本当にしょうもない退部と入部の話
阪田天祐(3年/テクニカル/渋谷教育学園幕張高校)
初めまして。昨年10月に入部しました、3年テクニカルスタッフの阪田天祐です。気が付いたら入部から9ヵ月も経っていました。入部の経緯を記しておこうと思います。
私がア式に入部した理由は、高校サッカー部を退部したからだ。
生粋のサッカーキッズだった私は、小学校3年生になって、本格的にサッカーを始めた。チーム内では断トツ下手だったが、見栄を張りたくて、自主練や罰走には全力で取り組むタイプだった。6年生の夏の大会では真面目さが評価され、Bチームのキャプテンを任されたことを今でも覚えている。Bチームはとても弱かったけど、サッカーは大好きになっていた。
中学に入るとチームのレベルは落ち、試合に出られるようにはなった。が、別に活躍することはできなかった。当時の私は、スピードの無い右利き左サイドハーフで、プレースタイルは2列目からの飛び出し、スキルはシザース・逆エラシコ・闘争心を持つ、総合値70ぐらいの銀玉選手だった。別に上手くはなかったが、朝練と罰走に対する誠実さが評価され、3年生の時には副キャプテンになった。私たちの代は、新人戦では県大会に出場できたのに、総体は市大会ベスト10で散った。
理不尽に罰走を課すことで有名なブラジル人顧問を恐れてはいたが、体育教官室でブラジル人顧問直々に勧誘されたことを受けて、高校でもサッカーを続けることにした。続けるからには、今まで通り“真面目に”取り組もうとしていた。筋トレをし、走り、練習し、練習試合に出た。春頃、そろそろ辞める奴出てくるんじゃね?と先輩が冗談を飛ばしてきた。心の中で、絶対に自分はそうならないと誓った。
8月になった。私は、たった半年で高校サッカー部を退部した。
辞めた日のことはよく覚えている。少し早めに練習に来て、まず、グラウンド脇の靴箱にあったスパイクを回収した。そして同期と先輩方が揃った頃、わざわざ全体の前に立ち、ごにょごにょと訳の分からない挨拶をした。そのまま体育教官室に行き、退部します、と伝えた。ブラジル人顧問は失望していた。逃げるように家に帰った。
練習が終わった頃、同期から「一回くらい相談してくれたらよかったのに」とラインが来た。退部を考え始めたのは昨日のことだったから、そんなこと思い付きもしなかった。「ごめん」とだけ返して、グループラインを抜けた。
辞めた日の前日は、練習試合だった。まだ1年生だったので、ラスト10分だけ出られた。特に何もしなかった。怒鳴られもせず、走らされもせず。ただベンチに長くいた分、少し日焼けしたぐらい。いつも通り、涼しい京葉線に乗って同期と帰った。
なぜ突然退部なんてする気になったのか。正直に言って、その時期何を思っていたのか、正確に思い出すことはできない。
その代わり、前日の夜、両親に必死に説明した内容はよく覚えている。サッカーもう楽しくない。試合に勝つとかどうでもいい。ボールを蹴れればそれでいい。それにこのままだと、サッカーしかできない人になっちゃうから。辞めたい。私は必死にそう理由づけた。サッカーしかできない人にならないために、自分の意思で、退部する道を選ぶんだ。そう思い込んだ。刷り込みすぎて、辞める前の日までに何を経験して退部という発想が生まれたのか、今では分からなくなってしまった。
退部してしばらくは、退部を正当化しないと生きていけなかった。練習がきつかったから。理不尽に怒られるから。自分が一番下手な環境が苦しかったから。閉鎖的な環境に嫌気がさしたから。サッカーに飽きたから。サッカーを続ける意味を見失ったから。サッカー以外の楽しいものを見つけたから。
時と場合に応じて、適切な言い訳を使い分けた。全ての言い訳に共通していたのは、退部したのは自分の弱さのせいではないという主張と、退部は“サッカーしかできない人”にならないためのポジティブな決断だという主張だった。
別に、楽しい高校生活を過ごすことはできた。その次には、暇で楽しい大学生活が待っていた。新しい人、新しい世界と出会えた。サッカーとは違う世界で生きることに慣れ、だんだん退部の正当化を迫られるようなことも減っていた。
点数を稼ぐためだけの2年Sセメが終わり、なんとか進学選択も乗り切った頃。大学生活の中間目標が過ぎ去り、ぼんやり自分の将来について考えていた。何か新しい事を始めるにあたって、自分にどこかスーパーな部分が無いか、探し始めた。サッカーしかできない人にならないために退部してから、4年以上の月日が経っていた。
本当に何も無かった。大学受験を乗り越え、東進の担任助手として勤め、ヘブライ語で100優上を取る類の努力をして進振りを達成したところで、至極当たり前だが、自分は空虚なままだった。退部の決断をする前と同じように、自分のことを、何の含蓄もない薄っぺらい人間だとしか思えなかった。
そういう自分を、退路を断って部活に身を捧げている大学の友人と比べた。高校3年間部活をやり遂げた同期の顔つきを思い出した。そして、偉大なる御明先輩のfeelingsを読んだ。そこに映っていた自分は、あらゆる努力から逃げたために、実力が足りないにもかかわらず、自分の不能を自己満足や現実逃避によって紛らわす、サッカーすらできなくなった臆病者だった。Aセメ2週目の木曜日、封じ込めていた感情が爆発した。
もう一度、退部した時の事を考えた。
きっと、退部の理由を取り違えていた。見せかけの誠実さで評価を稼ぎ、漫然とボールを蹴り、小さな活躍で自己満足していた私にとって、高校サッカー部は楽じゃなかっただけだ。見せかけの誠実さでは評価されず、漫然とボールを蹴ることは許されず、そして活躍できないという状況に、弱い自分が耐えきれなくなっただけだ。
退部したのは、退部というより楽な道の誘惑に、流されたからに過ぎなかった。サッカーしかできない人になりたくないという正当化は、自分にとっては自分の快楽主義を覆い隠すための詭弁に過ぎず、本気でサッカー以外の事に取り組んで何かを成し遂げるための根性と信念が芽生えていたわけではなかった。
そう気づいた時、サッカーから逃げても良い正当な理由は無くなった。見せかけの誠実さを一旦捨て去り、自分の情けない不能力と向き合わなければ、自分はこれからも上手く生きていけないんだろうなと思った。もう一度サッカーを好きだと言いたくなったあの日、すぐに錦さんにラインした。体はなまりきっていたので、テクニカルスタッフとしてア式に入りたいと伝えた。
ア式に入ってからの事はまた別の機会に振り返ろうと思いますが、入部の経緯はこんな感じです。改めて、自分とサッカーの縁を繋いでくださった、錦さん、かのこ、そして御明さんには、勝手にですが、心の底から感謝を申し上げさせていただきます。
がむしゃらに環境に甘えていた9ヵ月でした。ここから死ぬ気で頑張ります。
東大ア式テクニカル3年
阪田天祐
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