2019年12月28日土曜日

未来に答えがある



1『強く生きることが君の仕事なんだ』


新チームの始動にあたり、キャプテンマークを巻く人間として自分に課したテーマがある。それが「強く」あること。これには二つの意味があって、一つ目は三年ぶりの都一部に挑むチームをサッカーで引っ張れる選手になること。自分が、東大ア式の歴代の主将と比べてピッチ上で絶対的な存在ではないとわかっていたからこそ、自分自身が強くなれなければそこでチームの成長もガラスの天井にぶつかってしまう気がしていた。殻を破り、選手としての実力を一段階も二段階も上げること。これが一つ目の「強く」あること。


二つ目の意味は、どんなことがあっても「折れない」強さ。たとえその日の自分のプレーがうまくいかなかくても、試合でどんなミスをしようとも、勝利から見放される期間がどれどけ長くなろうとも、自己嫌悪なんか意味のないことはせず、チームのために必要だと思ったことは発信し続ける、自分がするべき行動を取り続ける。これが二つ目の「強くある」こと。確かホームページの今年の抱負に書いた言葉も「ブレない」だった気がする。




「リーダー以上の組織はできない」とは随分と前に監督が話していた言葉だが、それは都二部での昨シーズンの自分たちの戦いや近年好成績を収めているスポーツチーム、はたまた日本や世界に革新をもたらしている企業を見ても明らかだ。逆に20年以上組織を引っ張り続けたリーダーが去って以降、低迷を続ける赤い悪魔こと英国の某チームのように、トップに立つ人間の不出来は組織の低迷に直結する(それでも不思議とファンはやめられないから辛い)。だからこの一年は、高校や大学の入試よりも、大勢の前での発表よりも、好きな人に告白する時よりも、推しと会える数秒よりも、そして15年以上続けてきたサッカーのどの年よりも、自分という人間の中身が試される時間になると感じていた。自分は本物の「勝者」になるのに、組織を「勝利」に導くのに相応しい強い人間になること。それが自分自身に課したテーマだった。




そしてチームは始動。プレシーズンもリーグ戦も、一週間練習して日曜に試合。一週間ずつチームとしてできることを増やしていく。が、こんなにも勝てないものか。ある時期は点は取れるけど失点が減らない、ある時期は守備はできているけど点が取れない。プレスが武器になったかと思えば別の試合では帰陣が遅くなる。ビルドアップが安定したかと思えば、翌週は自陣深い位置でのロストから失点。個人的にも失点に直結するミスもした。スタメンを外れることもあった。後期は開幕直前に怪我をして四試合ほど離脱した。10チーム中9位で都二部降格というのが今年一年の結果だった。


一つ目の強さが絶対的に足りていないことを十分に自覚しながら、二つ目の強さだけは失くしてはいけないと、チームに対して発信し続けた。それでも、コーチ陣から、部員から、偉大な前主将中沖さんのことが引き合いに出される度に自分の力不足を痛感した。だから、某企画で優が「大和は折れない強さがあるよね」と言ってくれたことは嬉しさもひと塩、その時こみ上げてきた涙のほとんどは情けなさによるものだった。ただ、自分も主将になってチームを引っ張りたかったはずの槇さんが、旬悦で色々と話し合った後、最後は任せてくれたから。学年ミーティングで自分が主将になるつもりだと伝えた時に隼が真っ先に「それがいいと思う」と言ってくれたから。ミーティングで報告を聞いているだけの自分の意見をスタッフの子たちが真面目に聞いて実践してくれていたから。遼くん始めコーチ陣が主将として自分を立ててくれたから。どんなに勝てなくても試合後の集合でみんなが自分の言葉に耳を傾けてくれたから。結果は出せなかったけど、実力の伴った強さを身に付けることはできなかったけど、何とか最後まで折れない強さだけは失わずにいられたかなと思う。ついて来てくれてありがとう。本当にごめん。内倉へ、その次以降を担う誰かへ、主将になってきっと色んなものを背負って戦うことになる。いやもう戦ってるか。全てが上手くなんていくわけないから、どうしようもなくしんどい時期はあると思う、思うけどまあリーダーってそういうもの。でも折れない限り、周りは支えてくれる。だからこそ、そこに甘えることなくチームを勝利に導ける強い人間になって欲しい。






2『その一瞬一瞬が生きてる意味』


では何を変えれば「降格」という結末を変えられたのだろうか。ここに何かしら答えを出さないことにはまた同じ失敗を繰り返す、自分もみんなも。後期の帝京戦後、残留の目がほぼ潰えた時からずっと頭からこの問いかけが離れなかった。一年前に戻って当時の自分に「このままだと一年で二部に戻ることになるよ」と伝えることがもしできても、そんな危機感は言われなくても持っていたはずだし、そうならないためにはどうするべきだと伝えれば良いのだろう。現役を引退し、OBコーチとして後輩たちの練習を見ている立場になっても、いつも頭の片隅でそのことを考えていた。




やる気がなかったわけがない。頑張っていなかったはずもない。目指すべき姿は明確だった。そんな中で、自分の一年間を振り返った時に思い当たったことは、「行動を変え続けることができなかった」ということ(もっと言えば四年間、いやこれまでのサッカー人生のほとんどでそうかもしれない)。この一年間、90分の試合、練習の中で、勝つため上達するために行動を変え続けたかどうか。つまり、できるようになりたいプレーがあった時に、そのプレーを選んだ結果起きるかもしれないミスを、必要なミスとして責任と一緒に受け入れ、それでもそのプレーを選び続けたかどうか、またはそれを選ばなかった他者に対して要求を欠かさなかったかどうか。ミスへの恐怖、ポジションを奪われることへの恐怖、自分に跳ね返ってくる要求への恐怖、意識下でも無意識下でもこういった恐怖に負け、行動を変え続けることができなかった。他にも例を挙げればキリがないし、他の人も思い当たる節は少なからずあるのではないか。繰り返すが頑張っていなかったわけではない。「さあ今日も強くなるために頑張ろう」と毎日グラウンドに足を踏み入れていたはず。でも意識をあることに向け続けるというのは思っているよりも難しくて、今意識していることが些細な他の刺激(それは疲労だったり前述した恐怖だったりする)によって三歩動いた後には意識の外に放り出される、なんてことはざらにある。そういう無意識な一瞬が積み重なるといつのまにか大きな差が生まれている。今季の結果は、自分が勝利のためにすると決めた行動を細部まで連続してやり切れなかったことに対する当然の帰結なのだろう。


勘違いして欲しくないのだけど、上でつらつらと書いてきたことは、真面目な人ほどできるというものでもない。それは(事実かは別として)自分たちは真面目であると思っている東大ア式が、都一部の他の大学にサッカーで勝てなかったことからもわかる。むしろ真面目だと思っている人ほどいわゆる「他の刺激」に対して過剰に反応してするべき行動を取れていないようにすら見える(このするべきことに集中しきれないことこそが精神的な弱さなのかもしれない)。他大学の選手たちがどんな心理でサッカーをしているのかはわからないが、「OBコーチになると上手くなる」という格言がア式にはあるように、選択したプレーの結果、自分への評価、試合の勝ち負けというコントロールできないことが意識の外にあり、(ついに来季覚醒を予感させるFW伊地知くんをして言うには)脱力しているときの方が、取るべき行動を取り続けられる、ことが多い。もちろん真面目にやるべき事に集中し続けられる人はそれでもいいだろう。




ただここで残念なことは、突きつけられた「NO」に対して正面から向き合ってまがりなりにも辿り着いたこの結論をもって、「サッカー」で悔しさを晴らすチャンスは、もう自分にはないということだ。だが今季僕ら四年生と同様に悔しい思いをしたに違いない後輩たちにはまだ「サッカー」で借りを返すチャンスがある。この先の人生、いろんなチャンスがあるのだろうけど、「リベンジ」できるチャンスの回数は本当に少ない。これまでだって一生懸命上手くなろうと練習してきたのだと思うが、そのやり方ではダメだと突きつけられたからこそ、一瞬の隙間を埋めるためにどの瞬間にも尋常じゃない意識を向け続けなければいけない(いや脱力し続けなければならない?)。一回の練習のたった一秒、その一瞬一瞬を無駄にすることなく、こだわりを持ち続けること。自分もOBコーチとしてそこは妥協せず伝えていくつもりだ。






