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美しい生き方

市毛 慎太郎(1年/テクニカル/開成) 双青戦のスカウティングを終えて心に余裕ができたと思っていたが、そういえば僕は考え事をすると自己嫌悪に向かって行ってしまう人間なのであった。 そんな勢いで執筆し始めたもんだからクソ重feelingsになるところだったではないか。あぶないあぶない。ちょい重くらいが丁度よいのだよ。 僕は人生を「美しい」ストーリーとして生きようとする癖があるのではないか、と最近感じている。 feelingsを書くということは、自分の半生をストーリー仕立てに組み立ててみる作業とも言えると思うが、予め「美しい」ストーリーを自分でなんとなく作ってしまって、ぼんやりとそれに沿って進んでいくような感覚。これは決して僕が計画性のある人間であるというわけではなく、ぼーっと生きているからこそ現れてしまう癖なのだろう。 そんな癖が最も現れたのがサッカーを辞めた時であったように思う。 中3から高1へと進級する4月1日、僕はサッカーを辞めた。 サッカーを始めたのは小1の頃だった。父親がアントラーズサポーターの家庭で育ち、幼稚園の頃からJリーグをよく見ていた僕にとっては自然な流れだった。とはいえ、元々体も小さかったし、運動も得意な方ではなかった。スポーツテストは万年D判定。特徴のないサッカー少年だった。 小3の時、サッカーへの視点が変わった。勉強ができた僕は、「走り回るんじゃなくて、頭を使ってプレーしろ、チームの心臓になれ」と言われてボランチをやるようになった。別にア式の選手たちほど考えながらサッカーしたわけではないけれど、ボランチでのプレーは何となく楽しかった。 中学に入ると迷わずサッカー部に入った。 最初の方は学年の中では上手い方ではあったけど、次第にBチーム、Cチームが定位置になっていった。中学では身体能力面での不利を実感する場面が多かった。これは努力不足に対する言い訳に過ぎないと思う。そんな言い訳を口にすることは決して無かったけれど、中学からサッカーを始めた人がどんどん上手くなっていく様子を目の当たりにすると複雑な気持ちであった。 そして中2の文化祭の時に初めて、サッカー部を辞めることが頭をよぎった。兼部していた天文気象部で文化祭準備に関わったのが非常に楽しく、もっとこっちにコミットしたいと思うようになったのだ。 この感覚は中3になっても変わらず、中3の秋の時点で高...

HASTA EL FINAL, ¡VAMOS REAL!

松沼知輝(1年/MF/渋谷教育学園幕張高校)  こんにちは。プレイヤーの松沼です。 HASTA EL FINAL, ¡VAMOS REAL! これは自分の好きなレアル・マドリードの試合前、ゴール裏に張り出される大きな大弾幕に書かれている文言で、別に座右の銘とかでは無い。これの意味するところは大体「最後まで闘え」といったようなことである。 そのレアル・マドリードの試合を観戦していた時、この横断幕が目に入ってふと考えたことがある。これまでの人生で、自分で「やり切った」と思えるほど最後まで闘えたものはあっただろうか。 習い事は、サッカーの他にピアノと水泳をしていた。どちらも自分でやりたいと言って始めたと思う。多分。ピアノは1年くらいで飽きてやめた。3歳くらいで始めた水泳は、そこそこ頑張ったけど、小2くらいでやめた。 大学に入ってまでやっているのだからサッカーはと思うかもしれないが、これも連続的に続けた期間はそう長くはなかった。その経緯はア式に入った経緯にも関わってくるので、少し詳しく書いてみようと思う。 小学1年生、地元の少年スポーツ団で本格的にサッカーを始めた。 ディフェンダーで、比較的身体も大きく自信を持ってサッカーができた。小さな大会で優勝したりもした。自信を持ってサッカーをしていた。小学4年生、サッカーが上手くいかなくなった。コートが大きくなって、ディフェンダーにはロングボールをヘディングで返す能力が求められた。空間認知能力に欠いた自分はよくボールを処理できずに落とした。ボールを落とすと怒られる。ロングボールが怖くなった。自信がなくなってきた。 小学5年生、自信をなくしたままサッカーを一旦辞めた。中学受験のためである。 中学1年生、サッカーを再び始めた。 進学校で、かつサッカー部がそこそこ強い渋谷幕張に入学した。新たな環境で始めるサッカーに心を躍らせた。ポジションバランスの関係からここでもディフェンダーを務めた。周りにはサッカー経験があまりない部員もいた。同学年の中で比較的上手い方だと思って、少し自信がわいた。自信というよりも、慢心だった。1年生対2年生の紅白戦で自分は圧倒され、ビビって何もできていないという現実からは目を逸らした。 中学2年生、サッカーを再び中断することになった。 コロナ禍である。自粛期間の間に体幹を鍛えるという試みもしたが、飽き性ですぐ...

