再ブレイク
豊田敦己(1年/GK/岡山朝日高校)
はじめまして!!
東京大学ア式蹴球部111期プレイヤーの豊田敦己です。岡山県岡山市生まれで、小学校に入学したタイミングでサッカーを始めた。きっかけは、我が心のクラブ、ファジアーノ岡山。僕の家庭は、別にサッカー一家とかいうわけでもなくて、それまでは特にサッカーが好きとかいう訳もなかった。まあ、スポーツはするのも見るのも基本好きだったので、その中の一つみたいな感じだった気がする。父は野球派だったから強いて言えば野球の方が好きだったかもしれない。(そんな父も今や、シーズンパスを買い、出張を試合の前後に合わせて年に何回もアウェイ遠征に行くほどのファジサポである。)
そんな僕がなぜファジアーノ岡山、そしてサッカーにハマっていくのかというと、ファジがまだJ2だった2013年に、後に1年でJ1に復帰し、復帰初年度で国内3冠を果たした、遠藤保仁ら擁するガンバ大阪が岡山にやってきたからである。その試合は、サッカーファンを問わず、岡山中が注目する一戦となり、ファジのホーム歴代最多入場者数を誇る一戦となった。(今は消防法によって入場者数の規制が厳しくなって、新スタが出来るまで更新できないらしい。)僕も例に漏れず、その試合を見に行こうとしたのだが、案の定チケット争奪戦に敗れ、泣く泣くスタジアムから歩いて数分の自宅のテレビで観戦した。当時のファジは、J2昇格5年目で、ようやく中位に定着し、上位になんとか食い込もうとし始めた程度のクラブ。まして相手は、オリジナル10でJ屈指のタレントを誇りながら何かの間違いで降格してきたガンバ大阪。ファジの勝利を予想した人はそう多くなかったように思える。ただ、試合は思いの外接戦となり、先制したのはなんとファジ。決めたのは、東大ア式蹴球部初のJリーガーである久木田紳吾。しかし、ドイツ帰りの宇佐美貴史に同点ゴールを決められ、そのままスコアはあっという間に1−3に。終盤に猛攻を見せたファジは1点を返したものの、最終スコアは2−3に終わる。試合には敗れたものの、ファジの選手達、そしてファジサポーターの応援の熱がテレビ越しに伝わり、気づけばファジの虜になっていた。
その後のサッカー人生にファジは欠かすことができない存在である。週末の試合結果に一喜一憂し、試合が終わったその夜寝る頃には次週の試合を待ち遠しく思う。そんな生活を繰り返していた。アウェイでの神戸との川鉄ダービーで、0−3から80分過ぎの10分ほどで同点に追いついたこと。初めてのJ1参入プレーオフで、アルウィンで後半ATのゴールによって劇的勝利を収めた松本戦。決勝で、惜しくも敗れたC大阪戦。その後、降格候補にまでなったファジをシーズン途中に加入したデュークが救って、翌年には再びプレーオフに行くこと。そのシーズンの開幕戦では現在は日本代表にまでなった佐野航大がデビューし、その裏でチアゴアウベスが自陣からの超ロングシュートを決めたこと。そのプレーオフでは、その年ジャッジミスによってJ史上初の再試合があった因縁の相手山形にあっけなく大敗したこと。2年後、3度目のプレーオフで山形にリベンジを果たし、そのまま初のJ1昇格を果たすこと。J1初年度、開幕戦で初勝利を飾った京都戦。そのシーズンで佐藤龍之介が躍動し、クラブ史上初の日本代表となったこと。受験前最後のアウェイ遠征で、京都に0−5で大敗したこと。百年構想リーグで神戸に3−0で大勝した川鉄ダービー。シーズン移行初年度の今年、退場者を出しながら河野孝汰がクラブ史上初のハットトリックで死闘を制したホームでの広島との中国ダービー。どれも鮮明に覚えているし、以後忘れることはないだろう。チームの勝利にはこの上ない喜びを感じるが、敗北にはこの上ない絶望を感じることがある。チームがどんな時も、声が枯れるまで選手を鼓舞し、応援し続ける。海外サッカーでは摂取できない、特別な幸せを与えてくれる。ファジアーノ岡山というクラブが僕の地元にあることを心から誇りに思う。
長くなったが、ファジの話はこれくらいにして自分の話に移ろう。
僕は小学校に入学したタイミングでファジのスクールに入り、サッカーを始めた。スクールと言えば、お遊びの低レベルなサッカーを想像するかもしれないが、僕の行っていた回は、十数人のメンバーから後にファジのジュニアに3人も入り、そのうちの1人はそのままユースまで上り詰め、トップチームのキャンプに参加するまでになっていた程、意味不明なほどハイレベルな回であった。
