大切な場所

古野遼太(4年/試合運営/ラ・サール高校)

 「古野って変わったよね」とよく言われる。もちろんいい意味で、だ。色々な人に言われているからお世辞という訳ではなさそうだ。今シーズンを振り返ってみても、部員から一定の信頼を得ていたと思っている。感謝されることも増えた。自分勝手な行動を繰り返し、先輩方に迷惑ばかりかけていた1年生の頃の自分とは違う。

とはいえ、根っこの部分は変わっていない。引退試合のマッチデープログラムでは、僕の紹介文に「ズボラな私生活」と書かれていたが正にその通りである。ちなみに紹介文は上西園が考えてくれた。結構気に入っている。

 

では何を変えたかというと、周囲への見せ方だ。部活に取り組む姿勢を変え、自分の行動が部員にどう思われるかを意識した。定着した他者からの評価を変えるのは難しいし時間もかかる。それでも必要なことだった。危険な考え方ではあるものの、「誰が言うか」は重要だと思っている。特に今シーズンは最上級生として部の意思決定に多く関わったり、ユニットの方針を決めたり、改善すべき点に気付いたら注意したりするようになった。そういった時に意見を聞き入れてもらえるように、協力を得られるように、普段から真摯に部活に取り組んだ。その甲斐あって、部員から持たれているイメージを多少なりとも変えることができた

 

上記のような考え方・行動に至るまでに4年間で多くの出来事があった。本当にたくさんの貴重な経験をさせていただいた。卒部feelingsということなので、最後に4年間を振り返りながらその時々で何を感じていたのかを綴ろうと思う。

 

 

 

ア式にはテクニカルスタッフとして入部した。サッカーの試合を観るのが元々好きだったことに加えて、当時テク長をされていた井上さんに惹かれて入部を決めた。1年生の頃と今のテクニカルを比べると大きく様変わりしている。当時はまだ人数も少なく、コロナ禍前だったので対面で集まる機会も多かった。撮影のシフトが入っていなくても平日に2,3日はテク部屋に集まっていた。特にやることがない日もあるのだが、テク部屋で先輩方や同期と他愛もない話をするのは本当に楽しかった。

 

肝心のテクニカルとしての活動はというと、遼さんや井上さん、稲田さんに手厚くご指導いただいた。リーグ戦のスカウティングミーティング(以下、MTGを見学したり、リーグ戦の試合映像を切り出しての振り返りを担当したり、プロの試合を分析してフィードバックをいただいたり、戦術講座を開いていただいたりと学習と実践の場を豊富に用意していただいた。シーズン終盤に開催された新人戦では松井と一緒に日本大学文理学部のスカウティングも担当した。こんな調子で1年が過ぎ2年生となったタイミングでコロナ禍に突入した。

 

先輩方は活動再開に向けて精力的に動いていらっしゃった。しかし、僕は成績がかなりピンチだったので部活のことはほとんど忘れて勉強に時間を費やした。Zoomで全体MTGを行なった際に選手から「サッカーをしたい」という強い思いを聞いたこともあり非常に良心が痛んだものの、正直僕にとっては僥倖だった。夏場までにしたことと言えば、しばしば行われていたテクニカルMTGへの参加くらいだろう。

 

9月になってようやくイレギュラーながらもリーグ戦が始まり、テクニカルとして本格的に活動が再開された。初めてリーグ戦のスカウティングを担当することになり気合いを入れて取り組んだ。担当したのは東京工業大学、成城大学、一橋大学。密を避けるために選手向けのMTGはしないという変更があったものの、対戦相手の試合映像を見て他のテクのメンバーと話し合い、選手に見せる映像を編集したり資料を作成したりとできることをした。結果としては東京工業大学、成城大学には勝ち、一橋大学には負けた。

特に一橋戦は印象に残っている。一橋との試合は東商戦と呼ばれ、東大と一橋は伝統的にライバル関係にある。加えて当時戸田和幸さんが一橋の監督をされており、テクとしては絶対に勝ちたいという思いがあった。しかし、前半でまさかの3失点。後半圧倒的に攻めるも1点しか奪えず1-3で敗北を喫した。リーグ戦で負けるのはいつだって悔しいが、スカウティングを担当していた分余計に悔しかった。しかも試合前のテクの予想に反し、一橋は5バックで臨んできた。予想を外しチームの勝利に貢献できたかったことで、責任を感じずにはいられなかった。それでもシーズンを通してみれば、2部リーグで亜細亜大学に次ぐ2位の成績を収め1部リーグへの昇格を決めたのだから十分成功したと言えるだろう。

余談だが、亜細亜は来シーズンから関東2部リーグでプレーするのだからすごいなあ。

 

そして3年生になった時、自分の中で大きな迷いが生じた。この年から監督が陵平さんに代わり、長年Jリーグでアナリストをされていた杉崎健さんがテクニカルアドバイザーに就任された。掲げられた目標は「日本一のテクニカル集団になる」。これはプロのチームも含めた上での日本一である。僕が1年生の頃からは考えられないほどテクの人数が増え、しかもみんな優秀で、LB会からの多大なる金銭的なサポートもあり、プロの現場で活躍された杉崎さんからのご指導もいただける。こんなにも恵まれた環境にいるのだから、日本一を目指すというのは現実的な目標だと言える。しかし、日本一を目指す集団に果たして自分はふさわしいのかと考えてしまった。端的に言えば自信がなかった。テクでの2年間の活動を経て、自分の能力不足は痛感していた。自チーム分析、対戦相手のスカウティング、データ分析どれにおいても今まで以上に高いレベルが求められる。そこで自分が活躍できるイメージは湧かなかった。シーズン序盤はスカウティングにも参加していたが、悩んだ末にシーズン途中でテクの活動から離れることに決めた。それ以降、僕は運営の方に力を入れるようになり、テクの仕事といえば練習や試合の撮影くらいしか携わらなくなった

 

今思い返してみても、本当に勝手な決断だったと思う。それでもテクのみんなは変わらず温かく接してくれた。本当に感謝しかない。

 

最後にテクの同期と後輩に向けて。

 

1人目はもりし。会ったことはないのだが(笑)、スペシャリストとしてデータ分析に深く関わってくれた。僕が入部した頃はこのような関わり方は認められていなかったのでア式が多様性を認めるように良い方向に変わってきたのだなと感じる。マッチレポートの作成を始めとしてア式のデータ分析を発展させる上で必要な存在でした。ありがとう。

 

2人目は王。初めて会ったのは2年前のスタート合宿。なんか凄そうな人だと思ったが、想像以上に凄い人だった。王はア式の外で多岐にわたる活動をしている。王がいたからこそスペシャリストという立場が生まれた。王は考えていることのスケールが並外れており、国際的活動をスタートするには不可欠な存在だった。インスブルックと提携することを聞いた時には本当に驚いた。色々な視点から他の人には真似できないアプローチでア式の価値を高めるために注力してくれた。たまにグラウンドに現れてGKとしても活躍していたね(笑)。ありがとう。

