投稿

12月, 2018の投稿を表示しています
先般、弊部部員が弊部ブログ内で考えを述べましたが、ブログという形で一方的に発信する内容ではありませんでしたので、公開をとりやめることとしました。ご心配をお掛けした方々には深くお詫び申し上げます。 来季、関東昇格という目標に向け、新主将を中心に話し合って活動していきます。今後とも東大ア式蹴球部へのご支援、ご指導のほど、何卒よろしくお願い致します。 主将 松坂大和

さようならマドリード

「僕は今、マドリードの太陽を浴びている」 これは僕が小学校の卒業文集で書いた文章の書き出しである。 ファンデルファールトにめっちゃ憧れてた影響でレアルが大好きだった当時の僕は、慎ましく謙虚な現在の自分から見ると幾分か自信家であったようで、18歳くらいにはレアルマドリードのトップチームでチームメイトのジョン君だか誰だかとコンビで得点を量産している予定だったらしい。 23歳の誕生日を迎えた今、当初の目標には全く手が届かなかったわけだが、あまりにも生意気かつ見通しの甘い書き出しに、当時の担任の先生の苦笑いが目に浮かぶ。 今年はチャレンジを伴い、中々に困難なシーズンであったが、指導者として迎えた最初のシーズンを優勝という最高の結果で締めくくれたことはもちろん、選手一人一人が本当に見違えるように成長し、楽しそうにプレーしてくれたことが本当に嬉しい1年だった。 最初に指導したチームだから、自分の同期を指導したから、という要因は当然ながらあるが、中沖の強烈なキャプテンシーを中心に据え、サッカーを楽しみながらも堂々と捲土重来を果たして行くみんなの姿は眩しく映り、このチームは、自分がこれからどんなキャリアを重ねたとしても記憶に残っていく、そう感じた。 特に同期の4年生、いきなり帰ってきて指導者をやると言い出した自分の言葉に、しっかり耳を傾けてくれて、結果が出なかった時期にも信頼してついてきてくれた君たちがいたから残せた結果です。本当にありがとう、感謝してます。 さて、指導者をやるようになって改めて実感したことだが、サッカーというスポーツは本当に美しい。 僕がサッカーをここまで愛している理由は、サッカーは僕が知る限り唯一の、「芸術」あるいは「哲学」と結びつけて語られるスポーツだからだ。(フィギアスケートなどの表現種目は別として) 実際、野球やバスケ、アメフトなどの他のスポーツを考えてみても、試合の中で「芸術的なプレー」が単発で生まれ、称賛されることはあっても、サッカーのように選手や監督のスタイルそれ自体を讃える言葉として、「ミケランジェロ」やら「オーケストラの指揮者」やらといったように評されることは少ないように思う。 楕円球ではなく球状のボールは、不確実性を残しながらもコントロールがより容易で、 手よりも細かい操作が難しい足を使ってコン

ツラクテモ

お久しぶりです。あれから、 3 年も経つのですね。時の流れは早いものです。 とうとう、逃げ続けてきたフィーリングスを書かなければならない時が訪れました。 正直、めっちゃ嫌だ。まじめなこと書くのも恥ずかしいし、かといって面白いネタもない。だから、みんなのフィーリングス読んで、うわーおもしれ―なとか、文才あるなとか感心することの方が多い。で、ここまで逃げ続けてきたが、卒業文集という最後の関門が目の前に現れてしまった。初めは、みんな引退してから書くとか言ってるけど、どうせ書かないだろ笑、ぐらいの気持ちだった。案の定、初めはまじめな 3 人しか提出しなかった。ほっとした。のも束の間、さすがに集まり悪すぎて、グループ単位で締め切りが打ち出された。うわ、やべー。でも、最初にしょーぶいるし、こいつが締め切り守んなかったら逃げられるだろう、と余裕こいていた。そしたら、出した。え、出す感じか。そのあとはみんな立派なことを書いていた。さすがに腹をくくった。でも、思い返せば、ア式にはお世話になったし、恩返しの 1 つもしていない。このなめた態度を改めてまじめに書くことにした。 改めて、時の流れは早いものだ。今思い返すと、入部したのが昨日のことのようにはっきりと思い出される。でも、部活やっているときは、本当に時間の流れはゆっくりだった。当時、何回、早く引退できねえかな、とかマジで練習行きたくねえな、って思ったことか。いくら思っても、早まることはないと分かっているのに。 2015 年( 1 年) 都 2 部  3  位 勝ち点 31 2016 年( 2 年) 都 1 部 10  位 勝ち点 8 2017 年( 3 年) 都 2 部   6  位 勝ち点 22 2018 年( 4 年) 都 2 部  1  位     勝ち点 42 本当に、信じられない。あれだけのタレントを要しながらも、リーグ戦という舞台ではなかなか結果を残すことが難しかった先輩方の背中を間近で見ている分余計に信じられない。 大学に入ってまで、本気で競技サッカーを続ける以上、結果を残してこそ評価されるというのは当たり前だ。もちろん、結果を残さなければ評価されないのは至極まっとうなことである。 あれだけ才能集まった代が 2 部で 3 位にと

