大人になる
二ヶ月ほど前に成人式を迎えた。中三の冬に同じ市内ではあるが引っ越しをした自分にとっては、小中時代の地元をゆっくりと歩くのはおよそ五年ぶりのことであった。
思ったより代わり映えのない景色とそこにあるわずかな移ろい、そのどちらにも幾らかの感慨を覚え、少年時代を回顧した。
僕は大人になれただろうか。
そう自らに問いつつ、成人した今の自分と比較してみる。
断片的な記憶から当時の思考を再現すると、今と大きな違いはないように思えてくる。
サッカーと出会って以来、チームの練習や試合で仲間たちと、公園で1人、スタジアムやテレビやyoutubeで、と色々な方法でサッカーと触れ合い、そのどれもがとても楽しくて、そんな楽しみを与えてくれるサッカーが大好きなところ。
ゲーム、アニメ、漫画、ドラマ、お笑い、音楽、読書など、どんな文化でも少し知るとすぐにはまってしまうところ。
特に漢字好きでもないのに突然「魑魅魍魎」や「黴」などの気色の悪い難読漢字を書けるように勉強したり、大して進めてもいないゲームの攻略本を読破したり、名探偵コナンで登場人物があらかた出る部分まで読むとそこで犯人を勘で予想し、事件や推理の部分をすっ飛ばし最後だけ読んで答え合わせをしてしまったりなど、どうでもいいようなことを急に知りたくなる謎の知的好奇心を持ってるところ。
実際今でも、部活に入って毎日サッカーしてサッカー見て、変わるがわるいろんなジャンルの文化にはまって、「良いお年を」って挨拶の「お年」っていつのこと指してるんだろとかどうでもいいことを真剣に考えて調べ出してと、これらは今も昔も変わらず持ってる部分である。
それでもやはりもう少し考えを深めてみると、今の僕には10代のうちに構築された、幼い頃にはなかったような心的傾向があることにも気がついた。
それは、自と他、自尊心、この二つについてのものである。
僕は、これまでの人生を通じて色々な人と出会い交流する中で、自分の感じることと考えること、そして他者が感じることと考えることの間には想像以上に違いがあることを知った。
共有してると思い込んでる世界は全て目や耳などを介して各々の脳で解釈してるにすぎないものであるのだからそれも当たり前のことである。
頭で考える分には当たり前だと思えるようなことで、僕自身理屈の上では小さい頃からわかっているつもりだったが、これをきちんと理解し始めたのは高校に入ってからである。
僕の入学した高校には、それまでの知り合いがほとんどおらず、そこで出会うほぼ全ての人が初めましてという状態であった。
そのため、それまで生活してきた環境が全く異なる人たちと接する中で、思いもよらないところで考え方や文化の違いに直面し、それが原因で無駄な軋轢を生んでしまうこともあった。
このような経験を重ねるうちに、自己と他者が異なるということを言葉だけでなく心で理解していったのである。
そしてこの自己と他者が異なるということはどれだけ仲が良くなっても、どれだけその人のことを知っていっても、変わらないことである。親友でも恋人でも兄弟でも親でも子でも、その人の全てを理解することはできない。
他者のことを全て理解できると思うこと、他者が自分のことを全て理解してくれると思うこと、そのどちらも傲慢なことである。
そして他者の意思と行動はコントロールできず、自分の意思と行動は自分以外には決められない。
自と他の違いについて理解していくとこのような考えにたどり着く。
すると、まず他者が自分のことを理解し自分のために行動してくれるという期待を持つことがなくなる。コントロールできない他者は、不確実性だらけの外的要因と認識されるのだ。
そして自分がコントロールできるのは自分だけであるから、自分を最優先した行動を取るようになる。
もちろん、他者に迷惑ばかりかけていれば、逆に迷惑をかけられたり、邪魔される可能性があるため、自分を最優先といえど、全く他者を顧みず行動するというわけではない。迷惑をかけない範囲で、最も自分に利があるように行動するのである。もし、結果的に迷惑をかけてしまった場合は、そこに悪意がなくとも丁寧に謝罪をする。
ただし、そこには本質的に他者のためを思ってという思考は存在しない。