3『花のない桜を見上げて満開の日を想ったことがあったか』


今年、部内で行われている全ての活動を把握した上で、広報やリクルートなど部内の組織を整備し、各ユニットでの活動報告を全て記録に残し、SNSで発信するコンテンツや高校生との関わり方などについて色々と注文を付けた。企業協賛獲得にも動き出した。全ての活動において、まだ目に見える成果は上がっていない点で、中途半端な形で後輩に引き継ぐ形にはなったけど、クラブ運営のレベルは上がったと思っている。


それ主将の仕事じゃないだろ、もっと目の前の戦いにエネルギーを注ぐべきだったんじゃないのかという意見もあるだろう。結果が出なかった以上そこに反論も言い訳もできないし、都二部降格という今年の結果が東大ア式に取って一歩後退であることは間違いない。ただ、サッカー推薦を持たず、入学へのハードルが高い東大ア式だからこそ、たとえ後退する年があろうとも510年のスパンで見て成長していくためのビジョンは絶対に必要だ。目の前のシーズンを一生懸命戦い抜くこと、それはもはや必要条件でしか無い。それだけではもう関東昇格を成し遂げることは難しくなっていることを受け入れる必要がある(一回昇格することはもしかしたらできるかもしれないが、たぶんすぐに降格する)。高いスキルを持った選手が継続して入って来て、四年間で劇的に成長できる組織になって初めて関東で戦えるようになる。




では、推薦で選手が取れなくても質の高い選手が継続的に入ってくるには?
東大を目指せるポテンシャルのある質の高い高校生が憧れ目指したくなるチームになる。その為に広報を通じて積極的に「カッコよく」東大ア式という存在を発信する。リクルートを通じて各高校との繋がりを拡大、強化し、高校生と接触、東大ア式を目指してもらう。


じゃあ、憧れられるチームってどんな存在?
当然サッカーが強いクラブ。上手くなれるクラブ。地域から、(卒業生を含む)東大生から応援され、農グラが、御殿下が、いずれは西が丘が、満員になるくらいファンがいるクラブ。後にサッカー界で働く足掛かりになるクラブ。競技に特化する強豪大学に対するアンチテーゼ。


部活というあり方そのものが競技面で見直され始めている今だけど、大学・高校の名を背負って戦う集団というのは、戦っている当人にとっても、応援している人々にとっても、強烈なアイデンティティの拠り所になっていることは間違い無いし、そこに見出せる価値は計り知れないものがある。


そういった場所に東大ア式がなっていく必要があると考えた時に、双青戦にはもっと力を入れるべきなんじゃないのかな、というのは僕の独り言。だってサッカーでも野球でもアメフトでも早慶戦があれだけ盛り上がっている(見に行った事ない部員には見に行くことを強くお勧めします)。日本を二分する難関大、東大vs京大のダービーにはもっとポテンシャルあると思う。




とまあ頭の中では好きなだけこういう未来を描けるのだけど、何とかそのスタートラインに立てたかどうかというのがこの一年の取り組みの結果で、しかもこれらのことは既に筑波や早慶なんかではかなり取り組みが進んでいて(というか地位が確立されていて?)、特別先進的なことではない。わざわざこの章の文中で「東大ア式」と書いているのも、世間一般では「ア式」といえば「早稲田のア式」であるという現実があるから。目指すべき背中はまだまだ遠いけど、だからこそ最高のお手本であることは間違いないし、今始めないとその差は開く一方だ。


今年一年で既に各ユニットが色々と取り組み始めたことも知っているから心配はあまりしていない。ただ結果が出なかった今季のピッチ上と同様に、ちゃんとこの一年の振り返りをして、失敗があったなら同じ轍を踏まないように来季に繋げること。一部員がいる四年間で成果を出すことは難しくても、だからこそ目の前の戦いと並行して未来のために今動き、それを下の世代に引き継いでいくこと。今年一年で事あるごとに言ってきた「ビジョン」を持つこと。今はまだ花のない桜でも、5年後10年後(もっと先かもしれない)の満開の日を想いながら行動していくこと。




ここにいない誰か(ここにいる今の1.2年ならそれに越したことはない)がいつか関東昇格を決めたピッチで栄光の架け橋を大声で歌う日が来る。その時は僕も会場に駆けつけるので、一緒に歌わせてください。






4『夢ならここにある』


御殿下がどこにあるかなんて何も知らずに来た(実際初めての練習参加の時には、東大前駅(弥生キャンパス内)から安田講堂(本郷キャンパス内)まで歩いた挙句新見さんから「部室は農学部(弥生キャンパス内)の方だよ」と非情なLINE)。あやふやな夢を探して、色んな新歓に顔を出して。「部活でやらなきゃつまらないよ」と熱心にアメフトに勧誘してくれていた当時のウォリアーズ主将加藤さんと中村さんに言われ、ア式を選んだ(読んでくれてますかね、東京トンテキ連れて行ってもらってア式かアメフトかの二択にしてくれたこと、今でも本当に感謝してます)。ただ初めから心に火が付いていたわけではなかった。次々辞めていった同期と同じように四年間続けるモチベーションもなく、トップで公式戦出て(大池風に言えば)「ア式に勝ったら」辞めようと思っていた。今年と同じように都一部の舞台で勝てないチームもどこか冷めた目で見ていた。そんな自分も終盤にはリーグ戦に出してもらえるようになった。当日の朝に急遽スタメンに抜擢された雨の國學戦。何も出来なかった。このまま終わりたくないと思った。既に降格が決まっていた中で迎えた最終節帝京戦。CBでコンビを組んだ符さんが負傷退場。担架で運び出されるとき、泣いていた。あの符さんが。急遽CBに降りた加里武さんの隣でプレーして初めて知った。背中で語るってこういうことか。ああ、四年生はこんなにもア式に懸けているのか。その時初めてわかった気がした。それでも井の中の蛙は空の青さを知ることができないと思った。短期留学に行きたいとのぼりさんわたるさんに直談判。初めて部を離れて降り立った米国西海岸。九千km距離を置いてみてやっと確信する。僕の居場所はア式だ。ここで勝ちたい。二年目、プレーで引っ張ることができた自信はないけど誰より声を出した。「俺らの代にできそうなやついないから」的な感じで一個上の代に頭下げられたり、遼くんと合宿の試合帰りに色々話したり何だかんだあって副将に。プレーにも自信が出てきた後期開幕直前で半月板断裂の大怪我。後期中に一旦は復帰して中沖さんの出場停止もあって土砂降りの中、初めてトップチームでキャプテンマークを巻いた。でも昇格には遠く手が届かず、シーズン後には人生で初めての手術。不便過ぎた松葉杖での一人暮らし。半年に及ぶリハビリ。三年目、ピッチには戻れたものの調子戻らぬまま前期を棒に振って、なんとか後期に復活。するも永遠に構造の変わった右膝を庇ったせいか今度は疲労骨折。なんとか昇格決定まで戦い抜きまたリハビリへ。そして四年目。キャプテンマークを巻いた前期、勝てなかった。こんなはずじゃなかった。夏、もう自分もバトンを渡す側。一選手として後期の巻き返しを図る。が、開幕三日前に肉離れ。三週かかって復帰するも思い通りにプレーできない。代わりにSBにコンバートされたスーパールーキー杉山は出色の働き。四年目の後期、ほとんど試合に絡むことはなかった。一年の終わりからトップで出してもらえたことや同期たちがみんな例外なく覚醒とも言える急成長を遂げたことを考えれば、自分が選手として辿り着いているべき場所はもっと上でなければいけなかった。自分の背中、後輩たちには、同期や先輩たちにも、どう見えていたのだろう。




