投稿

ラベル(22卒 東将太)が付いた投稿を表示しています

帰るべき場所、失くしてはいけないもの

  4年 東将太 選手として最後の試合が終わった後、ひと息つく暇もなく、忙しい研究生活を送るようになった。 今まで部活を言い訳にして、色々と後回しにしていたツケが回ってきたのだろう。土日を返上して実験しても時間が足りない。   この feelings を書くにあたって、ア式での 4 年間を振り返る必要があった。時間がない中で昔を振り返って、それを文章に起こすのは難しい。ただ幸いなことに、分子生物学の実験は、反応の待ち時間が多いのである。   私は遠心機のタイマーをいつもより長めにセットして、居室に戻る。 紅茶を淹れて、 PC を開く。画面は何か適当に、プログラムでも表示しておく。デバッグで悩む哀れな大学生の図が出来上がったら、話しかけられることはないだろう。 そうして準備ができたら、自分の中の深いところへ下っていく。             ア式の最初の 2 年、正確には 1 年半程度であるが、正直この時の事を思い出したくはない。 この頃の自分は、今思うと、サッカーに本気で取り組む事が出来ていなかったからだ。   「本気でやるからこそ、サッカーは楽しい」とよく言われる。 その通りであると思う。ただ正確に言えば、「本気で何かに向き合う事」は、恐らくそれを「高い次元で楽しむ」ための必要条件にすぎない。   本気で取り組んでいたって、上手く行かない事もざらにある。上手く行かなければ、楽しくはないだろう。 やりたいプレーが出来なければ、目の前の相手に勝てなければ、チームとして上手く戦えなければ、試合に勝てなければ。 捧げるものが多いほど、これは大きな苦しみである。勿論、それすら楽しめる強靭な精神の持ち主もいるかもしれないが。   あの頃の私は、たまに良いプレーが出来る程度で満足をして、より多くのものを捧げようとしていなかった。当然、高い次元でサッカーを楽しむ事なんて出来ていなかった。その資格がなかった。     ア式において、何となく戦術を理解して、少し筋トレや自主練をして、練習や試合を普通にこなす程度のことは、「本気でサッカーに向き合う」ことにはならないと思っている。 二年生までの私は、その中途半端な向き合い方に甘んじていた。当時はそれ...

01111001 01100101 01110100

毎度言っているのだが、僕のfeelingsは必ずテスト期間中に回ってくる。嫌がらせだろうか、それとも例によって理系的なfeelingsを書けというメッセージなのだろうか。  進振りの結果、理学部の一応情報系(生物系でもある)の学科に内定したので、この冬はコンピューターに触れることが多かった。特に印象に残ったのはアセンブリ言語と呼ばれる、よりコンピューターに近い言語でのプログラミングで、コンピューターが普段どのように文字を認識したり、命令を実行したりしているのかがよく分かるいい経験だった。それもあってタイトルは”コンピューターに優しい”表現で。コンピューターは文字も0と1の並びで認識している。char型(文字型)は8bitであって、例えばコンピューターにとってのアルファベットのaは、01100001である(ASCIIコード、パリティビットは考えない)。文章を処理する際は莫大な文字数になるが、繰り返し処理することは、彼らにとって造作もないことなのだ。もし一文字と8bitバイナリが等価であるのなら、レポートをバイナリで書いたらA4三枚など容易いな、と思ったり思わなかったり。 (以上まえがき)      正直去年は苦しい一年だった。 1年の頃は良い意味で無知であって、余計なことは考えずにプレーしていた。去年はオフ明けから、新しいことを沢山学んで、最初はとても上手くいっているように思えた。しかし、いくら良い思考をしたとて、実行の段階では実行技術が支配的になる。次第に頭の中でのやりたいプレーにリアルが追いつかなくなった。それによって思考の発展も抑制された。実行技術や手法を学び、またそれに必要なトレーニングをすれば良かったのにも関わらず、一人で頭の中で解決しようとした結果、何も上手くいかなくなった。最悪のタイミングでの怪我もあった。正直夏頃には、辞めることも考え始めた。そこから体調の面でいろいろあったりして、気づくとシーズンは終わっていた。達成感は微塵もなかった。本気で辞めようと思った。しかし、新人戦までは辞めることができなかった。1年生のシーズン、新人戦前に肉離れを起こし、新人戦は1秒たりとも出場できなかったから、今回こそはと思っていた。新人戦だけは出たい。そのあとの事はあとで決めることにした。  新人戦は3試合中2試合にフル出場...