このように、自と他についての認識を固めていくと同時に、僕は自尊心というものも少しずつ築き上げていた。
10代の僕にとって、自尊心は生きていく上で重要なものであった。
自尊心を持ち、やればできる、自分には価値がある、そう思えるからこそ、行動が、努力が、挑戦ができたのだ。
それがなければ思考はどんどん後ろ向きになり、次第にやる気も失せていく。
僕がこれまで育んできた自尊心、それは、全て他者と比較することによって生まれた相対的な自尊心、つまり、誰かを何かで上回ることによって作り上げられた自尊心である。
多くに恵まれ支えられたからか、たまたま運が良かったのか、そこそこいろんなことを平均以上くらいにはできたため、そんな感情はすくすくと育った。
そして、それは、他者と比較され、自分が試される時に効果を発揮する。
格上との試合前には、「相手の誰よりも勉強はできる」と、本来関係ないものでも自分が上回っている部分があることを認識することで、怖気付きそうになる自分を奮い立たせる。
また、受験会場でも、この全く逆の発想で、安心感を得て、緊張をほぐし、落ち着きを取り戻していた。
こうして、自らの築いた自尊心を糧に更なる自尊心を構築していくというサイクルを作ってきた。
一方で、このような自尊心は、自らを勇気づけると同時に、恐怖というものも運んでくる。
何かに負け、否定され、自らの尊厳を傷つけられるという恐怖である。
このような形で自尊心を作っている以上この恐怖は切り離すことのできないものだ。
そして、自尊心が大きくなればなるほど恐怖も大きくなる。
先程述べた自尊心を構築するサイクルには恐怖も入り込んでいる
自尊心を糧に、自尊心と共に生まれた恐怖に打ち勝つ、そうしてさらに大きな自尊心を生み出し、それと同時に恐怖も増大する。まさにマッチポンプである。
このように、僕は恐怖を伴った自尊心を精神的な支柱とし、日々を生きてきたのである。
これが、僕が10代のうちに築き上げた二つの心的傾向だ。
ここまで考えを巡らせた上で、改めて自問する。
僕は大人になれただろうか。
たしかに、少年時代に比べ精神的に自立できるようになっているようには思える。
自己と他者の違いを理解し、自分の考えを押し付けず、可能な限り異なる考えも否定せず、また、他者に頼らず自分のことは自分で済ませ、迷惑も極力かけないように。
そしてそれを実行するための支えとなる自尊心も自ら構築してきた。
自分と異なる考えを跳ね除け、それでいて他者に依存し、自分のことすら自分でできず、さらに自分で自尊心を保てず、自分の価値を自分で認められないがために、承認欲求に塗れてしまうという状態と比べれば、自立していると言えるだろう。
しかし、これで手放しに僕は大人になれたと言い切るにはいささか違和感が残る。
違和感の一つ、それは僕の構築してきた自尊心の不安定さにある。
精神的支柱としてきた自尊心が不安定なものであるということは致命的な問題である。
まず、このような自尊心は簡単に失われうる。
当たり前のことだが他者を上回ることで得られる自尊心は自分を上回る他者の存在によってすぐに失われる。
サッカーで勉強でもしくは他の何かで、負けた瞬間にそれについての自尊心は失われる。
それを防ぐにはとにかく勝ち続けるしかない、そしてその競争に終わりはなく、心の休まることはない。
交流する他者は全て潜在的な敵とみなされるのだ。先述した恐怖と合わせて考えると、他者と交流することそのものが自尊心を傷つけられる恐怖を孕んだものとなると言える。
また、他者との比較によって生まれるということは、比較するための基準というものが存在する。
だが、その基準は恣意的なものであって比較対象や考え方、環境によっていとも容易く揺れ動く。
他者に勝つことを目標としている以上、その基準の変動は自らの行動や努力のモチベーションの変動を意味する。
したがって、自らの行動が他者に依存したものとなるのだ。
加えて、この自尊心を保つためには、自らを向上させ、競争に勝つことが必須となる。そして、自らの向上、成長のためにはまず自らの弱さや欠点と向き合う必要がある。しかし、このような自尊心を持っていると、これらに向き合うことが難しくなる。弱さを認めることは自尊心を傷つけることに直結するからだ。