 

3人目はけいご。けいごは元々選手をしており2年生の時にテクに加入してくれた。選手からスタッフへ転向するにあたり様々な葛藤があったと思うが、今では「きのけい」としてサッカー界で大活躍している。学部でもサッカーの研究をしているようで、まさに四六時中サッカーと向き合っているのだろう。後輩からも慕われていて、困った時には優しく的確なアドバイスをしてくれる本当に頼りになる存在だった。来年からはエリース東京でテクニカルコーチを務める。今後の活躍を心から願っているよ。ありがとう。

 

4人目は髙橋。「としや」と呼ばないのは僕くらいだろう(笑)。別に理由がある訳ではなく、途中で呼び方を変える気にならなかっただけの話である。髙橋は1年生の頃から抜きん出ており、同じプロの試合の分析をしてみても資料やプレゼンの出来は明らかに違った。実際髙橋は1年生ながらも後期リーグ戦からスカウティングの一角を担うこととなった。今ではテク数名のチームを複数作って分担しているが、当時は井上さん、稲田さん、髙橋の3人で回していてしかも1試合1人で担当していた(例えば、8/25の明治学院戦は井上さん担当、9/1の東京農業戦は稲田さん担当、9/4の東京経済戦は髙橋担当みたいな感じ)ので横から見ていてもその大変さがひしひしと伝わってきた。テク以外にもリクルートの一環で高校生の視察をしたり強化ユニットとして陵平さんの招聘を成功させたり他にも部活内外で様々な活動に奔走していた。たまに出射とSlackで長文の言い合いをしていたのもとても印象に残っている。話している内容は意外としょうもなかったりするのだが、それでもア式のために真剣に考えていることは伝わってきた。そして最終的には学生コーチを務めた。ほとんど毎日練習に参加し、公式戦ではベンチに入る。ベンチでの髙橋はまさに選手と一緒に戦っていた。ア式がゴールを決めると自分が決めたかのように喜び、逆に失点すると上を向くように選手たちを鼓舞する。その姿はとてもカッコよかった。間違いなくここ数年のア式を象徴する人物であり、ア式への貢献度は計り知れない。本当にお疲れ様でした。ありがとう。

 

5人目は松井。松井とはア式のどの部員よりも長い時間を共に過ごした。初めて会ったのは入部式の時。1年生は一人ずつ挨拶をしたのだが、松井はその時「阪神タイガースが好き」と公言した。野球の方が好きなのにサッカー部に入った訳だ。面白いヤツだなと思った。1年生の時は大体同じ活動をしていたので、ほとんど一緒にいた気がする。一緒に居すぎて、「古野と松井の区別がつかない」とよく言われた。確かに身長とか細さとか体格は似ているものの、流石に見分けられるだろうと思っていた。これについては松井も同じことを言っていた。3年生になると松井はテク長を務めた。本人は謙遜していたけれど本当に大変だったと思う。テク長はテクの活動全体を把握して上手く回していかなければならない。活動の幅が広がっていく中でそれを達成するのは困難だっただろう。それでも最後まで見事に務め上げた。他にも同時期にリーグ戦のライブ配信で実況を担当し始めた。僕は幸運なことに、コロナ禍で人数制限があるアウェイ開催のリーグ戦でもほとんど現地観戦していたので、松井の実況をしっかりと聞く機会はなかった。実際にはライブ配信の視聴者から好評で、松井本人も「好きで実況をしている」とよく話していた。まさに天職なのだろう。松井は相手選手に関する情報の記憶力が異常で、選手の特徴とか名前とかポンポン出て来る。試合から日が経ってもずっと覚えているので本当にびっくりする。そのような実況に必要な能力も兼ね備えていた。今年で特に印象に残っているのは、松井が現部員の誰よりも熱い思いを持ってリーグ戦の声出し応援解禁に向けて働きかけをしていたことだ。僕が1年生の頃は毎試合声出し応援をしていた。毎試合やっていると流石に応援歌は覚えるし、そうやってどの代でも途切れることなく応援の文化が継承されてきた。しかし、コロナ禍に入り声出し応援が禁止され、2年以上の間できていなかった。声出し応援を経験しているのが僕たちの代だけになり、下の代への引き継ぎが急務となった訳である。松井は何度も主務と話して打開策を模索していたのだが、結局最後まで大学から声出し応援の許可は降りなかった。そんな中でも双青戦では声出し応援をすることができたので本当によかった。双青戦で応援の楽しさが後輩たちにも伝わっていたら嬉しいし、松井の思いを継いで来年以降も続けて欲しいなと思う。個人的な話だと、松井には何度も相談に乗ってもらった。部活をやっていると上手くいかないことがたくさんある。そんな時はまず松井に話していた気がする。何をぶつけても優しく受け止めてくれるし、次第に心が晴れていった。本当に何度も助けられた。松井がいたからこそ最後まで部活を続けられたと思う。ありがとう。

 

そして後輩のみんな。テクとして関わることは少なかったけど、外から見ていて本当にすごいなといつも感心していました。メディアで取り上げられることも増え、世間からの注目度が高まっているのは間違いないです。初対面の人に「ア式でスタッフをしています」と話すと、「テクニカルってすごいよね」とよく言われました。普段から本を読んだり試合を観たりして知見を深め、スカウティングの資料や分析記事を作成し、その上で何度も改善を図ってきたはずです。そうした日々の研鑽があったからこそ、テクの存在が大きくなっていったのだと思います。みんなの今後の活躍を心から応援しています。ありがとう。

 

 

 

話は変わるが僕の4年間を語る上で決して外せないことがある。東京都大学サッカー連盟(以下、都学連)の学生幹事としての活動だ。都学連を簡単に説明すると、ア式が参加しているリーグ戦やカップ戦の運営を行なっている組織である。東京都リーグに所属している色々な大学のサッカー部から学生が集まって活動している。

 

先輩から都学連の話を聞いて興味を持ち、1年生の夏から参加することとなった。当時のア式からは春歌さん、弥久さんも学生幹事をされていて大変お世話になった。都学連の良さは他の大学の人と繋がりができることにある。春歌さん、弥久さん以外は全員知らない人な訳で、そこに飛び込んでいくのは少し怖かったのだが、いざ入ってみると温かく迎え入れていただいた。

 

僕は競技委員会という、リーグ戦の会場を決める委員会に所属することとなった。他の委員会の集まる頻度は月1程度だったのに対して、競技委員会は毎週水曜日に必ずJFAハウスに集まっていた。余談だが、日本サッカー協会がJFAハウスの売却を決定し、来年には壊されることとなった。よく通っていた場所がなくなるのは寂しいものだ。