頭が悪いんだ

梶本未來(3年/FW/豊島岡女子学園高校)  2025/10/21 いつも通り、家を出る時間から逆算してギリギリの起床。寝ぼけながらの身支度。昨晩作ったルーロー飯を、節約のためにと昼食として持っていく。水筒にお茶を急いで入れる。が、足りないので水道水でかさ増し。スマホに挿さった充電ケーブルをノールックで抜き取る。10分には家を出たかったところ17分に飛び出し。 最寄り駅まで自転車を飛ばす。道中、ズボンのポッケに入れていたスマホを落とし、時間を浪費。もう少しで横のドブ川にスマホが落ちそうだったため、ラッキーと安堵。最寄りに着くとドアの閉まる直前に乗りたい電車に飛び乗れた。階段を一緒に下った隣の男の子と、みごと一緒に電車へダイブイン成功。その動作のあまりのシンクロ度に、間違いなく双子の兄弟だと思われて恥ずかしい。 ドア付近で押し潰されながら、やっと落ち着けたと、スマホの画面をタップ。バッテリー残量あと10%の表示。家でうまくコードに挿せていなかったらしい。20%ならなんとかやり過ごすが、さすがにチャージスポットの初利用を検討。チャージスポットのアプリのインストールでバッテリーの2%消費。チャージスポットを使うにはQRコードを読み込んで登録する必要があるからバッテリーはこれ以上減らせない。チャージスポット関連の検索をあれこれしていたら、気づけば残量5%。 乗り換え駅に到着。いつもならギリギリで乗れない電車が1分遅れていたせいで乗れた。今日はラッキーな日だと浮き立つ。東大前駅で降りる直前、背負っていたリュックの横のチャックが全開なことに気づく。ファスナーを上げ、何事もなかったかのように降車。 授業開始の3分前に教室に到着。教室にはまだ学生3人。一番後ろの席を陣取る。授業開始時刻になってやっと人が増えだす。自分の隣に座ってきた人が、前回の授業で寝息を教室中に響き渡らせていた人だと気づき、今日は寝ないでくれよと祈る。授業中、見慣れない番号から電話がかかってきた。不審に思い、鳴り終えるのを待つ。数分後また同じ番号からの着信。バッテリーをこれ以上減らさないでくれと着信拒否。だがさすがに違和感を覚え、電話番号をタブレットで検索。浦和美園駅の固定電話の番号であった。 頭に?が浮かぶ。浦和美園といえば南北線の終着駅。まさかと思い、床に置いたリュックの中を漁る。財布が入っていない。...

