思い出すのは、いつも雨空

4年 鮎瀬英郎


14年間の中で、一生忘れられない瞬間がある。

 

あの日の雨空を思い出すと、決まって目頭が熱くなる。

 

幼いながらに、あの場所で見た父親の姿こそが、自分の人生の全てだった。

 

 

 

本格的にボールを蹴り始めた小学校3年生の頃は、サッカーに対する憧れだけを胸に抱き、真っ白なキャンバスに自分の色をつけて行くような感覚で、サッカーと向き合うすべての時間を純粋な心で楽しんでいた。平日には二日、多くて三日しかなかった練習も、行くのが待ち遠しくてたまらなかったし、週末の試合で活躍することが生き甲斐そのものだった。

 

部活動がなかった自分の出身小学校には、サッカー道具をいっぱいに詰め込んだエナメルバックを、薄汚れたランドセルと共にせっせと抱えてくる同級生などいなかったが、そんな状況に何の恥じらいも感じず、放課後に一人、クラブチームのグラウンドへと向かうあの時の自分が、今となっては誇らしくさえ思える。

 

当時の自分には、緊張というものが存在しなかった。練習試合だろうと公式戦だろうと、日々の自分の成長を実感できる一つ一つの時間に対して、全てのエネルギーを惜しみなく注ぎ、没頭することが当たり前だった。まさに、新参者の特権を余すとこなく享受していた。

 

小4から小5にかけては、チーム内での役割に少しずつ変化が生じてきた。同学年で出場する大会では、主力として期待をかけられる機会が増え、その流れで、一つ上の代の公式戦でもスタメンを張る時間が増え始めた。徐々に責任というものを考えられるようになると、無頓着に自分の成長を楽しむことが減り始め、時にネガティブな感情を吐くようになったが、それと同時に、自分にかかる責任を粋に感じ、チームを自分の貢献で勝たせたいという強い意志も芽生えた。

 

その頃には、将来サッカーで飯を食っていきたいという、淡い夢を抱くようになっていた。公式戦での活躍の場が増えるにつれて、トレセンに選出され、他チームの同級生と切磋琢磨する時間も貴重な学びの経験だった。自分よりレベルの高い選手しかいない環境に、最初は少なからず気が滅入ったこともあったが、ここでの経験は、その後の人生の選択において、迷いなく厳しい道へ進む決断力の根幹を成しているように思える。また、そこで得た仲間との繋がりが、大学卒業を控えた今でもかけがえのない関係性になっていることも、その時間の価値を証明してくれている。

 

サッカーに対して感じる楽しさが、歳月を重ねるうちに変化してきた中で、小6の頃には、今も変わらぬ定義に辿り着くことができた。自分のサッカー人生における最も鮮明な記憶が数多残っているのも、振り返れば、この時期が圧倒的かも知れない。その中でも、県大会で優勝して全国への切符を掴んだあの経験は、自分自身のサッカーにおける楽しさを、他者の笑顔に全力を注ぐことに合致させるきっかけになった。

 

ホームグラウンドを同じくしていた、市内の因縁のライバルと、ヒリヒリするようなデットヒートを繰り広げた1年間は、まさにミラノダービーのそれと同じだった。どの大会でも決まって両者は顔を合わせた。県の決勝では1勝1敗、なぜか市予選のトーナメントの初戦で当たった最後の大会に関しては、いまだに意味がわからないが、今でもその話だけで酒が飲める気がする。間違いなく、最高の思い出のひとつになった。

 

小学校時代の恩師には、今現在ではぎりぎりセーフかアウトかというような、厳しい指導をさも当たり前かのように受けていましたが(笑)、サッカー選手である以前に、挨拶や礼儀といった一人の人間としてのあるべき立ち振る舞いを、恩師の言動その全てから学び得ることができたと思います。社会人になる手前の今、そのありがたみを改めて痛感しています。ありがとうございました。(今度、帰った時にまた改めて挨拶させてください。)

