アサオキテヨルネムル ~自伝的他者の記録~
上西園亮(4年/MF/ラ・サール高校)
オナニーという単語がある。
『旧約聖書』の「創世記」におけるオナンの故事に由来し、日本語ではしばしば自慰行為と訳されるこの言葉は、しかし、しばしば忌避的な意味として用いられる。「神に背く行為として非道徳的であり、罪に値する」といった論理に基づき、西洋において反オナニーの歴史が展開されていたことも往々にしてあった。
一方、オナニーは様々な文学作品において重要なテーゼの1つともなってきた。村上春樹の小説に出てくる主人公たち(「僕」たち)はオナニーを通じ何か新しいものを見つけ、或いは何か古いものを其処に置いてきた。三島由紀夫は『仮面の告白』で一躍日本の文壇にその名を轟かせた。トーマス・マンの『魔の山』においては個人の欲望と葛藤としても描写された。
この隠匿された単独行為は、その秘匿性ゆえに第三者に何かしらを想起させ、そして同時に開放的な何かを惹起させるのであろう。オナニーとは狭く縮こまった事象・行為であることに相違は無いが、しかし、同時にそこには人間の原始的な素因子が含まれているのかもしれない。最早分解することの適わぬそれらを1つ1つ組み合わせていった先に、原初的で無垢な人間像が存するのかもしれない。
このテーゼは古来より様々な形で表出し、表現されてきたものではあるが、何分ここでこのテーゼについて書き連ねるには余白が足りていないようである。或いは、賢者的思考能力を持つ者にとっては余白が多すぎるのかもしれない。
Yには、オナニーについての発散的議論を進め、宇宙の真理を解明していきたい学問的追究心が尽きぬ一方、このfeelingsを次の展開へと進める義務も同時に存在する。本来的に二項対立ではないはずのこれらは、こと卒部feelingsといった体裁を取るとき、共有地の悲劇を招くゼロサムゲームを開始してしまうようである。そのため、この話は一旦ここまでとし、またいつかYが自身の考え(或いは思想ともいうべきもの)を世間に表明する際まで棚上げしておくこととしよう。
このfeelingsは、Yにとって最後のfeelingsとなる。このfeelingsを通じ、Yは何を伝えたいのでもなく、何を読み取ってほしいわけでもない。ただ、今作がYにとってのオナニー的作品となることがここでは既に決しており、そして、オナニー的文章、或いは文字の羅列、もしくは独白ともいうべきものが読者の眼前につらつらと並べられていくのみとなる。そこには双方向性など存在せず、ただ二次元世界的な一方通行のみが存在する。即ち、これが「気持ち」の捨象ではなく、「思い出」の具体に過ぎないということを読者の方々には念頭に置いていただければ幸いであり、そのためにYはここまで累々と文字を重ねてきた。
反面、読者の方々にもこれまた一方的にこのfeelingsを読んでいただければとYは思っている。即ち、このfeelingsを遍く読む必要は全くない、ということである。今作はオムニバス形式を採ることとし、各章を独立したものとする。読者の方々は各章を任意に選択し、恣意に取捨してくれれば結構である。Yにとっての各章はある種のストーリーラインを持って存在するものではあるが、それはYの視点に立つことによるものでしかなく、Yとは別の誰かによってその順列が組み替えられたとき、また新たな物語が生まれてくることは歴史的自明であろう。
以下に、各章をまとめる。
- 『われらも集ふ君が庭』
- feelingsについて
- 『命短し恋せよ乙女、登る南の裸猿』
- perfect days
- 『See me @gain』
- 岐路、帰路、生絽
- 一朶の白い雲
1. 『われらも集ふ君が庭』
左端の不要な空白、定めるべき焦点の見つからない集合写真。カオスだがとても好きな写真である。惜しむらくは画素の少なさか。2021年末のこの頃、同期は30人ほどいた。
『われらも集ふ君が庭』は、2021年11月5日に投稿されたYの第1作目のfeelingsであり、ア式入部1年目(入部から半年ほど経った頃)に書かれたものである。Yのサッカーとの思い出、ア式入部までの経緯、そしてア式への思いを綴ったものとなっている。
Yはア式入部以前からfeelinfsの存在を知っており、入部してからはfeelingsを読み漁っていた。そのため、自身初のfeelingsとなる本作において、そこに懸ける思いは並々ならぬものであった。また元来有する自身の性質上、feelingsを書けと言われた際の喜びは非常に大きなものであった。
季節の話から始めることにした。カエデサンの『夏の終わりを告げるような微温い風とともに、』の始まり方がとても好きだったからである。『われらも集ふ君が庭』という題も既に決めていた。これはYの母校であるラ・サール学園の校歌(正しくはラ・サール賛歌)の一節であり、Yにとってア式は正に集うべき庭に他ならなかった。
1万字を超えるこの長文ブログは端的に言ってバズった。ブログ閲覧数は1万を優に超え、twitter(現X)でも1,000程のイイネが来た。Twitter上では「文豪が現れた」「天才だ」など、ありとあらゆる言葉によって称賛を受けた。現実世界においても、当時コロナ禍の影響・制度が色濃く残り人的交流が不活発だった中、沢山の先輩方に本作をきっかけに声をかけてもらえた。
本作により、Yの飽くなき承認欲求は満たされ、ア式の諸先輩方との交流のきっかけを持つことができた。それだけでなく、ア式外の知人(もしくは知人の知人)にもその勇名は轟き、しばらくYはちょっとした有名人の様な扱いを受けていたのも今となっては懐かしい。
しかし、Yの胸中は複雑であった。というのも、Yは『われらも集ふ君が庭』をバズることを最大の目標の1つとして書いてしまっていたからである。Yが読んできた諸先輩方の数々の熱いfeelingsに比べ、その不純性は圧倒的なものであり、feelingsを褒められることが次第に恥ずかしいことのように思えてきた。
まず、『われらも集ふ君が庭』において、Yはサッカーのことについて詳しく書くのを敢えて避けた。サッカーの専門的な部分を避けることで読者層の裾野を広げ、Twitterにおける拡散の最大化を図った。そして、キャッチーなエピソードを意図的に増やし、テンポの良い言葉を並べ、対比構文ばかり用いた。書きたいことを書くのではなく、読者に受容されるであろうことを分かりやすく書き並べる。ピエロである。まさかここまで成功するとは思っていなかったため度肝を抜かれたが、しかし結局はビギナーズラックの一言に尽きる。
Yのfeelingsがア式の広報上大いに成功したため、feelingsを書く部員が文字通りいなくなった。Yの直後に投稿されることを皆嫌がり、結局、次のfeelingsはタドコロサンの卒部feelingsとなってしまった。唯一、コウグチのみが悔しがっていたのを思い出した。どうやらYの直前に投稿された『「ボール」から「スペース」へ』が100イイネを達成していた功績が搔き消されたことが悔しかったらしい。(後日談ではあるが、コウグチのサッカーに対する姿勢は本物だったようで、Yとは違いサッカーを真正面から書いた『サッカーは帰納法』が後に閲覧数2万を稼ぐこととなる。Yの閲覧数No.1という牙城は脆くも崩れ去った。コウグチのこの哲学的文章はビジネス界隈にも受け入れられたようで、Twitter上で毎朝15分間文章を朗読するアカウントにもその題材として採用されたほどである。それは概して訳の分からないアカウントではあったが、コウグチの類稀なる人格を持ってこそ為せた偉業であると言えよう。)
Yのア式における初シーズンは、中々チャレンジングなものだった。ア式のサッカーのレベルに全くもって着いていけなかった。サッカーボールを扱う技術は当然のこと、3年ほどのブランクはYから体力というものを全て除去してしまっていた。
よくよく考えるとそれは当然のことでもあった。ア式入部直前に行ったサッカーの試合(高校時代の先輩方に誘われて行ったもの)において、プレー開始から10分と持たずにハンバーガーを吐瀉してしまうほど私の体は運動を拒否していたのである。Yの身体はどうやら、重力という物理法則に抗い、無駄なエネルギーを消費してまで物体を上昇させる覚悟を持つY最大の敵であるようであった。ア式での1年目はサッカーをする年ではなかった。ただひたすらに自身の体を痛め続け、ニュートンの発見した万有引力をその身に教え叩き込む時間となった。
Yは身体能力について特段に不足を感じたことは今まで無かった。足が遅いわけでもなく、体力が絶望的に無いわけでもなく、身長が著しく低いわけでもなかった。しかし、この頃のYは曇りの日でも軽い熱中症になった。夜にである。ゲンサンなど、Yのプレーの拙さに対し激励を飛ばすうちに、Yの顔色があまりにも優れないことに気付きドン引きしていた。Yの胃腸はまたしても重力に抗おうとしていたのである。
周囲と比べ明らかにプレー精度の違ったYは、日々個人的指導を受けた。個人的指導と言うと体は良いが、要するに「下手すぎて練習の質を下げているからどうにかしてこいつを最低限のラインに持っていかなければならない」という、コーチ陣の悩みの種或いは義務感であったに過ぎない。火曜日はシマサキサン、水曜はトシヤサン、木曜はヨシリョウサンという様に、各コーチが示し合わせることも無くYへの時間的投資を行わねばならない程には絶望的な有様であった。ある日の練習終わりなど、シマサキサンに「大丈夫。そんなに落ち込むな。」と優しく声をかけられたこともあった。しかし違うのです、シマサキサン。Yは落ち込んでいたのではなく、疲れ切っていただけなのであります。部室玄関前の小さな階段に座り込んでいたのは、ただただスパイクを脱ぐことすら出来なかっただけなのであります。(これは余談だが、先日東京駅のスシローでシマサキサンに出くわした。記憶のシマサキサンよりも筋肉は落ちていたが、目つきなどは同じであった。特段大したことも話していないが。)
夏になるとYのポジションはいつの間にかFWとなっていた。SBに始まったYのア式人生であったが、SBの戦術的価値が高いア式においてYは瞬時にお払い箱となり、守備において負荷の低い前線へと異動に次ぐ異動が行われたのであった。初のFW出場となった東京理科大戦において得点したこともあり、コーチ陣の中でYの扱い方も決まったようであった。以後暫くの間FWとしての人生が続くこととなる。
FWになったYは笑ってしまうほど点が取れた。Yは点を取ることに夢中であったし、それこそがYが唯一ア式において価値を見いだせるところでもあった。得点シーンを動画で保存し、暇になると見返す毎日であった。得点したYはいつも小躍りしていた。その場をくるくると回り、全身で喜びを表現していた。無意識下での行動ではあったが、冷静になると恥ずかしい行動である。ともかく、Yはそのくるくると転回する漆黒の歴史と共に得点を積み重ねていったのである。