競技委員会が毎週集まっていた理由は、シンプルに毎週話し合うことがあったからである。リーグ戦の会場は試合の1ヶ月前に決定しなければならない。リーグ戦が続く限り1ヶ月先の会場を毎週決め続ける必要がある訳だ。当時は東京都1部から4部まで10チームずつ、計40チーム編成だった。つまり、20試合分の会場を毎週確保しなければならなかった。20試合分確保することは容易ではなく、毎週のように会場が不足するという問題に直面していた。だから毎週集まってどう対応するかを話し合った。解決策としては会場を持っているチームの担当者にひたすら連絡する他なかった。そのチームが会場提供していない場合はなんとか1試合開催できないかお願いし、1試合提供している場合は2試合開催できないかお願いする。それでも足りない場合は3試合開催をお願いしたり(特に亜細亜大学には大変お世話になった)、外部のグラウンド(最悪土のグラウンド)を確保したりしてなんとか掻き集めていた。東大では2試合開催することが多かったのでよく感謝されたものだ。

 

このように会場確保に追われることが多かったというのも毎週集まっていた理由の1つではある。ただそれはある意味口実だ。わざわざ集まらなくてもLINEのグループで話すことはできるし、対応に困ることもなかったはずだ。それでも集まっていたのは、当時の競技委員長が対面で会うことを重要視していたからである。繰り返しになるが、学生幹事は色々な大学の学生から成る。競技委員会に所属している学生幹事も全員大学は違った。大学が違えば普段ばったり会うなんてこともない。一緒に活動をするのだから、毎週顔合わせて親睦を深める機会を作るべきだというのが競技委員長の考えだった。そんな訳で毎週JFAハウスに行くことになったのだが、僕は競技委員会の先輩方と会うのが楽しかったのでむしろ自分から進んで足を運んでいた。話し合いの後はご飯にもよく連れていっていただき、本当にお世話になった。1年目は先輩方から色々教えていただきながら楽しく過ごした。

 

2年目になりコロナ禍に突入した。例年3月に開催されるアミノバイタルカップや4月に開幕するリーグ戦が延期になり、部活と同様に対面での活動はできなくなった。前述の通り僕はこの時期勉強に時間を割いていたので、リーグ再開に向けて先輩方がどのように動かれていたのかは分からない。それでも、未曾有の事態に直面し40チームが所属しているリーグをどう再開するか難しい対応を迫られたのは想像に難くない当時学生幹事の幹事長を務めていた春歌さんには本当に尊敬の念に堪えない。先輩方のおかげで8月にアミノバイタルカップが開催され、9月にはリーグ戦が再開した。12月までにリーグ戦を終わらせなければならなかったため、1,2部リーグはまず総当たりで各チーム9試合行い、その時点の順位で上位5チーム下位5チームの2つに分けて、それぞれのリーグで総当たり(4試合)という計13試合のレギュレーションとなった。3,4部リーグはさらに試合数は少なく、1回の総当たりのみで順位を決めることとなった。

 

競技委員会目線で話すと、例年よりも集めなければならない会場の数は少なくなった。加えて、なかなか活動再開できないチームもあり不戦敗となってしまう試合も多数出ていたので、実際にはさらに少なかったと言える。しかし、会場不足に悩まされるという状況は変わらなかった。むしろ前年よりもさらに不足していた。都リーグの試合は所属チームに大学のグラウンドを提供してもらうことで成立していた。ところが、新型コロナウイルスの影響でほとんどの大学のグラウンドに制限が入り、リーグ戦の会場として使えなくなったのである。東大のグラウンドも9月末までは使えなかった。そうなると対応としては外部のグラウンドを探すしかない。競技委員会でも試合の数ヶ月前から会場確保に動いていたが、それだけではなく所属チームにも協力をお願いすることとなった。例を挙げると、ア式のリーグ開幕戦は埼玉県深谷市の仙元山運動公園陸上競技場で開催した。初めて訪れた会場で不慣れながらも運営したのでよく覚えている。並行して各チームには大学側とグラウンドの使用について交渉してもらった。そのおかげでリーグ戦が進むにつれて徐々に使えるグラウンドが増えていき、なんとかリーグ戦を最後まで開催することができた。

 

そして僕が3年生になるタイミングで都学連の体制が大きく変わった。学生幹事の参加が任意となったのだ。要するに希望者のみが学生幹事になることとなった。それまでは都1部、2部のチームからは必ず学生幹事を出さなければならなかった。僕が自分から学生幹事になったので特に問題にならなかったが、希望者がいなければア式の同期の中で誰が学生幹事になるか話し合う必要があった訳だ。断っておくが、僕はその制約を意識して学生幹事になった訳ではない。しかし、そこで改めて僕は学生幹事を続けるかどうか問われた。それまで学生幹事はア式の誰かがやらなければならず、ある意味部の仕事の一部だった。ところが、必ずしもやる必要はなくなった。部に貢献することを考えたら、学生幹事を辞めて部内で他のことをやった方がいいのかもしれない。自分でも色々考えたし、都学連でお世話になった先輩方にも相談した。そして結局続けることにした。理由は単純で、都学連という場所が好きだったから。1年間オンラインで頼まれたことだけやって、それで終わりたくなかった。それに1,2年目は先輩方にたくさん助けられただけで、僕自身はたいしたことはしていない。あと1年続けることで得られるものがきっとあるはずだと考えた。今振り返ってみると、本当に甘い考えで覚悟も足りていなかった。1年間リーグを運営することの大変さを理解していなかった。

 

この変更の結果、前年まで40名ほどいた学生幹事が11名となった。40名の中には嫌々学生幹事をしている人も確かにいたので減るのは間違いないと思っていたが、想像以上に少なくなってしまった。前年から学生幹事を続けたのは僕含めて4名。それだけ減ったら普通は上手く回らなくなるだろう。それでも都学連が再スタートを切れたのは理事の方がいたからだ。それまでの都学連は文字通り学生主体で動いていた。しかしその弊害としてミスも多々あり、東京都サッカー協会や都リーグ所属チームに迷惑をかけることもあったそうだ。そのような事態を防ぎ、万が一何かあった時に大人が責任を取れるように理事の方に深く関わっていただくことになったのだ。

 