そのまま小学校3年生まで、スクールでサッカーを続けた訳だが、前述したような上手い選手達は次第にスクールを辞め、自分のクラブに専念するようになり、自分が一番上手い程度のレベルになって、若干サッカー熱が冷めた。ただ、この年に僕のサッカー人生を大きく変える出会いをすることになる。学校で同じクラスになった、K.Y君が隣の小学校のスポーツ少年団に入っているらしく、自分がサッカーをしていることを知った彼はしきりに僕をそのスポ少に誘うようになった。(僕の小学校にはスポ少にサッカーはなかった。)自分より上手い人がたくさんいる環境を求めていた僕は、彼の誘いに乗り、小4になるタイミングでスポ少に入った。
期待通り、スポ少には自分より上手い人がたくさんいて、自分はスタメンではなかった。ただ、この年からうっすら興味のあったキーパーをはじめ、小5になる直前くらいにはスタメンになった。当時から背が高くそれなりに向いていたと思う。この辺りになって気付くのだが、このスポ少はそれなりに強く、とりわけ僕達の代は強い方だった。小5に初めての大きな大会、ちゅうぎんカップに出る。ちゅうぎんカップはピリオド制とかいう意味不明なシステムを採用した大会の岡山県大会である。そこで僕達は、くじ運もかなりあったと思うがベスト4に進出し、ファジのホームスタジアムである、シティライトスタジアムで試合をすることになる。ただ、ベスト4となると相手は県内屈指の強豪クラブばかり。準決勝はあっけなく大敗し、中国大会へ向けた最後のひと枠を勝ち取るべく、3位決定戦にまわった。3決は善戦し、1−2で迎えた終盤、猛攻を見せるも、病み上がりで出場し、後にそれはインフルだったと判明したR.U君が決定機を外したこともあり、同点ゴールは奪えずそのまま敗戦。後に彼はこのミスを全てインフルのせいにしていた。
小6になり、次の大きな大会であるシティライトカップを迎える。ここでも僕達は抜群のくじ運と勝負強さを見せ、再びベスト4に入り、シティライトスタジアムで中国大会出場をかけて戦うことになった。準決勝の相手はちゅうぎんカップの3決で敗れたあの相手。先制するも追いつかれ、勝ち越すも再び追いつかれ、結果2−2でPK戦へ。4本中2本を止め、勝利し決勝進出、そして中国大会への出場が決まった。余談だが、当時の僕はあんまりよく分かってなくて、中国大会があること、それに出られることを準決後のロッカールームで知った。決勝の相手はあのファジユース。準決で死闘を演じた我々が、軽く勝ち上がってきた格上のファジに勝てるはずもなく、あっけなく大敗した。
その後、フジパンカップという中国大会が島根で行われ、それに出場した。まずは4チームの中から、2チームが勝ち上がれる予選リーグ。一勝一敗で迎え、他チームの結果から、勝利が絶対条件だった(気がする)最終戦の相手はあのサンフレユース。前半は全く攻め上がれず、ずっと攻められていたばかりだったがなんとか猛攻を凌ぎ、なんと0−0で折り返す。しかし、後半にサイドを突破され、クロスがそのまま入るという不運な形で失点し、結果0−4で敗れた。結果的にサンフレは圧倒的な強さを見せて優勝したのだが、前半を無失点で終えたのは我々だけだった。(何故かこれはすごく印象に残っている。)
先輩方のfeelingsを見てみると大半は、自身のサッカー人生について、中高時代についてを主に書いている気がするが、僕の場合はご覧の通り、中高6年に対して小学校高学年での2年間の分量が圧倒的に多い。理由はシンプルで、僕のサッカー人生はこの2年間が全盛期なのだ。別にこの時期に適当にサッカーをしていたというわけではないが、中高時代も与えられた環境下でそれなりに頑張った(つもりである)。
ただ、中学では勉強の方が大事だしなと12歳らしからぬ選択をして、クラブチームではなく部活を選んだ。一個上の代で、中体連の大会で優勝したけど、学年ではっきりチームを分けて活動していた中学の部活でその差をひっくり返せるほどの実力はなく、ベンチ入りに留まる。その後、自分たちの学年を見ていた顧問の先生が病気で亡くなるというまさかの事態が起こったりもした。その後、自分の代となり、夏の中体連大会で、秋大会準優勝となった、一個下の代から選手を集め出したあの岡山学芸館の中学校版である清秀中に勝つなどもしたが、県ベスト8で秋夏連覇した朝日塾という清秀と同じく選手を集めた強豪中学校に敗れ、結果的にこれが最高成績。