こうして振り返ると嬉しかったのは昇格を決めた三年の後期くらいのもので、それ以外のほぼ全ては悔しかったこと苦しかったことで占められている。めちゃくちゃ楽しかった、全部出し切ったと言って引退できるほど綺麗な四年間でもない。ただこの選択をして良かったとは心から思う。ア式の夢がいつしか自分の夢になり、それを追い求めたこと。自分の為だけじゃなくて、誰かの為に、情熱を注げたこと。僕の誇りだ。組織の為にこれだけ動けて凄いねって言葉も貰ったりしてそれはもちろん嬉しかったのだけど、少し前の淡青祭で、応援部主将の宮下が語っていた言葉を借りれば、「愛を注いだア式というクラブはもはや自分の一部」であるから、僕はただ自分に、自分の夢に情熱を注いだだけなのかもしれない。でもそれはそれで、誇れることに違いない。思えば、四年前に卒業した藤枝東高校サッカー部の試合結果、大学入試の速報で今でも一喜一憂するし、日本という国の誇りを踏みにじる(特に某国の)あらゆる言動には心底腹が立つし、自分が生まれ育ったドイツや藤枝、静岡、日本には(抽象的な表現にはなるが)頑張ってほしい、あわよくば自分に何かできなないかと考えてしまう。どうやら僕はアイデンティティを自分の周囲にも強く拠るタイプの人間のようだ。。。(この表現で正しいんですかね、言いたいことが伝わってくれればいいです)


話が逸れた。この四年間は間違いなく充実した時間ではあったのだけど、ただア式生活で得た何かが今後自分の人生で何か役に立つのかどうか、現時点で確信を持って言えることはない。語学留学に行った人や、インターンをしている人、起業してビジネスを成功させている人のように目に見えるスキルが身についた訳ではないから。別にサッカーじゃなくても、運動部じゃなくても、誰かと本気で何かに打ち込んでいれば、挑戦して失敗して克服して成長する、仲間と感動を分かち合うということはたぶん経験できるから。自分がア式の未来の為に(特に最後の一年に)取り組んだことが正しかったかどうかも今はまだわからない。


でも、「好きだったサッカー」をずっと深く理解できるようになって、もっと好きになれたこと。「好きだったサッカー」で、期待と責任を背負うことの重みを、自分の弱さと正面から向き合うことの大事さを、仲間と一つの夢に向かって熱中できることの素晴らしさを、支えてくれる人たちの存在がどれだけ力をくれるかを、また知ることができたこと。


そして、論理的で感情的な、残酷で美しい、サッカーという世界一スペクタクルなスポーツの世界に、いつかまた戻ってきたいと思えるようになったこと。


これらだけでもア式を選んだ意味はあった。僕らが入部したての頃に添田さんが話してくれた「これだけの環境があってア式でやらないことの方がよっぽど機会損失だ」という意味が今ならわかるし、関東昇格という夢を後輩たちに託した今、自信を持って言える。


「名もなき若者よ、夢ならここにある。」




そして僕の夢は、ここではないどこかへ。遠回りして辿り着いた大学院で、思う存分研究して、プロジェクトに参加して。いつか日本の街をもっと魅力的で元気にする。そこにJクラブと関わりが持てたりなんてしたらもう最高。




ア式は関東に向けて正しい道を進んでいるのか。四年間のア式生活で得たものは何なのか。自分はこの先何かを成し遂げることができるのか。


すべては、未来に答えがある。


あーーー、この先の人生、超楽しみだ。






東大ア式蹴球部に関わる全ての皆様
一年間、多大なるご支援ご声援を賜ったこと、この場を借りて感謝申し上げます。ご期待に沿う結果を残すことが出来ず、申し訳ない気持ちでいっぱいですが、皆様の支えを感じながらサッカーに打ち込めた日々は何にも替えがたい宝物です。今後とも東大ア式蹴球部の応援の程、何卒よろしくお願い致します。




年中高山病、治す気ありません。


四年 前主将
松坂大和

2019年12月25日水曜日

副将






「俺は副将をやらない」





部活後の旬悦で我らの主将大和に言い放った言葉だ。
大和は非常に困った顔をしていたが、これが本心であった。




なぜか?



それは仕事がないからだ。




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今回はまず副将という役職について一年間やってて感じたことを書きます。副将って何してんだろって思ってる人多いと思うので、そうなんだ〜って感じで読んでください。

あっ、あといつも通りなんですけど、読みたくない人は最後だけでも読んどいてください笑。

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遡ること8年前、ふく将を中学サッカー部で務めた。これは立候補したのだが、立候補した理由はこれまた仕事がなさそうだったからだ。我らが武蔵中学校は男子校であるため、もちろんマネージャーはいないので、ボトル係やビブス係など一人一人に役職が振り分けられていた。当時の俺はとにかく楽な仕事をしたかったので、仕事が実はそんなになさそうな副将に立候補した。実際、仕事は全くなかった。かなり楽な思いをした。

その3年後でさえ、仕事がなくて楽な副将を高校サッカー部でもやる気満々だった。しかし、同期との話し合いの末、主将に任命された。最初はものすごく嫌だったが、実際は色々なことを学べた。声のかけ方から始まり、後輩の扱い、顧問とのやりとりなどを学び、何より自分の手によってチームが強くなっていく姿、強豪校相手に奮闘する姿、そして勝利して全員が喜びを爆発させる姿を見ることができた。主将としての高校サッカー最後の1年間はかなり充実していた。副将という「楽な」役職ではなく、主将という「重大な」役職が自分を大きく成長させてくれた。



大学入っても一年生の時から主将は軽く意識していた。
特に同期が次々と辞めていく中、絶対にやめなさそうなのは正直俺くらいしかいないと思っていたので、どうせ俺が主将になるなら前もって考えながら練習しようと考えていた。



そして、2年の秋、まあこういう意識で練習してきたからであろうが、代替わりのタイミングで副将にならないかと提案された。合宿で一個上の先輩たちに俺と大和が呼び出され、全体ミーティングで新幹部を発表するから、副将になるかどうかあと4hで決断をしてくれ、と言われた。

悩みながらお風呂に向かうと偶然当時の主将副将がいたので、「副将って何やるんですか?」と聞いてみた。

副「ん〜まあ特にこれといった仕事はないけど、部の決定権は持ってるからね」
主「重要な会議とかに立ち会うから部で何が起きているのかがわかるよ!」
俺「他になんか仕事ありませんか?」
二人「ん〜……」




5分ほど軽くしゃべっただけで、俺は副将になる気が完全に失せた。理由はお察しの通り、仕事がさほどなさそうだったからだ。失う時間に相当する成長が期待できなかったからだ。


その後すぐに先輩たちに副将の願い下げを伝え、全体ミーティングを迎えた。そこで大和が副将になる旨を全員の前で発言し、大和が副将になった。






そして去年7月末、やっとだが、俺らが幹部代になる時が訪れる。




俺は主将か広報長を務めたかった。




主将になったらピッチ外のことにも関わって行きたかった。俺の理想の主将像はピッチ内でもピッチ外でも仲間に対し厳しく指摘して、組織全体のレベルを上げられる人。この人に従っておけば良いと仲間全員から信頼される人、である。この”ピッチ外でも”っていうのが難しい。

ピッチ内であれば、サッカーの技術と的確な指示をする力があれば、リーダーシップを発揮でき、仲間から信頼してくれるであろう。ピッチ外に置き換えると、サッカーの技術とは、ピッチ外に関する知識の豊富さであり、的確な指示とは、その知識を元に何を改善するべきか、新しく何に取り組むべきか、逆に何を消すのかを判断して、仲間に伝えることである、と考える。

代替わり前に大和と旬悦で話し合った時に一番驚いたことは、大和が考えるこのピッチ外の構想の具体さであった。大和はこの時期にリクルートやスポンサー、予算などあらゆる部門を改善する具体的な案を持っていた。俺はおそらくほんの一部しか聞いていないが、それでも圧倒されてしまった。自分の描く主将像に近いのは明らかに大和であったので、大和に主将を任せるべきだと判断した。





また、広報長もやりたかった。


一年の時から広報班に在籍しており、画像班映像班で多く仕事をしてきたため、自分なりにどう外部に広報して行きたいという構想はあった。企画系のアイデアを出すことは割と得意であったので色々なことを試してみたかった。