1月に顔合わせを行い、それからしばらくは理事の方に業務を教えていただく期間となった。僕は再び競技委員会所属となったのだが、以前と比べてやることが増えた。リーグ戦の会場決めに加えて、審判関係の業務も担当することになったのだ。元々は審判委員会という委員会があって、それが競技委員会に吸収された形である。実際の業務を具体的に説明すると、まずは審判員の派遣だ。都1の試合には2名、2部の試合には1名の審判員を東京都サッカー協会から派遣していた。リーグ戦の日程が決まる度に、協会に対して派遣の依頼をしていた。次に残りの審判員の決定だ。1部の場合は2名、2部の場合は3名の学生審判員が必要になる。どの大学の審判員が担当するかを決めていた。他には、リーグ戦の日程が決まる度にHPTwitterで告知をしたり試合の数日前になると協会派遣の審判員に対して割当確認の連絡をしたり、シーズン初めには全大学のユニフォームについて規定を満たしているか確認をしたり、年に数回行われる審判講習会の進行を務めたりしていた。ユニフォームや講習会を除くと、競技委員会の仕事はルーティンワークだ。会場決め、審判決め、告知、審判員への連絡いずれもリーグ戦が続く限り毎週やらなければならない。言い換えると毎週やることが明確になっている。競技委員会の学生幹事は4名いたので誰が何を担当するか決めた。分担したら、毎週繰り返しやっていくうちに徐々に慣れていき上手く回っていくだろうと僕は当初考えていた。しかし、実際にはそう上手くいかなかった。

 

都学連の業務をする上でミスは絶対にあってはいけない。もしミスがあった場合、最悪試合が中止になることもあり得る。競技委員会で例を挙げると、発表した試合会場やキックオフ時刻が間違っていたとする。すると、キックオフ時刻になっても対戦チームや審判員は集まらない。当然試合はできない。そんなことが頻発していたらリーグ戦にならないし、都学連の信用問題に関わる。だから、ミスがないかの確認にはかなりの重きが置かれた。まずは学生幹事の中で確認し、その上で理事の方の確認を経てようやく発表できるようになる。外に出す情報に関してはどんなに些細なものでもこのプロセスが徹底された。前述の通り、競技委員会は毎週やることが多い。そのどれにおいても確認作業が発生する。注意深く確認すべきなのは分かっているものの、確認が続くと悪い意味で慣れてしまい細かいところを見逃してしまう。そうした時には理事の方が気付いて指摘してくれるのだが、具体的にどこが間違っているかまでは教えてもらえなかった。もちろんこれは狙いがあっての方針だ。毎回理事の方にミスを指摘してもらえるなら、学生幹事の中での確認が甘くなってしまう。理事の方の確認がなかったとしても、学生幹事だけで完璧にできるようにして欲しいと常々言われた。しかし、これが僕にとってはストレスになってしまった。学生幹事からOKもらって安心していても理事の方に間違っていると言われたら、どこが間違っているか最初から確認し直さないといけない。ミスに気付いて修正しても、もし他にミスがあったら再び突き返される。何度も指摘されるうちに、確認作業自体が怖くなってしまった。そして指摘されないようにそれまで以上に確認に時間を費やした。

 

それだけだったらまだ何とかなったのかもしれない。しかし、競技委員会はルーティンワークだけでなくイレギュラー対応もしなければならなかった。代表的なものは延期試合の対応だ。あるチームで新型コロナウイルス陽性者が出て活動停止になってしまったら、その週のリーグ戦は延期にせざるを得ない。そうなった時の対応として、まずは協会派遣の審判員へ連絡する必要がある。延期が決まるのは試合の数日前のことが多かった。直前での変更となるため、審判員には必ず電話で延期を伝えていた。続いて東京都サッカー協会や都リーグ所属チームへメールを送り、その後でHPTwitterで延期のお知らせを出していた。この対応自体にはそれほど時間はかからないものの、延期が決まり次第すぐに対応しなければならない上にかなり頻繁に延期試合が出ていたので僕としては負担を感じていた。他にも日々チームからの問い合わせは数多くあり、メールが届く度に億劫な気持ちになってしまった。

 

こんな調子でシーズンは進んでいき、ある時ついに何も手につかなくなってしまった。最低限のことだけやって、それ以外は他の学生幹事や理事の方に任せるようになった。そんな無責任なことが許される訳がない。自分でも「もっとやらなきゃダメだ」と言い聞かせた。でも体は動かなかった。自分の弱さを痛感した。自分のことが嫌いになった。常に自分を責めるようになった。負のループに陥り、日に日に自信を失っていった。

 

この年から対面での幹事会が再開され毎週水曜日に必ず集まっていたのだが、顔を出すのが嫌になってしまった。1年生の頃はあんなに楽しみだった幹事会なのに。学生幹事や理事の方と顔を合わせるとどうしても申し訳なさが込み上げてくるから。それでも学生幹事として出席すべきだと思っていたから毎回参加した。おそらく1回も休まなかった。

 

シーズン終盤には理事の方に業務をほとんど巻き取られてしまった。でも悔しいという気持ちは湧いてこなかった。悔しいと思えるほど本気で向き合っていなかったからだろう。そして、そこには僕がいなくても上手く回っている都学連があった。僕の存在価値は皆無だった。それに気付いた時、シーズン終了後に学生幹事を辞めると決めた。

 

辞めると決めて理事の方に話を切り出した時のことは覚えている。僕が思っていることをそのままぶつけた。僕の決断を尊重してくれた。そして、「辞める」とネガティブに捉えるのではなく「新しいことにチャレンジする」とポジティブに捉えてくださいと言われた。チャレンジしたいことが見つかっていないならそれを探してくださいと言われた。少しだけ気持ちが楽になった。

他の学生幹事にも12月の最後の幹事会で辞めることを伝えた。温かい言葉をかけてくれた。本当に優しくて素敵で大切な友達だ。

 

この1年間は都学連に多くの時間と労力をかけた。都学連にいたからこそ経験できたこともある。ただ得られたものは少なかった。それは僕が本気で取り組まなかったから。都学連は多くのことを学べる場所だった。チャンスは間違いなくあった。でも活かせなかった。部活がある。授業がある。バイトがある。そんなの言い訳にすらなっていない。ただただ逃げただけ。他の学生幹事や理事の方に甘えてしまった。都学連を辞めてもその現実から目を背けることはできなかった。

 

このままではいけないと強く思った。

 

最後に東京都大学サッカー連盟の関係者の皆様に向けて。

今シーズンもリーグの運営にご尽力いただき誠にありがとうございました。都学連を辞めた後、1年間ア式の担当者として連絡を取らせていただきました。都学連を離れて改めて感じたのは、皆様のおかげで私たちはリーグ戦やカップ戦に参加できているのだということです。私たちの見えないところで、たくさんの時間と労力をかけてリーグの成功に向けて取り組んでいらっしゃることに本当に感謝しかありません。特に学生幹事の皆様は部活をしながら都学連と両立されていること、心から尊敬しています。

僕の文章の拙さもあり伝わっていないかもしれませんが、僕は一貫して都学連のことは好きです。確かに昨年は幹事会に行きたくないと思っていました。でもいざ行ってみると、他の学生幹事と会って話すのはとても楽しかったです。今年も公私ともに仲良くさせてもらって、楽しい時間を過ごすことができました。ありがとう。