サンチョとガルナチョのユニなんて買わなきゃよかった

一井駿之介(1年/FW/海城高校) こんにちは、1年FWの一井駿之介です。   先輩方の「Feelings」を拝読していると、サッカー人生の歩みやア式蹴球部に入るきっかけについて書かれているものが多く、おもしろくてつい読み漁ってしまうのですが、僕のサッカー人生はここからがクライマックスであることを信じ、皆さんに紹介するのを現段階では保留した上で、代わりにせっかくいい素材を持っているということで、もう経験することはない、人より長い浪人期間について部分的に抽出しながら軽く文字に起こしてみたいと思います。   まず、現役、余裕落ち。合格最低点との差は軽く50点はあった。 悩んだ末の浪人決意ではなく、夏くらいからたぶん浪人するだろうなと感じていた。考え方が田舎い、本当に。中高一貫私立男子校は浪人がそこまで卑下されないのは事実だが、それを当然だと考える人はごくわずかだろう。   こんな具合で浪人生活が始まったものだから、駿台お茶の水校舎での勉強姿勢はというと、謂わば現役の延長線上でしかない。たしかに表面上では授業にも出席するし、模試の復習もするし、自習室にも籠っている。けど、なにか決定的に不足していた。後でその重要性に気づかされることになる、物事に対する必死さだったり、後がない緊張感だったり、細部まで突き詰めるこだわりだったりは皆無だった。   得たもの言えば、お茶の水周辺のグルメ知識ぐらいだろうか。一浪目は仲の良かった高校同期も一緒だった。僕らは午前コマがなかった毎週木曜正午に校舎玄関前に集合して、周辺で昼飯を食べていた。時に神保町まで足を延ばして。選んだ店の匂い、舌に残るメニューだけが、あの単調な一週間を延々と繰り返す僕らにとって、時間の確かに進んでいくことを文字通り五感で感知できる証であり、先週と今週を分かつ、確かな進軍の記録だった。文字量稼ぎに三か所だけ軽く紹介させてください。   まずはおにやんま。チェーン店らしいのだが、お茶の水駅前にあるこの店のコスパ最強のうどんに加えてサイズのあるかしわ天は病みつきで食べた回数で言うとここが最多だ。最近寄ったら店員が外国人になっていてなぜかとてもがっかりした。残念だ。 次にまる香。ここもまたうどんの店で神保町の方にあるのだが、独立店のまる香はうどんとしてはい...

友人

村上龍唯(1年/テクニカル/高槻高校) はじめまして、テクニカルスタッフ1年の村上龍唯と申します。入部から3か月ほど経ち、feelingsを書く機会をいただきましたが、自分のことについて書くのは苦手でかつ締め切り前日に書いているので、今とても焦っています。初めてのfeelingsらしく、ア式に入るまでの経緯について書こうと思います。 サッカーを始めたのは小1だった。自分の通う小学校の弱小チームに入り、何も考えずにボールを蹴るだけのサッカーがとにかく楽しくて、夢中になってやっていた。暇なときはボールを持って公園に行き、友達が鬼ごっことか警泥とかをやっていても、一人でずっとボールを蹴っていた。もっとサッカーが上手くなりたい、その一心で小4のときに弱小チームを辞めて、地元で強かったチームに入ることを決めた。その中では自分がいかに下手かを思い知らされる日々だったが、コーチが毎回新鮮な指導をしてくれて、これまでとは違うサッカーのより本質的な楽しみに虜になっていった。小5からは中学受験のために練習や試合に行ける回数が減っても、辞めずにずっと続けるほどサッカーに熱中できていた。 受験が終わって、志望校に合格し、中学では思いっきりサッカーをしようと、クラブチームに入ることを決めた。あまり強いチームではなかったが、僕の代は後に昌平などに行くメンバーもいた。練習は週5で、土日は毎週試合があった。一日で3,4試合、ひどい日は5試合くらいすることもあった。そして一番嫌いだったのが罰走。失点数の分だけグラウンドの縦を往復で走るというものだ。夏の暑い日でも容赦はないからまさに地獄。この頃から僕はサッカー経験者なら一度はなるであろうビョウキにかかった。ボール恐怖症、自分のとこにボールが来るなと毎日、毎試合思っていた。ボールが来ても疲れるだけ、どうせこの後罰走があるんだから体力温存しとかないと、そんなことを考えるとパスを呼ぶこともしなくなった。ボールが来ても上手いやつにすぐパスを渡したり、相手に当てて外に出したり、目立たない怒られないプレーをした。ボールは友だちじゃない、他人である。しかも嫌味な奴だ。自分にだけ意地悪をしてくる。徐々に大好きだったサッカーを楽しめなくなっていった。中3の春に辞めた。逃げた。上手くなるためにボールと仲良くなるために練習をすることから逃げた。サッカーを見ることすらしなく...

