不変信者

 4年 内田龍吾(DF/筑波大学附属駒場高校)


大学に入学してはや3年が経ち、4年目に突入しているわけだが、最近高校同期はじめ久しぶりに見る顔ぶれに会うと「うっちーちょっと変わったね」と言われることが増えたように思う。大方、高校同期からすれば、文化祭での逆ナンを「LINEやってないっす」とはねのけた男に彼女が出来たことを揶揄しているだけだったろう。自分自身もはじめは変わってるつもりなんて毛頭ないわと思っていたが次第に妙に納得してしまった。


確かに、中高6年間とゴリゴリの男子校という閉鎖環境で醸成された不変の美学のようなものは今の自分の中では綻びを見せているように思う。そしてその変化を肯定している自分がいるのも事実である。6年間こじんまりとしたコミュニティにいるのは心地良かったし、一生の友達になるんだろうなぁという人達と出会えた。だがそのような閉じた集団の中では過度に一貫性やら不変性が求められていたのかもしれないし、変化するエネルギーをもちあわせていなかっただけかもしれない。

高校時代を振り返ってみよう。

---「ジャージ一筋」「坊主一筋」「サッカー一筋」---

一途であることは高く評価されるらしい。間違いない。一貫している、不変であるということは誰しもが分かる特徴やアイデンティティを与えてくれる。それも素晴らしいことだ。しかし、その居心地の良さに満足してしまっては意味がない。特にそれが狭いコミニュティの中の場合その中でしか適応できないような考え方になっているかもしれない。一貫性という杭に縛られ、自己がこうありたいという欲求がこうあるべきという義務に変わったとき、そこに成長はないのだろう。一度不変の島に執着し取り残されれば、見事にガラパゴス化した異形の怪物の完成である。


とここまで自己紹介である。


そんな悲しき化物が冒頭で言われたように変化の兆しを見せている。それは紛れもなくア式という環境のおかげだろう。


大学に入り環境が大きく変わった。正直、大学でサッカーをするには未熟過ぎた。何も考えずがむしゃらにやってきたサッカーもミスをする度、心が折られた。あってはならないことなのに試合中に折れたことが何度あったことだろう。


サッカーをするには自分が変わらなければ。


異形の怪物は僕の中に未だ居座っているものの狭いガラパゴスを抜け出し、変化を求めているように思う。


周りから変わったねと言われようが、Aチームにあがろうが、公式戦に出ようが、その変化を以てして自身が変わったというのはおこがましいものだろう。あくまで変わろうとしている段階である。


ただ、長い時間を要したもののこの狭い島を抜け出すことができたのもア式の人々のおかげである。どうしようもない怪物のごとき思考を抱えた者を受け入れ、かつ変化を促してくれた。感謝してもしきれない。この感謝はいつか形にして伝えたい。

とここまで不変であることを崇拝してきた自分が変化を受け入れたことを語ってきた。


中には「こいつガキすぎるだろ」と思う人もいるかもしれないがこれが内田龍吾という人間だ。許してほしい。そして僕は変化を受け入れたものの未だに不変信者だ。


平家物語にも登場する諸行無常という四字熟語。正しいことを言っているのだろう。だがしかし、次第に変わりゆく世の中には、自分自身には、ア式には、なにか一貫した普遍的なものがあることを信じてやまない。それぞれに一貫性がなければ、自己と他者の境界線を定義できないように感じてしまうからだ。自己と他者を分ける個々の一貫性とはなんなのだろう。絶対的なものはないかもしれない。相対的な一貫性でいい。その答えを知りたい。


ア式においてはそれは何なのだろう。メンバーが4年ごとに大きく変わりゆく集団の中で一貫してア式をア式たらしめる理由。もっといえば、それぞれのメンバーが、自分自身が、4年間の間にア式に一貫したものを遺せるとするならばそれは何なのか。(ここに一貫性を求めるのは誰しもがその時そこに自己が存在したということを証明したいという欲求からだろう。感謝を伝えたいという思いもこの自分本位な欲求からくるのかもしれない。)


ティール、ア式としてのゲームモデルといったことは相対的かもしれないがこれからも受け継がれていくことだろう。


だが自分はそのような大それたことを残せるような人間ではない。自分がア式に何か遺せるとしたらそれは一部昇格という結果だけだろう。まあこれも自分1人の力で残せるものではないが。


「サッカー好きで結果にこだわれる集団」

これもア式をア式たらしめる理由の一つだと思う。そうそう変わらないはずだ。この集団に求められるのは何よりも結果である。よく「本当に大事なのは結果ではなく過程だ」とか「結果を以て初めて過程が肯定される」という言葉を見かける。これも難しい話だ。


僕らが小学生の頃から連載されていた漫画「進撃の巨人」は誰しもがびっくりするような完結を迎えたわけだが過程と結果の解釈の仕方が面白い。


盛大なネタバレをすると(見たくない人はブラウザバックしてください)

主人公の能力は未来の結果を覗き見て過去の過程にも干渉することができる、というものだった。ここで重要なのはこの能力が未来を改変する能力ではないということだと思う。単純に過去に干渉すれば未来が変わるという因果関係では語れないのだろう。この主人公の能力を手に入れてどのような感覚なのか知りたいものだが、恐らくこの主人公にとっては過去と未来は同時に存在していたのだと思う。


人間はどうしても時の流れには逆らえないし、物事の因果関係というものも時系列に沿った流れでしか考えられない。だからこそ過程→結果という一方向の関係しか認識できない。しかしそれが本当なのかは誰にも分からない。過去と未来は時間に沿って一方向に流れていくものではなく、同時に存在しているのかもしれない。もしそうだとするならば、過程と結果も同時に存在し、今この瞬間も相互に作用し続けているのだと思う。

結果のある要素が過程にも結果自身にも作用しているのだから結果というものはとても複雑で不確定なものなのだろう。ならばどうやって自身の望む結果を手繰り寄せようというのだろうか。


自分もよく分からなくなってきたし学のなさを露呈しているだけな気もするのでこの辺に留めておく。だが過程と結果が同時に相互作用していたとしても僕ら人間が働きかけることができるのは残念ながら今という過程の中にしかないことも事実である。正直、些細なことが結果に大きく影響するかもしれない。大事だと思ったことがそんなに影響しないことだってある。何が望む結果に重要な要素なのか、ということは誰にも分からない。


だからこそもっともがき続けよう。今の自分にはそれが足りていない。色々な可能性、要素を検討し、もっと上手くなるためには、勝つためには、ということを探り続けなければならない。その中にもしかしたら結果に大きく影響するような要素があるのかもしれない。もっと上手くなれる、自分は変われるはずだ。結果は色々な要素で決まるかもしれないが働きかけることができるのは今だけだ。


ア式でこのメンバーでサッカーできる時間もそう長く

ない。あと半年くらい。もがき続けよう。そのための環境は揃っているし、手を差し伸べてくれる仲間もいる。

なによりも自己を一貫させたいなら、不変でありたいなら、普遍性を信じたいのならば、変わり続けなければならない。


がんばります。

シャワーの水がお湯に変わるまで何すればいいか分からない。

4年 内田

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