 

中学進学に際して、父親の勧めもあり、愛着のあったチームを離れて、新しい環境での挑戦を選んだが、この決断にも非常に大きな意味があった。小学校時代とは違った切り口から、よりロジカルかつ本質的なサッカーという競技の面白さに出会えた経験は、現在の自分のサッカーに対する向き合い方に深みを持たせてくれていると思う。

 

10代前半は、自分たちよりも数段レベルが高い相手と対戦する貴重な機会を多く経験することができた時期でもあった。九州では、アビスパ、サガン、トリニータというJユースに揉まれ、佐賀、福岡、大分、熊本といった各地の強豪クラブチームと幾度となく競い合ったし、春先の二度の関東・関西への遠征では、サンフレッチェ、サンガ、ジェフ、レイソルといった名だたるジュニアユースに胸を借り、時にボコボコにされ、淡く抱いていた未来への希望も徐々に打ち砕かれていった。

 

この期間は、チーム内での自分に与えられた立場と、ピッチ上での立ち振る舞いのギャップに何度も悩まされた、正直言って苦い経験が多い時期でもあった。先輩の代の公式戦には、自分自身の期待通りの活躍を残すことができず、主将の役割を任され、人一倍の意気込みで臨んでいたはずの最終学年のシーズンも、優秀な後輩たちの頑張りのお陰もあり、チームが県リーグ3位の成績を収めながら、なかなか思うように出場時間を伸ばせなかった。特に、年末のU -14クラブユースから、年明けの市内カップ戦にかけてのウィンターシーズンは、自分の調子も上向き、手応えを感じていた中で、不本意な形での怪我と長期離脱を余儀なくされ、大きな屈辱を味わった。主将でありながら、チームの大事な場面は、いつもピッチの外から眺めているだけで、「自分はこのチームに必要ない。」とさえ感じたこともあった。

 

それでも、自分にチームの統率を任せたいと思ってもらえたことは、それ自体が自分の支えになっていたし、信頼してくれるコーチやチームメイトの期待に応えようと、曲がりなりにも自分のキャプテンシーの色を模索し続けた最後の一年は、間違いなく今の自分の大きな財産になった。苦しい中でも、ピッチでチームの結果に貢献する時間は、何も変え難い喜びと達成感があることも、強く実感できた時期でもあった。

 

中学生時代の経験は、自分に二つの学びを与えてくれた。一つは、自分がどのような立場に置かれようとも、ピッチの内外でチームのために汗を流せるか、自軍を犠牲にしてでも他者のために全力を注げるか、という現在の自分に不可欠な価値観を確かなものにできたこと。二つ目は、リーダーシップとは、必ずしも先頭で組織を牽引する姿で示す必要はなく、組織を俯瞰して見ることで、ミクロ・マクロの両方の視点から個人や集団の問題にコミットする、後方から背中を支える影のリーダーシップにも価値があると気付けたこと。とりわけ後者については、当時の自分が意識的に取り組んでいた「組織全体のコミュニケーションのハブになること」を根底で支えており、もっと言えば、後の人生でも大いに役立っている経験と教訓になっていると思える。

 

中学生時代の同期は、少人数だったこともあり、それぞれが互いに刺激し合える深い関係性のままでいられるし、今も、この先も、最高の仲間に変わりはないと思える。都内のA大で頑張っている彼も、東欧の地で武者修行している彼も、飽くなきサッカーへの情熱のために積極的に、海を渡り己を試し続けていた彼も、皆が、日本で、世界で、自分の存在意義を示している姿は、自分の背中をいつも押してくれていた。ありがとう。

 

中学校時代の恩師には、今の自分のサッカー観の土台を養って頂いたと思っています。当時頂いたメッセージの多くは、その後の自分のサッカー人生でも大きな軸になっていました。新しいサッカーに出会えたこと、サッカーの面白さを教えてくださったことは、大きな財産です。ありがとうございました。(弟も長年お世話になりました。また改めて、挨拶させてください。)

