後悔未遂

 長谷川希一(1年/FW/福島高校)

人は僕を明るい人とか面白い人とか楽しい人とか言いますが、それは僕がそれ以外を隠し、それを強調し、人がそれだけしか知らないからであって、考えれば弱い自分にまみれた人生を送ってきました。

 

 

小学校4年生の図工の時間。思い出す一番昔の弱い自分。みんなで水彩画を描いていた。水彩画を書き進めて、だいぶ経った後に、僕には上手く描けない部分があった。この時間までに終わらせなさいみたいな締め切りがあって、僕はもっと描き進めないといけなかった。でも行間休みが迫っていたから、ゆっくり書くわけにはいかなかった。僕はサッカーがしたかった。2時間目と3時間目の行間休み。いつもは10分休憩なのに、そこだけ15分休憩になる行間休み。その15分ですらサッカーがしたくて、僕は急いでいた。ある程度描き進めた自分の絵を見て、やっぱり気に入らなかった。先生に聞いたら、うまくいくやり方を教えてもらったけど、時間がかかると思った。それをしていたら休み時間にサッカーできないなと思った。そこで僕は悩んだ。ここから修正するなら最初から書き直した方がいい。じゃあそうしようと思った。でも先生に聞きにいったらそれはだめ、全然時間あるのだから、修正しなさいと言われた。その通りだった。サッカーする時間を削れば全然間に合う時間だった。でも僕はサッカーがしたかった。結局何をしたかというと、僕はいつもより多く筆に絵の具をつけて、画用紙の同じところをぐりぐりした。あたかも修正を図っているかのような素振りは欠かさずに、ぐりぐりとし続けた。画用紙は繊維を束にして筆の侵入に抵抗し続けたが、とうとう力尽きた。画用紙に穴が空いたのであった。僕は画用紙が破れれば書き直しを認めてくれるだろうと思った。そして先生に悲しいような、でも嬉しいような気持ちで、画用紙が破れてしまったことを報告し、筆についた絵の具一滴も入らないくらいに間髪入れず新しく描き直したいと言った。でも、先生には全てバレていた。そしてとってもとっても怒られた。自分と先生との間に終始せず、先生はクラスにいる全員に向かって僕の行いを説明し、僕のようにはならないようにと忠告をした。その間、自分の弱さをひしひしと感じた。画用紙を破ってしまえば先生であろうともう描き直しを認めざるを得ないだろうと思っていたが、画用紙が破れた後になって、ふと、その取り返しのつかなさと、自分が、周りの忠告が届かない場所に来てしまったのだという自覚に悲しくなった。

 

 

人生のチュートリアルで失敗したような僕は、弱いところに気づいているのに自分の弱いところを見ようとはせず、まるで腫れ物に触れるようにとは言うが、その人も触れているだけマシである、僕は触れもしなかった。そうして小さくもされど重い後悔を積み重ねて、高校2年の秋、人生で最大の失敗を犯した。

 

 

高校2年生になって、今度は僕たちが先輩たちみたいにチームを引っ張っていくのだという自覚とか、新キャプテンになったやる気のスタートダッシュとかで、1年生の時よりも部活により打ち込むようになった。その結果というか、少なくとも当時の自分にとってはその反動として当然のように受け入れられたが、勉強をしなくなり、成績はどんどん下がっていった。高校一年生の頃の貯金もあって、東北大はまだ目指せる位置であったが、なぜか僕には東大を諦めきれなかった。その頃までの、僕と東大の繋がりといえば、1年生の時に学校の企画で5月祭に行ったことと、県のプロジェクトで東大の講義を受けたり東大生と交流をしたりしただけであって、進振りのこととかましてア式のこととか全く知らなかったのに、なぜか諦めきれなかった。周りから東大を目指した理由を聞かれたときは、「授業で夏目漱石の「こころ」を読んで感動して、国語便覧を読み漁るようになって、僕が知っていた有名な作家たちはみんな東大文三出身だったから、僕もこんな作家になるためには文三に入った方がよさそうだって思ったから」ということにしている。これは間違いじゃない。本当に「こころ」の論理性に感動したし、それで苦手だった小説の問題も得意になったし、ア式ホームページの自己紹介欄には将来の夢は夏目漱石と書いている(この前谷川俊太郎に変わった)。でも、それが本当の理由かと深く考えるとうんとはいえない気もしている。そもそも授業でこころを読んだのは僕が東大を受けると両親に初めて伝えてからちょっと経った頃である。だから僕が東大を目指した本当の理由は今でもよくわからないが、それでも目指した。なぜか本気だった。同時に、僕はその時、東大受験をするなら、部活を辞める必要があるのではないかと考えていた。東大受験を真剣に考え出して、初めて振り返った2年生の模試の成績表。明らかに点数が足りていなかった。部活を辞めれば時間ができて、それを勉強に充てれば成績は伸びると思っていた。成績を伸ばすためには時間が必要だった。特に歴史は、東北大を受けるものだと思っていたため何にも勉強していなかった。定期試験の世界史は30点ピッタリで、日本史は45点だった。世界史に関しては、わからない問題を埋めるだけ埋めたら先生がおまけで1点をくれての赤点回避となった。それをみんなでケラケラ笑っていた。こんな点数恥ずかしいとは思わず、エピソードトークが増えたと喜んだ。

 

 