高校は岡山朝日高校という、一応岡山の中では随一の進学校に入学する。2個上の代がとても強く、インハイ予選では前年選手権を制覇したばかりの学芸館に敗れるも、県ベスト8。ただ、この時はAのメンバー入りはするも出場することはなかった。一個上の代ではスタメンで出るも、新人戦、インハイ予選ではベスト28でいきなり作陽とあたって、インハイ予選では意地の一点を奪ったりもしたが、結果としては両方大敗。リーグ戦は作陽がプリンスから落ちてきたことによって、降格枠が増え、玉突きの形で県二部から、三部相当のリーグへと降格。自分の代になってからは、キャプテンも務めたが、本当に苦しみ、選手権も新人戦も格下にPK負けを喫し、初戦敗退。後期リーグは7戦2分5敗で8チーム中7位という酷い成績であった。ただ、事情はややこしいので省くがいろいろ奇跡が重なってまさかの昇格。目標としていた、県二部への一年での復帰を果たした。3年生となり、顧問の先生が変わるなどもあり、県二部リーグに挑んだ訳だが、思ったよりも勝ち点を積むことができた。ただ、結果として2年の8月に始動したチームの公式戦初勝利は3年の5月になってしまった。インターハイ予選ではベスト28で、中学時代に敗れた朝日塾に負け、結果高校で自分が出た2年間での最高成績はベスト28。
中高6年間での選択と結果に後悔はない。中学でクラブチームに入り、サッカーに打ち込んでいたら、東大に入った自分は別世界の人間になっていたと思う。ただ、過程には後悔ばかりである。中学1年生で運よく県トレに呼ばれるも、自分はどうせ部活でこいつらとは住む世界が違うからと半ば諦め、結果その2回の練習会以降呼ばれなかったこと。コロナ禍で、相次ぐ休校や部活動停止の中、自主練に真摯に取り組めなかったこと。高校で自分のミスで負けた後、後ろ向きな気持ちで試合に挑んだこと。負け続きの中で、格上に負けることを当たり前と思ってしまったこと。練習すればするほど、自分が下手になっていくように思えた。(なんなら今も時々思う)
小6で俺はサッカーエリートたちの住む世界に片足を突っ込みかけた。ただ、今や彼らの世界は別世界である。サッカーエリートのいないア式にすら俺より上手い人たちだらけで、入部から半年が経とうとしている今も俺は燻り続けている。ただ思えば、これは俺がサッカー人生で望み続けた環境ではないか。自分なんかよりも上手い奴がたくさんいる中で、そいつらを超えたいと思う。この純粋な挑戦心を俺は中高6年間、結果などという外的要因にとらわれ、忘れていた。高校の卒業式の後、副顧問の先生は毎年同じことを言っていた。生涯、サッカーに関わって欲しいと。俺は生涯ファジファンだし、サッカーは俺の人生で大事なところにあり続けると思う。ただ、プレイヤーとしてはあと3年強で最後だと思う。再ブレイクし、プレイヤー人生での全盛期を迎えるべく、今日も練習へ向かう。
その後のサッカー人生にファジは欠かすことができない存在である。週末の試合結果に一喜一憂し、試合が終わったその夜寝る頃には次週の試合を待ち遠しく思う。そんな生活を繰り返していた。アウェイでの神戸との川鉄ダービーで、0−3から80分過ぎの10分ほどで同点に追いついたこと。初めてのJ1参入プレーオフで、アルウィンで後半ATのゴールによって劇的勝利を収めた松本戦。決勝で、惜しくも敗れたC大阪戦。その後、降格候補にまでなったファジをシーズン途中に加入したデュークが救って、翌年には再びプレーオフに行くこと。そのシーズンの開幕戦では現在は日本代表にまでなった佐野航大がデビューし、その裏でチアゴアウベスが自陣からの超ロングシュートを決めたこと。そのプレーオフでは、その年ジャッジミスによってJ史上初の再試合があった因縁の相手山形にあっけなく大敗したこと。2年後、3度目のプレーオフで山形にリベンジを果たし、そのまま初のJ1昇格を果たすこと。J1初年度、開幕戦で初勝利を飾った京都戦。そのシーズンで佐藤龍之介が躍動し、クラブ史上初の日本代表となったこと。