ア式部員として/サッカー人として

髙橋俊哉(4年/テクニカルスタッフ・コーチ/武蔵高校)

まず、この場を借りて感謝を伝えたい方々がいる。それは2022年度卒業、1つ上の先輩たちだ。2年前、強化ユニットが主導して行った監督交代。変化には痛みが伴う。たとえその変化が良いものだったとしても。ア式生活最後の年、ひょっとしたらサッカー人生最後の年でそんな大きな変化を経験するというのは受け入れ難いことだったと思う。しかし先輩たちは何一つ文句も言わず、自分のことを引っ張ってくれたり、色々な意見をくれたり、理解を示して温かく見守ってくれたりした。支えてくれたなんて言うのも烏滸がましく、先輩方の力がなければ到底あのプロジェクトは成り立たなかったと思っている。あの時の決断に後悔は全くない。そう言えるのは先輩方のおかげだ。

 

 

 

 

さて。

 

 

 

ア式生活最後の2年間を一言で表すのならば「停滞」だった。突っ走ってきた2年間を経て、悲しいかな、成長へのモチベーションはほとんど残っていなかった。成長がそこまで求められなかった立場にもかまけて、漫然と日々を過ごしてしまったような気がする。周りの皆には本当に迷惑をかけたというか、周りが自分の分まで頑張ってくれていたんだろう。本当に頭が上がらない。

 

前のfeelingsを見ても明らかなように、3年の時の自分は悩んでいた。成長し続けるア式という組織において成長することでしか存在価値を示せないと感じていた自分と、成長ができなかった自分とのギャップに、どう立ち向かえばいいか分からなくなっていた。自分はどうあるべきなのかを考え、いつしかそれは重圧となり、ア式に向かう気持ちをどんどんと削っていった。面倒なことをしたくなくなった。ア式に時間を割くのは自分の為にならないとさえ感じた。

 

しかし4年目は、なぜだろうか、そこまでネガティブな感情はなかった。モチベーション的な部分で言えば3年目と何ら変わっていなかったのにもかかわらず、落ち着いてア式での生活を過ごすことができていた。その理由ははっきりとは分からなかった。だからこの場を借りて、少し思考を整理してみようと思う。

 

 

 

ここからは、何もできなかった自分の正当化。そして美化。

 

 

 

4年目の今シーズンは育成の練習試合をはじめ、何度かピッチに出る機会を頂いた。Aチームに交じってサッカーをした時間は(育成の皆には申し訳ないと思いつつも)心から幸せな時間だった。あれ、俺そこそこやれるじゃん、なんて思ったり、いややっぱりこのレベルは流石に無理だ、と当たり前のことを思ったり。1プレーごとに、1秒ごとに、色々な感情が頭をよぎった。けど、いつの間にかそんなことは忘れて夢中になっていたし、終わるたびに思うのは、もっとサッカーが上手くなりたいという純粋な欲求だった。

 

 

ずっと聞かれ続けた「なんで選手やらなかったの?」という問い。理由は本当にたくさんある。高3で経験した主将が辛かったとか、大学生活を部活に支配されたくなかったとか、大谷さんがちょうどその時辛そうだったからとか。そういうのを全部ひっくるめて言うのなら、1人のサッカー選手として本気で闘う気力がなかったからだと思う。妙に自信家な自分はレベル的にはやれると思っていたから、それが打ち砕かれるのも怖かったのかもしれない。もちろんポジティブな理由もある。戦術が好き、サッカー界で活きる能力や繋がりが欲しかった、エトセトラ。ただ今にして思えば逃げるようにして選手を避けたことは間違いない。ア式以外の選択肢——朝練に挫折したラクロス部、雰囲気が合わないと一蹴したサークル——も含めて、最も勇気の要らない選択肢がテクだった。

 

そうして、本気にならないためにスタッフを選んだはずなのに、いつの間にかテクの仕事にも強化の仕事にも本気になってしまった。自分が誰より適任だという謎の自負、ひとりで背負い込んでしまう中途半端な責任感、大きすぎる承認欲求と自己顕示欲。でも何よりも、テクも強化も楽しかった。今まで知らなかったサッカーの世界は、それは魅力的で、知らぬ間にどんどんと没入していった。そうして成功した陵平さんの新監督就任。自分自身が誇らしかったのはもちろん、ア式という組織も自慢に思えた。

 

