恋煩い

王方成(4年/スペシャリスト/旭丘高校)


みんなのFeelingsを読んでいると、時々あの日の感情を思い出す


それはまるで、忘れたことにした感情を無理矢理引っ張り出されるような


自分の中に必死で押し殺してきた何かが、顔を出して自分に問いかけてくる




お前は、本当にそれで良かったのかと




どうにもならない気持ちを、ずっと抱えて生きていくのかと




その度に僕は自分に言い聞かせる




これでいいさ、仕方なかったと









高校3年の春、僕にとってのサッカーは終わった。インターハイの地区予選の2回戦で格下に逆転負け。県大会にすら届かなかった。


試合が終わってからしばらくは、現実を受け入れられなかった。僕にとって、高校サッカーで全国の舞台に立つことは、人生で初めて本気で目指した夢であり、夢破れるというのが一体どういうものなのか、その時の僕はまだ知らなかった。唐突にポッカリと空いた放課後の莫大な空き時間の中で、言葉にならない浮遊感と無力感に襲われた。もうこれ以上本気で打ち込めるものなんて、一生見つからないんじゃないか。生きる意味を見失ってしまうんじゃないか。大げさに聞こえるかもしれないが、当時は本気でそう思っていた。



本当は、まだ戦う機会は残されていた。自分の同期の一人は、選手権予選まで一人で部活に残り、最後まで戦い続けた。でも僕はその選択肢を目の前にしたとき、逃げた。色々な理由をつけて、自分を納得させて、僕は夢を追いかけるのをやめてしまった。これ以上悔しい思いをするのが、もう一度現実を突きつけられるのが、怖かった。





思えば、この頃から僕のサッカーに対する「恋煩い」は始まってしまったのかもしれない。






高校サッカーを諦めた僕は、その空いた心の穴を埋められるものを探していた。幸いなことに、出身校である旭丘高校は文化祭がとても盛んで、3年生は毎年とてもクオリティの高い演劇を披露する慣習があった。僕はサッカー部を引退したことにより有り余った体力を全てそこに注ぎ込むことで、サッカーのことを考えまいとしていた。まぁ結果として、3年劇は成功し、それなりに爪痕を残せた気がする。でも僕の心のどこかのモヤモヤは、いつまでも晴れることはなかった。



その後は、目前に迫っていた受験に精一杯打ち込むことで、一時はサッカーのことを忘れることができた。当時の僕は、順位的には絶対に東大に受かるはずがない位置にいたから、最後の一日まで受験以外のことを考えている暇はなかった。だから東大に合格した時は自分でもとても驚いたし、周りのみんなにとってもサプライズ合格だったと思う。



そんなこんなで、また春が来て、なんやかんやの式にいっぱい出て、そうして僕は晴れて赤門を(正確には駒場キャンパスの正門だが)くぐった。高校同期で入学した松波は高校時代はキャプテンで、彼がア式に入ることは知っていたから、GK不足に悩まされていたア式から僕に声がかかったのは至極当然のことでもあった。木曜日の練習にGKとして参加させてもらったのが、僕とア式のファーストコンタクトだった。





でも当時の僕は、高校サッカーで自分のモチベーションの限界を感じてしまっていた。あのときほどの熱量で、本気でサッカーをできるほどの夢を、僕は大学サッカーに見いだせなくなってしまっていた。その一方で、僕は大学に入ったら、もっと世界を広げてみたいと思っていた。色んな人と出会って、色んな場所に行って、知らなかった自分を見つけて、そうしてサッカーと同じくらいの熱量を捧げられる、新しい夢を見つけたかった。そんな焦りもあったから、結局当時はア式蹴球部にGKとして入部することはなかった。でもサッカーにまだ未練は残っていたから、しばらくは外部から、テクニカルのお手伝いをすることになった。




ア式としては宙ぶらりん状態で過ごした1年間で、色々な経験をした。夏休みを使って中東やらヨーロッパやらをバックパッカーしたりもしたし、スタートアップでインターンとかもしていた。いわゆる「意識高い系」の大学生としての生活を送り(「意識高い系」と言われるのは好きじゃないけど)、サッカーの「外」の世界にあるはずの自分の夢を探し続けた。