時は過ぎ、冬も近づく秋となり、シーズン最後の練習試合が訪れた。蔦の巻き付くライトがほんのりと照らす夜の農学部際グラウンドで行われたその試合は、Yにとってとても印象深いものとなった。ブチサンやカエデサン、ゲンサンら、決してア式におけるサッカー的栄達を掴めなかった彼らの引退試合は、Yが終生忘れえぬような感慨を覚えさせた。圧勝と呼ぶに相応しいあの試合において、4年生達の活躍はやはり特筆すべきものがあった。ブチサンの「後は俺が決めるだけだな」と言いながら同期と抱き合う姿はYの涙腺を崩壊させた。相手選手ではなく、零れ落ちようとする涙を抑える事に必死にならざるをえなかった。
ア式入部以前、Yは自由に生きながらもどこかふわふわとした寂寥感を抱いていた。そんなYにとって、このア式1年目(大学生活2年目)の生活は、新たな予感を覚えさせるには十分すぎるものであった。世界中で一度に開け放たれたものは冷蔵庫の扉ではなく、まだ見ぬ庭の門であるようであった。そしてそこには過去があり、今があり、未来があるに違いなかった。
2. feelingsについて
Yの記念すべき第1作目のfeelings告知に使われた写真である。体は細く、額は禿げ上がっている。黒い歴史の香りをぷんぷん放っている写真と言えよう。この写真を使うつもりだと当時のfeelings係に言われた際、何かしらの嫌がらせであろうかと訝しんだのを鮮明に思い出す。結局、Yの第1作目feelingsのプチバズにより、この写真はTwitter世界にて拡散され、挙句の果てには双青戦の選手紹介写真でも使用された。デジタルタトゥーとは正にこのことであり、いつか誕生するかもしれぬ我が子たちにこの写真が見つからぬことを祈りつつ、またここで新たな刺青を掘ってしまうことを、どうか神よお許しください。アーメン。
feelingsとは何なのだろう。Yはしばしば考える。いや正しくは時たま考えていた。
Yにとって、feelingsとの出会いは恐らく高校時代まで遡る。大学入試という七面倒臭い国民的行事から目を逸らすために読んだのが初めての出会いであったのだろう。そのまま、浪人期・大学1年目を経て、ア式へ入部するまでの間に幾らかのfeelingsを読んできたのであろう。
これはYという一人間とfeelingsの出会いの端緒(或いはその推測)に過ぎない。しかしYのア式入部を契機とし、feelingsはYの人生を彩るものとなった。正しくはYの人生のある時期のある一部分を彩っていたに過ぎないのかもしれない。けれども事実として、あの頃のYは狂ったようにfeelingsを読み、狂ったようにその心を震わせていた。
そこでここではYにとってのfeelingsというものについて語っていこうと思う。
そもそもfeelingsの成立はいつであり、どの様にして展開されてきたのであろうか。その歴史について探っていくこととする。古来より、歴史を蔑ろにする者には愚者が多い。自然科学・社会科学の別に限らず、科学とは即ち先人達の歴史的集大成であり、その歴史的累積無くして進化は存在しえないのである。
feelingsのブログとしての始まりは2007年5月にまで遡る。そのことは、『初投稿&初心表明』に明るい。
やはり、feelingsも数多あるブログのご多分に漏れず、ア式の内外を繋げるものとしてその産声を上げたようである。かつてのfeelingsはどうやら毎日投稿を信条としていたようであり、部員たちは日々持ち回り制の下でfeelingsの投稿を精力的に行っていた。
しかし、ここで問題が起こる。当時の東京大学運動会ア式蹴球部の部員数は非常に少なく、各学年20人も在籍していなかった。下手をすれば10人前後という代もあった。それらが3学年・或いは4学年で毎日投稿をしていこうとすると、当然の事ながら各人に投稿命令が下される頻度は2か月弱に1回となってしまう。こうなってくると毎日投稿という信条は、ただの義務じみた枷となってくる。
実際、当時の投稿群にはどこか混沌としたものがあった。マネージャーによる試合結果報告が投稿されたかと思えば、その日の天気についての簡素な感想が投稿されていることもあった。6月は雨が続きじめじめしているから嫌いだといった短い300字ほどの文章が出てきたかと思えば、次の投稿ではア式やサッカーへの熱い気持ちを綴った檄文が投稿されるといった具合である。毎日投稿の呪縛は次第に各人のfeelingsへのモチベーション形成に大きな差を生み始めていたようであった。
ア式の内外を繋ぐために生まれたfeelingsは長い年月をかけ、その存在意義が問われるものとなっていってしまった。そして来たる2016年2月15日、『feelings停止のお知らせ』をもってその長い歴史に幕を閉じ、feelingsは世界とア式を繋ぐ架け橋としての役目を終えるのである。
では、なぜ今現在、Yはこの様にしてfeelingsを投稿し、読者の方々に一方的に話し続けることが出来ているのだろうか。それは言うまでもなく、feelingsがその活動を再開したからに他ならない。
2016年10月1日、先の停止のお知らせから1年と経たずに『feelings再開のお知らせ』にてその再開が宣言された。どうやら当時のア式はリーグ2部降格という屈辱的な状況にあったようであり、そこからの一念発起という形でfeelingsにも再度スポットライトが当たることとなった。それ以降、部員の持ち回り制原則は維持されながらも、毎日投稿というかつての信条は放棄され今に至る。
feelingsの大局的歴史観について記述し、そのままYに関わる小さな歴史へと話は移る。
2022年が始まろうとする師走の時期に、Yはfeelings係に任命されることとなった。前任にあたるシノヅカからのたってのお願いであった。
当時のシノヅカは自他共に認めるア式オタクであり、当然の如くfeelingsを腐るほどに読んでいた。そのシノヅカと熱くfeelingsについて議論(或いはオタ話)を交わせる人間と言えば、同じくfeelingsを腐るように読んでいたYしかいなかった。それに加え、当時自身第1作目のfeelingsをバズらせていたYは、シノヅカにとって自身の後任に相応しい最良の人物として映っていたようである。(Yの同期であったシノヅカはア式を1年と待たず辞めてしまった。元来、推しとは自身から遠くに存在するからこそその神秘がかった存在を維持できるのであろう。推しとの距離が近くなり過ぎると、それはもはや実態を持った現実となり、その象徴的意味は失われてしまうのである。)
feelings係となったYに課せられた最大にして唯一の使命は「取り立て」であった。先に述べた歴史的潮流に違わず、ア式部員はfeelings作成から逃げ続けていた。毎日投稿という「法」は失われたものの、未だ持ち回り制という「法」は存在していた。feelings廃止論といった極左的発言は聞こえなくなったものの、部員にとってfeelings執筆作業は忌まわしき業務であることに変わりはなく、歴代のfeelings係は悩ましき戦いを繰り広げてきたようであった。
ここで、便宜上Yを第0代目のfeelings係と仮定する。その場合、先のシノヅカは第-1代目に当たり、第-2代目に当たるfeelings係はユキノサンという方であった。
ユキノサンは穏やかな人柄であったと聞き及んでいる。類稀なる柔和な微笑みをその顔に表現することのできた彼女は同期からの信頼も厚かったと小耳に挟んだこともある。しかし、ことfeelings係としての彼女に対してはやはり部員は冷たかったようである。
シノヅカに渡された引継ぎ資料は2つあった。1つはfeelings係の事務的内容に関する詳細な資料であり、これは今後も活用されていくであろう非常に分かりやすいものであった。問題は2つ目の資料であった。それはユキノサンが作成したものであり、そこには「要注意人物」と表記のある部員が複数名存在したのである。これはYに由々しき未来を容易に想像させた。シノヅカも苦笑いである。
「俺もまさかこんなにも皆が提出してくれないとは思わなかったよ」
とシノヅカは言った。
信頼の厚かったユキノサンでさえも手をこまねき、前任のシノヅカに至っては引継ぎの際に苦笑いを浮かべる始末である。
Yのfeelings係としての戦いは取り立ての戦略策定から始まることとなった。
その基本方針は「強いfeelings係」であった。どうやら、第-3代目にあたるシズカサンはYのベンチマークとなる強さを持っていたようであった。あらゆる仕事をそつなくこなし、その一言一言に威厳があったようである彼女は、feelings係としてもその能力を遺憾なく発揮していたようであった。
結論として、2022年の始めから2023年の夏ごろまでの、feelings係としてのYは非常に強い存在であれたように思える。幼少時より歴史小説を濫読してきたYにとって、「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵し掠めること火の如く、動かざること山の如し。知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し。」は赤子の頃より慣れ親しんできた鉄則であり、『論語』における訓戒の実行など、Yにとって至極簡単なことであったようである。
情報共有ツールであるSlackにおいて、feelings執筆依頼を15人ほどに対して行うことからYの仕事は始まった。その際、提出方法・提出期限等について詳細に提示することで、言い訳の効かない「法」が全員に認識されることとなる。暫くの静観の後、各部員に対する個別催促が始まる。日常的にfeelingsの話題を出すことにより彼らの脳裏に提出期限を焼き付けることに成功すれば最早こちらの勝ちは確定したようなものであった。
もちろん、提出期限に間に合わない者は毎回一定数いた。余りにも悪質な遅延に対しては公衆の面前での晒し首によって対応させて頂いたが、基本的にYは彼らの存在を公にしなかった。それはYと彼らの間に情報の非対称性を生むためであった。反逆者のジレンマや囚人のジレンマを創出することにより、「誰がきちんと提出しているのか」「提出していない人は何人いるのか」といった情報の独占を達成した。Yはパノプティコンを建造したに等しい成果を得ることとなったのである。
1ヶ月に15人ほどのfeelingsを提出させることに成功し続けたYの取り立ては、更に副次的な効果を生んだ。元々、Yの「色々なfeelingsを飽きるほど読みたいンゴ」というオナニー的願望から始まったこの取り立ては、feelingsに多様性の萌芽を促した。