僕は学生幹事をやってよかったと思っています。もちろん苦しいこともありましたが、自分の欠点を自覚し行動を変えるきっかけを与えていただきました。そして何より多くの人と出会うことができました。いつも助けてもらってばかりだったなと思います。本当にお世話になりました。

来シーズンも引き続きよろしくお願いいたします。

 

 

 

ここまで3年生までの活動を振り返った。結論、テクも都学連も中途半端になってしまった。このままではいけない。4年生になったら部活一本に絞って本気で頑張ろうと決心した。だから、テクも都学連も部活に取り組む姿勢や考え方が変わるきっかけではある。でもそれだけではない。

昨年、決定的な出来事があった。大東文化大学とのリーグ戦の延期だ。

 

昨年の夏から世間で新型コロナウイルス対策のワクチン接種が盛んに行われるようになった。ア式内でも当然話題に上がった。悩ましかったのが「選手がいつ接種するか」ということだ。ワクチンの副反応については耳に入っていた。接種後しばらくは安静にしなければならない。人によってはその期間が延びる。数日間全くプレーできないと選手のコンディションが落ちてしまうのは必至だ。しかも昨年はア式も延期試合がかなり出ていた影響で毎週のようにリーグ戦が入っていた。スケジュール的に接種しやすい日程がなかったのだ。それらを踏まえた上で話し合った結果、Aチームの選手は8月中旬1回目、9月中旬に2回目を一斉に接種することとなった。接種する日が決まったのは8月上旬。その直後に都学連から2回目の接種が行われる週のリーグ戦の日程が発表された。日曜日に山梨学院とリーグ戦をして、翌日に2回目のワクチンを接種しその週の土曜日に大東文化とのリーグ戦に臨むという形になった。

 

1回目の接種が行われた時に気付いたのは想定以上に副反応が大きいということだ。なかなか練習に復帰できない選手もいた。その週には東京農業とのリーグ戦があったのだが、試合内容からもワクチン接種によるコンディション不足は見て取れた。これを受けて部内では2回目の接種に関して危機感が生まれた2回目の接種後に対戦するのは大東文化大学。1部リーグ残留を目指すにあたって絶対に勝たなければいけない相手だった。その試合にコンディション不足のまま臨むのは避けたい。大東文化戦を延期にする可能性について議論されることとなった。そこで当時都学連で学生幹事をしていた僕に質問が来た。「ワクチン接種を理由にリーグ戦を延期することは可能か?」と。僕は「可能だと思います」と回答した。実際に他のチームでもワクチン接種を理由にリーグ戦を延期したケースはあったのだ。加えて、新型コロナウイルス関連の問題が起きた時には例外なく延期となっていた。リーグ戦の延期を最終的に判断するのは理事の方なのだが、チームから連絡が来て延期の要請をされたら基本的にそれを受理していた。僕の回答も踏まえて、ア式の方針は「大東文化戦を実施するつもりだけど、あまりにも体調不良の選手がいた場合は延期の要請をする」ということになった。ここで僕は重大な過ちを犯していた。理事の方に直接確認を取っていなかったのだ。前例もあるし問題ないだろうと勝手に判断し、自分の中だけで結論を出していた。それが後々仇となった。

 

1ヶ月経ち2回目の接種の前日になった。この日は山梨学院とのリーグ戦が行われた。あの0-10で負けた試合だ。力の差をまざまざと見せつけられた。失意の中、その日の夜に初めて理事の方に延期について相談することにした。試合の2,3日前よりはこの時点で伝えた方がよいと思ったからだ。もちろん一人で判断した訳ではなく、部内で相談した上で決めた。理事の方に電話をかけて、翌日にワクチンを一斉に接種すること、副反応が酷く練習がなかなか再開できない場合は延期にして欲しいことを伝えた。理事の方からの返事は「延期にすることはできない。試合は予定通り実施してください。」だった。その理由は、ア式から事前に何も説明がなかったからだ。ワクチンを接種する日は1ヶ月前から決まっていた。その時点で相談していたらまだ考慮の余地はあったが、急に1週間前に言われても対応しかねるとのことだった。他のチームで延期が認められたケースは、前々から理事の方への相談があったらしい。しかもちょうどその頃は他のチームも含めて延期試合が大量に出ていた。シーズン終盤に差し掛かる中、リーグ戦を全試合実施できるか難しい状況にあったのだ。都学連の立場からすると、なるべく試合を実施して欲しかった。もちろん陽性者が出た場合は仕方がないが、ワクチン接種を理由に簡単に延期を認めることはできないと伝えられた。

 

延期にできないことが分かり、めちゃくちゃ焦った。すぐに部内に共有した。ただ、まだ接種はしていなかったので、とりあえず選手の様子を見て判断することとなった。翌日ワクチンを接種した後は選手に体調報告をしてもらい、コーチ陣でいつ練習再開するかの判断がされた。しかし、1回目よりも副反応は酷く火曜日まで練習は再開できなかった。火曜日の夜に緊急でMTGを行い、再度理事の方に延期のお願いをするならどのような説明をすべきか話し合った。そこで部内のコロナ対策委員から説明があった。ワクチン接種した選手の中で重度の体調不良者が出ていた。大学が定めたルールに則ればリーグ戦を実施できない状況に該当していたのだ。翌朝に選手の体調を確認して、翌日も練習再開できないようなら再度理事の方に相談するという方針に決まった。

 

2021915日(水)。僕はこの日を一生忘れないだろう。朝になっても重度の体調不良者は回復しなかった。そしてこの日も練習を中止することが決まった。僕は再度理事の方に電話をかけた。ワクチン接種をした後に重度の体調不良者が出たこと、大学のルールに則ればリーグ戦を実施できないこと、そのため大東文化戦を延期にして欲しいことを伝えた。それでも理事の方からの回答は変わらなかった。そうなると困ったことになる。ア式としてはリーグ戦を実施できない。都学連としてはリーグ戦の延期を認められない。真っ向から対立する形となった。とりあえず理事の方に大学のルールについての資料を送り確認してもらうこととなった。

 

ここから僕は一日中誰かしらと電話し続けることになる。まずは先輩の稲田さんに電話をかけた。延期が認められなかったことを伝え、理事の方にこの後どのように説明すべきか意見を伺いたかったからだ。しかしそれはメインの理由ではない。この時僕はプレッシャーに押し潰されそうになっていた。僕のせいでア式が降格になってしまうのではないかと気が気ではなかった。詳細を述べることはできないが、関係者の皆様にはこれが決して誇張している訳ではないことは理解してもらえるだろう。とにかく生きた心地がしなかった。一人になりたくなかった。誰かと話していたかった。その時僕はかなり動揺していたと思うが、稲田さんは優しく受け止めてくれた。「何かあっても古野のせいにはならないから」と優しい言葉をかけてくれた。稲田さんがいなかったらどうなっていたか分からない。稲田さんのおかげで一旦落ち着くことができた。この日は稲田さんに何度も電話をかけることになる。本当に心の底から感謝しかない。

