アサオキテヨルネムル ~自伝的他者の記録~
上西園亮(4年/MF/ラ・サール高校) オナニーという単語がある。 『旧約聖書』の「創世記」におけるオナンの故事に由来し、日本語ではしばしば自慰行為と訳されるこの言葉は、しかし、しばしば忌避的な意味として用いられる。「神に背く行為として非道徳的であり、罪に値する」といった論理に基づき、西洋において反オナニーの歴史が展開されていたことも往々にしてあった。 一方、オナニーは様々な文学作品において重要なテーゼの1つともなってきた。村上春樹の小説に出てくる主人公たち(「僕」たち)はオナニーを通じ何か新しいものを見つけ、或いは何か古いものを其処に置いてきた。三島由紀夫は『仮面の告白』で一躍日本の文壇にその名を轟かせた。トーマス・マンの『魔の山』においては個人の欲望と葛藤としても描写された。 この隠匿された単独行為は、その秘匿性ゆえに第三者に何かしらを想起させ、そして同時に開放的な何かを惹起させるのであろう。オナニーとは狭く縮こまった事象・行為であることに相違は無いが、しかし、同時にそこには人間の原始的な素因子が含まれているのかもしれない。最早分解することの適わぬそれらを1つ1つ組み合わせていった先に、原初的で無垢な人間像が存するのかもしれない。 このテーゼは古来より様々な形で表出し、表現されてきたものではあるが、何分ここでこのテーゼについて書き連ねるには余白が足りていないようである。或いは、賢者的思考能力を持つ者にとっては余白が多すぎるのかもしれない。 Yには、オナニーについての発散的議論を進め、宇宙の真理を解明していきたい学問的追究心が尽きぬ一方、このfeelingsを次の展開へと進める義務も同時に存在する。本来的に二項対立ではないはずのこれらは、こと卒部feelingsといった体裁を取るとき、共有地の悲劇を招くゼロサムゲームを開始してしまうようである。そのため、この話は一旦ここまでとし、またいつかYが自身の考え(或いは思想ともいうべきもの)を世間に表明する際まで棚上げしておくこととしよう。 このfeelingsは、Yにとって最後のfeelingsとなる。このfeelingsを通じ、Yは何を伝えたいのでもなく、何を読み取ってほしいわけでもない。ただ、今作がYにとってのオナニー的作品となることがここでは既に決しており、そして、オナニー的文章、或いは文...