つまり、僕の構築してきた自尊心は、不安定さと自己矛盾を内包した、欠陥だらけの不良品なのである。
迷惑をかけない範囲で自分を最優先し、他者と交流することに潜在的に恐怖を覚えていれば、自ずと他者と関わることが減っていく。
果たしてこれは自立できるようになってきたと言えるのだろうか。
自尊心によって自ら精神を支えていると言えど、その自尊心が他者に依存したものである時点で、自立とは呼べないのではないだろうか。
と、ここまで考えたところでさらに新たな疑問が生じた。
ここまで僕は暗に「大人になる=自立する=他者に頼らずに生きる」という考えのもと文を書いてきたが、これは正しいのだろうか。
もう少し言うと、「自立=他者に頼らず生きる」ということに対する疑念である。
もちろん辞書で自立と引くとこのような意味が書かれているが、ここで言いたいのは、今の世の中における社会的な自立、社会の中で一人前の大人として生きていくという意味での自立である。
そのような意味では、他者に頼らず生きるというのは不適切であるように感じる。
今の世の中で完全に一人で孤独に生きていくということは不可能であるからだ。
例えば一人で食事をするという行為は数えきれないほどの他者の存在によって成り立っている。
材料の生産、流通、販売、調理をする人、調理や食事をする設備を作った人、また、支払ったお金を稼ぐための仕事仲間やお客さんなどなど、これもごく一部に過ぎないが、少し考えただけでもたくさんの人の存在によってこの行為が成り立っているのだとわかる。
やはり、僕たちは必ず他者との関係性の中で生きているのだ。
また、この他者との関係性というのは、和を重んぜよといった道徳的な考えによるものではなく、関係性を持つことで個々でいるよりも全体として利益、幸福を増大させられるという、実利的な目的によって成り立っている。
実際、各々が職に就き、お金をもらい生活していくという今の社会制度は、世の中のやるべきことを分業し効率化を図るということを構造化したものである。
さらに、学問や文明の発展も他者との関係性による利益と呼べる。
時間軸上の他者である過去からの蓄積を学び、それを活かすことでさらに新たな発見や発明を生み出し、それを蓄積してこれまた他者である未来の人々へとつなげていく。このような関係性による利益である。
そう考えると、自立とは、他者に頼らず生きるということでなく、他者から支えられているという自覚をもち、社会や世界の成員として他者を支えながら生きていくということなのではないだろうか。
さて、では僕が大人になるには、どうしたら良いのだろう。
まずは、他者と交流することに恐怖を生み出す自尊心、いわば臆病な自尊心を捨てることが必要になるだろう。
他者を上回るから価値があるだとか、負けたらもう価値はないだとか居場所はないだとか、みんな頑張ってないから自分もそれなりでいいかとか、そういった考えは全て捨て去らなければならない。
そのためには、どんな自分でも受け入れること、肯定するでもなく、否定するでもなく、ただ受け入れる。
強さも弱さも、長所も短所も、過去の自分も未来の自分も含めてとにかく全ての自分を受け入れる。
そして、行動原理を他者から自分へと移さなければならない。つまり、他者を上回るために行動するのではなく、自らのやりたい、なりたいという意思にしたがって行動すべきということだ。
そうして、臆病な自尊心を捨て、自らを受け入れられるようになれば、きっと他者も受け入れられるようになるはずだ。
そして、受け入れた他者のために行動できる、すなわち他者の喜びを自らの喜びと感じられるようになれば、これで一人前の大人として自立できたと言えるのではないだろうか。
最後に、ここまで自分の精神性と大人になるとはどういうことかについて考えてきたが、僕が今すぐここに書いたことを実践して大人になれるとは思っていない。10代のうちに固められた価値観など簡単に変えられるものではないからだ。それでも僕はこれから長く続くであろう人生の中で、少しでもこの理想に近づいていければいいと思う。
自分の意思で、他人のために行動できる、そういう大人に僕はなりたい。
3年 松波亮佑
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