しかし、ここで「糸」はぷっつりと切れてしまった。ア式への世間の称賛はまるでドーピングのようで、ピークが過ぎれば喪失感が強くなっていく。楽しさが消え、マイナスの要素だけが残った。それが3年の頭。少し休む時間が必要だと思った。しかし休んでもア式への熱意は戻らない。新しい刺激が入れば大丈夫だと思い、今度はコーチも始めてみた。最初こそ新鮮で楽しかったが、根本的な解決には至らず。自分自身を不必要な責任感で縛るという高校時代と全く同じやり方で、部活に嫌気がさしてしまった。そしてその時よりも酷く、何よりつらかったのは、サッカーが好きだという気持ちに疑いが生じてしまったことだった。

 

この時に自分が取った行動は、もがき続けるでもなく、誰かに助けを求めるでもなく、「目を背けること」だった。それが良くないことは自分でも分かっていた。しかし、優秀な部員がいるのだから大丈夫だと自らに言い聞かせ、一歩引いた自分を演じることで何もしていない自分を正当化した。本当は全くそんなことないのに。言い方を変えれば、サボっていたのだ。自分が果たすべき役割、負うべき責任から逃げ続けた。周りも気づいていたと思う。後輩たちから言われた「でも俊哉さんは投げたじゃないですか」「強化ユニット長としての俊哉さんはクソだったよ」という言葉は痛すぎて、でも、完全なる事実だった。

 

コロナ禍の公式戦は人数制限で行けないことも多かった。選手たちが苦しみながらも1部で戦い、テクが全力でそれをサポートしている中、自分はどちらにもなれず、ア式の一員としての自意識が薄れていく。その一方で自分の行動も受け容れられるものではない。何の価値も発揮できないまま、何も誇れるものがないまま、3年のシーズンが終わった。

 

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4年目のシーズン、自分に課されたのはAチームのコーチ。正直、荷は重かった。1年間育成コーチとしてピッチに出ていたとはいえ、何もできていなかった訳であるし、Aチームの練習なんて撮影以外で関わったこともなかったから。しかし、ここで断ったら本当に自分には何も残らなくなると思い、最終学年の役職は決した。断るという選択肢はそもそもなかった。任された以上はやるしかない。1年から主力を張り続けてきた同期のラストシーズンを間近で見られるのは楽しみでもあった。

 

いざ始めてみると、思ったよりも魅力の多い仕事で、部室に向かう足取りは確実に軽くなっていた。そして、その魅力はなかなか冷めないまま、あっけなく1年が終わった。3年の時をあんなに詳しく書いていて何なんだと思われるだろうだが、本当に「あっけなく」という感じで、特に思い悩むこともなく時間が過ぎていったのだ。

 

考え方や向き合い方が変わった訳ではなかった。相変わらず責任は負いたくなかったし、成長への意欲もあまり無かった。おそらく、気楽さとやりがいのバランスがちょうど良かったのだと思う。監督という絶対的な存在の下にいられる気楽さと、請われてこのタスクをこなしていると思うことで得られるやりがい。そのどちらも自分に必要なものだった。もちろん本当のことを言えば、必死に戦っている選手や陵平さんの近くで「気楽さ」なんで持つべきではない。そんなことは分かり切っていたが...

 

ただ、日々をこなしていく中でやりがいが大きくなっているのははっきりと分かった。無理に自分のタスクを広げることはしない。最低限与えられた中でしっかりと役割を果たす。思い返してみれば、自分が忘れていたのはそんな当たり前のことだったのかもしれない。

 

 

やりがいの下にあったのはア式への敬意だった。この2年間でメディアでの露出は大きく増え、個人的には就活がありア式のことを話す機会、そして相対化する機会も多かった。そこで改めて気付かされたのは、ア式は良い組織だということ。その素晴らしい組織の一員であること、組織が動くのに多少なりとも貢献できていること、それだけで十分になっていった。ア式と自分とを同一視できるようになった、とも言えるだろうか。

 

承認欲求の種類も変わっていった。今まで、認められたい対象は自分であった。もちろん今でも似たような感情はある。前のfeelingsでも書いたように頑張っている同世代は励みになるし、何よりア式から羽ばたいている田所や慶悟ら同期の活躍を見て、心から凄いなと感じていた。羨ましさもあった。何かが違えば、自分もあれくらいの価値を発揮できていたのではないか、と。けどそんなことよりも、ア式の価値を、素晴らしさを、もっと色んな人に知ってもらいたいという思いの方が強くなっていった。そしてア式が良い組織なのは紛れもない事実だと思っているのだから、それはある意味で最強の自己肯定装置でもあった。

 

 