暫定では、その6ヶ月前辺りに俺が「YouTuberになりたいだろ?」というテキトーな誘いで簡単に動画班に入ってくれた島田が新広報長になる予定であったが、「ぼくまだ広報のことわかってないからまきやりたかったらやっていいよ」と言ってくれた。





結局、大和に「俺が試合出れない時に槇にキャプテンマークを託したい」と言われ、副将を引き受けた。実際キャプテンマークを巻いて試合したかったので、こう言ってくれたことには非常に感謝している。





こうして副将生活がスタートしたのだが、やはり副将としての仕事はあまりできなかったように感じる。

ピッチ外に関しては、確かに幹部ミーティングに出たし、たまにユニット長にも出た。OBの方々とたくさん話したし、卒部式の送辞も述べた。しかし、それだけである。

ピッチ内に関しては、誰よりも声を出し、誰よりも選手に気を配った。同期や後輩に対し平等に、対等に接した。しかし、今まで通りであった。一年の時から誰よりも声を出すことを意識していた。先輩後輩関係なく面と向かって怒るし対等に褒める。正直いつも通りであった。





では、副将の仕事とはなんなのか?めっちゃ考えた。




俺の結論は、
・主将のできないことをやる
・主将になる準備をする
の二つである。


残念ながら副将にしかできない仕事は存在しない。ピッチ内の仕事は基本主将とコーチで全て賄える。ピッチ外の仕事も基本主将主務GM、各ユニットの長で賄える。つまり、副将がする仕事は副将ではない人でもできる仕事なのである。

しかし、主将がすべての仕事に手が回らない場合、副将がその穴埋め、補佐をするべきである。例えば、主将がピッチ内の仕事にほぼ専念するならば、副将はピッチ外の様々な場面で、選手代表として意見を述べながらピッチ外の仕事に携わっていくべきである。



では、今年のように主将が全てに手を伸ばして仕事をしてくれる場合、副将はどうするべきか?



それは主将のできないことを探すしかない。



大和は長く副将としてピッチ外に携わっていたので、俺が大和よりもピッチ外で勝る点は一切なかった。
また、ピッチ内でも大和は声を出しているし、そんなに俺が大和に代わってリーダーシップを発揮する必要がない。



大和にはできないことは何か。それはキャラの違いから生み出されることである。


大和は部員に対し厳しいことを要求し続けることで、あえて部員との距離をとるタイプである(と勝手に思い込んでる)ので、俺は逆に親身になって話しかけるタイプである必要がある。つまり、主将が「ついて来いよ」タイプなら、副将は「一緒に頑張ろう」タイプの方が良い。

部員にこう接するためには相手を知る必要がある。相手がプレイヤーであれば、どういう選手か、どういうプレーをしたいのか、どういう性格かを全て知る必要がある。そしてその選手を見ること。いつもより周りに要求している、ポジショニングがいい、逆に声が出てない、プレーが雑、ミスが多い。注意深く見ていればいろいろと気づくはずだ。その上でその選手がよりチームに貢献できるように、なんて声をかけようか、今声をかけるべきなのか、励ますのか、率直に言うのか、を判断する。些細なことでも聞いてみる。あれ、なんか調子よくね?なんか意識変えた?逆に、今日どうした?もっとこうした方がええでー。そうするとさらに相手を知ることができる。


「ついて来いよ」タイプが自分の考えを突き通すのであれば、「一緒に頑張ろう」タイプはいかに相手の心を読めるかが大事である。副将は相手と同じ目線に立って接して欲しい。




そして、主将になる準備をすること。


俺の理想像的に、主将にもがっつりピッチ外に関わって欲しい。となると、やはり主将になる前からピッチ外に関わっていくべきなのは大和を見れば明らかであろう。副将のうちにいろいろピッチ外について具体的に考えておくことで、主将になったときに様々なところに顔を出して意見して欲しい。


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ということで、


これで、堅いfeelings「副将」は終わりです。





えっどういうこと?。





実はあと二つ書きたいことがあって、十八年間してきたサッカーへの感謝、そして四年間一緒に戦ってきた同期一人一人への感謝です。

でも、「副将」以外の文章は恥ずかしいので隠しました笑。興味がある人はぜひ読んで欲しいです。




隠れた文章を見つけたいときは


「順番に五文字後を読む」


と見つかります。




それではまた続きの文で


最近の口癖は「はらへった〜」
前副将 四年 槇 憲之




2019年12月22日日曜日

私にとってサッカーとは何だったのか



『4年間を簡単に思い浮かべながら振り返る。冬の時代だった最初の2年、なんだかんだ言ってもサッカー楽しいなってなった3年目、さあいよいよ活躍できる環境が整った4年目。

結果を出したい。いやそれ以上に自分がもうやりきったと心から思えるようにしたい。

本当に無駄だと思ってしまうことが多かった今まで。でも過去を嘆いても意味はない。今、それを無駄じゃなかったと思うことができるようにするチャンスが目の前にある。

結果を出したい。つまり得点という目に見える形でチームに貢献したい。』

(私が5月くらいに書いた恥ずかしいメモ。良さげだったので一応最初に、引用。)





アツいfeelingが出るたびに、なぜ早く提出しなかったのかと、早く出すべきだったと、後悔した。

とはいえ、主将副将の前にここで一旦、箸休め的なものとして捉えていただけると嬉しい。



ネガティブなことなんて書こうと思えば1万字でも書ける。
まずはじめに、明るく、ポジティブで、一番伝えたいことを言っておきたい。





 


最後の最後、みんなと本気でやるサッカーの楽しさを知ったこと。

何より、自分自身が本気で取り組めたこと。

この部に入ってよかった。今、そう思えていること。

もう一度サッカーを好きになれたこと。






これらが自分にとって嬉しいことであり、4年間を振り返った時の全てだ。

そして、これらは、この部とこの部にいる人たちのおかげだ。






17年間のサッカーを振り返って、いろんなことを思うが、どの世界にいってもおそらく上には上がいるし、人と比べて落ち込んだり悦に入ったりしているようではダメだと学んだ。誰かと比べて競争してエネルギー出せるならそれはそれでいいけど、自分の中での成功を定義して、とにかく真摯に一生懸命頑張っていればきっと自己満足できる。はず。






怪我ばかりで1、2年の頃は新人戦にすら出ることができなかった。
3年の頃はサッカーができるようになり、そこそこ楽しかったのを覚えている。
とはいえ、当時は怪我をしないことを第一義におき、自分のサッカーの質は低く、育成の中でも、周りに迷惑をかけることも多かった。
夏以降には変わり映えしない評価に気持ちが萎え、ひどいモチベーションで練習や試合に取り組む日々もあった。
当時の育成のコーチ達、後輩達には非常に申し訳ない。 
一個上の引退を機に気持ちを入れ替え、自分のできていないことを直そうとした。
こんな自分を見捨てず向き合ってくれた寺さんや藤山さん、小椿さんがコーチだったおかげで私はサッカー選手として変わることができた。 
本当に感謝している。







何で頑張れないのか、何でこんなにサッカーに夢中になれないのか。そんなことばかりを考えてた時期もあった。この部のメインストリームは、ほとんどの人間は、サッカーを愛し、好きで、上手くなりたいと思っている人たちだ。

(この文章を読んでア式について誤解しないでいただきたい。私のような人は弊部においてだいぶ異端だと思っている。笑)

頑張れず、夢中になれず、そんなに好きでもなく、上手くなりたいとも強く思えていなかった当時の私は、当然自分を責め、嫌になった。ここにいるべき人間ではないと、本気で頑張っている仲間に迷惑だと、そう思っていた。これはなかなか心にきついことだ。






ただ、まさしくそこに、ア式に入った自分なりの目的があり、克服したい自分のコンプレックスがあった。


 


