さようならマドリード
「僕は今、マドリードの太陽を浴びている」
これは僕が小学校の卒業文集で書いた文章の書き出しである。
ファンデルファールトにめっちゃ憧れてた影響でレアルが大好きだった当時の僕は、慎ましく謙虚な現在の自分から見ると幾分か自信家であったようで、18歳くらいにはレアルマドリードのトップチームでチームメイトのジョン君だか誰だかとコンビで得点を量産している予定だったらしい。
23歳の誕生日を迎えた今、当初の目標には全く手が届かなかったわけだが、あまりにも生意気かつ見通しの甘い書き出しに、当時の担任の先生の苦笑いが目に浮かぶ。
今年はチャレンジを伴い、中々に困難なシーズンであったが、指導者として迎えた最初のシーズンを優勝という最高の結果で締めくくれたことはもちろん、選手一人一人が本当に見違えるように成長し、楽しそうにプレーしてくれたことが本当に嬉しい1年だった。
最初に指導したチームだから、自分の同期を指導したから、という要因は当然ながらあるが、中沖の強烈なキャプテンシーを中心に据え、サッカーを楽しみながらも堂々と捲土重来を果たして行くみんなの姿は眩しく映り、このチームは、自分がこれからどんなキャリアを重ねたとしても記憶に残っていく、そう感じた。
特に同期の4年生、いきなり帰ってきて指導者をやると言い出した自分の言葉に、しっかり耳を傾けてくれて、結果が出なかった時期にも信頼してついてきてくれた君たちがいたから残せた結果です。本当にありがとう、感謝してます。
さて、指導者をやるようになって改めて実感したことだが、サッカーというスポーツは本当に美しい。
僕がサッカーをここまで愛している理由は、サッカーは僕が知る限り唯一の、「芸術」あるいは「哲学」と結びつけて語られるスポーツだからだ。(フィギアスケートなどの表現種目は別として)
実際、野球やバスケ、アメフトなどの他のスポーツを考えてみても、試合の中で「芸術的なプレー」が単発で生まれ、称賛されることはあっても、サッカーのように選手や監督のスタイルそれ自体を讃える言葉として、「ミケランジェロ」やら「オーケストラの指揮者」やらといったように評されることは少ないように思う。
楕円球ではなく球状のボールは、不確実性を残しながらもコントロールがより容易で、
手よりも細かい操作が難しい足を使ってコントロールすることで、技術それ自体が差別化要因となり、それでいてよりスピーディーかつパワフルなゲーム展開が可能で、
空中ではなく地面に接しているゴールと広いピッチは、小柄な選手や身体能力の劣る選手にも活躍の余地を残している。
サッカーのルールが形成されてきた歴史からは、このような競技性を意図していたとは全く思えないが、結果的に見ればこのような絶妙なルール設定のおかげで、身体能力だけではなく、ビジョンや、発想や、技術や、哲学や、勇気や、そのような「美しさ」を武器にすることが出来るスポーツとして進化してきた。
身体能力を突き詰めても良い、技術を突き詰めても良い、ビジョンを極限まで深めても良い、優れた個人を活かしても良いし、個人技に劣る選手のハードワークでアップセットを起こしても良い。そこには「哲学」があり、「スタイル」がある。
指導者として勉強を重ねていくほど、サッカーの魅力が増していく。もっと魅力的なプレーができる、もっと楽しくプレーができる、そういう可能性が無限に湧いてくるようだ。
たまに練習に入って一緒にプレーしても、プレイヤーだったときよりも楽しくて仕方がない。あの頃はラインコントロールも、ポジショニングも、ずっとあやふやで感覚的だった。チームとして1つのサッカーを追求することはこうも楽しいものなのかと思った。
サッカーを知り、その楽しさを知り、どんどん成長していくみんなを見ていると、正直言って羨ましくなる。
でも一方で、指導者として、サッカーを好きになっていく選手や、成長していく選手を見ると、本当に嬉しくなる。
先日行われた100周年記念式典や納会で、試合を見にきてくださったOBやそれ以外の方々から何人も声をかけて頂いた。
結果は当然だが、それ以上に今年のサッカーの内容を「楽しかった」、「ワクワクした」と言っていただけた。
選手だけではない。指導者だけではない。スタッフも、観客も、OBも、Twitterで結果だけ見る人も、心に「熱さ」を求めている。
それは、友情でも、団結でも、努力でもない、他の「サッカーを通して得られる何か」なんかでは決して無くて、ピッチ上で描かれる「プレー」、またはそこに関わる全ての「事象」を通して、サッカーはそれ自体がもう150年も、世界中の人々の心をあらゆるスケールで揺り動かしてきた。
そして、今シーズンを通じて、自分たちのサッカーが、我々にできる範囲で、しかし確かに、見ている人たちを奮い立たせる試合が出来た。実際、自分もみんなのパフォーマンスに心を揺さぶられた一人だ。
これだからサッカーは辞められない。
やっぱりサッカーは最高に楽しかった、思ってた通り。
選手として、かつて夢見た「マドリード」にたどり着くことはもう出来ないし、それはもう諦めた。
それでも、サッカーはまだまだその楽しさを僕に見せてくれる。
こんな最高なものは僕にとって他にない。サッカーこそが人生だ。
選手も、スタッフも、審判も、観客も、自分も、全員ひっくるめて成り立つあの最高の空間を、もっと熱い、もっと楽しい、そんな空間にできるように、どこまでも論理的に、自分はこれからも自分のフットボールを突き詰めていこうと思う。
さようなら、そしてありがとう、マドリード
そしてまた、ここから
山口 遼