今のア式という組織はまだ完璧ではないけど、間違いなく正しい道を進んでいる。だからせめてその道を外さないように、今の状態を将来に繋げられるように。更なる成長は後輩たちが進めてくれるはずだから、自分はもうアクセルやエンジンにはなれないけれど、方向を誤らないタイヤくらいにはなれる。だから、そのための行動はしようと心に決めた。鬱陶しく思われようとも発信していこうと思った。

 

この4年間にア式で起こったこと、変化、政治、部員の気持ち。現役部員の中で1番良く知っていたのは、おそらく自分だった。それを伝えていくことは自分の仕事だったし、自分にしかできないことだった。やっぱり完璧にはできなかったけど、できるだけ伝えてきたつもりだ。求められればこれからもしていこうと思う。当然、それを踏襲しろと言うつもりはない。だけど歴史や事実を知ることには大きな意味があるはずだから。

 

 

話が逸れてしまった。

4年目でもう1つ確かになったことがある。それは、自分はサッカーが好きだということだ。色々な立場から、色々な「サッカー」を知ることができた4年間だった。最後の年に再発見したのは、おそらくもっとも根源的な、血沸き肉躍る闘いとしてのサッカー。ベンチでは冷静なフリをしていたが、全くもってそんなことはなかった。試合前の緊張と試合中の喜怒哀楽、試合後の興奮。それらをベンチという特等席で見られるのが何よりの楽しみだった。1つのミスを悔しがり、微妙な判定に怒り、ゴールや勝利を心から歓ぶこと。自分がサッカーを続けてきた理由が、ようやくはっきりと分かった気がした。選手と一緒に闘った気になって気付くことができた。選手たちには本当に感謝しかない。

 

おそらくコーチとして求められていたのは戦術的なアドバイスや雰囲気作りだったと思う。そういう部分も楽しかった。2年間学んだ、ピッチ外から観るサッカーも好きだ。時には冷静さも重要だろう。しかしサッカーを嫌いになりかけた時には、この感情の昂ぶりを忘れていたのだ。これがなきゃサッカーじゃない。少なくとも自分は、そんなサッカーなら必要ない。

 

 

ア式の存在目的の1つ、「部員全員がサッカーの楽しさを享受する」。もし、何もできなかった2年間を正当化することが許されるのなら、自分にとって「サッカーの楽しさ」とは何なのか探すための2年間だったということ、そして見つけられたというところで意味のある2年間だったということにしたい。

 

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山あり谷ありではあった。しかし「サッカーの楽しさ」を何度も、心から享受できた。ア式に入った意味はそれだけで十分だ。

 

そして現在、OBコーチという役割を頂いている。ア式にもらったこの恩を返すために、精一杯取り組んでいこうと思う。高校時代にはあんなに苦痛だった練習メニューを考えることも今はかなり楽しんでできているし、作り方やコーチングも、ほんの少し、分かってきた気がする。モチベーションは高い。

 

 

 

 

 

でも。

あの感情の昂ぶりを欲している自分もいる。

幸いにも体はまだ動くみたいだから、もう一度、闘う側に回ってみるのもアリかもしれないな。

まだまだサッカーからは離れられそうもない。

 

 

 

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と、綺麗にまとめてはみたものの、ア式での自分の物語はこんなハッピーエンドではなかった。今まで書いてきたことも事実であり、ア式で過ごした時間の一側面だ。だけど、あまりにも自分が逃げてきた責任から目を背けすぎているし、自分の中にさえわだかまりがある以上、こんなまとめ方は絶対にするべきじゃない。

胸を張れるような4年間ではなかった。それは全て自分の認識の甘さに拠るところであり、行動の欠如がもたらした帰結である。しかし、当時の自分にはそれが限界だったのだと思う。だから、後悔があるとすれば「○○すればよかった」ではなく、「○○しなければよかった」という方向性になってしまう。

そもそもア式に入った覚悟も理由も中途半端で、何を果たしたいのかも定まっていなかった。責任を負うべき立場になった時、そんな甘い考えは捨て、態度を切り替えるべきだったのに、自分にはそれができなかった。自分がかつての「幹部」として期待されていたことは、結局ほとんど果たせずじまいだ。自分が変われないのならば、責任を負うべきではなかった。

自分が始めようとして途中で断念したことは一体いくつあるのだろうか。一体どれだけそれを後輩に押し付けてきたのだろうか。どうせ中途半端に終わるのならば、周りに重荷を押し付けるのならば、初めからやるべきじゃなかった。そう思って仕方がない。

 

自分は何者でもない。改めてそう気づけたことがこの4年間の収穫だと言えるのかもしれない。自分の悪いところ、だめなところ、改善すべきところ。余すことなく思い知ることができた。だから前向きに話を進めるのならば、「この経験を社会でどう活かすか」とかになってくるのだと思う。ア式は自分にも様々な機会を提供してくれたが、そんな優しい組織ばかりではない。いつかは自分が変わらなければ。