志在千里

飯田陽斗(1年/MF/海城高校)  ア式との出会い——それは、まだ東大の敷居の高さも、自身の未来の輪郭も曖昧だった高校一年の冬、東大フェスの一日だった。  肌寒さの中に陽射しが差し込む冬の日、御殿下グラウンドが陽光に照らされて輝いていたのを、ぼんやりと眺めていた。「いいグラウンドだな」その程度の感慨が、あのときの僕の全てだった。 まさか数年後、その同じ芝を自分のスパイクが踏みしめるとは、夢にも思っていなかった。    サッカーとの最初の出会いは、もっと唐突で、もっと無邪気だった。小学生のある日、教室の後ろの席にいた、いかにも“サッカー小僧”な彼が、いきなり練習着一式を手渡してきた。 「一緒にやろうぜ」――その一言に押されるように、僕はクラブの門をくぐった。始まりは、そんな風に風任せだった。 ボールを蹴る感触。リフティングのリズム。公園の夕暮れ。父と交わした何気ないパス。全てが楽しくて、ただ無心に蹴ることが嬉しかった。そこに理由はなかった。ただただ、ボールが跳ねる音が心地よかった。 けれど、楽しさはいつまでも無垢なままではいてくれなかった。 小学4年になる頃から、練習に「走り」のメニューが加わった。今思えば、ほんの短い距離だったのだろう。だが、幼い僕には苦しくて、何より「義務」としてのサッカーが初めて姿を現した瞬間だった。 走るたびに、少しずつ情熱が剥がれていった。 中学に上がる頃には、すっかり気持ちは離れていて、「サッカーは、もういいかな」と、親にそう告げる自分がいた。 中学に入学し、どの部活動に入ろうかとぼんやり考えていた頃だった。まだ自分の中でサッカーの炎は消えかけていて、「新しい何か」を探そうとしていた。そんなある日、同じクラスの少し甲高い声の関西弁の少年が、突然こちらに話しかけてきた。 「お前、サッカーやってたん? 俺、兵庫県2位やから。よろしくな」 あまりに唐突で、あまりに自信満々で、一瞬「なんだこいつ」と思った。けれど、不思議とその態度がいやらしく感じなかった。むしろ、どこか清々しい。 そしてなにより――そんなすごいやつと一緒にサッカーができるのか、という思いに胸が高鳴った。 家に帰るなり父に、「海城にすごいやつがいる!」と興奮気味に話したのを、今でも覚えている。 仮入部期間、彼に誘われるまま何度か練習に参加した。汗の匂い、響く声、久しぶりに芝の...

考えること

板倉涼(1年/DF/洛南高校) 東大ア式蹴球部1年プレイヤーの板倉涼です。ア式の皆は自分のことをイジられキャラの(イジっても良い)関西人くらいにしか思っていないと思うので、このfeelingsを通じて自分のことを少しでも知って貰えたら嬉しいです。自分が普段何を考えてサッカーしているのか、自分はど ういう人間なのかなどについて、これまでの経験を振り返りながら書いていきたいと思います。 サッカーを始めたのは保育園の先生に教えてもらったのがきっかけだった。ベコベコのボールで友達や先生と遊んでいた記憶がある。その後小学生になり、地元のサッカークラブに入団する。そのクラブは弱小チームで試合にも負けてばっかりだった。とはいえ、プロ選手への憧れは子供らしくあったし、いつか自分もこうなるんだとぼんやり夢を抱いていたからボールを蹴ることは辞めなかった。 中学受験を経て洛南高等学校附属中学校に進学し、サッカー部に入部する。中学も大して強くなく、サッカーを深く学べる環境ではなかった。だが自分には自主性があった様で、自分なりに戦術について調べ、考え、チームメイトと議論し、ピッチ上で表現していくようになった。その過程はとても楽しく、自分もチームも日々成長していく実感があった。下手くそだったけど、サッカーをするのはずっと楽しかった。もっと上手くなりたい。もっとサッカーのことを深く知りたい。そう思って高校でもサッカーを続けることにした。 そして洛南高校に進学し、サッカー部に入る。洛南高校は陸上やバスケ、バレーといった全国クラスの部活をはじめとして、多くの部活でスポーツ推薦を取っている。そんな中サッカー部も推薦を取るが、他の部活と限られた推薦の枠を分け合うこともあり人数は少ない。自分の代はスポーツ推薦5人、勉強クラス2人(自分含む)で、入部当初は3学年で26人と少人数のチームだった。そのためカテゴリーを分けることはなく、3月中旬の入部直後から2、3年生たちと混じって練習することになった。 ここで自分は大きな挫折を経験することになる。 まず、フィジカル面で全くついていけない。ついこないだまで中学生だった自分と、きちんとトレーニングを積んだ上級生の間には簡単には埋められない大きな差があった。それだけではなく、スポーツ推薦の同級生と比べると技術的にも劣っていて、チームの中で自分1人だけ見るからに悪目立ち...