それらの結果をその時真顔で見つめて、唖然とした。やばって思った。これ間に合わなくねって思った。その突発的な焦りは部活を辞めたいという気持ちを強くさせたように思う。そういった衝動的で突発的な気持ちの高ぶりを押さえつけて、沈められるほど僕は本気で部活に取り組めていなかった。部活を言い訳に勉強をしなかったし、そもそも部活に打ち込んだというのも、勉強をしたくないから部活に取り組んでいたのかもしれない。2年生になった初めは、キャプテンになって、中学校時代からやっていたことだからと練習メニュー作成を引き受けて全部自分で考えて、筋トレを導入して、すごいモチベが高かった。でもそれは自分で全てを背負っている感じに酔っていただけだった。中学校時代はそれでうまくいっていたけど、今度は全然なんにも成長できなかった。中学校の時は毎日やっていたのに高校に入ってやらなくなった体幹トレーニング。後輩に体で負けて、2度と勝てなかった。でも後輩に体で負けることは許せないという気持ちだけは変わらなかった。昔は全然緊張しなかったのに、試合で緊張するようになった。練習が終わると勉強しなきゃと言ってすぐ帰るけど、勉強はしなかった。部活を辞めるという選択もまた、自分の弱さから逃げる行為だった。サッカーがうまくいかないから、練習するのではなくて、サッカーをやめるという決断を思いつく自分も弱いし、すんなりと、驚くほどすんなりと受け入れた自分もまた弱かった。両親に決断を伝えたあの夜。すぐに部活を辞められるほどキャプテンはそんな軽い立場ではないと真正面から僕に向き合い真正面から止めようとしてくれた父親を、なぜ僕はあんなに振り切ろうとしたのか。勉強をしたいからサッカーをやめるのか、サッカーを辞めたいから勉強をするのか、サッカーをやめるためには東大レベルを引き合いに出す必要があったから東大を目指したのか。一見無理そうな東大を目指すといえば許されると思っていたのか。そして、東大ならもし落ちてもまぁしょうがない、よく頑張ったと言ってもらえると思ったのか。何かを捨てないと何かを頑張れないほど弱い自分に気づいていたけど、気づかないふりをしていた。「あの時の目が本気だったから許した」と父親が言うたびに悲しくなる。多分一生続く後悔。同じ学年の部員に辞めると伝えた時言われた「東大ならいいじゃない」の言葉は、僕の心を突いた。そんなつもりはなかったらしいけど、あの時の僕は東大以外は目指すことすら許されないと感じた。その時、それほど自分の決断は重いものだと気づいた。それに僕の代は7人しかいなかった。それにキャプテンでもあるのにこんなにも簡単にあっけなく辞めていこうとしている自分の身勝手さにも気づいた。でも決断を変えることはなかった。どうして。そして2年生の秋頃、新人戦をもって僕は部活を辞めた。僕にとって最後の集合となった、新人戦に負けた後の集合を、とても浅い、あっさりとした挨拶で締めくくってしまったのを覚えている。

 

 

辞めてから、予定通り勉強時間は増えた。授業を受ける態度、目つきが変わったと担任に言われた。成績が上がるにはある程度の時間がかかるとは覚悟していた。そもそも弱点を克服して成果を出すにはある程度の時間が必要というのに加えて、自分にはその克服しなければならない弱点が山ほどあった。それら全てを考慮して、受け入れて、時間はかかるけど成績が上がるまで耐えた。耐えようとした。毎日頑張った。でもいつまで経っても成績は上がらなかった。成績が上がらないまま、冬休みに入った。部活を辞めた僕には身に余るほどの時間があったが、僕はとにかく焦っていた。東大と東北大の受験科目の違いでまず思い浮かぶ社会科目の有無から、目を逸らすわけにはいかなかった。正直何をやればいいのかわからなかった。とりあえずワークを何周も何周もすると決めたが、これは本当にきつかった。もっといい方法はないのかと思ったが、それを考え始めるとその時間が無駄に感じられた。そう思った瞬間、途中で何もアイデアが出て来なくなった。そして結局莫大な量をこなすというただただきつい勉強方法を再開することになった。結局これを受験期の間ずっとやることになる。明らかに効率が悪かった。時間をかなり無駄にしているとは気づいていたが、その改善のための時間は僕にはもっと無駄に感じられた。勉強をすると、完璧主義モードに入ることがある。以前解けた問題は飛ばす、ということが僕には許せなかった。前回解けたのはまぐれだとどうしても思ってしまった。結局毎回全問解いた。全問解くので解き終わった頃には疲れ切って、間違えた問題を復習する体力は残っていなかった。そうしてできない問題ができるようになることは無かった。でも問題の量はこなしているので満足はしていた。僕には、部活を辞めて生まれた時間を全て勉強に費やしているという事実と実感がどうしても欲しかったのだと思う。怠けるとその日の夜は焦りで眠れなかった。勉強するために辞めたのに勉強しなかった時自分。退部に背く行為をひたすら叱責した。当時、もはや寝ることだけが僕に許された唯一の娯楽だと勝手に思っていた。叱責する日は眠れなかった。どうしても寝たかった。夜よ早く来てくれと思い、朝は一生来るなと思っていた。だから寝るために満足感を求めた。その際質はどうでもよかった。夜遅くまで長時間勉強したという事実で満足できた。というかそれで満足することにしていた。できた時間を全て費やした結果なら、結果はどうあれ部員のみんなも受け入れてくれるだろうという弱さ。かといって東大以外を目指す気には、本当になぜかわからないが、ならなかった。このようなことをずっと繰り返した。その日眠れるように勉強する。その日寝られないと次の日も寝不足で集中できないから、睡眠はその日だけの問題ではない重大な問題だった。特に質は重視していなかった。僕の勉強の質がどれくらいか、塾に行っていない僕にはわからなかった。というか質を重視していたらとても眠れなかった。眠るために質を捨てた。だから毎日得た満足感と成績は全く釣り合わなかった。ただただ精神がすり減っていった。

 

 

気づいたらコロナが流行っていた。学校は休校になった。ただでさえきついのに、さらに家にいる時間が増えた。時間が増えるということは、勉強しなければならない時間が増えるということだった。考えただけで絶望した。でも絶望してその日を終えると眠れないから、さらにきつい勉強ルーティーンを作った。ルーティーンだけで8時間くらいかかった。きついというか無理だった。何日か経って、何にもできなくなった。何もしたくなくなった。気づいたら外にいた。両親は共働きなので、家にいる僕の行動に制約はなかった。おかしくなった僕と弟は自粛期間中に喧嘩をした。それからずいぶん長い間口を聞かなくなった。気づいたら1人だった。その時にはすでに、自分の中で勉強以外のことは全て無駄なものとなっていた。