以前ならば卒部feelingsの1度きりしかfeelings執筆をしない人々が存在し、それらの多くはマネージャーやスタッフであった。従来ア式在部中に書くことの無かった彼ら・彼女らは、新たな視点・新たな感情をfeelings上で表現してくれた。その新風は巡り巡って選手の書くfeelingsにも新たな春を呼び起こしてくれたように思えた。
Yのfeelingsへの知見は様々な面で役立った。今となってはYが管理者権限によりアーカイブしてしまったが、かつては2,000を優に超えるfeelingsが閲覧できた。その殆どを読んでいたYにとって、何を書けばいいかという質問に対し答えることは容易であったし、怠惰的感情を主な理由としてfeelingsを書かぬ者の心理的障壁を除去することも簡単であった。
しかし、一方でfeelingsには問題があることも事実であった。現在の高度情報化社会において自身の感情の吐露を文面としてネット上に投稿することは非常にリスクの高いことであった。その事を考慮する者もいた。Yはその様な人に無理強いするようなことは決してしないよう心がけていたが、feelings大量投稿文化を醸成しようとする張本人として申し訳ない気持ちになった。書かなくても大丈夫だと伝えた後に、彼(或いは彼女)は暫くしてfeelingsを提出してきてくれた。提出されたfeelingsは中々指南性に満ちた内容であり、痺れる思いであった。彼(或いは彼女)はきっと幸せな人生を送ることができるだろう、いや、送るべきだ、とカトリックの高校出身としてYは神に宣言しておくこととする。
feelingsについての話が異様に長くなってしまったようである。Y以後、ここまでfeelingsに字数を割く人間ももはや現れないであろうと思いつつも、Y以上の人間が現れてくれれば、嬉しい限りである。
ちなみに、今現在のYはあまりfeelingsに興味が無い。feelingsを読もうという感情はいつの間にか小さなものとなってしまっていたし、それはともするとYにとってのア式がもはや思い出的過去となってしまっているからなのかもしれない。しかし、そんなYの変化は当然の様にfeelingsには何の関係もなく、次々と良作と評すべきfeelingsは誕生していっている。特に、1年生(109期)達のfeelingsは中々粒ぞろいであり、ぜひ読んでみてほしいものである。
feelingsはYにとって非常に重要な意味を持っていた。大学2年次から入部したYにとって、ア式における自身のアイデンティティを考える際、feelingsは大きな支えとなった。ひっそりとア式における「期」制度を作り上げ、feelings係として投稿の1つ1つに「〇期」と書くことによってその認知も図った。(シンヤサンと共にア式の歴史を紐解き、自身を106期なのだと自認するに至ったその過程は、アメリカ独立宣言にも匹敵する偉業と言えるであろう。)
feelingsに関する活動の1つ1つはYにとってはかけがえの無い思い出たちである。どの様に投稿すれば多くの人に読んでもらえるかを試行錯誤する毎日は意外にも楽しかった。提出されたfeelingsを一読者として読み、校閲者として読み、最終確認者として読み続けた毎日は意外にも様々な発見があった。どのfeelingsも最低3回は読む中でYにとってア式の人々はどこかで繋がっている存在となりえた。feelingsの取り立てを行う中で様々な人々と様々な会話ができた。feelings係だからこその楽しみが沢山あったなと今改めてしみじみと思う。
第1代目ホシ、第2代目ナカダにはぜひこの脆く儚いfeelings文化を守っていってもらいたいものである。そして、Yの知らない第3代目以降の部員にもぜひfeelingsをこよなく愛する者が就任することを切に願っている。
3. 『命短し歩けよ乙女、登る南の裸猿』
コロナ禍の応援風景の1枚。この頃は声を出してはならないため、録音やプラカードが大活躍していた。中々貴重な経験であった。ちなみに全身ジャージは若き日のYであり、祈る乙女を模した古代ギリシア美術の様な雰囲気を醸し出すことに成功している。美化的表現を廃し端的に表現するならば、気味が悪い。そしてマスクはどこにいったのかと、そう問い正したい気持ちを抑えることが今のYには出来そうにない。
『命短し恋せよ乙女、登る南の裸猿』は、2023年6月10日に投稿されたYの第2作目のfeelingsであり、ア式入部3年目に書かれたものである。Yの誕生まで遡った挙句、何が何だか分からぬままに文章は終わっており、当時のYの心情が推して知れるようである。その頃、Yはfeelings係という取り立て専門業者の様な業務を担っており、Y自身がfeelingsを執筆しないといった権威主義的腐敗は正義に反していたという、半強制的自律もその背景にはあった。
第1作目に当たる『われらも集ふ君が庭』を執筆した際、Yは村上春樹の著した『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいた。そして、第2作目に当たる本作執筆の際もまた同様に村上春樹の『国境の南、太陽の西』を読んでいた。その様なYにとって第2作目の題が『国境の南、太陽の西』にあやかることは至極当然の理に思え、その帰結として本作の題名にも世界を二分する読点が入っているのである。
それから、これはつい今しがた知ったことではあるが、『ねじまき鳥クロニクル』と『国境の南、太陽の西』にはどうやら緊密な繋がりがあったようだ。村上春樹の妻は、彼の書き上げた『ねじまき鳥クロニクル』について「多くの要素が盛り込まれすぎている」と評した。その際に除いた3つの章こそが『国境の南、太陽の西』のもととなっているそうである。
村上春樹の『国境の南、太陽の西』が1つの完成された文学として成立しえた一方、Yの『命短し〜』が『われらも〜』の補完的(或いは発展的)作品として書かれながらも、最後まで物語を閉じられなかったことを思うと、Yと村上春樹の如何ともし難い「差」(それは作家としてのものでもあり、1人のニンゲンとしてのものでもあり、或いはその他の有象無象のものでもある「差」)を感じずにはいられない。
ともかく、Yにとってこの2作目は、1作目とは切り離しがたいものとして書かれ、それはまた無意識的に、或いは運命的に、その題として表出していたといった話である。
話はまた長い長い説明へと戻る。
まさかこの読点に何かしらの由来があると考えていた読者も居らぬかと思うが、読点に由来があるのならば当然の如くその他にも由来がある。
まず、前半部分の「命短し恋せよ乙女」とは、第一次世界大戦下の特需景気に沸く日本において一躍流行歌となった「ゴンドラの唄」の歌い出しの一節であった。この歌い出しはそれから100年以上が経過した現代日本でもしばしば用いられるほどに浸透しているようだ。様々なアーティストがこの文言を自身の歌詞に採用し、様々な文筆家がこの文言を自身の文章に採用している。
当時のYにとって、自身の心或いは人生には決定的な「何か」が足りていなかった。その表層的或いは深層的な「何か」を探し求めるYにとって、この「命短し恋せよ乙女」というワードは、自身の羅針盤となりうる刺激的な要素を含んでいたのである。Yにとって乙女でいられる時間は決して長くはないのだと、そういった考えにある意味において支配されていた。もしくはその刹那性に憧れていたとも言えた。
「登る南の裸猿」は反面、只の造語に過ぎない。先の「命短し恋せよ乙女」の七七調とのテンポ的調和が重視された結果、七五調の言葉が探求・採用され、この後半部分が生まれた。
あの頃のYには、梅雨の早朝の様な漠然としたむず痒さ、1日を気持ちよく始められない様な不安とも呼べない(しかし確かにそこにある)微かな暗さがつきまとっていた。それが他者からも察せられたものか否かは知らぬが、少なくともYは森の中に閉じ込められたようなその閉塞感をどうにか打破したいと思っていたし、そのためには木をよじ登り、どうにか空を拝み、そして森全体を見渡す必要があった(少なくともそう考えていた)。
また、Yのアイデンティティを形成する重要な要素の一つに、遠い南の地にある指宿ないしは鹿児島があり、青春を過ごしたラ・サール学園があった。それに加え、服を身にまとわない猿を裸猿(はだかざる・らさる)と表現する駄洒落がYは好きだった。その郷愁と選好が混ざり合った結果、欧米列強に対抗しうる強力な中央集権的近代国家樹立を目指し遠く北進した若き薩摩隼人と自身(裸猿)の姿が重ね合わされた。そこには恐らく、どこか本来的な明るさを感じさせる近未来的「何か」があったのであろう。
ア式2年目はYにとって最も明るいシーズンであったように思う。
まずもって人が好きであった。シマサキサン達がコーチを引退すると、次は103期がOBコーチを担当した。アズマサン、カエデサン、ゴツサン、ジュリサンの4人である。ヨシリョウサンは勉学に集中すると宣い柏へと消え、代わりにタカミヤサンが来た。
アズマサンは紛うことなき人格者であった。サッカーに対するひたむきさ・好奇心は無論のこと、勉学に対する姿勢も本物であった。東京大学に通う学生たるもの斯く在るべし、とそう断じても全く問題は無い。背も高く、顔も小さく、甘い微笑みを常に浮かべていた。Yにこの人と結婚したいとそう思わせる魅力があった。
カエデサンは紛うことなき捻くれ者であった。同期との卒業写真撮影を断り、常に批判的視点に立って口を開いた。内側に隠し持つ大きな愛を直接的に表現する術を持たぬツンデレであった。サッカーに対する広範な思考実験は彼を至高の領域へと導き、数多のア式部員が彼の指導を仰いだ。
ゴツサンは紛うことなき毒舌家であった。人間はあそこまで他者を焚き付けることが出来るのかと、Yは感服の念を以て彼を思い出す。彼がOBコーチになった際の決意は「常に声を出す」だったそうだ。結局、彼はア式の最下位カテゴリーの練習・試合も含め、本当に全てにおいて延々と声をかけ続けた。カエデサン曰く「あいつほどコーチに時間を割いている奴はいない」人であった。
ジュリサンは紛うことなき不思議ちゃんであった。190を超える長身が常にぼんやりと虚空を眺め、ゆっくりと言葉を発する様は圧巻であった。ある夏の日など、自身の脚に蝉が張り付いているのに気がつくと「蝉だ」とだけ発し、その後また彼は虚空を眺めた。蝉はミンミンとか細い声で鳴き続けていた。あまりにも奇妙な瞬間であった。
タカミヤサンは紛うことなきサッカー狂であった。現役選手よりも早くグラウンドに着き、一人延々とドリブルの練習をしていた。彼のドリブルはまるで当然のように相手を置き去りにした。コロナ禍も終焉に近づく中でマスクを着用し続けた彼(102期)は、どうやらコロナ予防のためOBコーチの任を1年遅らせていたそうだった。彼が自身の研究室に赴くと驚愕を以て迎えられていたようであり、就活の軸は「ア式OBのサッカーを続けられる関東圏内」であった。
