苦労体験
石井貴大(4年/MF/岡山朝日高校)
今年の夏頃だったろうか、いつものようになんとなくスマホをスクロールしていた俺の目に1つのツイートがとまった。
一字一句覚えている訳ではないが、東大の部活は今まで苦労してこなかった富裕層のただの苦労体験だみたいなツイートだった。
舐めんなよと思った。普通に。
このオフがもっと長ければなぁと思い巡らす月曜も、
反吐が出るほど苦しいランに怯え、耐え抜く火曜と水曜も、
紅白戦のスタメン側に呼ばれず自分の存在価値を問う木曜も、
灼熱の金曜昼も、
自分の不甲斐ないプレーで負けた土日も、
カテゴリー変更に怯える日曜夜も、
全部、全部知らないお前に俺たちのなにが分かる、と。
本当の苦しみを知らないから俺たちの苦しみがまるで「ままごと」であるかのように言えるのだ。
いや、待てよ。本当にそうか?
俺は立ち止まった。
俺はこの部活でなにかを成し遂げたのか?
チームは俺たちの代で東京都1部から降格し、俺が沈みゆくチームを引き上げるという夢は微塵も叶わなかった。
はたから見たら俺は苦しむだけ苦しんで、たった一勝しかできずに降格したチームになんの貢献もできず引退した大学生だった。
まさに苦労体験をしただけだった。
なにも知らないお前に俺たちの何が分かると言ったところで、いや、その1週間1週間がまさに苦労体験じゃんと言われるだけだった。
悔しいかなそのツイートは東大に来てまで部活をする学生たちを大いに刺してしまっていた。
じゃあ俺はなんのために部活でサッカーをしていたんだろう。俺はなにも成し遂げないために部活をしていたのか。
そうは思いたくなかった。
しかし、苦労体験をするために部活をしていたとも言いたくなかった。
いや、言えなかった。
それは違うと明確に言えるからだ。
現役中、俺が部活でサッカーをする理由は2つあった。
1つは、高校で部活に入らなかったことでもう一度本気でなにかに打ち込みたいという気持ちが高まったから、
もう1つは弟がそのプレーで俺を感化してア式の門を叩かせたように俺も自分のプレーで誰かを感化したかったからだ。
部活を引退した今、大学生活の大半を使って本気でサッカーに打ち込み、やりきったことは他に変え難い貴重な経験だったと実感しているし、もう一度大学生活をやり直せますと言われてもア式に入っていたと言えるほど、俺はア式への入部を後悔していない。
中学卒業後に1度スパイクを脱いだ石井がAにいけるんだから俺も、と誰かを感化できたのではないかとも思っている。
そういう意味で俺は自分が部活に入ってまでサッカーをする根幹となる理由や目標はまぁ、ある程度成し遂げることができたのかななんて思っている。
しかし、それ以上に、俺はサッカーというスポーツの面白さ、奥深さを知り、自分なりのサッカー観を構築することができたこと、そしてサッカーをより好きになれたことが東大ア式蹴球部に入って俺が得た一番の財産なのではないかと思っている。
入部してまず教わった「辺に立つ」、「正対する」に俺のサッカーというスポーツを理解しようとする意欲は掻き立てられた。
それまで考えてサッカーをしてこなかった、ましてや約5年間もサッカーから離れていた身からすればア式で教わることの全てが新鮮で魅力的だった。
その頃の俺はまだ教わった断片的な知識が頭の中で散らばっていて、一つ一つの戦術みたいなものを別個なものとして理解しようとしていたように思う。
そこから様々な媒体を通じて知識や考え方を蓄積していったわけだが、それらが繋がり、俺の理解が大きく深まったと感じた瞬間が二度あった。
それはどちらも、サッカーの試合を見ているときだった。
一度目はたしかチェルシーの試合を見てたときだったと思う。
当時のチェルシーはマンチェスター・シティやバルセロナとは異なるスタイルを志向していると言われていた(と記憶している)。
しかし選手たちが行っているサッカーの根本的な部分は非常に共通しているように思えたのだ。