 

その後理事の方から折り返し電話があった。大学のルールについて理解していただけた。現状リーグ戦が実施できないことも納得していただけた。その上で、どうしたらリーグ戦を実施できるようになるのか尋ねられた。土曜日の試合までまだ日にちがあるため、その間に状況が変わるなら試合をして欲しいとのことだった。

これについてもまず稲田さんに電話で相談した。その日、重度の体調不良者は病院に行って検査を受けていた。その検査の結果次第でリーグ戦が実施できるか分かる。そして検査結果は翌日の木曜日には出る予定とのことだった。その旨を理事の方に伝えた。

 

僕はこの日の夕方から行われる朝鮮大学校vs東京農業大学の試合のスカウティングに行かなければならなかったため、この状況の中でも朝鮮大学校へ向かった。朝鮮にはテクからけいごと中嶋も来ていた。この日の僕の様子を直接知る部員は2人だけなのである。着いたはいいものの、結局電話を長くすることになったので撮影から何から全て2人に任せることになった。

 

朝鮮に着いた後で再度理事の方から電話があり、監督と話がしたいと伝えられた。要するに学生だけで結論が出る話ではなくなったのだ。とりあえず僕から陵平さんに電話をかけて大学のルールのことや今どういう風に話が進んでいるのかについて説明した。陵平さんまで巻き込むことになり本当に申し訳なかったが、理事の方と電話で話すことを快く引き受けてくださった。

 

そして陵平さんと理事の方との間で話があり、大東文化戦の延期が正式に認められることとなった。

しかし、ア式には厳重な注意が下された。

 

延期が認められ、されに処分についても最悪の事態は避けられたためホッとしたものの、心が晴れることはなかった。

延期が決まった後も陵平さんや稲田さん、当時OBコーチをしていた吉本さんから電話があり「対応してくれてありがとう」と伝えられた。しかし、僕がこの事態を招いたのは間違いなく、申し訳なさを感じずにはいられなかった。

 

延期が決まった後で何回かに分けてMTGを行い、意思決定のプロセスについて検証することになった。もちろん僕も参加した。時系列に沿って対応を振り返りながら、よくなかった点を挙げて再発防止に繋げる狙いがあった。確かに部としてよくなかった点もあった。でもやはり僕の責任が大きいことは否めなかった。ワクチン接種の日が決まった時点で理事の方に相談していれば、少なくとも厳重な注意が下ることはなかった。もしかしたらすんなり延期が決まったかもしれなかった。事前の想定が甘く、不適切な対応をしてしまった。部員は誰も僕を責めなかったが、MTG中ずっとそんなことを考えていた。

 

僕の軽率さのせいでア式を危険な目に逢わせてしまった。

この時に明確にア式に対する姿勢や認識が変わった。

 

そして僕と同じような思いを他の部員にして欲しくないと思った。

1部員のせいで降格してしまうかもしれない状況は果たして正常だろうか。

部活をする上でプレッシャーを感じる場面は数多くある。分かりやすいのは選手がリーグ戦で感じるものだろう。特に都2でのシーズンは常に「昇格しなければならない」というプレッシャーの中で戦っている。スタッフの僕は想像することすらできない。そんな中でも結果を出し続けている選手には尊敬の念に堪えない。

ただ、僕がこの時感じたプレッシャーは本当に必要なものだったのだろうか。もちろん自分の対応については反省しているし、部活をする上では責任のある対応が求められる。でも必要以上にルールで縛りつけて恐怖を与えるようなやり方は間違っていると思った。

だから4年生になったら、僕の関係しているユニットにおいて大事なところは全部自分でやると決めた。何か問題が起きても僕のせいだと言えるように。そしてその事態を避けるために全力でやると誓った。

 

この時から僕の中でア式は「部活」ではなくなったのかもしれない。

ア式の存在目的の1つに「部員全員がサッカーの楽しさを享受する」というのがある。しかし、この時から僕の中で部活を楽しもうとする気が失せてしまった。これはア式側に問題がある訳ではなく、僕が不器用だったからだ。それどころではなくなった。ユニット活動を全力でやりつつ、部活を楽しめる余裕がなかった。とにかくア式を守らなければならないと思った。

 

 

 

そして4年生になり最後のシーズンを迎えた。引退まで全力でやり切ると覚悟を持って臨んだ。

今年は都学連ユニットと試合運営ユニットをメインで担当していた

都学連ユニットを簡単に説明すると、都学連からお願いされたことをするユニットだ。学生幹事のように都学連の中で活動する訳ではなく、ア式の中でア式がリーグに参加する上で必要なことをする。例えば、都学連が開催する会議にア式の代表として出席したり、選手登録の手続きをしたり、都学連からの連絡事項を部内で共有したり、逆に相談したいことがあったら都学連に問い合わせたりといったことだ。

試合運営ユニットはその名の通り、東大のグラウンドで公式戦が行われる際に運営をするユニットである。今年から都学連によって試合運営に関するルールが多く設けられ、それらを遵守した運営が求められるようになった。試合の前日までには、主務に頼んでグラウンドや控え室、テントなどの備品を予約してもらったり、対戦相手に会場の注意事項に関するメールを送ったり、当日の動員やタイムスケジュールを決めたり、当日必要な書類を用意したりといったことをする。試合の当日は、朝に必要な備品の確認をし、部員に協力してもらって会場設営を行う。両チームや審判員とコミュニケーションを取ってタイムスケジュール通り進行する。試合中は本部に入って公式記録の作成をし、試合後に片付けまでやるという流れだ。特に試合運営ユニットは事前の準備の重要性が高い。準備の質で当日上手くいくかが決まる。ワクチン接種の時の反省を活かして、毎回意識して念入りに準備するようにしていた。

どちらのユニットも後輩の涼葉と協力しながら進めていた。

 

これは本当に誰にも言っていないのだが、自分の中で密かに掲げていた年間目標があった。12月に行われる都学連の表彰式で「優秀マネジメント賞を受賞する」ということだ。優秀マネジメント賞とはその名の通り都リーグの中で1年間優秀なチーム運営をしたチームに贈られる賞だ。2021年度は国際基督教大学が受賞した。僕はその時の表彰式で学生幹事として舞台上手にいたので、受賞の様子を横から見ていた。正直悔しさと申し訳なさで一杯だった。大東文化戦の延期の際に厳重な注意を受けていなければ、ア式が受賞する可能性は十分にあった。それだけ春歌さんと松尾が頑張ってチーム運営に取り組んでいたのだ。それなのに僕のせいでそのチャンスを奪ってしまった。だから、何としても今年は受賞したいと意気込んでいた。それ抜きにしても、都学連ユニットや試合運営ユニットはなかなか目標を立てづらいユニットなので、モチベーション的にも優秀マネジメント賞の存在は大変ありがたかった。

