基準を作るということ

野中滉大(4年/スペシャリスト/天王寺高校)

 ある同期から「卒部feelingsみたいやな!」との感想を言われくらいに、前回のfeelingsこれまでのア式生活の中で考え、行動したことの概略を書いたので、今回の最後のfeelingsでは自分が選手あるいはスタッフとしてア式に関わった日々や一人の大学生としてこれからの日本・世界が少しでも良くなるには何が大切なのかを考えた日々の中で感じることの多かった基準を作るということ」の大切さを読んでくださった方にお伝えできれば嬉しいなと思います。

回顧や内省が多くなることもあり、本稿の最後の部分以外では文体が変わりますがご容赦ください。

 

 

 

およそ3年と数ヶ月前、それまで育成チームで大学から新たにコンバートされたセンターバックとして先発で試合に出場することが多かった1年生の自分は、4年生の引退を期に新たなAチームに加わることとなった。

 

自分よりも先に多くの同期がAチームに昇格していたし、半年間育成チームさんやさんの指導をいただいて、特にビルドアップの面では当時のア式のセンターバックとしてどういったプレーが求められるのかについて理解が深まってきたと多少の自信が芽生えてきた頃の昇格であったが、再始動日の水曜日の御殿下の練習から「Aの基準衝撃を受けた

 

この日の練習で覚えた衝撃は、3年後の今でも鮮明にその練習の雰囲気を記憶しているほどに大きかった。長くトップチームの中心選手としてプレーし新チームで最終学年となった先輩たち、新チームへ昇格してきたメンバーに対して本当に厳しかった。判断のスピード、一つ一つの精度などでこれまでの自分のサッカー人生では経験できなかった「Aの基準」を求められた。これまで育成でプレーしていた選手に対して「Aの基準を自身のプレーでも味方への要求でも示し続けてくださっていたように感じる。大学の看板を背負い、チームを代表してプレーするにはこれだけの高い基準が求められるのかと感じた記憶がある。

 

その後選手としての一線から離れ、様々なレベルのサッカーを見た上で当時の経験を振り返り感じのはチームスポーツであるサッカーにおいてチームの基準をどこに置くのかが極めて重要であり、それそのチームの質や結果に直結するということだ。

 

まず、どこに目標という基準を定めるのかということはそのチームの方向性を大きく左右する。そして、その目標の実現のために必要な練習の内容やコミュニケーションの質個々人の日常生活等における基準をどこに設定するかで、そのチームのメンバーの行動のあり方は大きく左右される。チーム1人1人の11つの行動の積み重ねが11つのプレーのあり方や結果に直結しているように感じる。昨年のドイツやスペインを破ったW杯の日本代表の例で言えば、特に選手の皆さんはW杯で彼らに勝つという基準を自らに設け、自らの所属クラブでのプレーや日本サッカー界全体の水準をその目標実現のために必要な水準に高めようと日々取り組んだと言える。その結果が現れたものとしてあの2勝を捉えることができるのではないだろうか。

 

こうした基準を示す存在として監督をはじめとする指導者も重要な役割を果たすが、やはりそれぞれの選手が自らや味方に対してどの水準を求めることができるかでそのチームのレベルは大きく変わるように思われる。ましてや、既存のチームにおいて重要な役割を果たしてきた最高学年が一定の周期で集団でチームを去るという構造にある大学スポーツにおいては(受験のために引退が存在する中学高校年代のスポーツも同様かもしれない)、新チーム始動の際に、選手11人がこれまでのチームの水準をどれだけ維持・発展するかは、目標達成のための重要な課題となる

 

そう考えると、当時新たに最高学年となった先輩たちの厳しさは、ただ新たに昇格したばかりのレベルの低い選手に対するイライラ以上の、「Aの基準を示すとても重要なものとしてよく理解できるような気がする。

 

以上の経験から得た学びを半ば強引にまとめるとしたら(特にチームスポーツにおける)目標達成には、目標という基準の設定とその実現に求められる基準の設定遂行が極めて重要だ」ということを痛感したと言えるだろう。

 

 

 

また選手時代に加えて「基準を作るということ」大切であると感じたのは、スタッフとして海外との関わりを持つことのできるクラブにするべく「国際的活動」に取り組んだ際である。この取り組みは、「社会・サッカー界に責任を負う存在として日本一価値のあるサッカークラブとなる」というア式の存在目的と密接に関わっている。

「日本一価値のあるサッカークラブ」を目指それを通じて社会やサッカー界に貢献するというこの存在目的は、本稿の関心に引き寄せて言い換えれば、日本で最も価値のあるサッカークラブの基準を示すことができるクラブになることを通じて、サッカー界の水準を高めることを目標としているということであると言える。

この存在目的で想定されているであろう日本のサッカー界の水準を考える際には、誰しもが海外の水準と日本の水準の差という問題に直面すはずであるJリーグと海外サッカーの試合のレベルの差は観客の多くが体感することであろうし、活躍したJリーガーが海外に移籍するニュースを目にする際などサッカーに関わる多くの人が何らかの形で何らかの側面における日本サッカーの水準と海外サッカーの水準の違いを感じることが多いであろう。

 