 

家の近くに図書館があった。存在は知ってはいたが、行ったことはあまり無かった。記憶の次のシーンで、僕はそこにいた。大学の跡地を利用したところなので、とても広かった。母家づくりの建物の、「2階建てなんかにしなくても十分広いですよ」みたいな余裕。大きな建物だけでなく、広大な庭園と芝生もあった。自粛中自分の部屋しか見てなかった僕にとって、図書館の広大な庭園はとっても魅力的に思えた。気づいたらしばらくそこにいた。無駄な時間だとは思わなかった。その日から図書館への散歩は日課になった。敷地内に小川があって、そこの岩が好きだった。そこの岩に座って時間を過ごした。いろんな岩に座った。たまに申し訳程度にそこで英単語帳を開いたり、古文単語をやったりした。自分の中への叱責担当への媚び売り。その時間は叱責担当も満更でもない様子だった。

家から図書館までの道と図書館から家までの道を、遠回りしたりするようになった。道中、最初は音楽を聴いたりしていたが、そのうち音楽はやめて考え事をするようになった。ご飯は自分で作っていたので、昼ごはん何にしようかなとか考えていたけど、いつも最後には必ず部活を辞めたことについて考えていた。こんなに勉強して、全然成績は上がっていない。なのに僕は今散歩している。これは部活のみんなに失礼ではないのか、ずっと考えていた。これが失礼か失礼じゃないのかとか、みんなはどう思っているのかはおいといて、僕はただただ申し訳なかった。部活を辞めてだいぶ時間が経ったこの時期に、部活を辞めたことを後悔していた。まず、サッカー自体について、あんなに適当に取り組んでしまったこと。後悔がたくさんあった。後悔するプレーがたくさんあった。サッカーでできた後悔は、勉強を頑張ればどうにかなる、サッカーでできた後悔は勉強の成功がかき消してくれると思っていたが、そんなことは無かった。サッカーでできた後悔は、サッカーでなければ払拭できないのだと知った。叱責する夜に眠れないのは嫌な思い出が脳を駆け巡って悪夢みたいになるからなのだが、悪夢の内容は後悔が残る自分のプレーがほとんどだった。こっちに出してくれればと切実な顔で訴えかけるみんなの顔や、不用意にボールを取られてカウンターになって絶望しながら自陣に戻るみんなの姿を思い出す度に、後悔で胸がギュッとなった。

辞めてすぐの頃、この映像が頭をよぎるたびに勉強して取り返そうと自分を奮い立たせて勉強していた。でもこの時期になって、これからいくら勉強をしても、いくら成績が上がっても、この後悔が消えることはないのだと気づいた。その瞬間に、絶望というかもう消えない後悔が大きく深く自分の中に刻み込まれるのがわかった。そしてそもそも、成績が全然上がらなかった。コロナで模試が減って最後に受けた模試から数ヶ月が経っていた。その模試では全く成績の向上は見られず、そこからの数ヶ月で成績が上がっている実感も全く得られていなかった。ふと、僕もし東大落ちたら何が残るのだろうと思った。色々考えたけど、何にも残らなかった。できる限りの遠回りをして考えたけど、何も残らなかった。かといって、勉強してもサッカーに後悔は残ったままとなると、いよいよ勉強する理由がわからなくなった。今更気づいた退部の重大さに、僕の東大受験の夢はどう考えても見合ってなかった。リターンが感じられなかった。今からどんなに苦しい思いをしても、チャラにすらならないのだと知った。かといってサッカー部に戻ることは許せなかった。サッカー部はコロナで活動ができていないらしい。それによってつい先日3年生の最後の大会になるはずであったインターハイの中止が決まって、同期は結果として最後の大会が僕と同じ秋の新人戦になった。これが本当に苦しかった。僕と同じになるのだけは辞めて欲しかった。退部の重大さがこれでちょっと薄まったとか思っちゃいそうで怖かった。みんなは僕が辞めた後も本気で部活を続けていたのに、その数ヶ月が無かったことにされるのが嫌だった。申し訳なかった。「結果オーライじゃん」「先見の明があったんだね」「この数ヶ月はなんだったんだよ」この言葉本当に苦しかった。「引退」という言葉も嫌だった。頑なに退部と言い続けた。みんなが僕と一緒になるのは耐えられなかった。東大を諦めることも許せなかった。何をしていいのかわからなくなった。でも何もしないでいると叱責が始まった。結局勉強するしか僕には選択肢がなかった。結果として、「何も残らない」を避ける、というのが、その後から受験終了までの僕の唯一の勉強する意味となった。そんな勉強続くはずもなかった。その動機では自粛期間すら乗り越えられなかった。でもそれしかなかったし、勉強するしかなかった。僕の勉強は能動的なものから受動的なものになった。毎日義務感で勉強した。本当になんで東大なのだろうと思ったが、考える時間は与えられなかった。この気づきの後の受験勉強は、本当に苦しかった。だから合格しても純粋に喜べなかった。自分の弱さが生んだこの状況を喜ぶのはなんか馬鹿馬鹿しかった。

 

 

多分受験期の後半から、サッカーをもう一回やり直そうと決めていたのだと思う。サークルじゃなくて部活にしたのは、本気でやって後悔を取り返したいって思ったから。だから、駒場から本郷まで通うと1時間くらいかかるけど負担にならないかなとか色々不安になったりしたけど結局はすんなり入部した。もう2度と同じ失敗はしないと決めて入部した。

 

 

でも、ア式に入って一年間、弱い自分はなんにも変わらなかった。弱いまま。

 