もちろん彼らの存在はYの2年目のある一部分に過ぎない。それよりも、2年目はYにとっては「漸くサッカーの始まった年」と表現したほうが正確であった。
まず体が動くようになった。最大限弱体化した身体との一進一退の攻防を繰り広げつつ1年目を乗り越え、Yの体はサッカーという現実を受け入れ始めたように思えた。そして、どうにかこうにかサッカーの領域に足を踏み入れられるようになると、サッカーというものについて考える余裕を持てた。
Yのア式でのサッカー人生はようやくここで産声を上げたと言ってよい。
Yの2年目について振り返る。
カエデサン達がOBコーチに就任し暫くすると、YはFWをクビとなり、右WGとなった。それは当時のYにとって中々理解しがたい変更であった。
その頃のYと言えば、本当に見るに堪えないサッカープレイヤーであった。どれだけ簡単なパスでもトラップを失敗し、どれだけ弱い相手でも簡単にボールを奪われた。守備についても、戦術理解で致命的なものを露呈して足を引っ張り、すぐに体力切れとなり足を攣った。何故か得点のみは積み重ねており、それだけが唯一のYの救いであり、それこそがYのFWたる唯一の所以でもあった。しかし、言うなればそれだけであった。別に得点など誰でもでき、Yよりも上手い人間をそこに置けば攻撃が多彩なものとなることは自明であったし、実際にそのポジションに相応しい人間は他にいた。結果としてYは空白地帯であった右WGにコンバートされることとなった。ただそれだけのことであった。
客観的に見て、Yの転向は何らチームにとって弊害のあることではなかった。下手な奴はどこに置いても下手なだけであり、Yの胸中など関係なく、そこに理解しがたい理由は何一つとして無かった。
しかし、それでもやはりFWを解雇されたYの右WGは、案の定酷いものであった。
そもそも「FW→右WG」の変更は、ア式1年目まで遡ると「(右WG)→FW→右WG」と書くのが正しい。この初めの(右WG)時代、この時代が根本的に惨憺たるものであり、「お前にボールを渡したとして何が起こるん?」と半ば呆れ気味に、半ば怒り気味に言われたことも何度かあった。当然、そんなYが右WGにコンバートされたとて何か劇的な成長が見られるわけではなかった。
確かに、トラップや体力面については幾らかマシになっていた。しかし、依然として目も当てられぬほどお粗末であり、戦術理解に関しては何ら成長を感じないものであったように思える。Yはかなり絶望的な状況にあった。
けれども、Yはかなり楽観的でもあった。なんだか成長の見込みを感じていたし、なんだかやれる様な気がしていた。それは、1年前よりは確実に成長しているという事実から来る希望的観測であったろうし、自身を客観視できぬ未熟さから来る根拠なき自信でもあった。そして、やはり周囲の存在はYのサッカー的成長において非常に大きかった。
まずもって、OBコーチのカエデサンとアズマサン、タカミヤサンには本当に良くしてもらった。カエデサンはYのために多大な時間を消費し、延々とプレー動画を解説し続けてくれ、アズマサンは事細かにYのプレーについて助言をしつつ改善点を提示してくれた。タカミヤサンはWGとしてのプレーについて彼の経験を基に日々指導してくれた。彼らの教えがYのプレーの土台を作り上げたことは間違いなく、少なくともYにとっては金言の数々であった。
ゴツサンの存在も大きかった。先の3人が優しく教え導いてくれたのに対し(カエデサンは中々口も悪かったように思えるが)、ゴツサンは非常に毒舌であった。事あるごとにYのプレーの拙さを指摘してくる彼は、Yにとって正に「敵」であり、少なくとも「味方」ではなかった。練習前後の集合で弾劾され、練習中は質の低さを指摘され続けた。日曜に良く開かれていたリフティングゲームでも無様な姿を見せ続けるYに、「やっぱりお前が一番下手だな」としみじみ呟く彼に対し、Yは敵意以外の感情を見出すのがもはや困難であった。次第に、Yの2年目はゴツサンに「上手くなったな」と言わせるための1年間となっていった。舐められたままで終わらせるわけにはいかなかった。
そこから、Yは毎練習前後にひたすらリフティングをするようになった。インステップ、インサイド、アウトサイド、高いの、低いの、基本的なリフティングをきちんとこなせる様にひたすらボールを蹴り上げ続けた。別に誰と話すわけでもなく只リフティングをし続けるうちに、何か月かを経て気付けば中々安定したリフティングをこなせる様になってきた。リフティングの上達は副次的な効果を生み、Yのロングボールのトラップも安定させた。ロングボールをトラップできるようになってくると、落ち着きの様なもの(の片鱗)もYのプレーに生まれてきた。しかし、特段ゴツサンに褒められることもなく、月日は淡々と過ぎていった。
淡々と過ぎる月日の中でも、Yのサッカー人生は幾つかの節目を迎えつつ劇的に進んでいった。朝鮮大戦では、人生で唯一の逆足(左)ミドルシュートを決めることができたし、双青戦(東大と京大の交流戦)では50m程をドリブルで駆け上がりカシマダサンのアシストもできた。これらは誰が何と言おうと最高のプレーだったし、Yの記憶に今後も残り続けるであろう清々しいプレーだった。
OBコーチだけがYの成長を助けてくれたわけでもなかった。ショウは裏抜けの仕方を教えてくれたし、スヤマはWGのプレーを具体的に教えてくれた。ミッチーも練習の内外を通じプレーについて教示してくれた。イシノサンとインサイドパスの練習をしていたのも懐かしい。
Yの2年目は蹴り上げられるサッカーボールと共に過ぎていった。そして、ボールが木のてっぺんまで上がるようになる頃には、ア式での生活も3年目に突入していた。
3年目は「おもんない年」であった。
別に、全てが面白くなかったわけでは決してなかった。サッカーは勿論上達していっていたわけだし、3年目にもなるとア式はYの生活を彩る一部となっていた。虹を構成する色の境目を見分けられないのと同じように、ア式内外にはグラデーションがかかり、Yの生活はアーチを描いた。一方で、それはこの世に存在する全ての虹と同じように、その根元がどこにあるかの画定が出来なかった。例えこの世にそんなものが存在しなかったとしてもYはその根元を探すべきであったが、当時のYにはそれを探す旅に出かける勇気も気概も発想も無かった。ただ、過ぎゆく有限の時間を無限に旅している様に勘違いし続け、刹那的な存在であるところの虹を電車の窓を通し眺め続けるだけであった。
カエデサン達は引退した。ゴツサンから「ちょっとは上手くなったな。まだ普通に下手だけど。」の言葉も貰った。自分が右WGとしてどうプレーすればいいのかのある程度の形も見えてきた。
しかし、ア式での目標が見つからなかった。新しくOBコーチに就任したクノサンたちとの始動面談で目標を尋ねられた。
Yは「タニみたいになりたいですね」と答えた。
別にふざけているわけではなかった。しかし、1年次から圧倒的パフォーマンスを発揮していたタニにYがなれるわけは当然なく、タニになれるだけの努力をしているとも言えなかった。一般的な目標としてAチーム昇格と言っていれば良かった様にも思えるが、なんだかそれも違うような気がしていた。Yの様な下手な選手がAチームに上がるためには、その他の弱点を切り捨ててでも自身のプレーを尖らせ特化させていくことが最も現実的な戦略であるが、しかしそれはYにとって全く魅力的に思えなかった。
その戦略を適用するならば、Yは右WGとして縦突破に命を懸けるべきであった。余計なことは考えず、ひたすらに縦のみを志向し、クロスによるアシストか、裏抜けによるGKとの1対1を目指すのが最も効率的であった。しかし、やはりそれは魅力的な選択肢にはどうしても思えなかった。サッカーから離れた今のYにとって、それはただの感情的な言い訳に思えるし、ならばなぜもっと別の努力をしなかったのかと疑問に思わなくもない。しかし、一方で今のYでもまた同様に「タニみたいになりたいですね」と答えてしまうのだろうとも思ってしまうのである。
ここで簡易的に結論付けるとするならば、結局のところ、当時のYは路頭に迷い、ただ都合のいい言い訳を考えていたに過ぎないのであろう。周囲に頼り切っていたYは、彼らがいなくなってしまい、途端に歩き方を見失った。今まで自身が歩んできたと考えていた道は、実のところ道ではなく、幾重にも張り巡らされた壁であった。彼らがロープで引き上げてくれていたが故によじ登れていたその壁は、一人になったYにとっては、もはや登り方の分からぬ障壁でしかなかった。そしてまた同様に、当時のYは壁の先にある世界を想う想像力(それは目標設定能力とも言えるし、仮説思考力とも言えるのかもしれないもの)に欠けていた。
周囲に身を任せ、流れに身を委ねるだけの自分に別れを告げる必要があった。どうにかして自身の力で壁を乗り越える必要があった。殻に閉じこもるのではなく、全てを脱ぎ捨て裸になる必要があった。そうしなければ、Yが恋焦がれる瞬間の訪れないことはきっと分かっているはずであった。エーデルワインは意識的に求めるものではなく、無意識的に求めるものであるべきだった。
しかし、いつまでも乙女でいられるという甘い幻想に憑りつかれたYは、障壁を前にしてもただ立ち尽くすのみであり、森の中で仄かな反射光に照らされるのみであった。微かに見える空は小さく、視界は限りなく暗かった。
4. PERFECT DAYS
Yは「物語」が好きである。それを伝える媒体に特段のこだわりは無い。映画、小説、漫画、絵画、哲学書、教科書、ドラマ、アニメ、何であろうとかまわない。浪人期に、予備校の講師が「家に帰ったら読みたい本が沢山ある。だから俺は早く家に帰りたいっちゃん」と言っていたのを時々思い出す。Yにもその感情が分からなくもない。世の中には様々な「物語」が溢れており、人生で触れられるのはそのごくごく一部に過ぎない。Yが出会える「物語」は限定的に過ぎず、出会うことの無い「物語」はあまりにも多い。
昨年の1月に映画「PERFECT DAYS」を観に行った。
役所広司演じる平山というトイレ清掃員を淡々と追う静かな映画だった。それは、個別具体的な文献の存在しないドキュメンタリーであり、限りなく現実に近いフィクションだった。そこには劇的な物語など存在せず、退屈な時間も存在しなかった。
彼の素晴らしい日々を眺めた。寡黙な彼の声なき言葉に耳を傾けた。時たま流れるゆったりとした音楽に身を委ね、映画の中で起こる小さな漣に身を任せた。そこには心地の良い調和が潜在していた。
「Y君の理想の生活でしょ」
