freshman
高遠浩恩(1年/DF/麻布高校)
僕の人生を外からざっと眺めてみたら結構なレール人生だと思われるかもしれない。サピックスに入って中高一貫の男子校に入って東大に入る。
でも僕のサッカー人生は結構変だと思うからそれを書こうと思います。記憶力はかなり弱いほうだと自覚しているが、サッカーを始めたきっかけはよく覚えている。小 2 の時にテレビでみたドイツ代表の試合。そっから公園で友達とよくサッカーをするようになって、地域のサッカーチームに入った。選手の親がコーチや監督をするようなチームで、もちろん人工芝グラウンドとかそんな大層なものは持ってない。のびのびサッカーをさせられていた。サイドハーフとサイドバックを主にやっていたが、反射神経がよかったからかキーパーもやっていた。のびのびしていた。小 4 でサピックスに入ってだんだん生活の主軸がそっちの方になり、小 5 の途中で捻挫を繰り返して数ヶ月サッカーができない期間が続いたことでサッカーへの関心はだんだん薄れていた。サピックスの友達と夜中の人形町で鬼ごっこしているのが楽しかったからかもしれない。でも学校の後から塾の前までは友達と公園でサッカーしていた。その頃の公園はサッカーが禁止になっていたから、地面がアスファルトの、植物園みたいなスペースで、エレベーターをゴールに見立ててサッカーしていた。エレベーターの電灯を壊して管理人には何回も怒られたし、受験期間なのに靴をボロボロ擦り減らしていたし、メガネは壊すし、家の鍵も無くすから母親にも怒られていた。結局メガネはコンタクトになって、家の鍵は大学生になるまで持たせてもらえなかった。こんなにサッカーしてたのにリフティングは上手くなんなかった。インステップで当てて無回転でリフティングするようにコーチに言われてきた記憶はあるけどあの頃の自分とってむずすぎたしつまんなかった。ゲーム形式ばっかやっていた。
中学に入ってサッカー部に入り、迷った結果、キーパーをすることを決めた。なぜ迷っていたかは覚えてない。体験練習の時にフィールドで活躍してたことをはっきり覚えてるから、ほんとになんでかはわからない。その選択のせいか、ラントレが大嫌いだったせいかはわからないが、練習には真面目に行ってなかった。公園で友達との不真面目な球蹴りやゲームをしてる方が性に合っていた。そのまま中 2 になってコロナになって外出れなくなるとますますサッカーから離れていって、元々よくなかった成績もそれに伴って悪くなった。中 2 の中間テストで全教科赤点を取ってしまい、顧問にめっちゃ怒られたし、心配もされた。多分俺が東大ア式に入ったことに 1 番びっくりしてるのはこの顧問だと思う。体育科のボールに自分の名前を書いてすいませんでした。バレてないけど後 3 球くらいは盗んでました。
でもそれからは真面目に練習に行っていた。キーパーが楽しかった。中 1 の負債がデカすぎて全然公式戦に出れなかったけどそれでもサッカーが楽しかった。下手くそでもサッカーは楽しかった。この頃も小学校の友達とよくサッカーしていた。わざわざチャリで 2.30分かけて河川敷のグラウンドに行っていた。風が強すぎてまともに自主練もできなかったが、楽しかった。
そうこうするうちに中 3 になり、文運実(文化祭実行委員会、運動会実行委員会)に入った。この組織は側から見れば毎日遊んでいるだけなのだが、かなり真剣な組織で、多分そこら辺の部活よりよっぽど人間関係は濃いし、みんな組織のことを真面目に考えていた。この組織の驚くべき点は一年中活動があり、文化祭や運動会の直前期には髪を染めるため、真面目に出席するのであれば部活と両立することがかなり難しいという点である(もちろん部活、勉強、文実をなんなくこなしていた人もいたが、不器用な僕には到底不可能なことだった) 。学年の 3 分の 1 くらいはこの組織に入っていたし、僕の代のサッカー部は多分これに全員入っていた。こんなに入っているのは不真面目な代であっただけかもしれないが、そういう組織だった。これにより、運動会が終わって自分たちが最高代となった文実のために、高一の冬に 6.7 割の部員は休部する。さらに言えば、そのまま文実が運実になり、同様にして運動会の準備のために部活に行けなくなるので休部した部員はほぼそのまま退部してしまう。高 3 まで残っていた部員は稀だった。書いてみると改めて変な学校に入ったのだと思う。僕は文実にちょくちょく行きながら高二の夏までサッカーしてたが、文化祭が終わって、完全に運実に行くようになった。
