ここにいるということ

「長かったです。」三浪の末に高校時代の担任の先生に合格を伝えに行ったとき、漏れた言葉は「嬉しい」でも「つらかった」でもなく、その言葉でした。もちろん嬉しいという感覚も、苦しかったという記憶もあったけれど、それでも口からこぼれるのはその言葉でした。


東大を志したのは中一の頃。しかし本格的に受験勉強を始めたのは高三でした。心だけは東大に向いているのに、どこか得体の知れない入試を軽く見ており、高二までサッカーに明け暮れる日々。すぐにその困難さを知りました。英語の五文型から学び直し、地上から雲の上を見つめる。それでもできる限りの努力をしました。1年の受験勉強を終えて、これ以上は勉強できない、と思ったのも覚えています。

結果は不合格。わかりきっていた結果ではありましたが、浪人というものが目の前に現れて初めてその重さを知る。あの辛い受験勉強をまたさらに1年というのは受け入れ難かったです。それでも途切れない東大への想い。また1年、リベンジを誓って日々机に向かいました。現役時の開示得点が思っていたより筋が良かったこともあり、勉強方法はそのまま継続。嫌になっても字を追い、手を動かし、入試本番へと直進。今年は受かると確信を持ちました。


不合格。目の前のすべてのものが見えなくなったのを覚えています。ただそこにあるのは自分だけで、悲しみや怒り、恐怖や孤独が渦巻いたあげく消えていきました。とり残された自分は、何かにとりつかれたかのように次の日から勉強を開始。二浪など自分がするとも思っていなかったので、社会から拒絶されたかのように感じ、悔しさと共に恥ずかしさと闘いながら毎日を勉強に注ぎました。宅浪を選択しましたが、その勉強量は異常なもので、模擬試験でも全てA判定上位、確信を数字が示しました。


自信をもって母の手を引き、目の前にした掲示板。そこに番号はありませんでした。ない番号に吸い込まれるように意識が遠のく。部屋に帰ると、4時間椅子に座り窓の外を見つめていたそう。その間、落ち着くはずもない母は部屋を掃除していましたが、何か考えがまとまったのか、母を呼び止めました。「次は後期試験も受ける。センター利用も出す。私大も受ける。次は必ず大学生になる。だからもう一度だけ東大を受けさせてほしい。」すると母は涙をうかべて「それはいいんだけど、、もう1年も頑張れるの…?」と。辛くないのかと、ただ非力な自分のことを心配してくれたのでした。


頑張ろうと思いました。世間の目はいい。恥じらいもいい。ただひたすらに机に向かって勉強しよう。起きて勉強、ご飯を食べてまた勉強。昼飯を食べたらまた勉強して、夕飯、風呂と次に勉強、そして寝る。次の日起きたらまた勉強そして…と、グルグルグルグル回る日々。いつ抜けるかわからない暗いトンネルを光のあてもなく進み続ける。それでも進む。考えても仕方ないから。辛くないの?いいや。苦しくないの?別に。辛いとか苦しいとかどうでもいい。そんなことを考えるのは自分が弱いから。考えない。ただ進む。胸だけは張っていたい。男だから。ひたすらに勉強して、最後の入試まで過ごしました。

合格。自分の番号を見て、何かを感じました。でもそれが何なのかわからず。嬉しいなのか、苦しかったなのか。ただ長かった。それでも気づくとふと部屋で一人、通知書を穴が開くまで眺めました。そのとき合格の文字が少し滲んで見えたのは、やっぱり苦しいとか、辛いとかあったのか。でも弱音は吐きたくなかったから、出そうになったその感情を涙と一緒に隠しました。



東大にいられることの価値を知っています。ア式でサッカーができることの価値を知っています。たぶん誰よりも知っている。ここにいるということがどれだけ特別かを。ここにいて辛いことや苦しいことはたしかにあります。でも大丈夫。嬉しいことや楽しいことはもちろん、辛くて弱音を吐きそうになることも、苦しくて逃げ出したくなることも、挫折してもがき続けることも、そのすべてが東大で起こることだから幸せ。信頼できる友達も、大嫌いなあいつも、喜びも苦痛も楽しみも挫折も、そのすべてが東大で起こることだから、私は幸せだと胸を張って言えます。


ここに恩返しをしたい。ア式に何かを残したい。ここにいられる幸せを与えてくれた東大とア式蹴球部に何かを返したいと思います。自分はプレーヤーとしてできることは一つ。悲願の関東昇格。非力ながら少しでもその目標に向けて役に立てることを今日も願っています。



新2年 黒松

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