偶然の出会い

2003 年 11 月 29 日 J1 リーグ 横浜 F マリノスは 3 位で迎えた最終節、首位ジュビロ磐田との直接対決を後半ロスタイムの逆転ゴールで勝利した。 2 位の鹿島アントラーズが後半ロスタイムに失点して追い付かれたため、マリノスの逆転優勝が決まり、スタンドとピッチが歓喜に沸いた。当時はこれがどれほど奇跡的なことかもわからなかったし、ロスタイムをたまたまテレビで観ていただけだけど、自分をサッカーに引き込むのには十分でした。久保竜彦選手の逆転ゴールのシーンは今でも鮮明に覚えています。 この時以来、自分はずっとサッカーに取りつかれています。なぜなのでしょうか。たぶん最初に真剣に取り組み、成長を実感させてくれたのがサッカーだったからです。他のものでもよかったのかもしれない。それでも、サッカーだったからこそ、プロになるわけでもない自分が大学まで続けてきたのだと思います。 サッカーは最高です。勝利のとき、チームメートが点を取ったとき。今年は前者に 13 回、後者に 50 回も立ち会うことができました。頼もしい同期、後輩に感謝です。他にも失点を防いだとき、球際で勝ったとき、駆け引きで相手を出し抜いたとき、ポジショニングで相手の陣形を破壊した時。あげていけばキリがありませんが、サッカーは多くの喜びを味わわせてくれました。 しかし、自分にとっての大学サッカーはそのほとんどが苦しい時間でした。 1 年の 10 月にすねの骨を折りました。 2 回の手術で右足の感覚は弱くなり、復帰までに 8 カ月以上かかりました。 2 年の 11 月、ようやくスタメンをつかんだ矢先に、左膝の後十字靭帯を損傷しました。 3 年の前期、開幕戦のスタメンに自分の名はありませんでした。そして 3 年時はチームの体制が本当によくなかった。不必要なストレスにさらされてサッカーをし続けた結果、サッカーを嫌いになりかけました。あんなにサッカーをみるのが大好きだった自分が、この年はほとんどサッカーをみることができませんでした。入院時のフラッシュバックが再発し、何回か練習を休んでチームに迷惑を掛けました。そんな自分がたまらなく嫌でした。 3 年のシーズンが終わったとき、自分の中を占めていたのは少しの満足感と多くの虚無感でした。リーグ戦に何試合かスタメンとして出る