これは僕が小学校の卒業文集で書いた文章の書き出しである。
ファンデルファールトにめっちゃ憧れてた影響でレアルが大好きだった当時の僕は、慎ましく謙虚な現在の自分から見ると幾分か自信家であったようで、18歳くらいにはレアルマドリードのトップチームでチームメイトのジョン君だか誰だかとコンビで得点を量産している予定だったらしい。
23歳の誕生日を迎えた今、当初の目標には全く手が届かなかったわけだが、あまりにも生意気かつ見通しの甘い書き出しに、当時の担任の先生の苦笑いが目に浮かぶ。
今年はチャレンジを伴い、中々に困難なシーズンであったが、指導者として迎えた最初のシーズンを優勝という最高の結果で締めくくれたことはもちろん、選手一人一人が本当に見違えるように成長し、楽しそうにプレーしてくれたことが本当に嬉しい1年だった。
最初に指導したチームだから、自分の同期を指導したから、という要因は当然ながらあるが、中沖の強烈なキャプテンシーを中心に据え、サッカーを楽しみながらも堂々と捲土重来を果たして行くみんなの姿は眩しく映り、このチームは、自分がこれからどんなキャリアを重ねたとしても記憶に残っていく、そう感じた。
特に同期の4年生、いきなり帰ってきて指導者をやると言い出した自分の言葉に、しっかり耳を傾けてくれて、結果が出なかった時期にも信頼してついてきてくれた君たちがいたから残せた結果です。本当にありがとう、感謝してます。
さて、指導者をやるようになって改めて実感したことだが、サッカーというスポーツは本当に美しい。
僕がサッカーをここまで愛している理由は、サッカーは僕が知る限り唯一の、「芸術」あるいは「哲学」と結びつけて語られるスポーツだからだ。(フィギアスケートなどの表現種目は別として)
実際、野球やバスケ、アメフトなどの他のスポーツを考えてみても、試合の中で「芸術的なプレー」が単発で生まれ、称賛されることはあっても、サッカーのように選手や監督のスタイルそれ自体を讃える言葉として、「ミケランジェロ」やら「オーケストラの指揮者」やらといったように評されることは少ないように思う。
楕円球ではなく球状のボールは、不確実性を残しながらもコントロールがより容易で、
手よりも細かい操作が難しい足を使ってコントロールすることで、技術それ自体が差別化要因となり、それでいてよりスピーディーかつパワフルなゲーム展開が可能で、
空中ではなく地面に接しているゴールと広いピッチは、小柄な選手や身体能力の劣る選手にも活躍の余地を残している。
サッカーのルールが形成されてきた歴史からは、このような競技性を意図していたとは全く思えないが、結果的に見ればこのような絶妙なルール設定のおかげで、身体能力だけではなく、ビジョンや、発想や、技術や、哲学や、勇気や、そのような「美しさ」を武器にすることが出来るスポーツとして進化してきた。
身体能力を突き詰めても良い、技術を突き詰めても良い、ビジョンを極限まで深めても良い、優れた個人を活かしても良いし、個人技に劣る選手のハードワークでアップセットを起こしても良い。そこには「哲学」があり、「スタイル」がある。
指導者として勉強を重ねていくほど、サッカーの魅力が増していく。もっと魅力的なプレーができる、もっと楽しくプレーができる、そういう可能性が無限に湧いてくるようだ。
たまに練習に入って一緒にプレーしても、プレイヤーだったときよりも楽しくて仕方がない。あの頃はラインコントロールも、ポジショニングも、ずっとあやふやで感覚的だった。チームとして1つのサッカーを追求することはこうも楽しいものなのかと思った。
サッカーを知り、その楽しさを知り、どんどん成長していくみんなを見ていると、正直言って羨ましくなる。
でも一方で、指導者として、サッカーを好きになっていく選手や、成長していく選手を見ると、本当に嬉しくなる。
先日行われた100周年記念式典や納会で、試合を見にきてくださったOBやそれ以外の方々から何人も声をかけて頂いた。
結果は当然だが、それ以上に今年のサッカーの内容を「楽しかった」、「ワクワクした」と言っていただけた。
選手だけではない。指導者だけではない。スタッフも、観客も、OBも、Twitterで結果だけ見る人も、心に「熱さ」を求めている。
それは、友情でも、団結でも、努力でもない、他の「サッカーを通して得られる何か」なんかでは決して無くて、ピッチ上で描かれる「プレー」、またはそこに関わる全ての「事象」を通して、サッカーはそれ自体がもう150年も、世界中の人々の心をあらゆるスケールで揺り動かしてきた。
そして、今シーズンを通じて、自分たちのサッカーが、我々にできる範囲で、しかし確かに、見ている人たちを奮い立たせる試合が出来た。実際、自分もみんなのパフォーマンスに心を揺さぶられた一人だ。
これだからサッカーは辞められない。
やっぱりサッカーは最高に楽しかった、思ってた通り。
選手として、かつて夢見た「マドリード」にたどり着くことはもう出来ないし、それはもう諦めた。
それでも、サッカーはまだまだその楽しさを僕に見せてくれる。
こんな最高なものは僕にとって他にない。サッカーこそが人生だ。
選手も、スタッフも、審判も、観客も、自分も、全員ひっくるめて成り立つあの最高の空間を、もっと熱い、もっと楽しい、そんな空間にできるように、どこまでも論理的に、自分はこれからも自分のフットボールを突き詰めていこうと思う。
さようなら、そしてありがとう、マドリード
そしてまた、ここから
山口 遼
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