feelingsはいつも、書きながら多くのことに気づいたり、考えが変わったり、整理されたりして、最終的に投稿する内容は草稿と違っていることが多いです。 feelingその1。 去年の暮れから今年の春ごろにかけて、「自分は結局のところ、何者にもなれないのだろう」ということにようやく気づかされる出来事をいくつか経験しました。残る希望はリーグ戦でしたが、現在目の前に突きつけられている現実は厳しいものです。得られるであろう結果の期待値を報酬として、努力をそれに比例させるやり方は正しくなくなるのでしょう。結果が望めなくなるにつれ努力をどんどん逓減させていくか、努力していないと不安だから希望を不釣り合いに膨らましていくか。僕はまだ若いですが、そのツケを無視できるほど若くはなくなりました。 椎名林檎は「スーパースター」でイチローへのあこがれを歌いました。しかしそんな椎名林檎自身も社会的に見ればじゅうぶんに「何者か」であり、そこが面白くも切なくもあるところです。いつまでも失くした声を探して、枯れ葉で覆われた大地を蹴って歩いていてはいけないのかも知れません。 それでも僕にはサッカーをする時間が残されています。 feelingその2。 ある先輩は「ア式は世界でした」と言いました。懐古したい訳ではなく、引退が近づいた今、この言葉に注釈をつけて語ることに意味がありそうだと思ったのです。 世界とは、自分にとってのすべて、や、社会の縮図、といった意味以上のものを含んでいるように思われます。こんなことを言い出すと、ああ、またカタヤマが自己満足にふけっている、と思われること必至ですが、ここでの世界とは、ざっくりと言えば、現象学的語りにおいて使われる「世界」=Welt, Monde を指すものとして理解すべきではないのかな、と思ったのです。 僕は哲学なんかさっぱりなので、昔読んだ哲学入門書的なサムシングに沿って、先輩の言葉を自分が理解しやすいように勝手に解釈しただけです。 被投性を帯びつつも企投を通じて相互作用的に自己の実存が形成されていく場としての大学サッカー。世界と自分とは大学サッカーを通して認識される。意識で。無意識で。身体で。主観で。客観で。間主観で。非等質的な時間の流れのなかで。 じゃあその世界を脱した後の