サッカーが好きだから

まともにステップすら踏めないくらい運動音痴だった自分が、偶然近所にスクールがあったという理由で始めたサッカーを15年以上も続けるなんて本当に奇跡のようなものだと思っています。本当に多くの経験をしました。多くの感情がありました。多くの人に出会いました。 自分はどうしてこんなにもサッカーを続けてたのだろうと考えたことがあります。プロになるわけでもないのに、どうして自分はサッカーを第一優先してやっているのだろうと。ア式に入ってから何度かサッカーを辞める選択肢を考える機会がありました。しかし、その度にサッカーを続けようという選択肢をとりました。そういう決断をし続けた理由は1つしかないです。 本当に、サッカーをするのが好きでした。 ただ、サッカーをしたかったし、上手くなりたかった。自分に才能があろうと無かろうと、そんなのは関係ありませんでした。 東大に入って、農グラで試合をしているア式の先輩方の姿を見て、たまらなくサッカーがしたくなりました。そのときすぐにア式に入ることを決断しました。 ア式では良い経験を沢山させてもらいました。社会人リーグの東蹴倶楽部戦で決めたゴールは今でも忘れられないし、Iリーグで応援の中勝利した日体大戦とか、サッカーを続けていたからこそ得られる快感というか喜びはやはり他では感じることができないものです。昔できなかったプレーができた瞬間の快感も何度も感じました。LBセカンド自体や、上武大まで行ってボコボコにされた試合だとか苦い記憶も沢山あるけれど、総合的に考えれば決して無駄ではなかったと思います。 それでも最後の1年間は、自分の中でも後悔が多いです。 それはやはり、サッカーをする、うまくなるために楽しむという部分がすっぽり抜けてしまったからです。遼に導かれてうまくなる仲間をよそ目に、自分は「うまくやろう」と考えてしまっていたのだと思います。映像を見たり、メモして復習したり、自分なりに工夫したつもりでしたが、おそらくその深みが足りず、大きく変わることはできませんでした。そのような日々が続き、気付いたときには「自分は引退までにこれ以上上手くなれない」と考えるところまで来ていました。月並みではありますが、初心を忘れて「うまくやろう」としたことで何もう

足りていないとしても

いきなり関係ない話で申し訳無いのですが、先月高校のテニス部を引退した妹の話をします。 やめる直前にテニスの上手い同期に努力が足りていないと言われ 自分なりに頑張って来たのに、と家で泣いているのを見ました。 ア式と妹のテニス部を同列に語るのが適切かはわかりませんが それでも 似ているな、と思ってしまいました。 努力が足りていなくて、 足りていないとしても自分なりにもがき苦しみ頑張ってはいるつもりで、 それでもなかなか評価されたり結果に繋がることがなくて 今度は僕自身の話をします。 後輩のみんなには馴染みもないでしょうが、自分は選手として試合に出るつもりで入部しました。 色々な事情があって、自分自身色々なものが足りなくて、一年の秋にスタッフという立場を選びました。  LBでサッカーを続けていました。選手として芽が出ないよりは部に対して出来ることがありました。 それでも 選手としてもっと出来た努力があったのではないか、あるいは本当に自分がやりたいことをしているのだろうかという葛藤がなくなることはありませんでした。 (一応言っておきますが、 ア式に入ったことも、プレーヤーでなくなったことも、その選択自体に後悔はしていません) スタッフとしてチームのために何かを出来たかという視点で自分を振り返っても、素直に自分を褒められることもあるし、もっと出来たと思うこともあります。 自分がチームにもたらせた価値は何かしらあったと思っているし、ここまで苦しく感情をぐちゃぐちゃにかき乱されながら、それでも四年間続けられたことに幾ばくかの達成感はあります。 一方で、自分の力不足でうまくいかなかったあの企画、苦しんでいるのを知っていながらもただそれを見ていることしか出来なかったあの人、 もっとこう出来たらと考え始めるときりが無いほどです。 最後に書くfeelingsだし、筋の通った話を書きたいと思っていたのですが、なかなか話を一つにまとめることが出来そうにないです。 全く試合に出れない立場から這い上がって公式戦で点を決めるしょうぶや佐俣を見るたびに本当に嬉しかったのも 佐俣のfeelingsを読んで自分もこんなことが書けた