 

体は全く思うように動かなかった。入部して最初の一ヶ月、新入生チームとして活動したあの一ヶ月の初めの日に、みんなには敵わないと悟った。なんでこんなに速いんだろうと思った。なんでこんなに動けるんだろうと思った。なんでボールが取れないんだろうと思った。入部した最初の挨拶で、僕はボランチだと言ったのに、その日のゲームで僕はセンターバックに手をあげていた。ボランチではもうやっていけないと思っていた。僕がボランチをやってはいけないと思った。恥ずかしいと思った。中学校の時はセンターバックもやったことあるし、ここが一番通用するだろうと思った。一番好きなのはボランチだった。やりたいのはボランチだった。でも、センターバックに手を挙げた。僕は入部して初日に、自分の中で、サッカーを楽しむことを諦めた。

 

 

僕と同じ経緯でア式に入った人はいないようだった。みんな最後まで部活をやり抜いてア式に入っている。純粋にすごいと思った。これは僕のクラスメイトにもいえることだった。みんな青春していた。受験期のあの頃、僕は今頑張れば必ず報われると思い続けて頑張ってきたけど、入学して何にも報われはしなかった。僕は他の大学生活を知らないし、もしかしたら他の大学もこんな感じなのかもしれないけど、あんなに苦しんでこの大学に入った甲斐があったと思える瞬間は一度としてなかった。この大学に来ることが本当に正しかったのだろうか。考えすぎだよ、と言う人がいたら、それが何よりの証拠となる。

 

 

親愛なる東京様

あなたはすごい場所だけれど、家族とか友達とかと離れてまで行くような場所ではありません。いつもありがとうございます。大嫌いです。

 

 

そして一番辛かったのは、これを共有できる人がいないということだった。この経験をしてきた人がいないし、何よりもこんなに苦しんだのは全て自分の弱さが原因だった。誰かに聞いてもらって気持ちが軽くなっても、結局は弱い自分に対する後悔が増えていくだけだった。そうして結局自分の中に閉じ込めることになった。政治学でいうところの沈黙の螺旋みたいなものだろうか。受験期に汚れてしまった心は洗われないまま時間が経ち、洗っても落ちなくなった。今の僕が完成した。

 

 

新入生チームで体力を戻して、少し時間が経つと、ちょっとずつ2年間の空白も感じなくなっていった。そしてちょっとずつやりたいように動けるようになって、サッカーやっぱり面白いなって感じるようになっていた。妥協でセンターバックを選んだものの、センターバックも面白いなと思うようになっていた。みっちーと吉遼さんのおかげで、僕はセンターバックとして成長できた。間を締めるとか、ラインの上げ下げとか、ビルドアップとか、正対できる持ち方とか、いろいろ学んだ。練習前に2人でパスをして、練習後にもパスをした。だんだんB 1の練習にも参加するようになって、B1とセカンドの紅白戦にも出られた。人が足りなかったからとはいえ、本当に嬉しかったし、評価されていると実感できるようになった。そして今までは僕には関係ないとスルーしていたB 1の試合メンバーも、毎週チェックするようになった。他人事だったあのメンバーに、自分も入りたいと思うようになった。センターバックの動画も見漁ったし、フィードバックチャンネルでもどんどん発言するようになった。ずっと下を向いていた練習後の集合でも、手を震えさせながらだけど発言するようになった。大きなやりがいを感じることができた。そしてついに、サタデーリーグのメンバーに選ばれることができた。

 

 

選ばれたディフェンスメンバーと、次の日にあるセカンドの試合のメンバーを見比べて考えた結果、僕先発じゃね、ってなった。大学生になって初めて見直しをした瞬間である。

 

 

ア式はチームが大きく分けて2つ、細かく分けて4つあって、自分はその4軍にいるわけだが、その4つのチーム間の力の差ははっきりしている。みんなは意外と差はないというけど、僕は結構あると思っている。4軍の上位は3軍の中位、みたいに、被っている部分があるような組織もあるが、ア式は4軍の一番星は例外なく3軍の最下位である。まして4軍の星空の背景の暗闇の僕は、なおさらその実力差を感じた。その日も、アップの段階から今までにないような雰囲気を感じていたのを覚えている。

 

 

そんな僕でもAチームに上がりたい気持ちは本当に本当に強くあって、誰にも負けたくない。B2だからとか関係ない。ていうかカテゴリーで気持ちなんか変わってたまるか。だからこの日を誰よりも楽しみにしていた。久しぶりに乗ったバスで無断乗車をしそうになったくらいには楽しみだったし緊張していた。1時間前くらいに来ちゃって炎天下の中みんなを待っているうちに汗かいてきちゃって私服を着替えたいからまだ色わからないのに先にユニフォームを着て待っているくらい楽しみにしていたし緊張していた。このチャンスは絶対ものにすると決めていた。センターバックとして、僕にとってのアピールは、チームを勝たせることだった。

 

 

その日の4対4プラス3は、人生で一番圧を感じた。パスは全部ミスった。怒号みたいなのが飛んできた。めちゃめちゃ萎縮していくのが自分でもわかった。政治学で言うところの沈黙の螺旋だろうか。

もう暑いから汗をかいているのかわからない。そのまま試合に入った。アップの時と同じミスをしては石野さんがカバーしてくれる、の繰り返し。背伸びしすぎて地に足がついていなかったくせに、競り合いは勝てない。過ぎてくれない時間。石野さんマジすげぇ。でも章が励ましてくれた。石丸さんも褒めてくれた。ゴツさんも褒めてくれた。だんだん試合をしているなと言う実感が湧いてきた。道路と陽炎みたいに試合に馴染んでいった。

 

 

だんだん落ち着いてきて、石野さんのカバーとかできるようになった。すごい成長。もうなんでも来いって感じ。なんか石野さん気づいたらフリーキック決めてるし。こっそり練習してたらしい。かっこよすぎた。めっちゃ喜んでた。歯白かった。

