2017年9月22日金曜日

なぜ人は「なぜ」と問うのか。

人は何かにつけ「なぜ」と問いたがる。

何か行動を起こした時、あるいは何か思考が生じた時、
その裏には必ず原因があるに違いないと信じ、
なんとか見つけた説明を
「ぼくは○○するためにこうしました」とか、最もらしく言ったりする。

本当にそうか?




なぜ、何のために、自分がそこに存在するのか。自分はそこで何をなさねばならないのか。
それを考えることにそれほど意味はない、と私は思う。


残念ながら周りは私にそこまで期待していない。


私がいなくても地球は回り続けるし

世界経済はほとんど影響を受けないだろうし、

日本の政治も問題なく執り行われるだろう。

東大だって、
上位2割くらいの頭の良い人が残れば最高学府としての機能は果たされると思うから、
1人くらいいなくなったってどうってことはない。





結局、生きている理由はエゴティズムなんじゃないかと最近思うようになった。



つまり、


自分がそこにいるのは、自分がそうしたかったから。


他人のために生きている、という人もいるだろう。
が、他人のために生きると決めたのは自分じゃないのか?


使命や任務が自分に与えられていると思えるほど
私は自意識過剰ではない。






この理論でいくと、私がア式に入部した理由は
「私がア式にいたいから」
ということになる。(まあそうでしょうね)


確かに部内での仕事もあるし、小さいながら役割もある。
でも、それはかなり互換性が高くて、私である必要性はあんまりない。

もしも私がいないと困ると言ってくれるのなら嬉しいことだけど、
それはあくまで他人の意思であり、(道徳面を問われるが)私にはそれに応えるかどうかの選択権がある。



だからもう、私がア式にいる理由は私の中に見つけるしかない。






私は自分の選択でここにいる。


確固たる根拠があって決断したとは限らない。

最初に述べた通り、すべての言動に理由があるという仮説はあまり自明ではない。

私がア式への入部を宣言した時の心情なんて、
自分でも理解不能だし、とてもじゃないけど言語化なんて不可能だ。(入部式では「偶然と直感」と言ったけど)



でも、自分の自由意志による選択だということは確信を持って言えるから、

私は今の生活にかなり満足している。


大学生になってからなぜか「幸せそうだね」と言われることが増えて、
何を以て幸せを定義するか私は決めていないからよくわからないけど、
自分でもまあ幸せそうだなぁと思う。
特に悩みとかないし。


私のキャッチフレーズを『スーパーポジティブシンキング』にしようと思って4月から推してきたんだけど、
浸透してるかな?
そろそろ別のにしようかな。
どうでもいいな…



話が逸れてしまった。



言いたかったことは
私は期待されてなくて寂しいとか、私が自己中だとか
そういうことじゃなくて、

どんな理由であれ、理由なんかなくたって、
自分で選んだということは自分が望んでいるということであり、
その選択の責任は自分で持たなければならないということだ。


何かができないことをア式のせいにしない。


というか、する気にもならない。
自分が望んだことに時間を使って、
且つ、それを続けるか否かの選択権まで持っている。
この上なく自由である。

そんな風に考えているのが幸せそうに見えるのかもしれない。






やりたいこととかなくて、長く続けてきたこともなくて、いつも誰かに勧められたことに流されるように進路を選択してきた、
そんな自分の今までを正当化するためのこの態度なのだけど。






以上、長くなりましたが自己紹介でした。
これからもよろしくお願いします。






「悩みがないこと悩んだ方がいいよ」って言われた。そういう彼の悩みは「明太子が食べられないこと」らしい。

1年STAFF    佐原  由香

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