終わりよければ

9 月 23 日、勝てば昇格決定の重要な帝京戦。スコアは 3-1 の 2 点リードで残すところ数分の場面での出場。自分の裏に来たボールをクリアでなくより良い状態で触ろうと欲張った結果自陣エリア付近での不用意なファール。結果的には難を逃れそのまま試合終了。ライバルを破り昇格決定。涙、歓声、感動、歓喜、歓喜、歓喜。 直前の監督交代などで物議を醸した W 杯日本代表、途中主人公を裏切るも最終的に友情をみせ力を合わせて苦難を乗り越える出てきがちな映画のサブキャラ、散々苦しめられたけど結局単位はとれた法学部の単位。本当に良いかどうかはさておき、大体のことは最後が良ければ、なんだかんだ良い感じの印象を持って終われる。 無事勝利した安心感、自分のプレーへの不甲斐なさ、自分がミスをしてもダントツで昇格を決めるチーム。自分のア式人生、真剣に取り組むサッカー人生の最後は、記念撮影、喜びの抱擁の中、ぎこちない笑顔をみせながら、なんともいえない情けなさでいっぱいだった。 個人的には悔しさ、熱い思い、過去の過程は結果に結実した人が書けば良いと思うし、過去の苦労も自分以上に書くに値する人が数多くいると思うので、ここでは完結に感謝を。 ただ入部のタイミングが悪かっただけで自分たちの代が主に対象になった戦力外制度の対象になることもなく、代替わりのたびに A チームでアピールする機会を与えてもらえ、良い指導者にも恵まれ、学年が上がるにつれ、特に最後の一年は加速度的に、サッカーが本当により好きになれた。 大きな怪我をすることもなく、実家で栄養と睡眠を十分にとれ、日々過ごしても一切飽きることのない先輩、同期、後輩に恵まれた。心身ともに何一つ言い訳のない、だからこそ自分のサッカー的、精神的な数多くの弱みと、ちょっとの強みを知ることのできた四年間。 何一つ結果に対して言い訳のしようもない四年間を過ごせたこと、一年生の時に憧れたサックスブルーのユニフォームを着て公式戦のピッチに立つ喜びを味わえたこと、悔しさ、虚しさなど色んな感情を与えてくれたこと、最後にみんなで昇格の喜びを味わえたこと。何よりこの四年間、ずっと楽しかったと思わせてくれた仲間に会えたこと。 自分の弱さ、至らなさを最後まで示し続けてくれたこと。ア式蹴球部を選んだこと。

身に余る幸運

こういった形でア式の人に何かを発信することは稀なので非常に書き出しに悩みます。ここまで同期たちの feelings を読んできて、引退した身で読んでも胸を熱くさせられるもの、「卒業文集」とか言って後の人間がちょっと書きづらい空気を作るもの、昔存在した制度についてフラットな視点から論評を加えるもの、と方向性がバラバラすぎて、実に「らしいな」と感じるばかりです。ということで僕も僕なりに考えたことを書こうと思います。  自分が体験してきたこと以上のことに触れられるだけの器ではないので、狭い世界観の話になってしまいますが、今後ア式を創っていく選手の皆さんに、いちテクニカルスタッフだった者としてひとつお願いしたいことは、「スタッフ陣に出来る限りの信頼を置いてほしい」ということです。理由はシンプルで、そうすることでお互いに一番速く成長できるからです。スタッフは選手たちの(場合によっては潜在的な)需要に応えることで己の存在価値を見出していくものだと思うし、選手にとってスタッフは「資源」のようなもので、上手く利用できる者はそれだけ効率よく成長できる者であるとも思います。  僕はそういったことを一つ下のテクニカルの後輩を通して強く実感しました。前期の一橋戦、彼がスカウティングを担当し、勝利したあの試合からの成長速度はすさまじかったと思います。試合後の姿を見て、多分あの試合から彼も「選手からの信頼・期待」を感じられるようになったのではないか、と勝手に考えています。思い返せば、僕にとって一番タメになったのは、 3 年の夏に育成チームのサッカーについて同期達とああでもないこうでもないと話し合った経験で、それもつまるところ「選手に求められた」からこそのことなのかなと思うわけです。  最後になりますが、今になって色々と振り返ると、ただただ幸運なア式人生でした。入部するタイミングで既にテクニカルスタッフという役職が存在していたこと、下手っぴもいいところな人間がピッチ上の事象に意見することが許されていること、何の実績もない状態であっても大事な大事な公式戦のスカウティングを任せてくれること、分析資料を作ったら感想や改善点を伝えてくれること、長い話にもきちんと耳を傾けてくれたこと、最後の 1 年まで日々成長できる環境で過ごせたこと。 どれをとってもただただ周囲の人たち