 

 

決めたのは石野さんだけど、僕も勇気をもらえた。自信を持ってプレーできるようになった。みんな本当にありがとう。この試合で自分はもっと成長できるって思った。するって決めた。そしてあるカウンターを、僕がカバーしに行った。一回抜かれたけど追いかけて、ライン際でスライディングをしてクロスを防いだ。でもその瞬間なんか嫌な音がした。相手コーナーになってすぐ戻らないといけなかったけど、走れなかった。歩けはしたけど、走れなかった。走れないだけで、痛いわけではなかった。膝を回しても痛くはなかった。気のせいかなと思ってそのまま続けた。コーナーキックをやり過ごしてゴールキックからビルドアップ。パスは出せたけど走れなかった。多分何かしら怪我をしたのだろうと悟った。でも続けた。試合に出たかった。ロングボールが来た。走れなかった。裏を取られた。怒号が飛んだ。相手が抜き去った。ゴールネットが揺れた。

 

 

ことの重大さに気づいて、直後座り込んで交代した。

 

 

ただただ申し訳ないなって思った。自分がプレーを中断していれば、変な意地をはっていなければ、点を取られることはなかった。石野さんのめちゃめちゃすごいフリーキックでやっととった一点を、僕のつまらないエゴが台無しにした。苦しかった。そして悔しかった。

 

 

そして腹がたった。なんでこの時悔しいって思えるんだろう。アピールに失敗したって思っているからだろう。結局自分のことしか考えてないんだ。だから失点したんだ。だから怪我したんだ。

 

 

結局チームは逆転負けをした。試合が終わってすぐ病院に向かうため、1人だけちょっと先に帰った。そんなに早くは歩けないので、ちょっとして後ろから先輩たちが自分に追いつき、追い越していった。目は合わせられなかった。

 

 

帰り道。何にも考えられなかった。反省していた。でも乗り換えは間違えなかった。所詮その程度の反省しかできなかったのかなとか思ってしまう。

 

 

こんな感じの怪我は初めてだったから、病院に行くのはちょっとワクワクしていた。ギブスに憧れる小学生同様、僕は松葉杖と長期離脱に憧れていた。D Lに興味があった。寡黙に各自で調整している感じを練習しながら見ていて、ちょっといいなって思っていた。怪我を抱えている主人公感を感じていた。病院に行って、怪我をした瞬間のことを聞かれて、ちょっと盛って話した。靭帯かもねって言われた。筋肉系の怪我しか知らない僕にとって、靭帯は未開拓の地。その地についに足を踏み入れた自分。やってることベンチャー企業じゃんとか思ったりしていた。アドベン茶っていうお茶ありそうとか考えていた。レントゲンとM R Iをとってもらえることになった。最寄り駅にある病院なのに意外とやるじゃんとか思っていた。検査の場所まで移動するのにと松葉杖を渡された。ついに正式に手にした松葉杖。友達の顔色を伺いつつそっと借りていたいつかの僕とは違う。僕の松葉杖。借りるで済ませず自分のものにしたがるジャイアンの気持ちがよくわかった。剛田武感を出すためになんなら前髪をお弁当に入っているバレンみたいにしようとしたけど両手が塞がっていたからできなかった。診察室を出た廊下から階下の検査室へ。この道のりは僕の松葉杖人生で最も輝いていた瞬間だった。レッドカーペットを歩いているかのような無敵感。松葉杖ってレッドカーペットなんだとか思っていた。階下に行く途中で使ったエレベーター。少し寄り道をしよう。行き先は昔。押すボタンは「幼少期」。エレベーターをエベレーターと言い間違っていた幼少期からこの瞬間までをモーターの力で振り返る。かつてこんなに罪悪感のない気持ちで乗ったエレベーターがあっただろうか。駅のエレベーターなどでは、高齢の方だったり、妊娠中の方だったり、怪我をしている人が優先されるしそういう人だけが使うべきってなってるけど、僕もその一員なんだって思った。しばらくは特に何も考えずに、軽い気持ちでエレベーターに乗れるんだって思った。あの重い扉がずっと軽く見えた。目の前に立つだけで開く気がした。いわば使い放題。ディズニーの年パスみたいなもん。松葉杖ってディズニーなんだとか思っていた。

 

 

検査室に着いて、診察室でもらった資料を手渡すとすぐに通してもらえた。ファストパスじゃんって思った。目の前には夢の国。アトラクションが二つとたくさんの怪我人。もう、みんなはしゃぎすぎだよーとか思っていた。充電が1%になった携帯は最後の体力を振り絞って、楽しんでこいと言い残して力尽きた。一つ目のレントゲンはすぐに終わった。楽しいと時間ってすぐ過ぎるってこういうことなんだとか思っていた。時計はなかった。そういうところもディズニーだった。細かいところまでディズニーだった。ちゃんと忠実に作り込まれていた。二つ目のM R Iの説明をしてくれたキャストの検査員の人は検査前に、キャプテン翼の話をしてくれた。いっぱいしてくれた。ず〜〜っとしてくれた。若島津懐かし過ぎる。石崎が最終的に日本代表になってるのはまだ納得できていない。石崎のお母さんと仲良くなりたい。可愛がってくれそう。多分得意料理はコロッケ。日向小次郎新聞配達してたの泣ける。僕もあんなシュート打てるようになりたいな。って思っているうちに装置が降りてきて閉まった。M R Iは検査員さんがしてくれたキャプテン翼の話よりもさらに長かった。ほんとはどうかわからないけど、僕はそう感じた。その間、僕はサッカーのことを考えざるを得なかった。正直、キャプテン翼の話なんてしてほしくなかった。僕はさっきまで無意識のうちにサッカーから遠ざかろうとしていたんだってその時気づいた。しばらくサッカーできないんだなって思った瞬間、急に焦りだした。M R Iの機械が締め付けてくるように感じた。さっき閉じたこの機械は僕をサッカーから突き放して隔離するかのようだった。靭帯のこととか何にも知らないけど、多分やばいんだろうなとわかるくらいには気持ちも落ち着いていた。そこから起きたこと;とりあえず一週間は自宅で安静にしていなさいって言われたこと、動く時は松葉杖必ずって言われたこと。上の空で聞いていた。心臓がバクバクした。共通テストの数学ⅡBでマークミスをして40点落とした、つい数ヶ月前の、頭の奥の奥に閉ざしていた悪魔のような記憶が蘇った。なぜかいつもより早く解き終わったことで急遽できた見直しの時間。残り1分でマークミスに気づいた、あのときの気持ちに似ていた。

