謙虚さ


人が生きていく上で大切なものとして「謙虚さ」があると思っている。



謙虚な姿勢で物事に取り組めば、自分の能力におごらずに、常に成長のための努力を続けられる。また、他人をリスペクトし、相手の良いところも悪いところもすべて素直に受け入れて、冷静さを保つことができる。謙虚な姿勢は信頼につながる。傲慢な人を信頼しようという気にはあまりなれないだろう。



高校時代のサッカー部の監督もいつもこのようなことをおっしゃっていた。



「うまくいったときは他人のおかげ、失敗したときは全部自分のせい」



人はうまくいくとどうしても自分のおかげだと思ってしまう。自分が点を入れたとする。たしかに最後にボールをゴールに入れたのは自分かもしれないが、その前はどうだろうか。相手からボールを奪ってくれた人、パスをつないでボールを前に運んでくれた人、相手を引き付けて走ってくれた人。チーム全員の努力が最終的にゴールにつながっただけで、自分は最後のおいしいところを任されただけだ。これを勘違いして、自分がうまかった、と思ってはいけない。それは調子に乗るきっかけとなってしまい、この先の成功を阻害してしまう。自信と過信は紙一重だ。過信は慢心に、慢心は失敗につながる。過信することなく、謙虚に成長のための努力を続けろ、という意味だと理解している。

さらに、人は失敗するとどうしても他人のせいにしたくなってしまう。自分に非はないと決めつけ、なぜうまくいかなかったのか反省する心を持たなくなってしまう。反省がなければそこから成長するのは難しい。他人を批判するのではなく、まず自分にできることがなかったのかを考えるのが大事だと思う。



もう一つ、高校時代のサッカー部の監督の言葉。大会パンフレットのチームのプロフィール欄。各チーム「一戦一戦全力で戦います」「チーム一丸となって優勝を目指します」と書く中、我が母校はただ一言



「目の前のゴミを拾える人間になる」



と書いていた。しばしば周りからは「なんだこれ」「サッカー関係ないじゃん」「ここに書くことじゃないだろ」と馬鹿にされるが、実は意外と奥が深いと思っている。

まず、文字通りの解釈をすると、ゴミは汚いし、臭いし、ましてや他人のゴミとなると普通は絶対に拾いたくない。拾おうと思うとしたらよほど機嫌の良いときだ。それを拾えるくらい心に余裕を持て、寛大な心を持て、という意味である。

これをサッカーまで拡大して解釈する。例えば、チームメイトがボールを奪われたとする。そうすると他の全員は攻撃しようと思っていたところから切り替えて、今度はボールを取り返さなければならない。正直、切り替えるのは疲れる。しかし「失敗したときは全部自分のせい」である。直接そのプレーに関与していなくても切り替えなければならない。チームメイトが捨てたゴミを全員で拾う。サッカーとはそういうスポーツだ。もし、自分のせいではないと言って誰もボールを取り返しにいかなかったらどうなるだろうか。失点するのは目に見えている。チームの失敗は自分のせいだ。目の前にゴミが落ちたら自分が拾わなければいけないんだ。謙虚にそのように考えることができれば必然的にチームの失敗をカバーしようと思えるだろう。



これらはもちろんサッカーでなくとも当てはまる。仕事で何か失敗があったときにはすべて自分のせいである。自分が何かをしていたらその失敗を未然に防げなかったか、まず考えなければならない。仕事は信頼のもとに成り立っていると思う。むやみやたらに他人のせいにしていたら信頼関係は築けない。



謙虚な気持ちを常に忘れない人。そんな人になりたいです。


3年 服部直弘

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