でも、心の中のもやもやは、いつまで経っても晴れることはなかった。

それどころか、自分の中の違和感がどんどん増大しているのを感じていた。





今思えば、そもそも、見つかるはずの夢なんてものは、自分の外にはなかったのかもしれない。夢って、見つけるものじゃなくて、知らず知らずのうちにそこに「ある」ものなのかもしれない。どうしようもなく駆り立てられてしまう、本能の近くにあるものだから。




僕は結局、サッカーを忘れられなかった。サッカーの外の世界で見たものの中には、キラキラと輝いているものも、知的好奇心をくすぐられるものも沢山会ったけれど、あれほどまでに僕を駆り立て、どうしようもなくアツくさせてしまうものには、出会えなかった。



結局僕は、サッカーが好きだった。



他の何かではなく、サッカーが好きだ。外の世界を見て、それは強い確信に変わった。



宙ぶらりん状態の間も、常にア式の動向は気になっていた。毎試合の結果はチェックしていたし、Twitterに流れてくるFeelingsも結構読んでいた。



そう、Feelings。

僕が最後にア式に戻ることを決めた決定打も、このFeelingsだった。



Feelingsを読むたびに、心がざわついた。



ア式の中で、正当に「サッカーが好きだ」と体現できるみんなが羨ましかった。さまざまな葛藤の中からそれでもサッカーを選び続けられたみんなが羨ましかった。みんなの文章から溢れ出るサッカーへの熱量が、僕の抑えてきた気持ちをいとも簡単に引きずりだしてくる。その度に自問自答を繰り返した。俺は、本当にこのままで良いのかと。




結局最後は、遼さんと染谷さんのFeelingsを読んだことが最後の引き金になって、僕は1年の冬にア式に入部した。でもそれは、選手としてではなくて、なんならスタッフとしてでもなかった。当時のア式は変革期にあり、本気で「日本一価値のあるサッカークラブ」になるために模索をしている最中だった。僕はア式のそんな時期に、ア式での様々な義務を免除される代わりに、外部で培った知見をア式に還元する存在、新たに創設された役職である「スペシャリスト」として入部することになった。結局、自分はこの時もサッカーに時間を捧げる覚悟が決まりきっていなかった。そんな自分を、「何かおもろいことをやってくれるなら」とア式へ受け入れてくださった遼さんや内倉さん、松波をはじめとするア式のみんなには本当に感謝しかない。こうして、始動合宿を経て(いきなり赤木さんと一発芸をやらされたことは、多分一生忘れない)僕のア式生活はスタートした。




最初は一人暮らしの選手の栄養管理をテーマに、自炊動画なんかをSlackに上げてたりした。それからしばらくして、選手を途中で辞めて欧州一周をしてきた野中と、初年度休学でサッカー世界一周してきた石丸と出会い、国際的活動ユニットを立ち上げた。前のFeelingsは、ちょうどこれくらいの頃に書いたような気がする(本作は2回目のFeelingsにして引退Feelingsである)。中々結果が出ずに、自分の存在意義に苦しむ時期もあったけれど、最終的にはWacker Innsbruckとの提携にまで至ることができ、今でもその遺産はア式の中で息づいている。一緒に新しい挑戦をやり抜いてくれた彼らには感謝しかない。




僕がそうしてピッチ外の色々な活動をしている間にも、ア式の選手やスタッフは、毎日ピッチ上でサッカーに本気で向き合い続けていて、僕はずっとそれを横目に見ていた。





ピッチ内で輝くみんなを見ながら、自分は何を思っていたのか。せっかくの引退Feelingsだし、ありのままを書いてしまっても良いだろう。





正直、もう一度、大学生活を最初からやり直せるなら、僕はア式でGKをやってみたかった。


自分の愛したサッカーというスポーツの中で、自分自身の最大値がどこまでいけるのか、試してみたかった。


人工芝のフルピッチ、素晴らしいコーチ陣とスタッフ陣、最高の同期と先輩後輩、そんな環境でサッカーを思う存分やれたことは人生で一度もなかったし、多分最後のチャンスだったんだと思う。


