自分でもなぜだかわからない。だが一つ言えるのは休み時間のお遊びサッカーでなければこんなことにはならなかった。幸か不幸かサッカーのいい面にだけ目が行き、嫌な面には気づかなかっただろう。そんなこんなで3年の春サッカーのスポーツ少年団に入ることに。
スポ少に入ってからの2年は本当に楽しかった。この書き方からわかるように5、6年の間はほとんど苦痛であった。
まず小学校中学年のころについて。大きな大会などはこのカテゴリーでは無いためチームはサッカーを楽しもうという雰囲気で、かつ自分が初心者であったこともあり、コーチや監督からは厳しい指導をほとんど受けなかった。さらに同じカテゴリーの中では別に上手いほうでは無かったが人数が少なかったため試合には出られた。
だからこそサッカーの沼にはまっていったのである。今後10年は抜けられない底無し沼に。そして、もう一つ私のやる気を駆り立てたこととして2つ上の代のバーモントカップ富山県大会優勝がある。一緒にプレーしたことはほとんどないが、憧れの人たちであった。この出来事が自分にプレッシャーとしてのしかかるのはまた後の話。
5年生になると、チームの空気は一変した。コーチが代わり、監督の指導は厳しさを増す。グラウンドに響くのは、称賛よりも怒声。それはもう、私が知っている「楽しいだけのサッカー」ではなかった。練習へ向かう足が、日に日に重くなっていくのを感じていた。さらに追い打ちをかけたのがトレセンだった。大してうまくないにもかかわらず選ばれてしまい、劣等感を抱き続けた。辛かった。自分より上手い人なんていくらでもいる。楽しいだけではやっていけない。そう思った。かといってやめる勇気も出なかった。
そんな中迎えたKNB杯(全日本U-12サッカー選手権の富山県予選)。何度か勝ち進んだが負けた。先輩たちが泣いていた姿はよく覚えているが、その時自分は悔しいよりも怖いと思っていた。次からは自分たちに全責任があるのだと。
だが状況は悪化する。キャプテンは旧キャプテンの指名制なのだが、自分が選ばれてしまった。やる気のなさを見透かされ、キャプテンにすることでどうにかなると思われていたのかもしれない。しかし自分にとっては逃げ場がなくなった。表向きは弱さを見せず、皆を率いる立場として振る舞っていたつもりだが、練習や試合の帰りはよく泣いていた。
自分より前の代がそこそこ強かったこともありバーモントカップやKNB杯でここ最近はベスト〇〇を継続しているぞとよく言われ、プレッシャーだった。別にそんな強いチームでもないのに。結局バーモントカップは決勝トーナメントにすら進めず、KNB杯も1回戦でPKの末敗退した。確かに悔しくはあったが、解放感もあった。もう勝ちにこだわらなくてもいいのだと。こうしてサッカーが嫌いなまま小学校でのサッカー人生はとりあえず幕を閉じる。
小学校卒業後部活動について考え始めた。(私は富山県の中でも田舎出身なので中学受験の存在すら知らず、何もせずとも行ける公立の中学校に進学することが決まっていた)サッカーをするのか、それとも他のスポーツをするのか。
この段階ではまだサッカーは嫌いなのだが、友達に誘われてCLを見る機会があった。そこでリバプールに出会った。そしてジョーダンヘンダーソンに出会い、そのキャプテンシーに惚れ込んだ。このような選手になりたいと思った。嫌いだったサッカーをやりたいと思うようになり、結局サッカーを続ける決断をした。ちなみにこの年はリバプールがCLを獲った年で、私がKOP(にわかだが)になったきっかけであり、サッカーを見始めるきっかけでもある。
そして部活動は緩いし強くないというのを聞いていたのでトレセンで知り合った人達が多く行くクラブチームにすることにした。この決断は結果的に大成功。サッカーがまた大好きになり、やめたいなどと思った記憶は一切ない(記憶が美化されているだけの可能性は大いにある)。
だが挫折がなかったわけでは無い。まず1年生の頃はとにかく下手だった。小学校の地域のトレセンメンバーが多くいる中で自分は自らの突出した価値を創出できなかった。
だが小学校の頃とは違った。以前のような厳しい指導では無く、選手に寄り添って一緒に問題解決をしようとしてくれた。私にはやはりこの指導方法があっていたようで、ただひたすらにサッカーに打ち込んだ。1年間で大きく成長し、1年の終わり頃からトップチームで出場できるようになった。そして2年の代替わりの際にはキャプテンを任された。