一緒に映画を見た子はそう言っていた。それは問いかけるようでもあり、断言するようでもあった。Yは日比谷の映画館にあるソファに座り、買ったばかりのパンフレットを眺めていた。Yはその言葉に何と答えたのだろう。ただ漫然と「そんなことはないよ」と答えたように思う。或いは「確かにね」とこれまた漫然と答えたようにも思う。
平山の朝は早い。まるで最初からそう決まっていたかのように自然と、そして正確に起き上がり、薄い布団を畳んで狭く急な階段を下る。
顔を洗い、電気シェーバーを両頬に当てる。口髭をハサミで整える。生まれた時からそうであるように髭は整然と剃られてゆき、いつもの形へと落ち着く。
今度は階段を上る。踵を付けず、霧吹きを持ち、ひっそりと上っていく。古いボロアパートはそれでも軋み音が鳴る。手作りの植木鉢に植えた小さな木たちに丁寧に水を吹きかけ、その葉を軽く指で弾く。
再度階段を下りる。青い清掃員のユニフォームに身を包み、玄関へと向かう。玄関脇の小さな棚の上に並べられた持ち物をポケットに入れる。その動作は滑らかで、まるでベルトコンベアに乗せられているように淀みなくポケットへと吸い込まれていく。ガラケー。フィルムカメラ。車のキー。小銭。兄弟の生まれた順序が逆転することが無いのと同じくらい当然のこととして、同じ順番で、同じタイミングでポケットへと入れられていく。
ドアを開ける。空を見て、少しだけ微笑む。駐車場の自販機で缶コーヒーを買う。
車に乗り込むとルームミラーに映る自分と目が合う。運転席の上にある棚に手を伸ばし、カチャカチャとカセットテープを掴む。
選んだカセットを半分だけ挿し、アクセルを踏む。いつもの道を通る。スカイツリーが見えてくるとカセットを最後まで押し込む。決して荒ぶることのない軽快な音楽が流れる。Lou ReedやNina Simoneといった古い時代の洋楽が多いが、たまに邦楽を流す日もある。しかしどちらにせよ、それらは彼よりも古い時代のもののように思え、現代とは隔絶された時が流れていく。
掃除場所に着く。いつも決まったトイレを掃除する。特殊な道具(それはトイレを掃除する以外の用途があるようには見えず、平山自身がその特殊な状況に合わせて作った最良のもののように思える。)を用い、作業は進む。無駄は廃され、何の問題も無く作業は進んでいく。
昼は公園のベンチで食べる。食べ終えると写真を撮る。ベンチに座ったまま、大きな木に小さなフィルムカメラを向ける。いつもと同じ木を、いつもと同じ角度で、いつもと同じように撮る。木漏れ日を写す。木の葉が風に揺れ、光と影が揺らめく。揺らめきの残像は一瞬だけ存在し、また別の木漏れ日が生まれる。それが瞬間的に、或いは恒久的に繰り返されていく。
早朝に始まった仕事は夕方には終わる。家に帰り、銭湯へ赴く。まだ殆ど人はいない。地下の居酒屋に顔を出す。元気な店主に小さな笑みを浮かべる。何も言わずとも皿が出てくる。チューハイを片手にテレビの方を見る。野球を、或いは野球を見る常連を眺める。
また家に戻る。読みかけの本を読む。古本屋で購入した本が並んでいる。部屋は暗く、読書灯が本を照らす。次第に眠くなってくる。明かりを消し、眠りにつく。また明日がやってくる。平山は深い眠りにつく。
彼はルーティン化された日常の中に生きていた。孤独と無機質が支配する日々の中で生きていた。その中心部には確固たる芯が存在し、その固く確りとした芯が彼の魅力に思えた。孤独とも無機質とも無縁の(しかしそれが何で構成されているのかYには分からない)その芯があるからこそ、彼の生活は完璧であるように思えた。もしくは、過不足の無い十分なもの(少なくとも彼自身は満足しているもの)に思えた。
「この映画の脚本はとても特殊な方法で書かれている。
最初に私たちは平山の1日をしっかりと追う。
そしてそれは繰り返される。
けれどもそれは平山にとって繰り返しではない。
いつも全てが新しいのだ。」
「PERFECT DAYS」のパンフレットにはこう書かれていた。Wim Wendersにとって、それは「WHO is HIRAYAMA」に対する1つの答えであり、答えに対するアプローチの1つであったのかもしれない。
「Y君の理想の生活でしょ」
その木漏れ日は小さなフィルムカメラで切り取られ、1枚の写真となった。刹那に過ぎない瞬間が脳内に記憶された。ぼやけた文字として、朧げな情景として、或いは微かな音声として。
あの子はどうしてああ言ったのだろう。ふと考えることがある。もしかすると、ただの呟きに過ぎなかったのかもしれない。彼女にとってそれは光と風の自然現象的交わりに過ぎなかったのかもしれない。
Yにとっての″perfect days″とは何なのだろう。ふと考えることがある。平山のようにルーティン化された生活を送ることだろうか。同じことの繰り返しに見える、しかし全てが新しい生活を送ることなのだろうか。
平山の生活はフランシスコ会の修道士のそれを連想させた。清貧であり、禁欲に思えた。粗衣に裸足で過ごした彼らの姿をYに思い起こさせた。
或いは、平山の生活は古の儒家のそれを連想させた。彼の心は常に穏やかであるように思えた。己を知り、己を律しているように見えた。彼は常に中庸の道を進んでいるようであり、そんな彼に人は惹き付けられた。謙虚で、多くを語らなかった。
けれども、実際のところ平山は平山でしかなかった。彼は修道士のように神に仕えてはいなかった。誰よりも福音を重視し、人々に神の国と悔悛を説くこともなかった。一切の所有権を廃し、その不足を喜捨に頼ることもなかった。堕落する中世キリスト教教会に対し異議を唱え、理想を厳格に追い求めることもなかった。彼は”今”を生きていた。修道士のように天国を目指し、最後の審判を待ってはいなかった。
平山は平山でしかなかった。彼は儒家のように世に憂えてはいなかった。古の周の時代を理想としていなかった。聖人君子の登場を待ち望んでおらず、より良い方向に社会を導く使命感も無かった。秩序を維持するための装飾を施すことも無く、他者に対し絶対的に正しい何かを求めることも無かった。彼はありのままの”己”を生きていた。儒家のように理想を追い求め、自己を修正していく信念を彼は持ち合わせていなかった。
Yにとっての″perfect days″とは何なのだろう。ふと考えることがある。或いは、常に無意識的に考えているのかもしれない小さな疑問が、ふと意識の表層にまで浮上してくることがある。
そしてYはしばしばこう思う。それはやはり平山のような生活なのだろうと。”今”を生き、”己”を生きることなのだろうと。Yが「PERFECT DAYS」を観た際のあの感動は、決して平山の具体によって引き起こされたものではないのだろうと、そう思うことがある。平山の具体は作品的な美しさに過ぎず、それら細々とした事象をろ過した末に抽出されたものがYにとっては大切であるのだと。
Yはしばしば考える。Yの理想の生活とはどのようなものなのだろうと。しかし一方で、その答えが見つかるか否かはYにとってあまり重要ではないのだろうとも思っているのだろう。
ただ言えることは、”今”を生き、”己”を生きることが重要であるように思えるということだけである。その生き方が間違っていたとしても、それは大して重要なことではないのであろう。
Yはただ、朝起きて夜眠ればいい。いつものように起き、いつものように眠ればいい。ひょっとすると夜起きて朝眠る日もあるかもしれない。だが、それでもいい。
何気ない日々で喜怒哀楽を感じられればいい。植物の心のような平穏な生活を送れればいい。たまには、身体中からアドレナリンが湧き出るような興奮を感じる日があってもいい。
朝起きて夜眠る。Yは繰り返される1日をただ過ごせばいい。過去の繰り返しでもなく、未来の巻き戻しでもない、″今″と表現するしかないその時間を、YはYとして過ごせればそれで良いのだろう、とそう思っている。
YがYを見失わぬように。YがYを置いていってしまわぬように。あの時間でもなく、どの時間でもなく、ただその時間を生きてみたい。玄関の扉を開け、いつもと同じ(けれどいつもと同じではない)空を見て、自然と笑みがこぼれてしまうような、そんな素晴らしい人生を生きてみたいと、少なくとも今のYは思っているのだろう。
5. 『See me @gain』
試合の具体的な詳細は忘れた。2024シーズンのリーグ戦において、いつの日にか、どこかの大学に、どうにかして勝利した際の写真である。久しぶりの勝利に皆が喜び、雨の中、選手も応援団もびしょ濡れになりながらサッカーに興じた。中央に見える傘はYの差しているものであり、この写真に一輪の華を手向ける重要な役割を果たした。中央からずれた位置にいたYが、必死に腕を伸ばし傘を写真中央部に持っていった真意は今となっては定かではない。大雨を防ぎきれぬ小さなビニール傘は、この写真をYにとって思い出深いものとする一因となった。
『See me @gain』は、2024年6月9日に投稿されたYの第3作目のfeelingsであり、ア式入部4年目に書かれたものである。Yがア式を離れていた時期の出来事や心情が中心に描かれており、Yの過去3部作の中で個人的に1番気に入っている作品でもある。
この頃のYは色々なことを重く考えすぎていたのかもしれない。もっと自分らしく、もっと自分に素直でいればよかったのだろうが、当時のYにとってそれは非常に難しく思えた。いや、実際問題として難しかった。街灯も無い暗い道をただ歩き続けるしかなかった。その道が正しいか考える余裕はなく、歩き続けることが運命なのだと盲目的に言い聞かせ続けた。行先も分からない道で、立ち止まるのだけは嫌だった。
2023年の10月頃に105期と共にア式を去り、2024年3月10日にマシロにLINEを送った。Yのア式人生における半年にも満たないこの空白期間は、不可抗力的に幕を開け、自己完結的に幕を閉じた。その空白期間はしかし、Yの人生を見つめ直すには最適な期間であったようであり、YがYという人間を再発見するための一助とはなった。
作品名には、もう一度好きな自分に会いたいという願いを込めた。"see me again"が文法的に正しいのか、そしてYの意図した意味となっているのかは定かでない。そして、Yの求める「me」という存在がそもそもどういったものなのか、その「me」は既にYが出会ったことのあるものなのか、それすらも曖昧で、多分に概念的な存在ではあった。しかし、少なくとも今の自分に別れを告げる必要があり、新たな(或いはかつての)自分にまた会いたいという気持ちがあることは確かであった。
ア式では何かを得られるはずだと期待を込めた。何かしらの"gain"を与えてくれる"場所"であってほしいと願った。別に大層なものでなくともよい。俗物的なものであろうと、少なくともYが求める何かを手に入れることができる場所であってほしいと、そう思った。