電子のおとぎ話でもいいじゃないか

 明けましておめでとうございます。昨年は先輩、同期、そしてOBの方など様々な方にお世話になりました。今年もどうぞよろしくお願いします。  さて、またテストの期間に回ってきてしまったので、前回同様テスト勉強からの話題です。  東大理系の1年生には、現在Aセメスターで構造化学という科目が必修として課されています。これは恐らく、一般的に量子化学と言われているものと似た内容を扱っているので、まぁ同じと考えてもらっても差し支えないと思います。この講義では、必修科目のカリキュラム上では初めて、量子論と向き合います。 量子論とは何か。量子論の世界に足を踏み入れてから3ヶ月程度の僕なりに答えを出すと、それは「確率的に物事を捉えること」によって物事を解明しようとするものだと思います。それはどういうことか。そこには電子が深く関わっています。負の電荷を持つ電子という代物は、正に帯電する原子核に比べてとても小さく軽いのですが、この電子、実はある時刻における位置と運動量(質量と速度の積という認識でいいと思います)を正確に求めることができません。これは不確定性原理と呼ばれています。つまり、電子の運動の様子は、古典的な物理学の方法では分からないということです。(位置を正確に求めようとすれば、運動量の誤差が大きくなり、逆も然りといった感じです。これは測定技術云々の話ではなく、電子の波動性に起因するものらしいです。)それに対して量子論はどうしたかというと、電子が「大体どこにいるか」という確率を扱おうと決めました。そうすると、なんということでしょう、電子の挙動は正確に分からないのにもかかわらず、様々な分子についての解釈が上手くいったのです。こういう構造は安定とか、この反応ではここがこう変化する(しやすい)とか。このように、電子が「ここら辺にいます」と示すのが、僕が体験した量子論の根本的な部分です。  つまり、我々の構成単位である原子ですが、それも確率的な解釈によって認識されています。我々の基本単位は、言ってみれば不確実な存在なのです。本質的にゆらぎを内包しています。それならば、と思いませんか?ここに居る我々自身は確実なのか?果たして本当に今この地点に存在しているんでしょうか?実は我々は常にゆらいでいるのかもしれません。 ...

f(p1+p2+…+p11)≠f(p1)+f(p2)+…+f(p11)

入部からほぼ2ヶ月が経ち、勉学の方ではS1ターム末、 はじめての定期試験が終わりました。先生の引きが悪かったのか、 テストが他のクラスより難しく、 早くも落単の恐怖を味わった数理科学基礎。今回、 最初のfeelingsに書かせてもらうのは、 その試験勉強中に思ったことです。   数理科学基礎の内容で数ある重要な事項の中に、 線型写像というものがあります。写像とは、 イメージで言うならば高校数学の関数であり、それが「 線型である」というのは、任意のx,y、また実数aに対して、 写像をfとすると、 f(x+y)=f(x)+f(y) と、f(ax)=af(x) の2つが成り立つことと同値です。 この数式に僕が何を思ったのかというと、「 サッカーが線型性をもつスポーツじゃなくて良かったな」 ということです。  例えば各選手の能力をn次元の実数(タイトルのp1,p2,. ..p11に当たります)に落とし込めたとして、それを「戦力」 という1次元の実数値に変換(その値が大きければそれだけ強い、 という風に)する写像をfとします。 もしこの写像が線型写像であれば、1つ目の条件式より、 その左辺をチームの戦力と解釈すると、 チーム全体の戦力はピッチ上の各プレイヤーの戦力の和に等しく、 サッカーにおけるチームの戦力はプレイヤーの個人能力のみに支配 されます。つまり、 その状況下では上手い選手を集めたもの勝ちであり、 ジャイアントキリングなどは起こり得ません。ああ、 なんてつまらないスポーツでしょう。そしてさらに悪いことに、 それによるとどうやら僕をはじめ、 個人技やフィジカルの特に優れるわけではない選手の居場所はピッ チ上から完全に無くなってしまうのです...  しかし実際には、 サッカーにおける戦力が個人の能力のみに支配されることはありま せん。 ここから先の話の展開は容易に想像できると思うので省略しますが 、要するにサッカー(他のチームスポーツでも同様でしょうが) におけるチーム戦術、もっと根本的なところでは、 チームでの共闘の意識の占める部分はかなり大きいと思うのです。 Aチームの試合を応援していると、 各選手の長所が存分に生かされているプレーに、 思わず感嘆の声を上げてしまうような場面があります。 守備戦術が上手くはま...