前回のFeelingsで、「月に1, 2回は『選手やりたかったな』って思ってる」って書いたけど、実はもっと多かったかも知れない。


でも僕は、その道を選べなかった。


ア式以外で積み上げたものが、背負ってきたものが、それらを捨ててもう一度サッカーに向き合うためには大きすぎた。そこまでの覚悟を持つことが、僕は最後までできなかった。


だから、兒玉や笹森に、実はちょっと嫉妬してるのは、ここだけの話。




こうして僕はサッカーをこじらせた。




これでいいさ、仕方なかった。




選手として戦うことを、僕は諦めた。



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この一年間、僕は休学して過ごしていた。自分の人生を考えた時に、結局何がしたいのか見つからないまま、焦って進路を決めたくなかったからだ。それもあって、今年は休部して過ごしていた。





自分の心の声と向き合いながら過ごした一年間で、行き当たった結論がある。






結局、人は自分以外の何者にもなれない。







「私以外私じゃないの」なんて、どこかのバンドマンのおかげでありふれた言葉になってしまったけれど、結構真理をついた言葉だと思う。







どれだけ理屈を考えたって、「誰か」にとっての正解を考えたって、自分の心には嘘をつけないし、自分はもうそれなりの人生を過ごしてきてしまった以上、それを変えることはできない。








理屈で考えれば、絶対一番良い結論じゃない。








それでも僕が一番好きなものは、やっぱりサッカーだった。









これでいいさ、仕方なかった





選手として戦うことを、僕は諦めた





でも、サッカーの世界で、戦うことを、やっぱり諦めたくはない







理屈を超えて、どうしようもなく惹かれてしまうこのスポーツに、このままならない僕の本能に、嘘をつきたくない。





むしろ理屈に反することの方が、僕は人生の本質のような気がするのだ。





こうして僕は、ア式蹴球部に帰ってきた。





自分にしかできない形で、もう一度サッカーに向き合うために。

そしてア式をもっと進化させて、自分の夢を叶えるために。





というわけで、僕は今年で形式上は卒部するが、OBという立場で(OBだとは全く思っていない)、がっつりア式に関わるつもりである。




その一環で、最近エンジニアリングユニットなるものを立ち上げた。ア式の練習の中で取得できる様々なデータを最大限活用するために、またア式のデータ分析のレベルを更に高めるために、自分達で開発を行い、データを取得、解析、フィードバックできるようにすることを目標にしている。サッカーにおける画像認識技術や機械学習の応用に興味がある人は、是非気軽に声をかけて欲しい。ア式で一緒に日本サッカーの未来を作る仕事をしよう。







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ア式蹴球部の存在目的は、「日本一価値のあるサッカークラブになること」





この問いに本気で向き合って、痛みが生じることを承知で、遼さんや内倉さんはじめ、ア式の歴史を連綿と紡いできたOBGの方々が改革を断行してくれた。この流れを絶対に断やすわけにはいかない。






そして本気でそれを実現するためには、我々もまた、常に痛みを伴う改革を続ける必要があると僕は思う。





東大のサッカー部が「日本一の価値を生み出す」というのは、どういうことだろうか。当然、プレーのレベルでは、現時点では遠く日本一には及ばないし、推薦入試もない現状、そこを目指すのは現実的ではないだろう。プレーで日本一になれないア式は、何か別の明確な「戦略」を持たない限り、真にこの目的を達成することはできない。





その「戦略」が、今のテクニカルを生み出し、そして僕が入部するキッカケになったスペシャリスト制度を生み出し、プロモーション活動を生み出し、ア式の活動をを一歩ずつ次の次元に引き上げてきた。






目の前の結果は何よりも重要なものだし、それが選手を支える我々スタッフにとっても最大のモチベーションだ。でも結果を追い求めるのと同時に、長期的な視点で、ア式がさらに価値のある組織になるためには、必要な痛みもきっとあると思う。今のア式の、奇跡的とも言える素晴らしい環境は、そうした先輩方の痛みの上に成り立っている。




保守の先に、ア式の未来はない。




頭が千切れるくらい考えて、当たり前を疑い続けて、全力で手を動かして、失敗をたくさん繰り返す。このサイクルの中でこそ、「日本一価値のあるサッカークラブ」は実現されると僕は信じている。