様々な守備陣形をとってくる相手を見ながら適切なスペースで胸を合わせ、味方はその選手がより多くの選択肢を持てるようなタイミングでボールを預ける。
それは堅守速攻と言われるチームでもポゼッション志向と言われるチームでも共通しているものだった。
これを見たとき、こういう風にしてスペースと時間を論理的に保ちながらボールを前進させていくんだなという全体像みたいなものがぼんやりと掴めた感じがした。
そして結局ボール保持はここに行き着くことがほとんどなため、よりサッカーを簡単に捉えられるようになった気がした。
別に小難しくて複雑な配置論や構造論みたいなものに囚われる必要はないのだ、と。
しかしこれを理解したからといってサッカーは上手くならなかった。サッカーを見る上での視野は広がったが、それだけだった。
俺が多少なりとも上手くなったかなと実感できたのは後述する技術と戦術のつながりを認識できるようになってからだった。
2024年のユーロ。
忘れもしない、俺はファビアン・ルイスに釘付けになっていた。
こいつ上手すぎだろ、マジで。
どうしてこんなに上手いのかと思い、ずっとファビアンだけを追ってみた。
ターンの向き、トラップの仕方、目線、一つ一つのタッチ、上体の動かし方、キックの仕方、ボールを置く位置、などなど彼の技術を細かく注視してみた。
すると、そのそれぞれにかなりの再現性が見て取れた。
そして彼が駆使しているそれぞれの技術は相手と駆け引きを行うために使われており、ひいてはボールをクリーンに前進させてゴールを奪うことに繋がっていると感じさせられた。
例えば、耳にしたことがある人もいるかもしれないが、インサイドキックには「表」と「裏」があることが知られている。
その蹴り分け自体は技術として装備できるものだが、それは相手を騙す駆け引きの道具として装備されるものであり、その駆け引きに勝利した暁にはパスの受け手にその分スペースと時間が与えられることになるという具合である。
つまり技術は戦術や原則と強く連関しているということだ。
この技術はこういう駆け引きを行うために使うというのを理解して練習するのとそうでないのとでは練習の質に格段の差があるように思えた。
そしてその技術や駆け引きというものを知ろうとすればするほど、今度はサッカーの奥深さや複雑さに気付かされるのだった。
この2つの理解は、俺にとってはサッカーを理解しようと試みてきたことの点と点、面と面が繋がった瞬間であり、自分のサッカー観を塗り替えてくれたり、上書きしてくれたりしたものだった。
その度に俺はサッカーをより好きになったし、自分で理解したものを自分で体現できる可能性があることがなにより嬉しく、日々のモチベーションになっていた。
これが俺が東京大学ア式蹴球部で得た人生の財産だ。
はたから見たら俺は苦労体験をしていただけの東大生かもしれない。
しかし、俺はその苦労体験の中で様々なことを思い描きながらサッカーの奥深さ、幅広さ、複雑さ、美しさ、単純さ、残酷さ、本当に色々な側面を知ることができた。
そんな様々な側面を持つスポーツなはずなのにゴールもない狭い公園で3人でリフティングするのが一番楽しかったりする、そんな簡単なスポーツでもある。
これからの人生で俺がサッカーに本気で打ち込むことはおそらくないだろう。
だがこれからも進化し続けるであろうサッカーという世界一面白いスポーツを、他人事としてのんびりと見物し、たまにふらっとボールを蹴りにいくのが、これからの人生の、俺のひとつの楽しみなのである。
最後にこれまで支えてくれた家族と、俺を上へと引き上げてくれた皓大、水野、翔を始めとするスタッフ陣、人生の親友となるであろう同期たち、親しみを込めて接してくれた先輩、後輩たちに感謝してこのFeelingsを終わろうと思う。本当に、ありがとう。
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