 

中学生時代の自分は、日本のトップレベルに間近で触れる経験を重ねるうちに、かつての夢を少しずつ閉ざすようになり、自分の未来に限界を感じて、現実主義的な発想ばかりが先行するような、諦め体質へと次第に変化してしまっていた。そんな中、高校に進学する際には、クラブチームやユースでの挑戦ではなく、地元の県立高校の部活動でサッカーに打ち込む決断をした。

 

高校時代は、主に部員が主導となり、日々のトレーニングのメソッドを管理したり、組織をマネジメントしたりする機会を与えられた。先輩や同期の中には、クラブチームやジュニアユース出身の面々も一定数いたため、彼らと共にそれぞれの出身クラブのトレーニングやコンディショニングのやり方を取り入れミックスさせながら、学生主体で一からチームの勝ち筋を考え、練習で実践し、試合で結果を残すという一連のプロセスは、非常に楽しく、学びの多い有意義な経験になった。チームの全ての結果の責任を自分たちの日々の行動に課していたことで、かつてないほどにチームのマネジメントを能動的に考えるようになり、中学時代に培った自分のコミュニケーションスタイルを強みとして生かしながら、副将としてピッチの内外で直接的に結果に貢献するという自責感もより一層高まった。それでも、最後の最後まで、目標としていた県トップ8の壁を越えることはできなかった。

 

就職を控えた今でも、高校生活を超える多忙さと、時間に追われる感覚を味わうことは一生ないと高を括れていることは、不服ながらも高校時代の一番の収穫かもしれない。しかし、自分の努力で自分の未来を切り拓いたという手応えは、最も強く感じられた時期でもあり、サッカーにも勉学にも、結果からプロセスを逆算する思考を染みつけることができた。特に、高校時代の勉学面での頑張りが、東京大学への進学を自らの手で手繰り寄せたという自負は強いし、とにかく結果を出しきることだけに執着することの意味や価値を認識する経験になった。また、高校時代のサッカーにおける不完全燃焼感が、ここア式蹴球部への入部の決断につながっていることは、今更言うまでも無い。(受験期間の勉強漬けの毎日の反動も大きかったかもしれないが、笑。)

 

高校時代の恩師となった先生方は数多くいらっしゃいますが、ここではサッカー部の顧問のT先生の話をしようかと思います。彼ほどサッカーを楽しそうにプレーする大人は、今まで見たことがなかったですし、連絡を時々取り合っている今も、昔と何ひとつ変わらないなと思っています。(笑)それでも、先生が自分たちにチームマネジメントの裁量を与えてくださったことで、非常に学びの多い経験を積むことができたと思っています。ありがとうございました。(弟も含め、今後ともよろしくお願いします。また、そのほかの先生方にも、改めてご挨拶に伺います。)

 

という地元でのサッカー人生を踏み台にして、大学でも全力でサッカーに打ち込みたいと決心し、自分はア式蹴球部の門戸を叩いたわけだが、チームを引退した今、4年間の活動を振り返ると、最もサッカーについて考え、最も組織について考え、何より、最も自分自身について考えた4年間だった。

 

一言で言うと、自分にとっての「サッカーの楽しさ」について、何度も悩み、何度も考えた時間だったのかもしれない。そのことは、自分がかつてのfeelingsで、「サッカーを楽しいと感じられなくなった時が、サッカーをやめる時なのかもしれない。」と綴っていたことにも表れているように感じられる。実際に、サッカーを楽しいと感じられる瞬間が、少しずつ失われていった。

 