Yがfeelingsを書く際、いつも初めに題名があった。それは『See me @gain』においても例外では無く、いつかの電車でこの題名にしようと決めた気がする(Yの思考はいつも電車内における暇な時間に行われる)。そうして、『See me @gain』という、こねくり回された題が生まれた。正にオナニー的題名と言えるものであった。
小説の様な文章を一度書いてみようと思った。キイチの『20歳、初めてのとうもろこし。』は虚実が入り交じり面白かったなと思った。
ですます調のfeelingsを一度書いてみようと思った。オリタの『未来の自分を黙らせろ』は丁寧な文章で良かったなと思った。
最初の一文は心に残るものにしたいと思った。Yが今まで面白いと思った小説はいくつもあるが、それらはどれも一文目から面白かった。良い小説の一文目は簡潔であり、端的であった。そして、その物語全体を表現する奥深さを持っているように思えた。
少なくともY自身の心に残る一文から始めたかった。
「或る日、猫を見ました。」という書き出しでfeelingsを始めた。この書き出しを今のYは思いのほか気に入っている。初めてその一文を打ち込んだ際には、自身の表現力の無さに忸怩たる思いであった。Yには決して村上春樹や司馬遼太郎のような文章が書けないことは火を見るよりも明らかであった。しかし、何度も推敲するうちに悪くないと思えてきた。それは只の刷り込みに過ぎず、正当化に過ぎないのかもしれないが、少なくとも等身大のYを表せているように思えた。この一文を見ていると、Yの好きな自分でいられるような気がした。
本作『アサオキテ~』を書くにあたってもう一度眺めてみる。やはり、悪くない書き出しである。
「2023年。思い返せばなんだか楽しくない1年間でした。今まで通りサッカーボールを蹴って、かつての自分より格段にサッカーも上手くなって。でも楽しくない。自分ではどうしようもない気持ちがもやもやと渦巻いていました。」
『See me @gain』にはこう書かれていた。
当時のYにとって、その感覚は決して無視できるものではなく、すぐにどうにかできるものでもないように思えた。決定的な何かが起こったわけでもなく、象徴的な何かがあったわけでもなかった。雲がゆっくりと流れていくようにごく自然に、しかし抑えることのできないものとしてしっかりとそこに存在し、そして漂っていた。
ミタニ、ミッチー、ケムヤマ、モモ、オカノ。Yが好きだった同期はア式を離れ、それぞれの道を歩んでいた。そして、Yの愛した先輩方はア式を引退し、冗談を言い合ったのも遠い昔のこととなった。カエデサン達もOBコーチを引退した。加えて、学業、生活、人生計画と、様々なことを考えなければならなかった。
Yはただサッカーをした。
それは、サッカーに邁進したということではなかった。サッカー以外のことを考えたくないがために、サッカー以外から目を逸らしたということに他ならなかった。しかし、そのような中途半端な心持ちで楽しめるほど、Yはサッカーに長けてはいなかった。
どれだけ劇的なゴールを決めようと、どれだけ綺麗にトラップできようと、どれだけ相手を抜き去ろうと、YはY自身がサッカーをしている楽しさを享受することができなかった。
どこか他人事であった。心の奥底からサッカーを楽しめていない自分にさえもYは目を背けた。Yはただサッカーをしているだけであった。
2023年の10月にYはア式を離れた。留年したことにより生じる余分な費用を稼ぐためであった。学費や家賃、光熱費や生活費を概算すると、240~300万円が必要だった。大学生が悲観的になるには十分な額だったように思う。
両親に頼み込めば何とか工面してくれたのかもしれないなとも思う。しかし、それは只の甘えであるように思えたし、なにより、300万円を家族に背負わせてまでサッカーを続ける覚悟がY自身にあるようには到底思えなかった。
マシロの開いたZOOM面談を経て、Yはア式を離れることとなった。面談中、エノモトが「コンサル志望の端くれとして、今回、Yの資金繰りを解決する施策を考えてまいりました。」と言っていたが、その施策は残念ながら不採用となった。もし次回があるとするのならば、もう少しろじかるでくりてぃかるな、ゔぁりゅーのある施策を持ってきていただきたいものである。
(そういえば、10月のある日の夜、イシコからも電話が来たのを思い出した。農学部3号館の前の木の周りをぐるぐる回りながら話をした。親に土下座をしてサッカーを続けてはどうかといった話であった。大金を稼いでア式に戻るのは全くもって現実的な話ではないであろうと。しかし、そのような電話が来てしまうと、尚のことYの決心は固まってしまうのであった。
オリタはよくYのことを「1度言い出せば絶対にそうしようとする。だから言ってもしょうがない」と言っていた。そんなに頑固な人間ではないとYは思いつつも、少なくともイシコから電話が来た時のYは頑固であった。”やってやんよ”の気持ちが燃え滾ったのを覚えている。「まぁ見とけ」と盛大な死亡フラグを立て、Yとイシコの会話は終了した。)
ア式を離れた空白期間はYにとってかなり苦しい日々となった。
まずもってお金を稼ぐということは生半可な覚悟でできる事ではなかった。あの頃、Yは4つのバイトを掛け持ちしていた。スーパーでレジ打ち・袋詰め・品出しをした。洋食屋で皿洗い・ウェイター・開店業務をした。中学生に家庭教師をした。営業のバイトをした。それらに加え、株式投資にも本腰を入れた。バイトだけでは安定した収入を見込めなかった。
勿論、バイトさえしていればいいという話ではなかった。就職活動を精力的に行わなければならなかった。自身のキャリアプランについて、少なくともその方向性は学生のうちに考えておく必要があった。自身がなぜサッカーをしたいのかも分からないまま、どのような人生を送りたいのかを考え続ける必要があった。少なくとも考えているようには見せなければならなかった。
そして、Yは大学生でもあった。即ち学業にも最低限取り組む必要があった。最低限とはいえ、英語の文献を読まねばならぬ時もあったし、大量の論文を読まねばならぬ時もあった。Yよりも知識量において勝る学部生と議論をせねばならぬ時もあったし、修士や博士課程の前で無力に首を垂れねばならぬ時もあった。教授においてはもはや雲の上の存在に等しく、アカデミアとは斯くあるべし以外の感情を抱けぬこともあった。
こうしてYのア式空白期間は瞬く間に過ぎ去っていき、気付けば早3月となっていた。
この期間には様々な人々との出会いがあった。そこには新たな出会いのみならず、古くからの知り合いとの交流も含まれる。Yは彼らとの出会いを通じ、自身が本来的にどういった人間であるのか、そしてどういったものを望んでいるのかが見えてきたように思えた。あの辛く苦しい期間は、Yに金銭をもたらし、そしてもっと大切な新たな気付きをもたらした。
Yのア式生活は3月中旬から再開した。初日はあいにくの大雨だった(気がする)が、久しぶりに蹴るサッカーボールは、Yに懐かしさを覚えさせた。そしてシンプルに気持ちが良かった。
フィジカルコーチのカワカミ(弟)は、ボールも蹴らせず、ランメニューばかりを課そうとしてきた。そんなパワハラにもめげず、Yはぶつくさと文句を言い続け、ロンド参加権を得た。
Yの体はまたどうしようもなく動かなくなっていた。それはア式に入部した当初ほど酷くはなかったものの、空白期間がYから奪ったものを認知するには十分なほどには動かなくなっていた。かなり劣化したロンドを披露したように思われるが、少なくとも半年前よりもサッカーを楽しめているように思えた。切れ長の細い目と、早口の関西弁を捲し立てる口を擁するカワカミ(弟)は、顔全体を用いて「ほれ見たことか」といった表情をしていたが、そんなことはどうだってよかった。Yは、サッカーを楽しもうと思えていた。
ジュンサンが、Yとヤマダサンと3人で話した時のことを『逢魔時』に書いていたことを思い出した。Yはその時「いつもの陽気な口調」で目標について話したらしい。
あの頃の気持ちに少しだけ戻れたような気がした。
自己完結的に、そして身勝手に、ただ自分のしたいままに、サッカーボールを蹴りたいという、軽やかで朗らかなあの気持ちを、また持てるような気がした。
6. 岐路、帰路、生絽
2024年度関東大学サッカーリーグ戦(東京・神奈川)1部最終節の後に撮られた写真である。結局、最後の最後までYたち106期は綺麗に整列することが出来なかった。しかし皆、Yが各々に対し想像しうる通りの顔で笑っている。中々悪くない。いや、控えめに言っても最高の写真であろう。
Yがかつて読んだfeelingsで、
自分が選んだ「選択」に後悔したことがありません。
と書いている人がいた。
何を言っているのだろうと思った。それは大した「選択」をしてこなかったからなのではないかと思った。大きな分岐の無い道は、どのように歩もうと当然の如く同じ終着点に辿り着く筈であり、そこに「選択」の善し悪しが生まれる筈も無かった。評価に大きな差異のない「選択」は、本質的に「選択」と呼べる代物ではなく、そのような「選択」に後悔の生じる余地がある筈も無かった。
或いは、逃避の正当化に過ぎないと思った。何か大きな壁に直面した時、その壁を迂回しているだけなのだろうと思った。僅かな可能性を信じ挑戦するという「選択」をしない者に後悔が生まれる筈も無かった。そこには消極的な成功が無数に散らばっているだけに思えた。
そして或いは、見えている世界が小さいのかもしれないと思った。自身の「選択」を一元的にしか見られていないと思った。複次元的に自身の「選択」を鑑みれば、その「選択」によって失ったもの(或いは他の「選択」により手に入れられたもの)について後悔が一度も生まれないということは無い筈のように思えた。
しかし、Yは彼(或いは彼女)のfeelingsを読んだ際、その一文に違和感を覚えたわけではなかった。むしろ共感めいたものを覚えた。Yが自身の「選択」(或いは人生)を顧みた際、そこに後悔が潜在しているようには思えなかった。少なくとも表出してはいなかった。
後悔の存せぬ人生というものは些か薄っぺらいものに思えたYは、必死に自身の後悔を探そうとした。Yはこれまでの人生において様々な大きな「選択」をし、当然の如く逃避の正当化とは無縁であり、そして多角的な広い視野を持っている筈であった。Yはただ自身の感情とは裏腹に、彼(或いは彼女)の言葉に批判的視点を適用しようとしたに過ぎなかった。天邪鬼的に罵ってみたかったに過ぎなかった。