以上のような状況の中で日本サッカー界の発展を考え、そしてその中で最も価値のあるクラブになることを目指す際には、日本サッカー界という自らの置かれている環境を相対的に捉えることができる存在になることが必要のではないか。またその上で、海外との結びつきを通じて世界でも通用する基準を内面化することができれば、「日本一価値あるサッカークラブ」に一層近づくことができるようになるのではないか。

 

そのように考え当初の動機は海外と繋がれるア式になれば面白いやんというワクワクする感情があり、その上でこうした考えが肉付けされてきたことは間違いない日本で最も価値のあるサッカークラブの基準1として重要になるであろう海外とのつながりを作るべく、スタッフとして王、石丸、岡本、田所らと共に「国際的活動」に注力した。

 

FCヴァッカー・インスブルックとご縁をいただいたことといったの国際的活動の結果、海外との関わりという新しい基準をア式の中持ち込むことができたこと、そしてそれを通じて関係部員が世界の基準と向き合い、自らの基準を高めることにつなげることができたことは、ア式が「日本一価値あるサッカークラブ」になる小さなきっかけを作ることができたのではないかと感じている。

 

しかしその一方で、自分自身に目を向ければ、新たに創設された部内のポジションである「スペシャリスト」が果たすパフォーマンスの基準はもっと高めることができたと反省している。この反省や悔しさは人生の次のステージにおいて、ある役職や立場のあるべき基準を体現できる存在になることを目指す上での糧にしたい。

 

 

 

これからの世の中でも「基準を作るということ」を意識することは大切になってきているのではないかと思うことがある。

 

まず1つ目は、各人が「幸せの基準」を自分の中に持っておくことが今後より一層大切になってくるのではないかという問題意識である。

 

学問の祖とも言われるアリストテレスは、「ニコマコス倫理学」の中で人間の究極的な善を幸福だと位置付けた。つまり、人々が行う行動の究極的な目的は幸福であるということである。その幸福は快楽と徳と知恵に大別され、自分自身の中で実現されるものでも、他者との関係の中で実現されるものでもあるという。

 

これを、テクノロジーの進化によってそれぞれの個人が行いうることの可能性が広がり、また既存の社会で人口に膾炙していた価値観にとどまらない様々な価値観が表出するようになりその多様性が尊重されるようになった現代の状況と照らし合わせて考えると、 もちろん上記分類は依然として通用するかもしれないが、幸福のあり方はもはや定めきれない程に多様化した思われる。こうした状況では、行いうることの可能性が広がった一方で自らの限られた時間的・金銭的資源をどのように配分するのかという問題に直面するし、多様性が認められる一方で他者にとっての幸せの基準が自分にとっての幸せとすぐに符合するわけではないという問題にも直面する。

 

こうした状況では、より一層それぞれ個人の中に自分の幸せとは何かという基準を持ち合わせないと、幸福になれないのではないかそして自分自身に幸せの基準を持ち合わせているからこそ、他者の幸せの基準にも寛容になれるのではないか。つまり、この現代社会の中で、自分にとっての幸せの基準を持ち合わせていることが、自分の幸せにとって極めて重要であるし、それが他者の幸せにも繋がりうると言えるのではないか。こうした意味でも「基準を作るということ」は大切になってくるのではないか。

こうして考えてみると、夢を持つということ自分の人生の幸せの基準を定めるというだとして位置付けられるのかもしれない。

 

もう1つは、ルールを作るということの大切さも「基準を作るということ」の大切さときつけて理解できるのではないかということである。その中でも人々が自由に生きるために必要な基準を設けるという意味のルール作りと、豊かさを守り創造していく戦略として基準を設けるという意味のルール作りに大別して議論したい。

 

前者の議論としては、フリードリヒ・ハイエクが議論したような人々の自由の領域を守るために何かをしてはいけないという範囲として法の支配が重要であるということはまさに社会のために一定の基準を設けることが重要との議論と理解できるだろう。その重要性は一国内のレベルにとどまらない重要性を持つものだとこれまでの1年間は特に強く感じるようになった。可能な限り多くの主体が遵守するルールを作り、それを守り続けられる国際社会を形成することは、可能な限り多くの人々の自由や尊厳を守る上でとても大切なことである

 

後者の議論としては、戦略的なルールメイキンングの重要性として語られるものが挙げられる。これはEUなどが得意なこととされることが多いもので、自らにとって優位な基準のルールを設定することを通じて、国際社会での競争力を維持するというものである。国内市場が縮小する中で日本の豊かさにとって海外は今後より一層重要になり、また経済と安全保障が密接に関わってくるという時代の流れの中で、自らにとって優位な基準のルールを形成するということはとても重要なことになっているのではないか。

 

すなわち、幸せにとどまらず、人々の自由や豊かさにも「基準を作るということ」は密接に関わる大切なことではないかということがここで述べたいことである。

 

 

 

以上が「基準を作るということ」に関して縦横無尽で荒削りではありますが、考えてきたことをまとめたものです。お読みいただいた方に少しでも「基準を作るということ」がどこかの文脈においてでも大切だと感じていただけたら嬉しいなと思います。

 

そして最後にはなりますが、日頃からア式に関わってくださっている皆様、幼稚園の年長から始めた私のサッカー人生に関わってくださった皆様、そして自分にとっての幸せの基準となってくれている家族・友人のみんなに感謝を申し上げて、筆を置きたいと思います。

 

ありがとうございました。

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