ここまでは順調だった。だが3年になるタイミングで新1年生が全然入らず、2年生のためにも3年生以外は隣の市のクラブチームに移籍させることになった。残ったのは3年生のみ。そのうえ1年目には20人いた同期も3年生になる頃には11人になり、色々事情もあって10人でリーグ戦を戦うこともあった。
だがこの時期でもサッカーは楽しかった。確かにきついと思うことは多々あったし、キャプテンとして悩んだ時期もあったが人として、サッカープレイヤーとして成長できたいい経験だと今でも思っている。
ここで一応私がこれまでしてきたサッカーについて話しておく。小学校のころはよく覚えていないが、CFに始まり、WG、Vo、CBを経験した。
中学校でのサッカーはというとシステムは2-3-2-3。4-3-3ではないかとおもったこともあるが監督曰く2-3-2-3にこだわりがあるらしい。たしかに両WBは高めだったかもしれないが。そして自分のポジションは最初は主にCB、代替わりの後からはANが多かった。
自分のことをある程度見知っている人ならわかるとおり、かなり細いほうなのでこれを言うと驚かれるのだが攻撃はあまり得意ではなく、守備のほうが楽しいと思うような選手であった。今でも攻撃にももっと力を入れていればなんて思ったりもする。そうすれば高校でももっと上手く行ったのではないかと。いまさら言ってもしょうがないが。
高校は富山中部高校に進学した。一応富山で一番の進学校ということになっている。中学卒業時点でサッカーとうまく付き合えていたのでサッカー部に入ると決めていた。が、進学校の部活ということで大したことないだろうとなめてかかり、仮入部などにも1回もいかず、アパレルの採寸にだけ行った。
仮入部期間が終わり、初めて行った練習ではすでに同期たちはある程度仲良くなっていた。そしていざ練習に参加してみると意外とみんな上手い。だが中学での成功体験もあり、頑張れば何とかなると思っていた。実際1年生の間はだいぶ頑張った。セカンドチームでT3リーグを戦い、慣れないSTでの出場が多かったが、とにかく走ってたまに得点するようなある程度バリューを出せる選手だったと思っている。
3年生が引退して迎えた新人戦では初めてトップチームでスタメンとして出場できた。非常に嬉しかったのだが、内容としてはさんざんな上に前半のうちに相手選手との接触で鼻血を出して早々に交代。早々に交代させられた自分の不甲斐なさが心を刺した。ベンチから仲間を見つめながら、ただ唇を噛み締めることしかできなかった。
悔しさを胸にその後もほどほどに努力し、このままいけば来シーズンからはAのメンバー入りくらいはできると思っていた。だがほどほどでしかなかった。多少の慢心があったのかもしれない。
2年になって迎える高円宮杯富山T1リーグのメンバー発表。そこに自分の名前は無かった。前年同様T3リーグで戦うことになり、落ち込んだが、とりあえず総体までは頑張ろうと思った。3年生の多くは総体が終わったタイミングで引退し、T1メンバーの枠に空きが出る。そこになら入れると思ったのだ。総体は2回戦であっけなく敗退し、3年生は5人を残して他は全員引退した。
しかし直後のウィンドウで自分が選ばれることはなかった。サッカーが11人制のスポーツである以上しょうがないことなのだが、サッカーに熱量をもって取り組む意味を見失った。が、T3の試合は変わらずある。しかも形だけではあるがキャプテンを任されてしまった。
小学校の頃と同じ状況。ここで自分がやる気のなさを前面に出すのは違うと思い、一応表面上は真面目に取り組んだ。自分でも自らを偽って見せるのは上手いなと思う。ただ、当時のチームメイトには申し訳なく思っている。こんな奴、試合に出る資格すら無い。試合に出たい選手を出してやるべきだ。しかもこのことは引退後も誰にも言ったことがない。本当にごめんなさい。
秋の選手権では全くもって理由がわからないがメンバーに選ばれ、出場することこそないが、ベンチ入りはしていた。
チームが準々決勝まで勝ち進んだタイミングでチーム内でコロナウイルスが流行り、自分も感染した。それに伴い、自分はベンチから外れたのだが正直ちっとも悔しくなかった。何なら私よりも努力している人がベンチ入りできてよかったとすら思ってしまった。
