サーファー
伊原由佳(1年/DF/戸山高校/女子部)
銀杏臭い時期となり、ア式女子と出会った昔を思い出すと同時に、feelingsが未提出だってことも思い出した。気長に待ってくださった心優しい先輩方、ありがとうございます。
さて、私に文才はないので、無難にサッカーを始めてからア式女子入部に至るまでを書こうと思う。
サッカーとの出会いは小学生2年生に遡る。昼休み、男友達に誘われてPK戦に参加した私は、ぶよぶよのボールをトーキックで飛ばせただけで「サッカーって簡単じゃん」と思った。
今考えればただのアホだけど、そのおかげでサッカーと出会えたのだからアホでよかったと思う。
これを機に、親の反対を押し切って小3でサッカーを始めた。地元じゃちょっと有名な鬼怖熱血コーチに、インサイドキックもできない頃から怒鳴られっぱなしだった。それでも、ピアノもバレエも新体操も死ぬほど嫌がった私が、サッカーの練習にだけは楽しそうに行っているの見て、親は応援しようと決めてくれたらしい。
小5の春、親の転勤でオランダに引っ越した。オランダには日本人のサッカーチームが1つだけあって、親は私をそこに入れてくれたから、言葉の壁にすぐにはぶつからずに済んだ。
でも、(特に外国人男子相手となると)男子に混じってサッカーを続けるには限界があって、小6の時現地の女子チームに移った。そこで初めて、どんなに恥ずかしくても、自信がなくても、言わなきゃなにも分かってもらえない経験をした。これがはっきり自分の意見を伝える所を褒めてもらえるようになったきっかけだと思う。
中2の夏、イギリスに引っ越した。オランダで度胸をつけた私は、なんの躊躇いもなく現地のチームに入れてもらった。
どこの国でも私を支えてくれたサッカーという競技には思い入れがあった。だから、日本に帰国しても、女子サッカー部のある高校に進学した。
しかし、サッカーが想像以上の負担となった。1年の夏に1週間寝込んで7kg痩せたり、スタメン争いで先輩を泣かせてしまったり、スタメンを取られそうになって腐ったり、思い返せばいろいろあった。辞めたいと思ったことも、練習をサボったこともある。
だけど、少しずつプレーの幅が広がっていくのは面白かった。何があっても結局は部活に行きたいと思わせてくれる素敵なチームメイト、顧問、コーチに恵まれた。初心者が多い部活だったけれど、全員で協力してメニューを考えたりして、高2の新人戦では部の目標である都ベスト8を達成できた。
そしてこの高校時代に、東大ア式蹴球部女子と出会った。練習試合やなでしこフェスティバルに招待して頂いた時、銀杏だらけの農グラ横の道を「サッカー続けられるのは魅力的だけど、学力がね…」なんて同期と話しながら歩いたことを鮮明に覚えている。
東大なんて無理だとずっと思い込んでいたのもあって、当たり前のように別の大学を志望するようになった。そこには女子サッカー部はなかったから、サッカー欲には蓋をして見て見ぬふりをした。
結果は、不合格。
第一志望に落ちたら浪人して同じ大学を再度受験すると前々から公言していた。それでも、ずっと東大を勧めてくれていた高校の恩師たちに東大でサッカーする最後のチャンスだと言われた時は、ハッとした。
揺さぶられた結果、東大を目指すことにした。といっても、この決断をするまでも、してからも、悩みに悩んだ。だって、2次試験の受験科目が4科目でも受かっていないのに、もう1つ増えるから。
自分には無理だって思いながら勉強するのは苦しかった。苦しさから逃げたかったからか、「東大」と「サッカー」に必要性を感じなくなっていた。他のことに挑戦する勇気がないからサッカーを続けているだけのような気もし始めていた。
なのに、気づけば入部式も終わった5月に入部していた。正直言うと、サッカーを続けない方向に傾きかけていた私がなぜ入部を決めたのかはわからない。入部を宣言して後悔していた。
でも今は、入部しなかったら一生の後悔になっただろうと思う。だから、先輩方、コーチ、関係者の方々、唯一の同期ひとみ、私がア式女子に入りたいと思わせてくれた全ての方への感謝は計り知れない。
サッカーのできる環境が用意されている自分は幸せ者だ。思い出の農グラ横を通って練習に行くのも、ア式部員として母校と交流するのも、言葉では表せないほど感慨深い。サッカーを続けていなかったら一生出会わなかったであろう、幅広い年代の、面白いバックグラウンドを持つ人が沢山いる。初めて身近に憧れの人を見つけた。
読んでいただければわかるように、ずっとサッカーが大好きだったわけじゃなくて、熱には波があった。この先3年間もあれば、きっとやめたくなる時がまた来ると思う。それでも私は波に乗り続けられるのだろうか。不安であり、同時に楽しみでもある。