けれども、幾度探そうとも、幾ら探そうとも、Yは自身の「選択」に何らの後悔も見出すことが出来なかった。Yがこれまで行ってきた「選択」は、その全てが最善のものだったとは決して言えず、失敗も多い人生ではあるが、それでもやはり、無数に行ってきた「選択」について後悔と呼べるほどの大層な感情を抱けない自分がいた。あの時こうしていればと後ろ髪を引かれる思いが生れたとて、それは刹那的な感情に過ぎず、Yの人生史を紐解く際に特筆すべき感情にまで繰り上がることは無いように思えた。そして実際のところ、Yはそのレベルにまで肥大化した後悔の念を未だ有していないように思えた。
2024年3月、半年弱ほどア式を離れていたYが久しぶりに出会ったア式は、以前Yがいた頃のア式とは別のア式となっていた。ア式にずっといた人間からすれば些細であるかもしれない変化は、Yにとっては変質ともいうべき、何か別の存在へと変わり果ててしまったもののように思えた。コウグチの声は大きくなり、ショウは後輩女マネと仲良く話していた。ニシキタニは眼鏡を外し、カワカミ(兄)はコーチとなっていた。幾人かの部員がア式を去り、幾つかの新しい顔がア式に増えていた。変わらないのはエノモトとシュンスケの細さだけであり、それ以外にYに普遍性を感じさせてくれるものは無いようにも思えた。ア式はYにとってテセウスの船であり、ヘラクレイトスの川であると言えた。
いつの日だったか、ア式を離れていた空白期間にコウグチとショウと3人でフレンチのディナーを食べた。綺麗な夜景の見えるレストランだったが、Yたちが座ったのは窓際ではなかったため、他の客の方がよく目についた。デートや誕生日などで利用している客が多く、Yたちのような男子大学生3人組は中々の異分子に思えた。コウグチはいつものように余計なことを口走り、ショウはいつものように大したことを話さなかった。
食事の際、コウグチに何度か「変わっちまったな」と言われた。変わったのはお前の受け取り方だろとその度にYは言い返した。しかし、Yはひょっとすると本当に変わってしまったのかもしれないとも思った。
変質したのは、ア式ではなくYであるのかもしれなかった。
ア式に戻ってからのYは色々な部員と話をした。元々、人と話すのは好きな質ではあったが、意識的に他者と話すことを心掛けた。それはア式を抜けていた空白期間の経験によるものであったかもしれないし、ア式の人々をもっと知りたいと思ったからかもしれなかった。或いは、何か新たな刺激が欲しかったのかもしれないし、なぜア式に戻ったのかをY自身まだ良く分かっていなかったからかもしれなかった。
Yはよく「なんでア式に入ったの?」と尋ねた。皆の答えは基本的に「サッカーが好きだから」だった。それはそうだと思った。好きでもないのに大量の時間を玉蹴りに投下できる筈も無かった。
Yもサッカーは好きだ。サッカーボールを蹴るのが好きだ。
「お前の目標は?」と思い出したかのように尋ねて回った。ある時はロッカールームで着替えながら尋ね、ある時はグラウンドに向かいながら尋ねた。色々な答えがあった。即答する人もいれば、少し考えてから答える人もいた。
ショウゴは、「ユニフォーム着て、トップの試合出て、活躍したいすね」と言っていた。にこっと笑い、Yの目をしっかりと見て、はっきりとそう答えていた。こいつはこんなにしっかりと自己表現することもあるんだと少し印象的に思った。「かっこいいすね」とYが返すと、「まぁ実力が足りてなさすぎるんすけどね」とショウゴはおどけていた。その自嘲だけはいつも通りだった。
Yの目標は何なのだろうと思った。サッカーが上手くなること。自分がサッカーを本当に楽しいと思えるレベルまで上手くなること。けれども、それを目標と呼んでいいのかはYには分からなかった。ショウゴのようにはっきりとそう答えられるのかは少し疑問だった。
ア式に戻ってからの生活は中々悪くなかった。空白期間を経て体力が激減し、ボールタッチが思った以上に上手くいかなかったとしても、サッカーに日々触れられる毎日は楽しかった。ア式の人々と話すのも中々楽しかった。Yがア式に復帰して1か月も経たず新1年生が入ってきたこともあり、新しい出会いには事欠かず、刺激もあった。
しかし、悶々とまでは行かなくとも、何かぬぐい切れない靄が心にかかっているように思えた。何かが面白くなかった。
「おもんない」
そんな言葉がYの脳内を駆け巡っていた。ふとした瞬間に「おもんない」が顔を出し、眼前に鎮座していた。漸くどこかへ行ったと思っても、気が付くとまた「おもんない」が眼前をぐるぐると走り回っていた。
おもんない、おもんない。おもんない、おもんない。
何が面白くないのか。それはYにも分からなかったし、そもそも何が面白いのかもYには分からなかった。Yが何を求めているのか、それすらもYには分からなかった。
ある日の練習終わり、Yは部室の玄関に座り込み、スパイクを脱いでいた。遅れてハシモトも入ってきた。何故か上機嫌だった。
「Yさ~ん、今日は天気が良いねぇ!」とハシモトは言った。
にやりと笑い、軽口を叩くように、そして今日という日が一年に一度しかない、とてもいい日であるかのようにハシモトは言った。
「何か良いことでもあったの?」とYはハシモトに尋ねた。
「天気が良いことをYさんに伝えたかっただけですよぉ」
Yは唖然としてしまった。その日は特段珍しい天気ではなかった。散在する雲は星を隠し、空気は少し肌寒かった。
Yはロッカールームへと入っていった。ハシモトの上機嫌ぶりが頭から離れなかった。
ロッカールームではシムラが服を脱いでいた。シムラにふと「今日何かいいことあった?」と聞いてみた。
「1個ある」とシムラは答えた。
シャンプーとリンスの容器を100均で買ったという話だった。それにより、これまで悩まされてきた、どちらがシャンプーでどちらがリンスかという悩みから解放され、部室シャワーにおけるQOLが向上すると言っていた気がする。シムラはその話をするとシャワールームへと消えた。
天気の話もシャンプーの話も、Yには余りに小さな幸せに思えた。ハシモトとシムラはYならば着目さえしない世界を見られているように思え、なぜか異様に感動してしまった。
ある日の部活終わり、Yは帰宅のため、東大前駅を目指しオリタと共に本郷通りを歩いていた。Yは何か「おもろい」ことは無いのか、おもんないことしかないではないかと愚痴をこぼした。それはもはやYの日課となりつつあり、とりあえず「おもろい」ことに飢えた獣を口先で演じていたに過ぎなかった。
「おもんないおもんない言ってるけど、本当におもんないのはお前なんちゃうん。お前は何かしてるのか?」
とオリタは言った。
雲が散り、霧が消えたようであった。おもんないのはYであり、Y以外の何物でもなかった。Yに足りていないのは「おもろい」ことではなく、「おもろい」にする努力(或いは気の持ちよう)であった。いつもの天気も、シャンプー容器も、「おもろい」素質を持っているのであり、それにYが気付けていないだけに過ぎなかった。
Yは後悔、ひいては「選択」についてまた考える。Yにとっての「選択」とは何なのだろうと。そして、Yはいつも過去的に(或いは未来的に)「選択」しているのかもしれないと思った。無意識的に行われた「選択」を、未来からラベリングしていることが多いように思えた。
Yは自身の人生を無意識的に生き、その時を生きるYが様々な選択を行う。しかし、それがY自身に「選択」として認知されるのはその時ではなく、その後のYによってであった。YはかつてのYが行った「選択」を1つの物語として帯状に認定し、その物語に題名を付けた。それはある時は「ア式引退」という題であり、ある時は「ア式の楽しかった思い出」という題であった。Yはテセウスの船であり、ヘラクレイトスの川であった。過去・現在・未来のYはそれぞれに似通った共通点があろうとも各自別個の存在であり、現在のYは過去も未来も如何様にも決定しうる権力を持っているとも言えた。
「ア式引退」もYにとっては様々にラベリングできた。それは当時のYにとっては無意識的に行われた選択であろうとも、未来のYにとっては意識的な「選択」であった。
ナカムラと引退間近の気持ちについて話した時が「ア式引退」であったのかもしれない。
「俺は4年生がいなくなることを寂しく思うけど、Yさんは意外と普通ですね」とナカムラはある日の練習後、農学部際グラウンドで言ってきた。「確かに。なんでなんだろうね」とYも返したように思う。ナカムラは、「1年生の俺らはまだア式生活が続くから未来を想って寂しくなるのかもしれないけど、Yさんはもう後は受け入れるだけだからじゃないですか」と言っていた。中々芯を食った話に思えた。
もしくは育成チームの最後の試合の日であったかもしれない。
タナカ、オリタ、シマ、イシコ、スギヤマ、エノモトが並ぶ姿を見てなぜだか涙が止まらなかった。シンケと話していたのに、突如お喋りをやめてしまうほどには涙が溢れてしまった。生粋の薩摩隼人であるYは溢れ出る涙を周囲から隠す必要があり、非常に無駄な体力を使ってしまった。
そもそもグラウンドに向かう電車の中から涙が出そうであった。feelings(誰の何であったかは忘れてしまった)を電車内で読んでいるときから涙腺が限界を迎えており、これは今日は厳しい戦いが待っているぞと思ったのを覚えている。
試合後もなぜだか涙が出たし、ベンチに一人座って感傷に浸っていると更に涙が溢れてきた。ただの馬鹿である。結局涙を流してしまっているのを幾人かに見られ、挙句の果てにはキリハラのような大した思い出も無いような男に何だかぽいことを言われても涙が出そうになってしまっていた。キリハラやシムラが楽しそうにYに涙を出させようとしているのを尻目に漸く涙は収まり、Yのア式生活は終わりを迎えたのかもしれない。
或いは、リーグ戦最終節の日であったのかもしれない。
試合はア式の圧勝で終わり、皆が楽しそうに最後の写真撮影に興じる中、御殿下グラウンドの隅でカシムラがドリブルをしていた。どうやらその日試合に出ていなかったため不完全燃焼であったらしい。Yは「かっこいいすね」と言い、少しだけ話をした。一緒にボールは蹴らなかった。一緒にボールを蹴らなかったことを後から思い返し、Yはもうア式ではないんだなと思った。
Yは生絽のようであれば良い。まだ精製されていない生糸で織っただけの存在でいたいと思う。生絽であれば何でも楽しめるような気がするし、何にでもなれるような気がする。所詮、気がするだけではあるが、Yにとってはそれが全てであり、Yにとってはそれが大切である。
昔、ヒカル(ササキ)が言っていたことが何故か頭でたまに反芻される。
京都で開かれる双青戦のため、Yたちは南北線東大前駅で電車を待っていた。長いエスカレーターの下で屯していた。彼は怪我をしており、皆が京大と対戦するのをただ観戦するために高い移動費と宿泊費を払うことになっていた。
「何しに行くん俺は」とヒカルは不満げに言っていた。
Yはそれがとても面白く、ヒカルの横で1人ずっと笑っていた。
「まぁ」とヒカルが続ける。
「結局こんなぶつくさ言ってるのが楽しいし、後々良い思い出になるんだろうけどな。」そう嘯いていた。