受験前最後のアウェイ遠征で、京都に0−5で大敗したこと。百年構想リーグで神戸に3−0で大勝した川鉄ダービー。シーズン移行初年度の今年、退場者を出しながら河野孝汰がクラブ史上初のハットトリックで死闘を制したホームでの広島との中国ダービー。どれも鮮明に覚えているし、以後忘れることはないだろう。チームの勝利にはこの上ない喜びを感じるが、敗北にはこの上ない絶望を感じることがある。チームがどんな時も、声が枯れるまで選手を鼓舞し、応援し続ける。海外サッカーでは摂取できない、特別な幸せを与えてくれる。ファジアーノ岡山というクラブが僕の地元にあることを心から誇りに思う。
長くなったが、ファジの話はこれくらいにして自分の話に移ろう。
僕は小学校に入学したタイミングでファジのスクールに入り、サッカーを始めた。スクールと言えば、お遊びの低レベルなサッカーを想像するかもしれないが、僕の行っていた回は、十数人のメンバーから後にファジのジュニアに3人も入り、そのうちの1人はそのままユースまで上り詰め、トップチームのキャンプに参加するまでになっていた程、意味不明なほどハイレベルな回であった。
そのまま小学校3年生まで、スクールでサッカーを続けた訳だが、前述したような上手い選手達は次第にスクールを辞め、自分のクラブに専念するようになり、自分が一番上手い程度のレベルになって、若干サッカー熱が冷めた。ただ、この年に僕のサッカー人生を大きく変える出会いをすることになる。学校で同じクラスになった、K.Y君が隣の小学校のスポーツ少年団に入っているらしく、自分がサッカーをしていることを知った彼はしきりに僕をそのスポ少に誘うようになった。(僕の小学校にはスポ少にサッカーはなかった。)自分より上手い人がたくさんいる環境を求めていた僕は、彼の誘いに乗り、小4になるタイミングでスポ少に入った。
期待通り、スポ少には自分より上手い人がたくさんいて、自分はスタメンではなかった。ただ、この年からうっすら興味のあったキーパーをはじめ、小5になる直前くらいにはスタメンになった。当時から背が高くそれなりに向いていたと思う。この辺りになって気付くのだが、このスポ少はそれなりに強く、とりわけ僕達の代は強い方だった。小5に初めての大きな大会、ちゅうぎんカップに出る。ちゅうぎんカップはピリオド制とかいう意味不明なシステムを採用した大会の岡山県大会である。そこで僕達は、くじ運もかなりあったと思うがベスト4に進出し、ファジのホームスタジアムである、シティライトスタジアムで試合をすることになる。ただ、ベスト4となると相手は県内屈指の強豪クラブばかり。準決勝はあっけなく大敗し、中国大会へ向けた最後のひと枠を勝ち取るべく、3位決定戦にまわった。3決は善戦し、1−2で迎えた終盤、猛攻を見せるも、病み上がりで出場し、後にそれはインフルだったと判明したR.U君が決定機を外したこともあり、同点ゴールは奪えずそのまま敗戦。後に彼はこのミスを全てインフルのせいにしていた。
小6になり、次の大きな大会であるシティライトカップを迎える。ここでも僕達は抜群のくじ運と勝負強さを見せ、再びベスト4に入り、シティライトスタジアムで中国大会出場をかけて戦うことになった。準決勝の相手はちゅうぎんカップの3決で敗れたあの相手。先制するも追いつかれ、勝ち越すも再び追いつかれ、結果2−2でPK戦へ。4本中2本を止め、勝利し決勝進出、そして中国大会への出場が決まった。余談だが、当時の僕はあんまりよく分かってなくて、中国大会があること、それに出られることを準決後のロッカールームで知った。決勝の相手はあのファジユース。準決で死闘を演じた我々が、軽く勝ち上がってきた格上のファジに勝てるはずもなく、あっけなく大敗した。
その後、フジパンカップという中国大会が島根で行われ、それに出場した。まずは4チームの中から、2チームが勝ち上がれる予選リーグ。一勝一敗で迎え、他チームの結果から、勝利が絶対条件だった(気がする)最終戦の相手はあのサンフレユース。前半は全く攻め上がれず、ずっと攻められていたばかりだったがなんとか猛攻を凌ぎ、なんと0−0で折り返す。しかし、後半にサイドを突破され、クロスがそのまま入るという不運な形で失点し、結果0−4で敗れた。結果的にサンフレは圧倒的な強さを見せて優勝したのだが、前半を無失点で終えたのは我々だけだった。(何故かこれはすごく印象に残っている。)