最後に




このFeelingsで何度か出てきた遼さん、内倉さん、松波。


みなさんがいなければ、僕がこのア式蹴球部にこうして関わることはできませんでした。最初の頃は期待を裏切ってしまったこともあったかと思いますが、何とか今、少しずつ恩返しができていたら嬉しいです。こんな僕を、チームに受け入れてくださって、本当にありがとうございました。



栄養班で関わった先輩・同期のみなさん


一緒に活動ができたのはほんの僅かな時間でしたが、みなさんが温かく迎え入れてくださったおかげで、ア式に僕の居場所ができました。本当にありがとうございました。



国際的活動を一緒にやった、野中、石丸、久野、たでぃ、おかぴ


みんなと一緒に国際的活動を通じてア式の未来について語らったのは、間違いなく僕のア式生活の中で最大のハイライトで、毎回のミーティングをずっと楽しみにしてました。それぞれが別の道へ進むと思うけれど、またどこかでサッカーを通じておもろいことを企めたら最高だなって勝手に思ってます。無謀な挑戦を一緒にしてくれて、本当にありがとう。みんながいなかったらきっとすぐに挫けてました。



同期のみんな


途中から入部してきて、しかも今までいた部員からすればかなり中途半端な関わり方になっていた僕を、温かく迎え入れてくれて本当にありがとうございました。最初は知らない人だらけで本当にビビってたんだけど、みんなが温かく接してくれたおかげで、気持ちがずっと楽になりました。留学中で引退試合を直接見れなかったこと、遠慮してしまってあまり一緒に遊びに行く機会がなかったことが、心残りです。みんなが卒業するまでもう本当に時間はないけれど、これから少しでも、もっと仲良くなれたら嬉しいです。ちなみに卒部は今年か来年か選べたんだけど、みんなと一緒に卒部式したかったので今年にしました。



GKの先輩・同期・後輩のみなさん


時々練習に参加した時も、いつも温かく迎えてくれてありがとうございました。やっぱり同じGKとして練習するたびに懐かしさと少しの嫉妬を感じていたけれど、みなさんの存在が僕のピッチ上での居場所を作ってくれていました。兒玉と笹森は、今年は僕も支えるので、ラストイヤーがんばろうな。応援してます。



総監督の利重さん


利重さんの存在は、僕がア式蹴球部で頑張るためのモチベーションを保ち続けるのに、とても大きな存在でした。変わったこと、大きなことを発案しがちな僕の相談にも、とても丁寧に対応していただき、勇気とさらなるアイデアをいただき本当にありがとうございました。今後ともご指導をいただくことが多々あるかと思われますが、その際は何卒よろしくお願い申し上げます。



ア式蹴球部の全ての部員のみなさん


僕がこうしてFeelingsを書けているのも、みなさんが僕のような立場の存在を受け入れてくれたおかげです。正直自分の存在は、ア式の中で様々な功罪を生み出していたことは自覚しています。それでも僕をア式蹴球部の一員として受け入れつづけてくれて、本当にありがとうございました。これからも少しでも功罪の「功」の部分を増やせるように全力で取り組むので、どうぞよろしくお願いします。


そして願わくば、また僕みたいに、サッカーをこじらせたやつを見つけた時は、どうぞ温かく迎え入れてあげてください。



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人生を生きるって、「死を確定させる」ことだと個人的に思う。


例えば、僕は今生きているけれど、自分の高校時代をもう一度生き直すことはできない。


そういう意味で、僕の高校生活は既に死んでいて、そうやって少しずつ、死を確定させていくのが生きるってことじゃないだろうか。


そしていま、また一つ、僕の大学でのサッカー生活の死が、目の前に迫っている。


後悔がないといえば嘘になる。でも、それもまた人生か。

綺麗なだけの物語も面白くないしね。


でも最後の瞬間、本当の意味で死が確定する時に


「あぁ、くそ面白い人生だった」


そうやって胸を張るために、今日も全力でもがく。




You Only Live Once

東京大学ア式蹴球部 スペシャリスト

王方成


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