「やる気なさそう」

よく言われてきた言葉だが、「やる気なさそう」なやつは基本的になさそうなんじゃなくて、「ない」。

マリノスのプライマリーに入ることができて、良くなかったのは、「サッカーはもういいや」と思ってしまったことだ。嫌いになった、とまではいかないが、それに近いものだ。

今思えばただの挫折であり、そこから這い上がれなかったのは、自分の弱さ以外の何物でもない。

あんなに好きで自分の中でも自信つけたサッカーで完全にボロボロになって、どうせ上には上がいて、かなわない相手がいるのに頑張る理由がわからない。どんなに頑張っても絶対上にいけない世界で、何をモチベーションに頑張っていいかわからない。それ以降、俺は本気でやってないんだと見せつけるようにサッカーに対して不誠実な向き合い方をすることで、どこか自分を納得させていた。

サッカーに対して諦め、向上心がなくなり、ただ、現時点の能力だけで楽しめるところを楽しむというようなサッカーを中高としてきた。
幸か不幸か部活のレベルはそれまでと比べると恐ろしく低く、だが、もうサッカーはこりごりみたいな感じだった当時の自分にはそれが心地よかった。
もう上を目指すサッカーはしていないのだから、部活の友達と、ただ、楽しくやるサッカーに満足していた。中高と本当に楽しい友達に恵まれ、サッカーそのものが好きというより、あのメンバーで何かをやるのが良かった。厳しいことなど何一つなかった。






そんなだったけども、心のうちのうちでは、テキトーで熱くなれずにいる自分がなんかダサくて嫌だった。

だから、そんな自分を変えたく、大学でも結局サッカーをするという道を選んだ、いや今までとは全く違うサッカーに挑戦したい、そこで自分を変えたい、と思っていた。







でもやっぱり一度サッカーに対して諦めた以上、根は深く、「気持ちが入らない」というのは私の極めて大きな課題であった。





課題、、というか、

そもそもこんなことが課題って次元が低すぎない?

こんな感情を持つ人間がこの部にいていいのか?

思っては嫌になり、思っては嫌になった。





この部は真剣な人のための真剣な場であり、そこが何よりの魅力だ。

当時の私のような人間がちゃんと居心地が悪くなるようになっている。

レベルが低かろうが、みんなが真剣だからこそ、公式戦の価値は重く、勝利を第一に置いているからこそ、拒絶されたり、無価値だとされたり(サッカー選手として)、シビアで、きつく、辛く。だからこそチームとしても個人としても何かを勝ち得た時は最高な気分になる。







怪我という無駄な時間の多さは私のスタートを遅らせ、途中気持ちが切れることばかりだった。
ちょっと負荷をかけるだけで肉離れを起こし、こんな自分が大学で本気のサッカーをやるなんて虫の良すぎる話だったかと、幾度となく思わされた。

とはいえ、何も成果を出さないまま辞めたりするのはア式に負けたみたいな気分になって、癪だったし、途中で投げ出すわけにはいかなかった。




結局、特に美談にもならない話だが、きっかけは時間的な切迫感だった。そこには先述したように育成コーチ3人や、同期の存在もある。

褒められた経緯ではないが、結果として、自分は変わることができた。本気で勝ちたいと思い、うまくなりたいと思い、熱くなれた。それは本当に嬉しいことだった。

自分がこうもサッカーに本気になり、真摯に取り組め、みんなと勝ちたいと思うことがより加速したのは、ア式におけるサッカープレーヤーとして一定評価を得ることができてからのことであった。

「もう時間ない、このまま終わるのはダサい、、」から入り鋭意努力しているうちに、認められ、評価され、必要とされ、そしたらそこからもっと頑張りたいと思い、良いスパイラルに入れたということだ。

きっかけはどうであれ普段よりギアを上げて頑張ってるうちに評価されて嬉しくなってもっと頑張る、このスパイラル、これは今後も使えそうだから覚えておこう。





長らくDLと育成チームにいた人間だ。いてもいなくても変わらないという認識をされてた身としては、セカンドに呼ばれたり、Aにいけたりすることが、どれだけ嬉しかったかおわかりいただけるだろうか。




もう終わります。






何はともあれ、自分は本当にラッキーだった。

運と縁に恵まれた。コーチと仲間に感謝したい。




遼さんみたいな人がこんな自分にサッカーについて教えてくれたり、(わずかながら?)期待してもらえたりするのは、最高に嬉しかったし、絶対に期待に応えたいと強く思えた。期待に応えたい、この感情こそが幸せだった。

大和やマキのような一生懸命部を引っ張ってきた同期と一緒に試合に出たりするのは、身が引き締まるし、感慨深かった。

前期帝京戦、ジョウゴと唯一の一緒スタメンの試合のアップ前握手したのは、似たような僕らがこの部に勝利した瞬間だった。

写真を見ながらフィーリングを書いているが、多くの同期たちと、近くでやってて楽しい周平やトモと、同じ公式戦のピッチに立てたことは最高だった。






結局、3年半を通して自分がどうなるかとか、にしか目線はいかなかった。いや、自分のこれまでのステップアップの過程を考えれば、それは仕方のないことかもしれない。個人としては、前が前だっただけにまあそれなりに行けたと、後期の最後の方はほとんど出れなかったし、至らないところだらけだったけど。
もし、次のシーズンがあれば、少し目線を上げてチームのことまで、他の人のことまで考えれたら、ア式に勝ったとか言ってるんじゃなくてア式を勝たせるにはもっと何ができるかなんてことを考えることができたのかもしれない。

怪我にもちゃんと向き合いもっと早くサッカーできてたら。
もっとうまくなれたら、もっとサッカーを楽しめたのに。とひしひしと感じる。

でも、一度嫌になったサッカーも、長い年月をかけ、情熱は耕され、気付いたらまた好きになっていた。

本気でやるサッカーの楽しさを知れた。

今まで感じたことない感情をたくさん感じた。

ラストイヤー。
キツかったけど、楽しかったし、何より最高に充実してた。

みなさん、本当にありがとうございました。


大池一輝

2019年12月19日木曜日

課題3000個から得たもの

またfeelingsを遅延してしまいました吉本です。

いままで2回書いたがどちらも大幅に延滞している。

遅延するたびにいろんな人がなんで書かないのと聞いてくるがいつも書く題材がないと返答する。

そしてお前は書くこといっぱいあるだろと言われる。

そう、確かにおれにはfeelingsの題材には困らないようなことが書ける。

下手くそだったのに公式戦に出れるようになったまでの過程を書けばいいだけ。

でもいままではそれを頑なに書かなかった。マキがこのテーマでおれのfeelingsの冒頭部分をわざわざ作ってくれてあとはちょっと付け足せば完成なんてこともあったが結局お蔵入りになった。(ごめん、マキ)


全然書かなかったのはいくつか訳があるが、一つは単純に恥ずかしいから。

また、成長ってブログを現役中に書いてしまうとなんだか成長に満足してるみたいな雰囲気が出るし、自分としてはまだまだ上手くなりたい気持ちが強かったから、書きたくなかった。

だが今回選手を引退し、もう上達は必要ないし、4年間を振り返る上でこのテーマは外せないと思い書くことにした。

少々前置きが長くなったが、初めて自分の心の内を書くことになるので、これが正真正銘最初で最後の本心のfeelingsになる。





文章書くの下手なので伝えたいことを先に書いておくと、
この4年間で1番成長したのはサッカーじゃなくて自分の心だと思ってる。

精神的に完璧な人間になれたわけではないけど、苦しい経験をし、それを乗り越える努力の本当の意味を知り、壁を破った時の快感を味わえた。


体育会系の部活ブログあるあるでなんでおれ達は大学でスポーツをするのかみたいのが多く、引退を迎えるにあたって自分も考えてみた。


自分も4年間過ごしながら「なんで」と考えたことはあるがそのたびに納得いく答えは出たことはなかった。
誰かのためにといっても、プロを目指してないアマチュアの人が与えられる影響なんて正直ほとんどないと思ってる。
東大生らしく勉強してた方が将来にとって有効じゃないかと考えさせられる。