 

前述の通り多くのルールが追加されたこともあって、最初のうちは慣れるのに大変だった。それでも上手くやっていたと思う。特に35月は就活で忙しかったものの、しっかり両立できていた。「大事なところは全部自分でやる」という方針もずっと継続してやっていて、特に問題は起きていなかった。自分さえミスらなければチームに迷惑はかからない。そしてこのやり方は正しいのだと信じて疑わなかった。今振り返ってみると、他の部員のことまで気を配る器量がなかっただけなのである。単純な能力不足。そしてひょんなことからそれに気付かされることとなった。

 

6月末に筑波学院大学Tフィールドで東京都立大学とのリーグ戦が行われた。僕も撮影要員として現地にいた。その試合開始直前に1本の電話が掛かってきた。同時刻に別会場のリーグ戦で審判を担当していた後輩からだった。「レフェリーウェアを2着忘れてしまった」と伝えられた。僕は一瞬言っている内容が理解できなかった。それだけ全く想定していないことだったのだ。確かに驚いたものの意外とすぐに冷静になった。関係者の協力のおかげで、審判を担当するリーグ戦は予定通り行えるということが聞けたので一安心し、試合が終わった後で改めて事の経緯を説明してもらうことにした。

夕方に再度後輩から電話をもらい説明を受けた。その日はア式から3人の審判員を派遣していた。前日までに3人の間で誰がレフェリーウェアを持参するかについて話したが、そこでコミュニケーションのミスが起きた。結果、当日1着しかないという状況になった。その会場には予備のレフェリーウェアがなかったため、都学連の理事の方にも連絡が行き判断を仰ぐこととなった。そして関係者の方にレフェリーウェア2着を持って来てもらい、なんとかキックオフ時刻通りに試合を実施することができた。試合開始まで時間がない中で運営の方、両チーム、理事の方、関係者の方にご迷惑をおかけすることとなった訳だ。後日に部内でMTGすることにして、その日僕からは都学連と関係者の方にお詫びの連絡を入れた。

 

そしてその2日後に都学連からまたもや厳重な注意が下された。これは想定よりも重い処分だった。審判をする上で重要なレフェリーウェアを2着も忘れたこと、多方面に迷惑をかけたこと、関係者の方の協力がなければ試合中止となる可能性もあったことが処分の理由だ。そう言われるとなかなか反論の余地もない。処分については受け入れ、再発防止についてのMTGを開いた。

審判に限った話をすると、まずレフェリーウェアの管理が杜撰だった。これは僕にも責任があった。なので、審判ユニットに管理は一任して責任持ってやってもらうことにした。そして新たにルールを作った。自分のレフェリーウェアは必ず自分で持参することにし、次の週の水曜日までに返却するというものだ。対策としてはこれくらいで済むので、今回のミスも事前に防げたはずだ。ただ、ミスをしなければ考えなかったことだし、起こるべくして起きたものだった。

 

しかし、MTGの議題はこれだけにはしなかった。審判のこと以外でもチームとして気を付けるべきことを全て共有した。理由は怖くなったからだ。それまでは自分さえミスらなければ問題ないと思っていた。ところが全くの想定外のところでミスが起きた。このままだと今後何処かでまたミスが起こるかもしれない。その時に本当に責任が取れるだろうか。もうミスが許容される状況ではなくなった。次のミスは致命的なものになる。「お前のせいで降格になった」と責められながら引退なんてしたくなかった。急に不安で一杯になった。だから、他の部員にも協力してもらいチームとしてミスをなくしていくべきだと考えた。幸いにも他の部員も同じ意見だったので快く聞き入れてくれた。

MTGが終わった後、後輩の谷が「自分手伝いますよ」と言ってくれた。その場では軽く「ありがとう」と伝えただけだったが、内心は心の底から嬉しかった。何か救われたような気がした。後日には章も手伝うと言ってくれた。2人にはそれから試合運営ユニットの仕事をお願いするようになった。2人とも本当にありがとう。

 

それまでは一人で色々と抱え込んでいた。もちろんア式のために活動していたが、実のところ3年生までの無念を晴らすために頑張っていたように思う。結局自分のことしか見えていなかった。ミスが起きたことで自分のやり方に危機感を持ち、よくなかった点を改善してより健全なチーム運営を目指すようになった。だから今回のミスもポジティブに捉えることはできた。

とはいえ、この時点で優秀マネジメント賞を受賞する可能性は潰えた。都学連から厳重な注意を受けてしまっては挽回しようがなかった。シーズン半ばにして年間目標を達成できないことが確定した。正直少しだけショックだった。それでも切り替えることはできた。いや、切り替えるしかなかった。だってこれ以上チームに迷惑をかける訳にはいかなかったから。

余談だが、2022年度の優秀マネジメント賞は成蹊大学と国際基督教大学(2年連続)が受賞した。今年は表彰式にア式の代表として参加していたので、舞台上手ではなく観客席から拍手を送ることになったのだが、悔しい気持ちは変わらなかった。ただ、シーズンを通して細々としたミスはたくさんあったので、審判の問題がなかったとしても優秀マネジメント賞を受賞できたとは思わない。改めて1年間ミスなくチーム運営することの難しさを痛感した。来年都学連ユニットや試合運営ユニットで活動する後輩たちにも是非優秀マネジメン賞を目指して欲しいと思う。決して無理強いする訳ではないが、分かりやすい目標になるし目指すことで基準の高いユニット活動が出来ると思うから。

 

話を戻すと、7月以降徐々に僕がしていたことを他の部員に任せるようになった。みんな率先して協力してくれた。そのおかげで大きな問題もなく、無事に引退の日を迎えることができた。引退試合の相手は大東文化大学。最後はホームで首位チームとの試合になり最高の舞台が整った。引退試合は慣れ親しんだ本部ではなく応援席で他の部員と一緒に応援した。

応援席から試合を観ていて、「サッカーっていいな」と思った。試合に出ている選手、ベンチにいる選手・スタッフ、審判員、テクニカル、応援部員、補助学生(担架、ボールパーソン)、そして本部。みんなが力を合わせて1つの試合を作っている。もちろん主役は選手たちだ。以前ある人から「本部は目立ってはいけない」と言われたことがある。その通りだと思うし、いつも気を付けていた。それでも本部のスタッフとして微力ながらもリーグ戦の一端を担えたのは幸せなことだったのだと感じた。毎試合本部に入るのが当たり前になっていて気付けなかったが、応援席にいるとそんな気持ちになった。ちなみに、本部からは試合をめちゃくちゃ観やすい。毎試合いい場所から観戦できたのもありがたいことだった。