そうこうするうちに中 3 になり、文運実(文化祭実行委員会、運動会実行委員会)に入った。この組織は側から見れば毎日遊んでいるだけなのだが、かなり真剣な組織で、多分そこら辺の部活よりよっぽど人間関係は濃いし、みんな組織のことを真面目に考えていた。この組織の驚くべき点は一年中活動があり、文化祭や運動会の直前期には髪を染めるため、真面目に出席するのであれば部活と両立することがかなり難しいという点である(もちろん部活、勉強、文実をなんなくこなしていた人もいたが、不器用な僕には到底不可能なことだった) 。学年の 3 分の 1 くらいはこの組織に入っていたし、僕の代のサッカー部は多分これに全員入っていた。こんなに入っているのは不真面目な代であっただけかもしれないが、そういう組織だった。これにより、運動会が終わって自分たちが最高代となった文実のために、高一の冬に 6.7 割の部員は休部する。さらに言えば、そのまま文実が運実になり、同様にして運動会の準備のために部活に行けなくなるので休部した部員はほぼそのまま退部してしまう。高 3 まで残っていた部員は稀だった。書いてみると改めて変な学校に入ったのだと思う。僕は文実にちょくちょく行きながら高二の夏までサッカーしてたが、文化祭が終わって、完全に運実に行くようになった。
この話が長くなってしまったが、ア式フィーリングスなのでちゃんとサッカーについても話をしてみる。高校に入って外部から雇ったコーチに指導を受け、チームはポジショナルサッカーを志向していた。その時も僕はキーパーだったが、正直言って上手く行ったことはおそらく一回もなかった。正規コートの 3 分の 1 ほどの広さしかない、でこぼこした砂のグラウンドのせいかもしれない。練習試合も含めて、僕らの代の麻布サッカー部が試合で勝ったことはほとんどないと思う。それくらい勝った記憶は少なかった。試みてはみるが、上手くいかずに最終ラインで失い、キーパーに皺寄せが来て、結局蹴るような中途半端な感じだった。それで何回も負けた。キーパーを使ってのビルドが多かったため、僕自身のミスも増えるし最悪だった。自分のパスミスのせいでピンチになり、そのピンチをセーブで切り抜けると自作自演と言われた。ビルドが下手くそだった僕はちょっとしか出ていなかった。セービングしかできない、現代サッカーについていけないキーパーだった。ストイックに頑張っていたキャプテンとか他の部員には僕なんかが本当に申し訳ないけど、真面目にサッカーする意味あんまないなと感じていた。
でもサッカーは好きだった。運実に入って部活やめてからもほぼ毎日 1 時間くらいは友達ととか、一人で球蹴りしていた。高 2 の 12 月くらいに運動会が終わって、受験ムードに入ってもサッカー熱は冷めなかった。なんならもっとサッカーが楽しくなっていた。小学校の友達と朝、学校に行く前に 1 時間サッカーしたり、放課後に人を集めて試合したりしていた。サッカーしている方が成績も良かった。模試の判定は A,D,A,D で、サッカーをする時間を減らした週に受けた模試は悪かった。元々空いている時間で普通にボールを蹴り、部活でキーパー練習をしていたのが、普通にボールを蹴るだけになり、フィールドの方に熱が向かっていた。
そのままア式に入った。今までで、それにこの先も含めて最もサッカーに適したこの環境で僕のサッカー熱は冷めるどころか燃えたぎっている。あんなに嫌いだったラントレもちょっと嫌いくらいになった。まずは公式戦に出れるように頑張りたい。
温かい目で見守ってくれると嬉しいです。
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