結局毎回とりあえず好きなサッカーを何も考えずやるか、となる。


だが、振り返る立場になってみると、過ごしてきた時間に意味はあったと思う。


日々がむしゃらに無心で駆け抜けた結果得られた多様多種の経験は他では味わえなかっただろう。


人間的にまだまだ未熟な大学生が部活をすることの意味や方法は人それぞれとしても、結局は自分の成長に繋がることだと感じる。


もし自分のプレーや行動からOBや後輩がなにか感じてくれるならそれはそれで嬉しいことだが、かけてきた時間の一番大きな意味は自分自身の成長にあったと思う。


Abstractはこの辺で終わっときます。



↓本編はまだ続くよ




今となっては嬉しいことに、「本当に上手くなったよね」とか「伸び率は1番だった」とかいろんな人に褒めてもらえるようになった。


大学を共にした人達だけでなく高校時代のチームメイトまで上手くなったと言ってくれ、サッカー選手として素直に嬉しい。


ただ、こうなるまでに挫折もかなり味わってきた。

はじめは何をやっても上手くいかなかった。
公式戦に出たい思いは持っていたが、明らかに実力が足りていない。

時間の経過とともに状況は好転するどころか悪い方に進み続ける。


あまり多くは書かないが、2人だけの育成チーム、埼玉まで練習試合に行って出させてもらえずラントレだけして帰る、同じポジションの後輩がすぐトップデビュー、などなど本当にドン底の状況だった。


結局2年の新人戦で怪我人が出てたまたまチャンスがくるも、最低のパフォーマンスを披露し期間中にベンチ降格。


この頃コーチに言われた「課題3000個」は衝撃的すぎて多分一生忘れない。さすがにそんな多く数えあげられないだろとマジレスしておくが、実際には当たらずとも遠からずといったところだろう。


並の人が4年間怒られるであろう量以上に最初の2年間で怒られた。


こんなんだったらもう辞めた方がいいかな、とよく考えた。
もう本当にやめるかと思った2年のオフ、急に高校時代の苦い思い出が蘇ってきた。



高3の春、トップチーム遠征のメンバーに入れてもらった。だかこのときのおれの活躍は移動のバスで雑学をみんなに披露し場を盛り上げただけで、試合では何もアピールできず帰ってくることに。

勝手に限界だと決めつけて、秋の選手権までやらずに同期を残して先に夏に去ることを決意。
結局トップで試合に出ることなく、最後監督にわがまま言ってBチームのリーグ戦に出してもらいひっそり引退。


自分自身に向き合うことなく、たいして努力もせず、このときは完全に逃げていた。
東大になんとか合格できたから面目を保てたが、今考えても本当に情けない行動だった。


またあの二の舞。



それは嫌だ。
弱い自分を打ち破りたい。
じゃあもう変わるしかない。


突然スイッチが入った。

「周りは関係ない。問題は自分自身の中にある。逆に自分次第でどうにでもなる。
それは進学校でもないところから東大に受かって自分で証明済みだろ。」(吉本サッカーノートより抜粋)

より必死になるためにタイムリミットも定めた。
誰にもなにも言ってなかったが、前期9節が終わるまでに1試合もスタメンで出れなかったら即辞めると固く決意してシーズンに入った。


自分の中ではっきりと意識が変わると行動も変わっていった。

急に毎日サッカーノート取り始めたり、毎日プロの試合を見て勉強もした。
近くの人にビデオ一緒に見てくれと頼みに行くこともあった。
そして毎練習にかける集中力も変わった。
どんなに怒鳴り散らされた練習後でもコーチにしつこく説明やアドバイスを求めにいった。


はじめて口先だけ試合に出たいとほざく腐った自分と決別できた。

少しずつプレーが改善している実感はあったし、相変わらずミスは多かったがミスの内容は前とはちがうものだった。

自分のことをみててくれたのか、徐々に評価されはじめ立場も変化していった。
そして気づいたらいきなり開幕戦でスタメンで出せてもらえた。

緊張でガチガチだったが試合前整列でマキに「まさかよしくんが出れるとはなー」って言われた瞬間泣きそうになった。



その後、ずっと順調なわけなく、何度も挫折を味わったが、一つずつ克服するためにエネルギーを注いだ。



その年の5節の前日練習で怪我して離脱、グラウンドで悔し涙が溢れた。

でも絶対強くなって帰ってくる。
そう思い、CBからSB(偽)の可能性も広げるため、怪我で空いた時間を使ってポゼッション志向のチームの攻撃的SBをとにかく研究した。
1年時の長期離脱ではそんなことすることなく無駄な時間を過ごしていた。一旦入ったやる気スイッチは入りっぱなしだった。





2部優勝、1部昇格に貢献したとは言えず上に引っ張ってもらっただけという虚無感から大泣きした打ち上げ。

来年こそは中心になれるようにとサッカーの戦術をより研究し、筋肉やステップ、体の使い方さらには食事にも意識が向くようになり、最上級生になっても向上できた。





今年チームが全く勝てなく自分自身も負のスパイラルに入り、練習をサボるほど病んだ。そして泣いた。

このときもヘッドコーチがサシ飯に連れて行ってくれ、自信を取り戻させてくれた。
最後の方スタメンで出れる機会も減った。それでも自分がチームに貢献できると思う行動をとり、いつ出ろと言われてもいいように準備し続けれたのは自信が回復したおかげだった。
最後の最後までうまくなってやる気だったし、結果として途中出場からだがアンカーとして公式戦で使ってもらえた。
これはほんの十数分の出来事ではあったが、精神面で成長できた自分の4年間を集約したようなものだと感じてる。



たくさん壁にあたった。
みんなおれのこと泣き虫とか言ってくるが、
涙の数だけ強くなれた、アスファルトに咲く花のように。




でもまだ回収できてない涙もある。現役最後の打ち上げ、会の終盤に後悔と酔いが強まり1人駐車場で号泣してた。(結局みんなに見つかったが)

1部残留に導けなかった。
確かに相手の方がうまかったかもしれない。
それでもチームが苦しいときに、みんなが誰かに頼りたくなったときにとるべき行動はあったし、それができなかったのが悔いとして残ってる。

はやく悪い流れを断ち切らないといけないのに自分のことに精一杯になってしまった。


たった一声かけてチームを鼓舞できたかもしれないし、もう一踏ん張り走ればよかったかもしれない。
勇気あるプレーで難しいボールをキープしみんなに気持ちを見せれたかもしれないし、一本のサイドチェンジで流れをこっちにもってくることもできたかもしれない。



全部サッカー中の話だが、結局自分の精神の奥底にある弱さが出てしまった。

火中の栗を自ら飛び込んで拾いにいく勇気が出せなかった。

もうおれにはこの涙を直接回収できる場は残ってない。あとは頼れる後輩たちに託すとしか言えない。



自分の見つかったこの弱さ、3001個目の課題はこれからの人生で変えてみせる。


人は死に際で人生を語るらしい。
これからもいろんな壁にぶつかるだろう。
それでもまわり道することなく一つずつ克服してやる。
この4年間で培った精神力で。
よりいい人間になれるために。


最後に結果は出なかったけど総じていい4年間だったと思う。
これまでなんでサッカーをやってきたのかの問いの答えは好きだからであるし、4年間でこの思いも強まった。

大好きなサッカーを本気でやり、大好きなのに通用しないから悔しさは何倍にもなる。
大好きだからこそ努力できるし、乗り越えたときの幸福は何十倍にもなる。


みんなと共に過ごしてきたこの時間全てが自分にとって大切なものになったと思います。


最後に
ここまで、長々と自分のことしか書いてこなかった。
誤解を恐れずに言えば、成長したのは自分で、心が変わったのも自分だが、それでも周りの人達、環境無くしてはありえなかったことだ。


色んな人のサポートがあった。
OBが献身的にサポートしてくれた。
コーチ、スタッフはおれたちに正面から真剣に向き合ってくれた。
日々切磋琢磨し、ピッチでは共に全力で闘ってくれる仲間がいた。
毎週俺たちのために死ぬ程声を出し勇気づけてくれる応援部隊がいた。グラウンドに響くバナナコールはおれの宝物だ。