ア式生活で手に入れたわだかまりは消えることなく、これからの人生でも付いて回るだろう。それはもう仕方がないし、背負うべき痛みなのだ。このわだかまりが、痛みが、将来の自分に何かを気付かせてくれると祈ろう。

 

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最後に少しメッセージを書きます。長くなるけど、こんな機会は最後だと思うので、できるだけ多くの人に書こうと思います。

 

まず、LB会の方々、スポンサー企業の方々、保護者の方々、ア式蹴球部を応援してくださるすべての方々に感謝いたします。特に自分は強化ユニットの活動の中で大変お世話になりました。我々が生意気に「学生主体」を掲げられるのは皆さまのおかげでした。

強化ユニットの活動にご理解を示してくださった方々。陵平さん。陵平さんがあの時連絡してくださったことは、大げさでなく自分の人生を変えた出来事でした。

自分に新しい「サッカー」を教えてくれた遼さん。話すたびに発見があり、ア式に入って良かったと思える最高の時間でした。

大西先生、岩永先生、八田さんをはじめ、武蔵サッカー部でお世話になった皆さま。今の自分は間違いなく武蔵で作られました。

その他、自分のサッカー人生に関わってくださった全ての方々に心から感謝いたします。

そして家族。ずっとサッカー一色の生活を応援してくれて、本当にありがとう。

 

 

ア式の皆さんには優しかった思い出しかありません。

中でも、テクの先輩方。こんな生意気な自分を誘ってくれて、色々なことを教えてくれて、本当にありがとうございました。自分は今でもテクの人間であり、誇りを持っています。同期も。それぞれ違う分野で戦っている皆の存在が、いつも励みになっていました。テク会もまたしましょう。

 

大谷さん。いつも先には貴方がいました。大谷さんを追いかけ、同じ道を歩んでいれば「間違い」はないと思っていた中で、テクという違う道を選んだのが正しい選択だったのかは今も分かりません。けど、ア式という同じ道を進んだのは、結局正解だったみたいです。卒部feelingsまで似たようなことを書いてますね。

 

同期のみんな、4年間(11年間)ありがとう。楽しかった。これからもよろしく。

 

 

最後に、後輩たちへ。

 

テクの皆さん。途中で消えてしまいすみません。アドバイスをするとすれば、常にアップデートをし続けることは忘れない方がいいと思います。自分はこれをせず苦労しました。それと、やはり一番の基本はサッカーを見る眼だと思います。他に手は伸ばしつつも、それだけは疎かにしないでください。まあ皆さんなら心配ないでしょう。頑張りすぎず、でも頑張ってください。日本一、いや世界一になるのを期待しています。

 

スタッフの皆さん。色々難しく、悩むこともあるかもしれませんが、どんな立場であってもチームの力になっています。コーチをしてそれは改めて実感しました。ただ、これはいち元スタッフとしての老婆心ですが、ただ居るだけでは勿体ないとも思います。スタッフだからといって脇役で在る必要はありません。OBコーチでもお世話になると思いますが、今後ともよろしくお願いします。

 

選手の皆さん。前のfeelingsでも書きましたが、本当に選手のことは尊敬しています。たくさんの勇気をもらいました。ありがとう。スタッフ(特にテク)のことも気にかけてやってください。関東昇格、必ず実現してください。育成チームの皆は一緒に頑張ろう。

 

武蔵の後輩たち。頑張れ。増やそう。

 

テクから羽ばたこうとしている2人、あるいはそれ以上。役割が定まらない立場というのはとても不安で、楽な道を選んでしまうことも多いでしょう。進むべき道が分からず迷ったら、自分にとって何が一番楽しいのか、という原点に立ち還ってみるのをお勧めします。自分の過去の選択1つにしがみつく必要はありません。ア式は何度でもやり直しのできる場所です。もし自分の手助けが必要であれば、いつでも頼ってください。

 

岡本君。何から何まで頼ってばかりでした。何度迷惑をかけたか分かりません。本当にごめんなさい。そしてありがとう。あの新歓記事を書いてよかった。僕より何万倍もしっかりしているので、特にかける言葉とかアドバイスはありません。背負い込みすぎないように。まあそんなこと言っても無理だと思うし、特に手助けとかもできないけど。愚痴くらいならいつでも聞きます。聞くだけね。

 

 

常にリスペクトを忘れずに。

 

 

PARTY IS OVER NOW

4年 髙橋俊哉

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