 

帰り道。お医者さんからは、初めての松葉杖を使って帰宅するのは大変であること、僕はそのとき部の荷物のやかんを持っていたのでやかんを手に持ちながら松葉杖をつくのは大変であることを踏まえて、友達に迎えにきてもらいなさいと言われた。でも携帯の充電は切れていた。ライン電話のいいところは、携帯電話番号を覚えなくていいところで、ライン電話の唯一の欠点は、携帯電話番号を覚えなくなることだと思った。公衆電話はただのいろどり置物だった。弁当のバレン。そもそも携帯が使えても、こんな時に来てくれる友達がいたかどうか。友達に頼むのもどうなんって思ってもいた。住んでいる町が居心地良すぎて忘れていたけど、僕は福島を離れたのだなと思った。この街のいいところはあんま東京っぽくなくて静かで、福島に似ているところだけど、唯一の欠点はここが福島じゃないというところだと思った。一番上京を感じた。東京も感じた。僕が今目にしている人間は、いるけど、いないのと一緒なのだなと気づいた。今すぐ福島に帰りたくなった。結局タクシーを呼んだ。タクシーはここ一方通行だからといって家の近くまで行ってくれなかった。結局コンビニで降りたから、なんだかんだ歩いた。家まで全然つかなかった。ラントレの終盤くらい苦しかった。苦しかったけどそれ以上に悲しかった。汗じゃなくて涙が出そうになった。でも出そうになっただけで出ることはなかった。最後に泣いたのはもうだいぶ前だと気づいた。あのラントレもしばらくできないのだって思って、だからと言ってそれは別に悲しくはなかったけど、でもなんとなく悲しかった。途中で何回も立ち止まって、やかんを持ち替えて、松葉杖はしっかり握ってないといけないから、やかんの持ち手を手の奥に押し込んで歩いた。帰っても誰もいないのに、なんで僕は家に帰るのだろうとか思った。夜になると閉まる、寮の入り口の門を見て、部活で帰るのはいつも遅いから毎日そうなっているのに、なんかいつもより悲しかった。

 

 

来週また来てとお医者さんに言われ、1週間の松葉杖生活が始まった。

 

 

幼少期から、たまに悪夢を見る。内容はいつも一緒である。内容といってもストーリーがあるわけではない。気がつくといつも空間の中にいる。色は真っ白か真っ黒。だから部屋だとしても面の境界線が分からないのでぼんやりふわふわしている。ずっと見ていると球体にも感じられるような空間に1人。そこに立方体と円柱が地面からぬるっと現れては消える。立方体も円柱も色は空間と同じだから本当にその形かは分からないけど、影でそれとなく感じ取っている。すると自分が見ている世界が急に小さくなって、立方体と円柱が急に大きくなる。それらはそのまま上昇していく。ある瞬間空間および立体の色が白から黒、または黒から白に変わる。気づくと小さくなった僕はそれを見上げている。身動きは取れない。すると急に立体が僕の元に落ちてくる。徐々に近づいてくる。押し潰される。そこでいつも目が覚める。色が変わってから目が覚めるまでの間、誰かが叫んでいるのが聞こえる。女の人の声。自暴自棄になったようなしゃがれた叫び声には聞き覚えがある。名前が喉まで出かかって、姿は目の裏まで浮かび上がりかかる。思い出すギリギリで潰される。

 

 

僕がこの夢の内容を覚えているのは受験期何回も見たからなのだが、この夢をまた見た。

 

 

何日か経って限界になった。松葉杖はあの帰り道でもう飽きた。嫌いになった。そこでようやく友達に頼んだ。買い物行くのが時間かかりすぎて、行く気にならなかった。食べるものなかった。正直こんなにめんどくさいことなのに、友達はすぐ来てくれた。そこからしばらく、友達は買い物等めちゃくちゃ助けてくれた。本当にありがとう。

 

 

あの日持ち帰ったやかんは次の週末で試合に使うから、返さないといけなかった。そしたら日野がわざわざ来てくれた。差し入れも持ってきた。練習時間ギリギリなのに来てくれた。急ぐためにガソリンスタンド横切ったらめっちゃ怒られたらしい。来てくれてありがとう。本当嬉しかった。

 

 

松葉杖なんてもういいから早くサッカーしたいって、やっぱり思うようになった。

 

 