どれもこの4年間で欠かせないものだったと思うし、この人たちには感謝しかない。
この場を借りて言わせてもらいます。


ありがとうございました。


今度は自分が支援する番だろう。たくさん受けてきた恩を今度はかわいい後輩たちのために。

来年1年間はOBコーチとして伝えられることは全部伝える。
必要とされるなら一緒に映像をいくらでも見る。
老害で邪魔と言われない限りは応援部隊に加わってピッチの選手を後押しする。
飯のおごりは…ほどほどで。うそ、悩んでるなら相談にも乗る。


みんなが成功体験を積んで、濃密な4年間を過ごしてよかったと思えるために。
東大が関東で戦えるチームになれるように。

そう願います。


そしてこんな経験をさせてくれて

サッカーありがとう。


構成が卒論風
東大ア式4年 吉本 理

2019年12月16日月曜日

あのゴールが本当の僕ではない。





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自分語りをするのは本当に好きではないが、
過去の4年生のfeelings全部面白かったし、
タイミングもタイミングだし、少し書かせてください。




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受験が終わるとすぐに髪を染め、部活でサッカーをする気なんてさらさらなかった。
父はそれとなく東大サッカー部の存在を教えてくれたけど、
浪人の一年間でサッカーへの情熱の火は消え去り、趣味程度にフットサルでもできればいいかなと思っていた。
いろんな団体の新歓を回ってタダ飯をむさぼり食う。
いつものタダ飯のノリでラクロス部の駒場コンパに立ち寄り、新歓PVを鑑賞して「運動部ってカッコいいな」と感動した僕。
すぐに合格祝いで買ってもらったばかりのiPhone6sを取り出し、僕の新歓担当だった佐俣さんに連絡。
一応テント列のときにサッカー部のブース入っておいてよかった。

ゆうても東大生ってそんなにサッカー上手くないっしょ。
東大サッカー部の前情報を全く持ち合わせていない福井県南条町民は、完全に高を括りながら体験練習に。
一応高校時代のスパイクをこっちに持ってきておいてよかった。
え、上手くね。いや、俺が下手になってるの?ここで再び火がつく。

僕の東大サッカー部(ア式)生活が始まった。




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1年目
ほぼ2年くらいサッカーしてなかったから、感覚を取り戻せばすぐ上いけるっしょ。
双青戦終わりにAにあげてもらった。
寺さんにショルダータックルで5mくらい吹っ飛ばされたり、
何もできずに3週間で育成に出戻り。
それなりに落ち込んだ。
それでも、義務教育がなってない生意気な僕を、育成コーチの行天さんと嶺さんはすごく大事にしてくれた。
寺さんに負けないように筋トレもめちゃくちゃした。
そんな中、シーズンが終わる直前のTRM後、その日の調子がすごく悪かったわけじゃないんだけど、自分の中で限界みたいなものを感じていた。
「このまま続けていって本当にAで活躍できる選手になれるのかな」
お先真っ暗って感じ。
いろいろ考え込みながら農グラで座っていたときに、嶺さんに声をかけられた途端、涙腺コルクが外れてしまった。
(嶺さん)「え、どした?なんで泣いてるの?笑」
嶺さん読んでくれてるかな。


2年目
新チームからAに上げてもらった。
中盤の選手の中で序列は一番下だったけど、本気でポジションを取ろうと意気込んでいた。
下馬評は関係ない。マジで本気だった。
チームはなかなか上手く回っていなかった。
これはチャンス、メンバーは変わりやすいはず。
1年間もがきつづけたけど、最後まで立ち位置は変わらず。
チームがよくない状況なのにこいつ試してみるかと期待できるレベルにも達せなかったこと、
後輩や怪我から戻ってくる選手に簡単に序列を譲ったこと、
チャンスをことごとくモノにできなかったこと、何もかも。
とにかく自分が情けなかった。
シーズンの終わり際にタケさんたちとご飯行ったときに、
これがまたコルクが勢いよく吹き飛び、洪水のように涙を流した。
吉くんほどじゃないけど。

もう一つ、この年のハイライトといえば、岩政大樹さんがア式のコーチをしてくれたこと。
小学生の頃から福井から鹿島を応援し、テレビの前で3連覇の瞬間を歓喜していた僕いわ、まさに夢のようだった。
言われたことは全てメモった。
たくさん怒られたけど確実に成長できた。
叙々苑でたらふく食べさせてくれた。
東大に来てくださって本当に本当にありがとうございました。


3年目
永遠偉大な主将と優美巧妙な指揮官にチームは率られ、2部優勝。
個人的には初めて年間通して試合に関わることができたシーズンとなった。
とはいえ、優勝を心から喜べるほど、自分がチームの力になれたわけではない。
後半戦にかけて調子が悪くなり、後味がものすごく悪かった。
自分の弱さが出た。シーズン通して安定させるって難しい。
いや、というより単にまだまだ実力不足だった。
来年1部か、大丈夫かな。
1年のときに脳裏に焼きついたトラウマ。
不安しかなかった。




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4年目
ついに最高学年になった。早いものだ。
ラストイヤー思う存分サッカーに全てを捧げようと意気込んでいたが、最高学年になると余計なことを色々考えてしまう。
これは想定外だった。
上がいたときは抑えてくれる人がいたから、イノコさんに変な絡みしまくったり好き勝手できたけど、一番上となるとふざけてばっかりもいられない。
少しは周りも見えるようにならないといけない。
終わりが見えると、変に終わり方を考えてしまう。昔からの僕の悪い癖。
僕たちの代って後輩たちの目にはどう映ったんだろう。
過去の先輩方はみんなかっこよかった、僕たちもそんな存在になれるのかな。
もっというと自分はこの部においてどういう存在だったんだろう。
4年間を捧げるに値したか。
周りから見てそんな存在であれたのかな。
終わってから考えればいいこと、考えなくてもいいことがたくさん頭によぎって、シーズンの初めは浮き足立っていた。
自分自身にフォーカスできていない状態で上手くいくはずがない。
実際、全然上手くいかなかった。
前期の東農戦が終わって1週間空いたタイミングで、オニさんにアザジュウの鰻屋に連れていってもらった。
あのときオニさんが僕に言ってくれたことはひとつも覚えていないけど、いろいろ話せてスッキリした。


試行錯誤をしながら、だんだんやりたいことができるようになってきた。
試合で単にいいプレーをすることと勝たせるプレーをすることには、天と地の差がある。
遼くんが常々言ってるけど、結果はコントロールできないし、
淡々と目の前のプレーで最善を尽くすことで、勝利という結果が近づいてくる。
僕は頭が混乱しないように試合前に最低限やるべきことをできるだけ絞ってから入るようにしていた。
後は試合が始まってみないと何が起こるか分からない。
試合が始まったら、
どこで受ければ相手にズレを生めるか、どこにボールを送り込めば有効か、序盤だし相手がどこまで自分に付いてくるか見てみるか、ここで引きつけてグイっと一枚剥がしたいな、なんとなく窮屈だから奥は空いてるんちゃうか、早めに一本シュート打ちたいな、
とにかくいろいろ考えた。
そうすると緊張していること自体を忘れられるので、自然体で試合に入ることができた。
昔からガチガチに緊張する僕にはこの方法はすごく合っていた。

ノボリさんがよく言ってたけど、上手くいっていないときに早く何かアクションを起こさないと、あっという間に90分って過ぎてしまう。これが本当に難しい。
自分が考えたことが上手くプレーで表現できたときはすごく楽しかった。
やっぱり公式戦の90分って格別。
その中で自分が選択し続けたプレーが90分といういわば長期的に見て勝利という結果に繋がらないといけない。
そこまではまだまだ足りなかった。


試合を重ねるごとにチームも自分自身もよくなってきている感覚がつかめていたところで、
足首の捻挫を悪化させて3試合欠場。
大谷の試合中の殴打により、前歯は無くなりかけた。
かなやんのいう通り、調子がいいときに限ってアクシデントはつきものだ。
これまでほとんど怪我してこなかったのに。
前歯は家の近くの丸山歯科で治してもらった。歯垢も除去してくれた。
足首は、中高のときによくお世話になった岐阜県本巣市の三善接骨院に7,8年ぶりに診てもらいに行った。
なんと先生はまだ僕のことを覚えててくれた。
福井からはるばる通ってたから印象に残ってたのかな。
相変わらずのノリの良さとマジックハンド(指圧)のおかげで足の状態はかなりよくなった。
本当に感謝しかない。