ちなみにサーフィンは全くできない。
伊原由佳
さて、私に文才はないので、無難にサッカーを始めてからア式女子入部に至るまでを書こうと思う。
サッカーとの出会いは小学生2年生に遡る。昼休み、男友達に誘われてPK戦に参加した私は、ぶよぶよのボールをトーキックで飛ばせただけで「サッカーって簡単じゃん」と思った。
今考えればただのアホだけど、そのおかげでサッカーと出会えたのだからアホでよかったと思う。
これを機に、親の反対を押し切って小3でサッカーを始めた。地元じゃちょっと有名な鬼怖熱血コーチに、インサイドキックもできない頃から怒鳴られっぱなしだった。それでも、ピアノもバレエも新体操も死ぬほど嫌がった私が、サッカーの練習にだけは楽しそうに行っているの見て、親は応援しようと決めてくれたらしい。
小5の春、親の転勤でオランダに引っ越した。オランダには日本人のサッカーチームが1つだけあって、親は私をそこに入れてくれたから、言葉の壁にすぐにはぶつからずに済んだ。
でも、(特に外国人男子相手となると)男子に混じってサッカーを続けるには限界があって、小6の時現地の女子チームに移った。そこで初めて、どんなに恥ずかしくても、自信がなくても、言わなきゃなにも分かってもらえない経験をした。これがはっきり自分の意見を伝える所を褒めてもらえるようになったきっかけだと思う。
中2の夏、イギリスに引っ越した。オランダで度胸をつけた私は、なんの躊躇いもなく現地のチームに入れてもらった。
どこの国でも私を支えてくれたサッカーという競技には思い入れがあった。だから、日本に帰国しても、女子サッカー部のある高校に進学した。
しかし、サッカーが想像以上の負担となった。1年の夏に1週間寝込んで7kg痩せたり、スタメン争いで先輩を泣かせてしまったり、スタメンを取られそうになって腐ったり、思い返せばいろいろあった。辞めたいと思ったことも、練習をサボったこともある。
だけど、少しずつプレーの幅が広がっていくのは面白かった。何があっても結局は部活に行きたいと思わせてくれる素敵なチームメイト、顧問、コーチに恵まれた。初心者が多い部活だったけれど、全員で協力してメニューを考えたりして、高2の新人戦では部の目標である都ベスト8を達成できた。
そしてこの高校時代に、東大ア式蹴球部女子と出会った。練習試合やなでしこフェスティバルに招待して頂いた時、銀杏だらけの農グラ横の道を「サッカー続けられるのは魅力的だけど、学力がね…」なんて同期と話しながら歩いたことを鮮明に覚えている。
東大なんて無理だとずっと思い込んでいたのもあって、当たり前のように別の大学を志望するようになった。そこには女子サッカー部はなかったから、サッカー欲には蓋をして見て見ぬふりをした。
結果は、不合格。
第一志望に落ちたら浪人して同じ大学を再度受験すると前々から公言していた。それでも、ずっと東大を勧めてくれていた高校の恩師たちに東大でサッカーする最後のチャンスだと言われた時は、ハッとした。
揺さぶられた結果、東大を目指すことにした。といっても、この決断をするまでも、してからも、悩みに悩んだ。だって、2次試験の受験科目が4科目でも受かっていないのに、もう1つ増えるから。
自分には無理だって思いながら勉強するのは苦しかった。苦しさから逃げたかったからか、「東大」と「サッカー」に必要性を感じなくなっていた。他のことに挑戦する勇気がないからサッカーを続けているだけのような気もし始めていた。
なのに、気づけば入部式も終わった5月に入部していた。正直言うと、サッカーを続けない方向に傾きかけていた私がなぜ入部を決めたのかはわからない。入部を宣言して後悔していた。
でも今は、入部しなかったら一生の後悔になっただろうと思う。だから、先輩方、コーチ、関係者の方々、唯一の同期ひとみ、私がア式女子に入りたいと思わせてくれた全ての方への感謝は計り知れない。
サッカーのできる環境が用意されている自分は幸せ者だ。思い出の農グラ横を通って練習に行くのも、ア式部員として母校と交流するのも、言葉では表せないほど感慨深い。サッカーを続けていなかったら一生出会わなかったであろう、幅広い年代の、面白いバックグラウンドを持つ人が沢山いる。初めて身近に憧れの人を見つけた。
読んでいただければわかるように、ずっとサッカーが大好きだったわけじゃなくて、熱には波があった。この先3年間もあれば、きっとやめたくなる時がまた来ると思う。それでも私は波に乗り続けられるのだろうか。不安であり、同時に楽しみでもある。
ちなみにサーフィンは全くできない。
伊原由佳
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