先輩方のfeelingsを見てみると大半は、自身のサッカー人生について、中高時代についてを主に書いている気がするが、僕の場合はご覧の通り、中高6年に対して小学校高学年での2年間の分量が圧倒的に多い。理由はシンプルで、僕のサッカー人生はこの2年間が全盛期なのだ。別にこの時期に適当にサッカーをしていたというわけではないが、中高時代も与えられた環境下でそれなりに頑張った(つもりである)。
ただ、中学では勉強の方が大事だしなと12歳らしからぬ選択をして、クラブチームではなく部活を選んだ。一個上の代で、中体連の大会で優勝したけど、学年ではっきりチームを分けて活動していた中学の部活でその差をひっくり返せるほどの実力はなく、ベンチ入りに留まる。その後、自分たちの学年を見ていた顧問の先生が病気で亡くなるというまさかの事態が起こったりもした。その後、自分の代となり、夏の中体連大会で、秋大会準優勝となった、一個下の代から選手を集め出したあの岡山学芸館の中学校版である清秀中に勝つなどもしたが、県ベスト8で秋夏連覇した朝日塾という清秀と同じく選手を集めた強豪中学校に敗れ、結果的にこれが最高成績。
高校は岡山朝日高校という、一応岡山の中では随一の進学校に入学する。2個上の代がとても強く、インハイ予選では前年選手権を制覇したばかりの学芸館に敗れるも、県ベスト8。ただ、この時はAのメンバー入りはするも出場することはなかった。一個上の代ではスタメンで出るも、新人戦、インハイ予選ではベスト28でいきなり作陽とあたって、インハイ予選では意地の一点を奪ったりもしたが、結果としては両方大敗。リーグ戦は作陽がプリンスから落ちてきたことによって、降格枠が増え、玉突きの形で県二部から、三部相当のリーグへと降格。自分の代になってからは、キャプテンも務めたが、本当に苦しみ、選手権も新人戦も格下にPK負けを喫し、初戦敗退。後期リーグは7戦2分5敗で8チーム中7位という酷い成績であった。ただ、事情はややこしいので省くがいろいろ奇跡が重なってまさかの昇格。目標としていた、県二部への一年での復帰を果たした。3年生となり、顧問の先生が変わるなどもあり、県二部リーグに挑んだ訳だが、思ったよりも勝ち点を積むことができた。ただ、結果として2年の8月に始動したチームの公式戦初勝利は3年の5月になってしまった。インターハイ予選ではベスト28で、中学時代に敗れた朝日塾に負け、結果高校で自分が出た2年間での最高成績はベスト28。
中高6年間での選択と結果に後悔はない。中学でクラブチームに入り、サッカーに打ち込んでいたら、東大に入った自分は別世界の人間になっていたと思う。ただ、過程には後悔ばかりである。中学1年生で運よく県トレに呼ばれるも、自分はどうせ部活でこいつらとは住む世界が違うからと半ば諦め、結果その2回の練習会以降呼ばれなかったこと。コロナ禍で、相次ぐ休校や部活動停止の中、自主練に真摯に取り組めなかったこと。高校で自分のミスで負けた後、後ろ向きな気持ちで試合に挑んだこと。負け続きの中で、格上に負けることを当たり前と思ってしまったこと。練習すればするほど、自分が下手になっていくように思えた。(なんなら今も時々思う)
小6で俺はサッカーエリートたちの住む世界に片足を突っ込みかけた。ただ、今や彼らの世界は別世界である。サッカーエリートのいないア式にすら俺より上手い人たちだらけで、入部から半年が経とうとしている今も俺は燻り続けている。ただ思えば、これは俺がサッカー人生で望み続けた環境ではないか。自分なんかよりも上手い奴がたくさんいる中で、そいつらを超えたいと思う。この純粋な挑戦心を俺は中高6年間、結果などという外的要因にとらわれ、忘れていた。高校の卒業式の後、副顧問の先生は毎年同じことを言っていた。生涯、サッカーに関わって欲しいと。俺は生涯ファジファンだし、サッカーは俺の人生で大事なところにあり続けると思う。ただ、プレイヤーとしてはあと3年強で最後だと思う。再ブレイクし、プレイヤー人生での全盛期を迎えるべく、今日も練習へ向かう。
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