自分にとっての「サッカーの楽しさ」とは何なのか。サッカーを始めた頃は、ボールを蹴ること、点を取ること、自分自身の日々の取り組み全てが成長につながる感覚を味わえることが、サッカーの楽しさだった。小学校高学年では、チームの勝利に自分が直接貢献すること、自分の結果で周囲の支えてくれる人々を笑顔にすることが、サッカーの楽しさだった。中学時代は、ピッチ内外問わずに、自分の役割を自己定義し、組織のハブとしてチームの結果に直接的であれ間接的であれコミットメントを果たすことが、サッカーの楽しさだった。高校時代は、チームを学生自身が主体的にマネジメントし、勝利のプロセスを一から作り上げることが、サッカーの楽しさだった。どの時期にも、サッカー競技そのものに対する興味関心という意味での楽しさは常に存在していたけれど、ある意味で自己満足的な「楽しさ」だけでは、ここまでサッカーを続けることはできなかったし、自分がサッカーをこれまで続けてきたことの意味の本質は、間違いなくそこではない。自分にとって大切だったものは、常に周囲の誰かのために、結果で報いるという「他者貢献と自己犠牲」の精神だった。

 

大学生という身分は、高校生までとは異なり、自らの人生における選択に、圧倒的な自由と裁量が与えられる。長崎から上京し、親元を離れて生活するようになった自分にとっては、その自由が一層大きなものに感じられたが、自由と引き換えに、全ての選択に対する自責の念も強く抱くようになった。サッカーをやる意味も、サッカーをやめる意味も、全て自分で定義しなければならない。自分がサッカーをやる意味を実感できなくなってきたのは、自分の頑張りが、チームに、周囲の誰かに、そして何より自分自身に対して、直接的に何かしらの貢献を果たしているという感覚が失われていったこと、自分のサッカーに対する楽しさが見えなくなってきたことに由来していた。

 

1年の頃は、サッカーを始めた頃の童心を持ち合わせながら、ただ純粋に、がむしゃらに、目の前の一つ一つの練習や試合に真正面から向き合う楽しさを実感していたこともあり、良くも悪くも自己満足で、他者の存在は重要な要素ではなかったのかもしれない。2年生になってからは、自分のチームにおける役割と責任がピッチ内外で明確になったこともあり、組織の全ての結果に自分の行動と責任を照らし合わせ始めた。Bチームでのキャプテンを務めたこともあったが、当時の自分は変に気負うこともなく、それ以前からチームに対する自責的な貢献に楽しさを見出し、積極的な行動と高いモチベーションを維持していた。

 

しかし、2年の冬に差し掛かった頃、中学時代のそれと同じように、周囲の同級生の存在も影響してか、自分の将来について現実的に考え始めるようになり、明らかに自分の中での「サッカーをやることの意味」に揺らぎが生じ始めた。このまま惰性で時間を過ごしていいのか、サッカーをすることで失っている選択肢はないかと、何度も悩んだ。少しずつ曖昧になりつつあった「サッカーの楽しさ」が、自分の現状を大きく転換させるべきだという決断を加速させ、一度自分の気持ちの中を整理するためにも、新シーズンを境にピッチを離れる決断をした。

 

これまでの人生では、何も考えずに決められたレールの上を進んでさえいれば、それで問題がなかった。そんなつまらない人生に嫌気がさし、新しい刺激を求めて環境を変えたくて、自分は故郷を飛び出してこの場所に来たはずだった。サッカーという自分の一本槍を盾にして、違う世界に飛び込もうとする勇気すら持てなかったのかも知れない。新たな挑戦で、未来を傷つけることを恐れていた。そんなことを考えていた。

 

ピッチを離れて間も無く、緊急事態宣言が発令され、部活動の長期間の中断を経験することになった。未曾有の事態にイレギュラーな出来事が多発する状況で、自分はピッチ外の仕事に力を向けるようになった。新歓活動も、地域活動も、前例が全く活かせない状況の中で、仲間の力を借りながら、最大限の成果を得ようと努力したものの、チームに対する自己貢献の感覚は、冬の決断以降から薄れていく一方だった。