最終節の後半30分、リーグ戦初ゴール。
ゴールシーンは画面録画して多分200回は見た。
ボールを受けたときはとにかく打つことしか考えてなかった。
みんなが「打て打て」って叫んでるのもちゃんと聞こえていた。
よく動画を見てみるとみんなのこの一年の成長をよく表すゴールシーンだったと思う。
周平の得意のカットインからの、引きつけてリリース。和田ちゃんはポジションを微調整しながら胸を合わせ続ける。ティクミンは周平が開けた手前にタイミングよく下りて顔出してるし、ともは幅を取りつつ裏抜けの準備。こぼれ球には周平と和田ちゃんの2人が反応。
今年ずっとやってきたことを全員が当たり前のように体現できていた。
この試合はそんな場面が多かった。
みんなでこの一年間成長できた。
終了間際には人生初のレッドカード退場を経験し、僕のア式の4年間が幕を閉じた。

強がっているわけではない、本当に泣いている自覚はなかった。
みんなに「泣いてた」って言われたし、Fαcebookには思いっきり目頭を抑えている写真があった。
コルクから染み出していたのかもしれない。
何の涙だったんだろう。
いろいろ思い出したのかな。
よく覚えていないけれど、身体は正直なものだ。




.
もちろん、この結果でもって、この一年間の結果を肯定することはできない。
すごく責任を感じる。
後期の帝京戦、大東戦は今でもめちゃくちゃ悔しい。絶対にモノにしないといけなかった。
観ている人にとってはすごくストレスが溜まる不甲斐ない試合をたくさんしてしまった。
もっと早く成長できなかったのかなとか、あのときの実力で本当に勝ちようはなかったのかとか、色々考えることはあるが、やはり力量不足だった。
サッカーは何が起こるか分からない、ジャイアントキリングは起きやすいとはいっても、
シーズンは長いわけで、リーグ戦においては最終的に強いチームが上位にいて弱いチームが下位に沈む。
僕たちは後者だった。


これからア式がさらに上のステージへ行くためには、シゲピも言うように、もっと1部を経験しないと。
今季の初め、まず一部のレベル感に慣れるための期間が必要だった。
そうではなくて、開幕から最終節まで勝ちにいく姿勢を継続しない限り、またそのメンタルを継続できるだけの自信と実力がない限り、昇格は見えてこない。
後輩たちにはそこまで行ってほしい。
今年、後輩には少し強めにいろいろ言ってきた。
自分のことを棚上げして言うのはすごくエネルギーが要る。
大してできてねえくせに偉そうな口叩くなよ。
僕自身も中沖さんにたくさん言われた。
中沖さんは自分が言ったことは全てできていたけど、それでも「中沖、うぜー」って何回も思った。
誰かが言わないといけないし、嫌われ役を演じなきゃいけない。
言われた方は今度は基準を示す立場にならないといけない。
来年からは言う立場だよ。
(なかおくん、ご飯連れてって下さい。)


こうして4年間を振り返ってみると、嬉しいことよりも悔しいことの方が圧倒的に多い。
あのゴール、なぜ最後が僕だったのかは神のみぞ知るところだが、まさに有終の美みたいになった。
サマさんには「みんなの記憶に残るゴールになった」と。
寺さんには「ア式で見た中で一番いいゴールだった」と。手放しに讃えてくれた。
少し照れくさかったが、素直に嬉しかった。
だけど、あのゴールは、僕のほんの一部分、それも一番かっこいい部分に過ぎない。
数え切れないほどたくさん、悔しい思いをしたし、情けない姿も見せたし、仲間に失望させたし、失敗したし、ボールを簡単にロストしたし、パスミスしたし、球際負けたし、守備で奪い切れなかった。
その全てが僕の4年間だった。
大学サッカーは僕にとっては本当に厳しい世界だったけど、
途中で投げ出さずに最後までやりきったことは、ほんの少しだけ褒めてあげてもいいのかな。

「調子が悪い」「メンタルが弱い」って言葉は僕はすごく嫌いで、そう言ってしまえば上手くいかないことが多少正当化される。
僕自身も今までこの魔法の言葉を使っては何度もごまかしてきた、逃げてきた。
上手くいかないことから逃げずに真正面から向き合わないと、結局その場しのぎの解決策しか思いつかない。
壁にぶつかる度にめちゃくちゃ考えた。
何が最適解なのかは絶対に知りえない。
他の人でうまくいくやり方が自分にも合っているとは限らない。
だけど、考えることだけは絶対に放棄してはいけないと思った。
ここにいたら心が折れそうなときなんて無限にある。
その度に折れてたらとてもとてもやってられない。




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ラストイヤーは本当にいろんな方に支えてもらっていることを実感できる一年だった。
旬悦のおっちゃんは数年ぶりに試合を観にいったと言ってくれたし、
こくわのお兄さんたちはいつも結果を気にしてくれてた。
小中のときの恩師もSNSでメッセージをくれた。
大学の友達、高校の同期、元ア式の人、もちろん引退した先輩方も、いろんな人に試合を見にきてもらった。
観に来てくれてありがとうございました。
初めて観に来た人に決まって言われるのが、「隼ってあんな真剣な顔できるんだな。」
いや、できるわ。


色紙でたっぷり感謝を伝えたけど、
遼くんのおかげですごく成長できた2年間だった。
大学生でこんなにもサッカーが上達するとは思わなかった。
サッカーを見る目が180度変わったってミツナガシが言ってたし、
僕はプレースタイル的にも本当に学ぶことは多く、すごく楽しかった。
少しはサッカーのことを理解できたし、そのきっかけをくれたことに本当に感謝。


唯一無二の同期。
本当に感謝している。
入部したときから半分くらい辞めちゃってすごく不安だったけど、
残った13人はすごく頼もしかった。

1年生のとき課題が300000個あった吉くんが、
ずっと育成でやってた城後が、
3年間ほぼサッカーしてなかった大池が、
公式戦で活躍する姿を見ていたときは、
悔しい思いもあったけど、感慨深かったし、素直に嬉しかった。
東農戦、大東戦の2人のゴールは今でも忘れない。
4年間で彼らよりも成長できたかと言われると、自信をもって首を縦に振れない。
ラストイヤーの彼らはすごかった。
「他人の成功を心から喜べる人が真の大人。」
いつかの集合で利重さんがおっしゃってた。
彼らのおかげで僕は少し大人になれたのかもしれない。一石四鳥。

そして優くん。
初めてア式に行ったとき、こいつ同期?うまって思った。
同時に、絶対に負けたくなかった。
ピッチ外ではいつもじゃれあい戯れているけど、ピッチに立つと常にたくましく謙虚でひたむきだった。
一番近くにサッカー選手としてのお手本がいて、たくさん学べたし、負けたくないって思えたし、成長できた。
たまにMTGに遅刻してたけど、本当に尊敬している。
最後まで最高に上手かったです。ありがとう。


両親へ。
大学まで行って部活でサッカーを続けさせてくれて、本当にありがとう。
父が単身赴任で東京に来て毎週試合を観にきてくれるようになってから僕の調子がだんだん上向いていったのも、
本来なら最終節来れなかったのに台風で延期になったおかげで父の前でゴールを決めることができたのも、
きっと偶然ではないだろう。
恐るべし親父パワー。
母。きっと内心もっと学業に専念してほしかったんだろうけど、
子どものときからずっと僕のやりたいことを存分にさせてくれてありがとう。
猛暑の中、身体が弱いのに車椅子で双青戦観に来てくれて、
マジで涙出るくらい嬉しかった。
ありがとう。


後輩たちに一言。
頑張れ!!
(一人一人には結構言いたいことあるんだけど、小っ恥ずかしくここでは書けない。)


4年間お世話になりました。
本当にありがとうございました。




.
誕生日ってのと、
サッカーを始めてから最初につけた番号だったので、
13が好きでした。




細井 隼  #13