「確かにな」とYは思った。
実際のところ、ヒカルがぶつくさ言っていたのは少なくともYにとって良い思い出になっているし、結局そんな時間が1番楽しかった気もする。
ぶつくさぶつくさ。
Yはいつものようにぶつくさしている。昨日も、今日も、そして明日もぶつくさしているのだろう。岐路に立ってはぶつくさ文句を言い、帰路についてはぶつくさ不満を口にする。生絽のように未完成のまま、Yは後悔の無い「選択」をこれからもしていくのだろう。
7. 一朶の白い雲

この章を以てYのfeelingsも本当の本当に最後となる。大したことも書かずにここまで非常なる長文をしたためたことをYは大変恥ずかしく思う。12月末日の期限を大幅に超え、ナカダからの度重なる催促に提出を以て応えることもできず、気付けば3月27日となっていた。様々なすべきことを犠牲にし書き上げた本作は、Yにとって正に大学生活の集大成と言え、これを以て漸く卒論を書き上げられたのだと言っても過言ではないであろう。ただ、アカデミアにおいて何らの科学的蓄積ともならず、また、読み物としての歴史的価値が生み出されることも無いであろうことが誠に悔やまれはする。
この章では、その圧倒的サッカーセンスで伝説的存在となり、向こう3年程はそのプレーが語り継がれるであろうタニという男に言われたことについて考えてみたい。
Yはア式を2025年10月に引退し、新たな生活を始めていた。毎日サッカーボールに触れていた生活が終わりを迎え、勉学と遊びに邁進する生活が始まった。日中は大学にて勉学に努め、今まではア式に吸い取られていた夜は友人たちとの交流に努めた。その生活は非常に楽しく、好奇心を持ち取り組む勉学の楽しさをYは久方ぶりに思い出し、友人たちのまだ見ぬ一面に新鮮さを感じていた。東京大学というものを新たに知っていくのも心の底から楽しく、空きコマを用いて上野や不忍池を散策し、その文化的足跡を辿るのもまた楽しかった。
たまにア式の練習に参加させてもらうこともあった。代替わり時期特有の部員数減少は練習メニューを滞らせ、猫の手でも借りたいという感情をコーチ陣に抱かせた。そのためYも練習に混ぜてもらうことができた。
ある水曜日、Yは御殿下グラウンドにいた。その日はタニも練習に参加していた。相変わらず圧倒的に上手かった。
練習後、タニが1年生らを集めボールキープの指導をしていた。Yもそれを聞き、一緒に練習した。タニはこんなにも色々考えながらサッカーをしていたのかと素直に驚いた。
御殿下から部室へはハシモト、オリタ、タニと4人で帰った。タニに彼女が出来ていたことを知り、Yたちは大いに騒いだ。
そのまま着替え、夜ご飯を食べにやよい軒へと向かった。なぜだかリョウイチもくっついてきた。
やよい軒ではボックス席に座った。上座にオリタが座り、その横にタニ、ハシモトと並んだ。対面にはYとリョウイチが座った。席順まで覚えているとは中々である。各々、定食を食べながら他愛もない話に興じた。
皆、ご飯を食べ終わり始めていた。Yはまだもぐもぐとご飯を口にし、意気揚々と話し続けた。食べる量を人の2倍にしてしまおうとする癖が抜けきれていなかったYは、お喋りもしたい気持ちも相まってひたすらに口を動かし続けていた。
どのような流れだったのかYはもう忘れてしまったが、タニが口を開いた。
要約するとYのサッカーへの向き合い方は不適切であったといった内容であった。トップチームを目指し、そこに全力を注ぐのがア式部員としての在り方であるべきであり、Yのそれは過分に自己中心的で、怠惰であったといった内容だったように思う。
痛烈な物言いが突如として始まり、Yは暫し面食らった。オリタは中立を保ち、ハシモトはいつになく弱気なYを面白がり、リョウイチは気配を消した。
確かに、タニの言う通りに思えた。Yの立ち居振る舞いはア式部員のモデルとして正統とは言えなかったであろうし、タニの言う王道的目標が持つ輝きはYにもとても眩しく思えた。
しかし一方で、なぜタニ如きに言われなければならないのかとも思った。
タニとYは殆ど共にプレーをしたことが無い。いや、実質的には無いと言って良かった。初めから輝く才能を持っていたタニに比べ、Yは初めから皆に付いていくのでやっとであった(実際には付いていくことすらままならなかった)。
そして、Yとタニは現役時、そもそもあまり話したことが無かった。たまに雑談を交わす程度であり、たまに株式投資について語り合うのみであった。オリタに言われるならまだしも、公私共にYを良く知らぬであろうタニにそんな事をやよい軒で言われる筋合いは無いように思えた。
その日の夜、Yは悶々とした気持ちで電車に乗った。タニの言葉が脳内で繰り返された。その度に、あいつは結局Yに何が言いたかったのだと、言い様の無い感情がYの中で渦巻いた。
それからまた少し練習に参加することがあった。その時もまたタニの言葉が思い出された。やよい軒から1週間強ほどしたある日、またタニと共に練習に参加することがあった。
タニは相変わらず上手かった。あれだけ上手ければ、どれだけサッカーが楽しいのだろうと思った。しかし、今回はそれだけに終止しなかった。よくよく見ると、タニは必死にボールに食らいついていた。よしんばボールを奪われたとて、彼はすぐさま走り、誰よりも早く走った。1つとしてテキトーなプレーなど無く、懇切丁寧にプレーしていた。
タニには技術があり、気合いがあり、真面目さがあった。
Yがア式2年目だか3年目だかの頃にアラが言っていたことをふと思い出した。「皆、タニが上手い、キタガワが上手い、と言って持て囃すが、それで悔しくないのか」とアラは言っていた。「俺は悔しい。俺はタニよりも、キタガワよりも上手くなりたい。」とアラは言っていた。
Yはそれを聞き、アラはかっけえなと思ったのを覚えている。情けない男である。本当に情けない。
結局、タニが言いたかったのはYのそういった弱さであったのかもしれないと勝手に思う。タニにはそれが見えていて、Yはそれから目を逸らしていた。ただそれだけの事である。(どちらにせよ、やよい軒後のYは悶々とした日々を過ごしたのであるから、タニには何かしらの償いをしてもらいたいものではあるが。)
Yはその後も何度か練習に参加させてもらった。Yなりに頑張ってサッカーに励んでみた。本当に楽しかった。タニの見ている世界はきっとこの先にあるのだろうなと思った。
コウグチの指導も( 正しくは横で盗み聞きしていたに過ぎないが)少しだけ受けた。Yの見えるサッカーの世界が広がったように思えた。結局、タニやコウグチのようにサッカーに真摯に向き合わなければ見えない世界があり、その世界の扉を閉ざしていたのはY自身であった。そんなありきたりの教訓でタニとの話は終わる。
そして、このfeelingsを終わりに近付けながら、Yは色々なことを思い出す。選手はもちろんのこと、Yはア式のスタッフが好きであった。暇になればテク部屋に行っていた時期があった。ア式の分析班であるところのテクニカルスタッフたちは確かなサッカー愛とア式への病的依存を抱えている人達が多いように思えた。別に自分がサッカーをする訳でもないのにシュンペイやナガタはいつも居たように思うし、サカイやニシキタニも目を凝らすとそこにいた。
コトハは同期マネがいない期間が長かったにも関わらず良くア式で4年間頑張っているなと思うし、フルハタはグラウンドどころか、ア式が関わるものには基本的にどこにでもいるように思え、そのバイタリティはどこから来るのかと感銘を受けるほどである。
Yにはまだまだア式について知らないことが多かった。
引退も近いある肌寒い日、足を痛めたという話をしていたら、その話が聞こえたのかマチエリが氷を包んで持ってきてくれた。遠い所からわざわざ持ってきてくれたようであり、マチエリの持つその様な優しさをYはまだ知れていなかったのだなと思った。ヨシエリは遠隔地の育成の試合であろうとカメラを持ってきてライブ配信をしていたし、シオリはYのア式復帰直後、なぜだか一緒にグラウンドを何周も併走してきた。この流れでヒヨリの知らなかった一面も思い出そうとしたが、大して思い出すことも出来ず、やはりYの知らないア式の多さに思わず笑みが浮かんでくる。ケンスケにしても、まさかYの法学部卒業にあそこまで多大な貢献をしてくるとは思いもしなかった。
そう、Yはア式を楽しめたように思う。
ア式のおもろいところを探し続け、おもろく生きられたように思う。まだまだ知らないことは多く、恐らくその全てを知ることは出来ないのであろうが、少なくともこのfeelingsを以てYのア式生活は終わりを宣言し、Yの人生はまた新たなステージへと同時並行的に進んでいく。
しばしば人は人生を何かのものに例える。ある人はそれを電車で例え、ある人はそれを本で例える。ある人はまた別の何かで人生を例える。そのどれもがYにとっては腑に落ちるように思える一方で、そのどれもが人生における何か重要な特徴を見落としているような気がするのである。
Yもまた人生を何かに例えてみたいとも思うが、適切な例えを思いつかず、それを思いつくにしてももう少し歳を取ってからであろうなと思う。
結局のところ、初めてfeelingsを書いたあの日のように、Yのfeelingsは他者の言葉を借り、終わりを迎えるしか無いようである。今まで書いてきた3作はどれも常軌を逸して長かった。しかし、それでも読んでくれる人たちは一定数居たようであり、閲覧数は中々多く、そしてコメントもしてくれる人々もいた。Yのfeelingsを読んでくれていた顔も分からぬ人々ともここでお別れであり、今までのようにYのfeelingsを読んだア式の人々がその感想を言ってくることも無いのかと思うと少し寂しい思いもするが、それこそが卒部feelingsの醍醐味とも言えるのかもしれない。
どうやら、ア式にとって数多居る中での1人の部員に過ぎなかったYではあるが、ア式はYにとって最高の場所であったようである。あの時、後輩に裏切られながらもたった1人でア式に入部届けを提出しに行って良かった。
そう思える4年間であった。
楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。
(司馬遼太郎『坂の上の雲』単行本第一巻 あとがき より)
とりあえず世界中に別荘建てるかぁ
やってやんよ
106期 上西園亮
待望の完結作ですね。冒頭はよくわからなかったですが、相変わらず素敵な文章でした。
返信削除コメントありがとうございます。本作を書かせていただいた上西園です。
削除ひょっとすると以前もコメントを投稿頂いた方なのではないかと思い返信させていただきました。
これで私のfeelingsは終わりではありますが、またいつかBIGになって文章を書けたらと思っております。
その際はまたぜひ宜しくお願いします。