 

しかし、長い期間サッカーから離れたことは、自分がサッカーとどう向き合うべきなのか、考え直すきっかけになった。このまま中途半端に終わらせるのは、今まで自分を支えてきてくれた全ての人に対する誠意ある振る舞いでは無い。その一心から、最後の一年は、関わる全ての他者のために、自己犠牲を払おうと決心した。

 

最後の1年間は、いい意味で、自分の中の思考はスッキリしていた。自分自身の満足よりも、結果で返すことだけに意識を向けていた。でも、現実はそう甘くはなかった。結果として、チームとしても個人としても、納得のいく成果を上げることができずに、大学サッカー生活の終止符を打った。

 

ア式蹴球部での4年間は、苦しいことが大半の時間だった。振り返る出来事はほとんど全てネガティブな感情を付随させてくるほどに、果たせたと思える成果はほんの一握りくらいかもしれない。しかし、ここでの経験は、たくさんの学びと気づきを与えてくれた。

 

ア式蹴球部は、サッカーの見方を根本から覆してくれた。ピッチ上の全ての現象をロジックで説明し、個人のプレー原則と紐づける自分たちのスタイルには、学問的にも実践的にも、難しさと大いなる達成感を覚えさせられたし、それによって、どんな格上に対しても自信を持って臨む快感を味わう経験をさせてもらった。

 

ア式蹴球部は、組織のコミュニケーションの面白さを教えてくれた。学年を問わず、自分の考えを発信でき、意思決定に参加する権利が与えられる組織の中で、日々行われる意見交換には、日々新たな学びと発見があり、また、自分のコミュニケーションスタンスをその都度見つめ直すきっかけをくれた。

 

ア式蹴球部には、最高の仲間がいた。社会に対しても各個人がチームのブランドを背負って責任ある行動を取れる組織であり、互いを尊重しながら一人の人間としての礼儀を大事にするチームだったし、それぞれが明確な信念と色を持ったかけがえのない集団だった。

 

このチームで出会った全ての先輩や後輩、監督、OB、そして同期の仲間に感謝を伝えます。ありがとうございました。

 

 

最後に、この場を借りて、一番熱心に自分を支えてくれた両親への感謝を述べさせて下さい。

 

 

両親には、本当に何度も心配をかけたと思うし、たくさんの迷惑を掛けたと思います。それでも、いつでも変わらず、こんな自分を直接励まし、陰で支え、応援してくれたことには、感謝しても仕切れません。それなのに、思うような結果を残せず、十分ないい報告を持って帰ることができず、ごめんなさい。正直、悔しくて仕方がありません。

 

それでも、長い人生で見れば、やっとスタート地点に立ったばかりだと思っています。社会に出れば、かのBIG BOSSが言うように、全員が横一線のスタートだと思います。絶対にスタートダッシュを切ります。そのために日々全力で準備し、挑戦し、成長します。そして、必ず社会に必要とされる存在になります。サッカーで学び得た教訓を活かして、サッカーで果たすことの出来なかった未来を、自分の手で掴みます。約束します。

 

10年前の6月に、雨空のあの場所で見せた父の涙が、僕は一生忘れられません。あの時の父の言葉は、この先も自分の原点になるだろうし、「他者の笑顔のために、自分の全力を」という自分の人生観を、一生かけて太く大きく育てていきます。

 

両親へ、いつもありがとう。これからもよろしくお願いします。

 

 

 

 

違う道を選んだことの意味、それが良かったかどうかなんて、きっと誰にもわからない。

 

人生の正解は、人それぞれ違うから、それ自体、優劣がつけられるものではない。

 

でも、ひとつだけ言えるのは、その価値を決めるのは、自分のアクションに他ならないこと。

 

今は分からなくても、いつか、自分が輝く未来のためだったと分かれば、それでいい。

 

 

 

鮎瀬英郎

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