あっという間に試合は終わり、結果は0-1最後に負けてしまったのは悔しかった。それでも1年間全力で部活に取り組んだという自負はあったので、思い残すことなく満足して引退することができた。

 

 

 

最後に。

 

まずは試合運営にご協力いただいた皆様本当にありがとうございました。

当たり前ですが、僕1人では何もできません。

朝早くから育成チームの選手・男子スタッフには集まってもらい、ゴールや椅子を運んだり、テントを立てたり、コーナーフラッグや観客スペースを設置したりとたくさん協力してもらいました。正直重労働です。雨の日や台風の日もありました。それでも誰一人文句も言わず時間通りに集まって会場設営が終わるまで協力してくれました。

リーグ戦に臨む選手やスタッフにはタイムスケジュール通りに試合前アップやMTGをしてもらいました。他にも細かいルールがありましたが、全て遵守してくれました。

リーグ戦に出た選手は試合直後で疲れている中、テントの片付けをしてくれました。

セカンドの選手も練習試合の後で疲れている中、最後までグラウンドに残って片付けに協力してくれました。

今年は東大で16回、公式戦の運営を行いました。皆様の全面的な協力のおかげでこれだけの回数、公式戦の運営をすることができました。改めて感謝申し上げます。

 

陵平さん、三浦さん、糸谷さん。

都学連ユニットや試合運営ユニットの活動にご協力いただきありがとうございました。「学生主体」を謳っているものの、どうしても学生だけじゃ対応し切れない場面が数多くありました。無理なお願いをすることもありました。その度に何度も助けていただきました。本当にありがとうございました。

 

LB会の皆様。

4年間多大なるご支援を賜り誠にありがとうございました。僕たちが何不自由なく日々部活に打ち込めているのは皆様からのご支援なしには考えられません。本当にありがとうございました。

 

後輩のみんな。

お世話になりました。

特に都学連ユニットや試合運営ユニットで関わってくれたみんなは1年間僕について来てくれてありがとう。本当に頼もしかったです。

1点だけ伝えさせてください。

周囲から「ア式の人」として見られていることを意識して欲しいです。

僕は部活を楽しむ気がなくなったと述べました。確かにこの1年で楽しいと感じたことはあまりなかったです。でも嬉しかったことはたくさんあります。リーグ戦で勝った時や部員から感謝された時もそうですが、それ以外で1つ例を挙げます。

9月に御殿下でリーグ戦の運営をした日のことです。その日もいつも通りすべきことをしていました。その日はちょうどアセッサーの方もいらしていました。アセッサーとは審判員の試合中のジャッジについて評価し指導する東京都サッカー協会の方です。その方から「東大は運営しっかりしているね」と言われました。アセッサーは色々な大学に行かれて審判員の評価をされています。つまり、色々な大学の運営を見られている訳です。その方からお褒めの言葉をいただきとても嬉しい気持ちになりました。ありがたいことにアセッサーの方から都学連へ報告もしていただいたようです。「東大の運営の子は頑張っているよ」と。

要するに、普段の部員一人一人の行動がア式全体の評価に直結するということです。ア式は以前と比べて外部の方との関わりが増えました。外部の方と接する時はもちろん真摯に対応しているでしょう。しかし、その時だけ行動を変えているようならいつかボロが出ると思います

リーグ戦の日の朝にグラウンドに行くといつもベンチにゴミが散乱しています。他の部活も使用しているので全部ア式のせいではないと思いますが、その状態のまま相手チームが来たらどう思うでしょうか。嫌な気持ちで試合に臨むことになるでしょう。間違いなくア式の評価は下がってしまいます。そうならないように、毎試合ベンチ周りの整理はしていました。

一度ついたイメージを変えるのは難しいです。きっと誰かは見ています。普段から自覚を持った行動を心掛けて欲しいと思います。

最後に小言を言う形になりすみません。

僕は引退しますが、これからもOBとして皆さんを応援しています

ありがとうございました。

 

そして、同期へ。

特に1年生の頃は色々とお騒がせしました。上の文章で後輩に向けて偉そうなことを言っていますが、1年生の頃の自分こそ守れていなかったことです。自分から言い出しといてなんですが非常に耳が痛いです。でも部活を通して意識や考え方を変えることができたと思っています。それもみんなが僕を受け入れて温かく見守ってくれたおかげです。

同期は特にリーグ戦で活躍する選手が多かったです。いつも本部から見ていてカッコいいなと思っていました。もちろんゴールを決めた姿もそうですが、夏の暑い中でも必死にボールを追いかける姿や味方のプレーについて意見をぶつけ合う姿も輝いていました。

特に今年は4年生としてア式を背負い、絶対に昇格しなければならないというプレッシャーの中で2部リー2位という結果を残しました。本部からもたくさん勝利を見届けることができて嬉しかったです。本当にお疲れ様でした。

個人的には、おがや田所がリーグ戦の日によく「いつも運営してくれてありがとう」と言ってくれたのが嬉しかったです。ありがたいことに毎試合のように言ってくれるので、言われ慣れしてあんまり表情に出ていなかったと思うけど、内心めちゃくちゃ喜んでいました。そういうことをサラッと言える2人は人間が出来ているなあと常々思っていました。

そして、ア式の運営に関して重要な仕事を僕に任せてくれてありがとう。ミスをすることもあったしチームに迷惑をかけることもありました。他の人がやっていたらもっと上手くできていたと思います。それでも僕を信じて任せてくれたおかげで部活に本気で取り組むことができたし、満足して引退することができました。

本当にありがとう。

 

 

 

締めとして、4年間部活を続けられた理由を伝えさせてください。

それはア式が僕にとって「大切な場所」だったからです。

先輩方にはたくさんご迷惑をおかけしました。それでも僕を見放さずにご指導していただきました。井上さん、稲田さん、春歌さん、他にも多くの先輩方がいたから今の僕がいます。

そして今のア式はピッチ内外で色々な取り組みをしています。部員はみんな各々所属するユニットで生き生きと活躍しています。そんなア式は僕の目にとても魅力的に映りました。

先輩方が守ってきたこの場所を後輩、そしてこれからア式に入部してくれる人たちに残したいと思ったから最後まで頑張れました。

 

入部式の時に福田さんがこんなことをおっしゃっていた。

「お前ら東大生なのにサッカーに4年間使って本当にいいのか?」

その時は初対面でいきなり何を言うんだこの人はと思ったけど、後々それは福田さんの本心からの言葉だったのだと分かった。

確かに他にも選択肢はあったのかもしれない。ア式で4年間過ごしたのが正しい選択だったのかも分からない。でもア式に入らなかった場合の大学生活を想像することができない。それくらいかけがえのない4年間を過ごすことができました。

 

4年間ありがとうございました。

 

古野

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