そして迎えた試合当日。自分は友達にLINEで試合経過を送るよう頼んで家から応援した。自分のやる気がないだけでチームには勝ってほしかった。しかし前半で0-2。厳しいかと思っていたが、後半終了間際、友人から立て続けに2件の通知が。ギリギリで同点に追いついたのだ。そして延長戦に突入するも勝敗は決まらずPK戦に。友人からの通知がしばらくなく、不安にもなったが、結果劇的勝利。
LINEでの報告は味気なかった。そして送られてきた、勝利後の動画。歓喜に沸く仲間たちの姿は、僕がずっと目を背けてきた「本気でサッカーに取り組むことの喜び」そのものだった。その輪の中に、自分の居場所はなかった。
そして準決勝の相手は富山第一高校。結果は0-8。これが実力。そのまま3年生の5人は引退してしまった。
本格的に自分たちの代になるのだが自分の意識に大きな変化はなかった。惰性でサッカーを続ける日々。レギュラーとして定着することなどもちろんない。
そしてさらにやる気をなくす出来事が訪れる。オーストラリア研修だ。特別何かがあったわけではないがサッカーから解放された自由な時間を過ごせた。
日本に帰国し、再び足を踏み入れたグラウンドは、ひどく色褪せて見えた。一度知ってしまった解放感は、「サッカー選手」という窮屈な日常に戻ることを拒絶した。練習に身が入らない僕の姿は、もはや誰の目にも明らかだったのだろう。さすがの私でもこれを隠すことはできなかった様で、すぐチームメイトに見透かされてしまった。
練習にも身が入らず、気づけば最後の総体の時期になっていた。総体の登録メンバーは30名。予想に反して私は選ばれてしまった。
別に選ばれることは問題ではなかったのだが、他の3年生2人がメンバーから外れてしまった。そのうちの一人が泣いているのを見てなんで自分なんかが選ばれてしまったんだと申し訳なく思った。自分より努力していたのを私は知っていた。だからこそ私はこのままではいけないと思った。
だがもう遅かった。開いた差を埋めるだけの時間も力量も持ち合わせていなかった。結局高校最後の総体も1試合の途中出場にとどまり、得点はできたもののこんな得点に何の意味もなかった。
ここで初めて私は後悔した。あの時もっと頑張っていれば。あの時諦めなければ。とはいっても選手権まで続けるという選択肢は一切なかった。スタメンでもない選手が残ると言う方がおかしいだろう。こうして私の高校サッカーは幕を閉じる。
引退後は受験のため、そしてもうサッカーには関わりたくないと思い、好きだったPL観戦をやめた(それ以前から多少見る機会は減っていたが)。だが不思議なものでサッカーから離れれば離れるほどサッカーが恋しくなる。もうサッカーはしないと決めたはずが、大学でサッカーに関わりたいと思う自分がいた。
大学でサッカーに関わるなら、どんな形がいいだろうか。そう考えた瞬間、脳裏にふと、すっかり忘れていた記憶の欠片が蘇った。
あれは、まだサッカーへの情熱を失う前の、高校1年のクリスマスのことだった。東大のイベントで偶然知った、「ア式蹴球部」という存在。そして、選手としてではなくチームを分析する「テクニカルスタッフ」という役割。面白そうだとは思ったものの、当時の学力では東大など夢のまた夢で、その記憶はいつしか意識の底に沈んでいた。
しかし、3年の夏に志望校を横国から東大に変更し、再びサッカーへの道を模索し始めた今、その記憶がまるで運命の道標のように思えた。「サッカーに関わるなら、これしかない」。
その後はただひたすらに勉強し、東京大学から合格をいただいた。一応テント列で他の部活やサークルの話も聞いたが、僕の心はもう決まっていた。
こうしてア式への入部を決断した。
私はサッカーが好きなのだろうか。
ある歌の歌詞が頭をよぎる。「制限時間はあなたのこれからの人生。解答用紙はあなたのこれからの人生。」もう、答えを急ぐ必要はない。これまでのように、喜び、悩み、時には逃げ出しながら、私は私だけの答えを探していくのだろう。そのために私は今日もサッカーに情熱を注ぐ。
よーい、はじめ。
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