だから、怪我をした後の最初の一ヶ月、以前にもましてやる気に満ち溢れていた。今までタディトレとかやるのは練習中のアップだけで、タディトレとかコバトレとか、ア式にはめちゃくちゃいい素材がいっぱいあるのに、今までずっとサボってきた。東京都一部で戦うAチームの試合を見て、体つきの違いとかはやっぱりあったと思う。こういう舞台で戦うためには体はでかくしていて損はないなって、毎試合毎週思っていたのに、やらなかった。部室には筋トレ器具があるのに、やらなかった。今年から監督が変わって、フィジカルも重視するって言われているのに、やらなかった。昔から言い訳がうまかった。授業とか、テストとか、疲れたとか眠いとか、言い訳出せるだけ出してサボった。いつまでも弱いままだった。この機会に変わろうと思った。筋トレを始めようとしたけど、膝が使えなかったから、まずは自重で始めることにした。ついでにキックも全部見直すことにした。タディさんはキックのすごい人だから、この際いっぱい聞いちゃえって思った。具体的には、インサイドキックの蹴り方を一回白紙に戻して、最初から練習し直すことにした。あと、左足を右足と同じくらい上手に蹴れるように、ひたすら壁当てをすることにした。でもボールはまだ蹴れなかったから、チューブを使ったキックに大事なトレーニングで我慢することにした。体重も増やすことにした。五キロ増やすことにした。何をすればいいのか全然わからなかったから、とりあえずお米を一日に6合食べることにした。朝に1合、昼に2合、夜に3合。一富士二鷹三茄子みたいだって思っても全然笑えないくらいキツかった。泣きそうになりながら食べた。そのことをクラスの人に言ったら絶対嘘だねやってないでしょと言われた。それはそれで嬉しかった。もしかしたら結構すごいことしているのかもという微かな希望だけを頼りに頑張った。暗闇を進むには小さすぎる光だったけど、頼りにはなった。そりゃモグラも視力失うわとか思いながら盲目的に突き進んだ。

 

 

でも、結構すぐ心は折れた。日が経つにつれ、三ヶ月の長さを知った。寝ても寝てもまだまだ復帰はこなかったし、大体疲れてないから寝れなかった。寝られないから次の日何もできなかった。何かしたくても何もできなかった。膝ってすごい。膝使えないとこんな不自由なんだって気づいた。今後はチームの膝って呼ばれるように頑張ろうとか思ったけど笑えなかった。

 

 

やっぱりボールが蹴れないのは辛かった。自重トレのメニューは増え続けてルーティーンだけで1時間40分かかった。そこまでのモチベーションがない日に、自分を奮い立たせるものは無くなっていった。D Lは長期組と短期組がいて、短期の人はすぐ復帰するし、最初から仕上げみたいなメニューをやるから、羨ましかった。「どこ怪我したの?」「膝です」「靭帯?」「そうです」「何ヶ月?」「三ヶ月です」「大変だね」この会話もルーティーンになった。

 

 

病院に行くとき、松葉杖持って家をでるけど、めんどくさいから普通に歩いていた。病院の中だけつけばいいやって思っていた。それで、電車にも普通に歩いて乗るのだが、その時席を譲られると本当に情けなくなった。事情を説明するわけにもいかないし、結局譲られた席に座るのだが、自分が嫌になった。なんなん僕。まじふざけんな。

 

 

あんまりグラウンドにも行かないようになった。リハビリのため、とスレッドに書けば誰も咎めなかった。みんなの反応はというと、なんにもなかった。気づいた上での無視ではなく、本当に何にも知らない無知であった。それを肌で感じて、自分はア式にいるけどいないのと一緒なんだなと思った。いつかに感じた東京の人の印象を思い出した。自分は今東京にいるだけじゃなくて、東京の人になってしまったのだなと思った。再度福島に帰りたくなった。でもまだコロナのワクチンを打ち終わってなかった。自分の計画性のなさを恨んだ。ワクチンを打ち終わらないまま帰省するのはさすがに自重した。地方は東京よりコロナに対する危機感は何倍も強いのだ。東京ではその頃はコロナなんか無かったことになっていたが、地方はそうはいかなかった。東京でコロナを危惧する人は全員、見かけ上の取り繕いに過ぎない。本当に思ってなんかいない。アナウンサーの感染者数報告と注意喚起はただのルーティーンとなっていて、実態がない。家に帰って手を洗いうがいをするように、朝出社して感染者数を報道する。手洗いうがいでコロナの予防をして、報道で批判を予防している。画面のフォーマットは昨日と同じで、変わるのは数だけ。ゆすいだ口で新しい数字を口にして、残りの部分は何も変わっていない。それに弟は高校受験の年だからそっとしておこうと思った。4個下の都合上ぼくが高校受験と大学受験を先に済ませたため、弟にとって初めての大きな受験である。ぼくの受験期には弟のみならず家族みんな気を遣ってくれた。コロナを考えれば、帰省をしないのも恩返しだと思った。それに弟とはあまり仲が良くなかった。僕の大学受験期にした些細なケンカを機にしばらく口を聞くことはなかった。僕が悪いのに謝らなかった。なんとかして仲直りしたいと部屋にこもって考えたが、勉強を言い訳にしてその部屋から出てくることはなかった。ここまで考えて、自分には帰る場所がないと気づいた。人生の何よりも孤独な瞬間であった。

 

 

ちょうどその時期に、部内で退部者や休部者が相次いだ。それが何よりも本当に悲しかった。辞めていくこと自体も悲しかったけど、それよりもあの人たちが今後僕と同じ思いをすると思うと本当に辛かった。やめてった人たちが、僕が絶対に辞めちゃダメですと説得できるくらい親しい間柄ではなかったのも悔しかった。何人も立て続けにやめていく中で、退部の理由にもポジティブなものが存在すると知った。留学するとか、ステップアップするとか、僕の知らない世界があった。でもそれは一握りで、ほとんどは暗い理由ばかりだった。

だからやっぱり総じて悲しかった。暗い理由はもとより、そもそも前向きな退部でももう会えなくなるのは悲しかった。前向きな理由でやめていった人たちは清々しい顔をしていた。僕はそう言う人を見たことがなかったから、不思議だった。どういう気持ちなのか知りたいと思った。そして退部しても関係がいいままのあの人たちを見て、羨ましく思った。そして悔しくも思った。僕ももっと違う別れ方ができたのではないかと思い知らされたからである。退部者の波に部内が大きく揺れる中、なんのご縁か僕はそれに対する対策ミーティングに呼ばれた。そこで、初めて玄さんの思いに触れた。ずっと一緒にD Lにいた人。僕よりもずっと前からD Lにいた人。だけど喋ったことはなかった。その玄さんのア式への思いを、その日初めて聞いた。こんなにすごい人なんだって思った。どのくらいすごいかを言葉で表せないほど。一生忘れないと思う。

 

 

だんだんと、D L長期組が不思議に思えてきた。こんなに辛いD Lをこんなに長期間経験して、なぜ続けられるのか。僕はもう心が折れているのに、チーム内には退部休部が増えているのに、なんで続けられているのか考えた。結果、命綱がたくさんあるのだろうなって思った。プレー以外にもア式にいる理由があるのだろうなって思った。僕にはそれがなかった。ないから、新しく作れば、今の辛さも少しは和らぐのかなと思った。そして僕は新しい命綱をユニット活動に求めた。いろんなユニットに入ってみて、面白そうなことは全部やってみることにした。先輩はなんでも教えてくれた。下っ端の仕事も多かったけど、それでもチームのためになっているという実感が得られた。無責任になんでも引き受けて簡単にキャパオーバーして皆さんに迷惑をかけた(ごめんなさい)けど、チームの一員なのだなっていう実感を予期せず得ることができた。

 

 

D Lは辛かったがア式をやめようと思ったことは一度もなかった。それはア式に入った理由が、もう2度とどちらかを切り捨てないといけないようなことはしないと決めたから、というのがまずある。あんなことはもうしないと決めた。どちらも最後まで続けるのだと決めたから入ったので、止めることはなかった。文武両道を誓ったのは、僕が高校の時に部活を辞めてしまったからで、辞めたのはぼくの弱さが原因であるから、僕の弱さが退部を阻止したということになる。何とも皮肉な話である。加えて、今までを無駄にしないためというのもある。あんなに楽しかったサッカーが、高校時代の自分の弱さと一つの選択によって苦しい思い出になった。サッカーのことを思い出すと、高校の部活の友達のことが浮かんできて、すごく苦しかった。もうサッカーのことなんか考えなければ、苦しまなくてもいいのかと思った。でも、それはもっと苦しいことじゃないかと思った。もう苦しまないために、あんな決断は2度としないと決めたが、ここで苦しさから逃げることはさらに自分を苦しめる決断になると思った。もう一回サッカーと向き合って、人間的にも成長して、弱い自分を変えることができれば、自分のサッカーの思い出は少しはまた明るくなるのではないかと思った。怪我をして、DLに入って、いろんな人と話すようになった。話す中で、高校生の時の話とか、ア式に入った理由をいろんな人に聞かれて、僕はこういうことを話したくはなかったけど、勇気を出して言った。こんな思いを持っている人が他にいるかどうかはわからないけど、どんな思いを持っている人も暖かく受け入れてくれるのがア式なのだとわかった。

 

 

自己中心的な自分をやめたい。誰かのために何かをしたいと思えるようになった。誰かが喜べばそれでいいやと思えるようになった。

 

 

東京には自分にメリットがないと動かない大人がいっぱいいて、利害が一致しない行動はバカにされる。そういう慈善活動には、スーパーの値引きシールみたいに、偽善のシールが定期的に、例外なく貼られて、それを踏まえた上での賞賛しか聞くことはない。そういうことを純粋に応援してくれるのはめちゃくちゃお金持ちで余裕がある人で、その人の余裕を生み出した多額の資産は利害関係が積み上げてきたものである。

 

 

大学生は、そういう行動を純粋に楽しめる最初で最後のチャンスかもしれないと考えた。高校生の僕にはこんなこと考えられなかったし、考えても何かの行動に移せるだけの力はなかったと思う。

 

 

ここまで書いてようやく、自分は後悔だけでア式にいるわけじゃないって気づいた。いなきゃいけないからいるんじゃない。いたいからいるんだ。

 

 

ア式は本当にすごい。Feelingsを読めばわかる(エノケンのfeelingsめっちゃ好き)。楓さんとか由香さんとか玄さんとか、本当にすごい人たち。組織というより人が好き。怪我をして時間ができて、悩んで考えてわかった。すごい。大好き。なんでこんなにすごいんだろうとかじゃない。ただただすごい。心の中にあるモヤモヤが、突き動かされる。そういう人たち。かっこいい。ああいう風になりたいと強く思う。今、ぼく、この言葉、すごく苦しみながら書いてる。泣きそうになりながら書いている。涙は出てないけど、どこかでかならず泣いている。もうしばらく泣いていない自分が、なんか泣けそう。初めての感覚。目が熱い。目の奥が熱い。全てが熱い。そういう場所。何がとはわからないけど、強くてあたたかい。ずっといたい。いなきゃいけない。来てほしい。くれば分かる。見せてあげたい。見て欲しい。見に来て欲しい。知って欲しい。

 

 

組織性とか再現性とか、大事なのはそんなんじゃなくて、結局は人、その人だと思っている。その人の情熱、考え、個性をどれだけ知っているか。知ろうとしているか。ア式にはそこが足りないと思う。東大生だから考えて動けって、それはそうだけど、考えた結果個性が消えて誰でもできる仕事ばっかりの組織なんかやだ。組織のために迎合する東大生は何か大事なものを捨てている。その瞬間何も考えていない。だからなんか知んないけど周りからバカにされる。そしてなんか弱っちい。僕はそうはなりたくない。官僚みたいな人じゃなくて、ベンチャー企業みたいな人になりたい。

 

 

いつか、あの後悔があったから今の自分があるんだ、とか、あの後悔は僕の人生に不可欠だったとか思える日が来て、後悔が後悔未遂に変わる日が来るのだろうか。それとも、僕の後悔の全ての原因である自分の弱さがなくなって、後悔をしないような将来を迎えることができるのだろうか。いまのところ、後悔は増え続けて、あの後悔も後悔のままである。

 

 

    

 

 長谷川希一

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