災いあっても福とする

小泉尚寛(4/DF/土浦第一高校)


保育園の年中の時から友達にサッカーを教えてもらってから、小中高大と約17年サッカーを続けてきた(後ほど述べる中断も挟みつつ)。

この長いサッカー人生の中で、サッカーから学んだことは数知れないが(チームワークの大切さ、物事を成し遂げる快感、逆算思考、駆け引き、真剣勝負の面白さ、海外への関心など)、ア式で最も鍛えられたのは逆境に負けない粘り強さだったと考えている。

 

いきなりだが、最初に自身の小中高時代のサッカー人生を軽く紹介しておく。これを話した方が大学時代に味わった挫折感をよりわかると思うからだ。

部員にも知らない人は多いかもしれないが、小中高時代は比較的プレー機会に恵まれ、優秀な選手だと評価されていた。逆にこれは僕のプレースタイルから分かるだろうが、小学5年の頃からずっと DFだった(主にチームじゃ右CB、トレセンじゃSB)。

小学校時代:

・6年次に茨城県3

・4〜6年次に県南トレセン

中学校時代:

・1年次の総体からスタメン

・1、3年次に県南トレセン

・2年次に県トレセンで欧州遠征に参加

高校時代:

・1年次の新人戦からスタメン

・3年次の総体で県ベスト8

・1年次に県南トレセン

 

こんな経歴だったから、ア式に入っても2年くらいになれば試合に絡めるようになるだろうと思っていたが、そんなに大学サッカーは甘くなかった(上下関係は比較的甘かった笑)。まず、入部同期は巨人がいたし、体験練習の相手をしてくれた育成チームの先輩たちもゴツくて速いし、何よりみんな足元の技術が高かった。Aチームの試合を観戦したときは、東京都1部リーグでバックラインから華麗かつ再現性高くプレスを剥がし前進するサッカーに度肝を抜かれた。

ただ、このメンバーと一緒に魅力的なサッカーをすることを考えるとア式に入らないという選択肢はなかった。

 

(災い)心臓の異常

入部式を経て高校時代のような練習漬けの日々が再開されてしばらく経ったころ、入学時健康診断の結果が届いた。

結果は「心臓に異常があるので再検査を受けろ」とのことだった。

大きな病院で心エコーや心電図をとると異常が認められるものの、それがスポーツ心臓によるものなのかガチでやばいやつ(エリクセンとかアグエロの)なのか、時間(約1年)をおかないと判断がつきかねるらしい。

この経過観察期間は激しい運動の自制を求められたので、プレーヤーを辞めることにした。同時に、選手として活躍することしか目標になかったのでア式も去ることにした。当時の気持ちはサッカーを辞めざるを得ない絶望よりもサッカーをすることによる不安の方が大きくて、サッカーやめるのもやむなしという感じだった。去った名目は休部だったが、1年後に自分がまた戻るとは1mmくらいしか思っていなかった。

 

 

部活を辞めて自由な時間が大量に生まれた。部活をやっていたら(時間の制約などで)やりにくいであろうことをたくさんした。また、中高時代はサッカーでほぼ毎日が埋まっていたので、サッカー以外のことを意識的にするようにした。アルバイトは5つくらいやってみて社会経験を積んだし、旅行も行きまくった(今はもっと行っているけど)。友達に誘ってもらって他のサークルをちらっと見に行ったりもした。

 

 

色々しているうちに約1年がすぎ、2月にサッカーしていいよと医師から言われた。

この1年間に様々なことを体験したが、旅行以外はどこか物足りなかった。そんな旅行もコロナでどうなるか分からなくなってきていた。改めてサッカーが一番情熱を注げるものだと気づけたことでサッカーを再開することにした。

 

サッカーを再開するとして部活かサークルかどちらにするかも悩み、色々な人から情報を集めたが、最後は内倉元主将から直でLINEが来て粋に感じたのでア式に再入部を決めた。この時のア式での目標は、「まずサッカーを楽しむ、そしてAチームで公式戦に出て活躍する」だった。

 

 

 

2年になった。

コロナの影響で7月末まで部活が活動停止だったので、みんなもそれなりのブランクがあり低い強度から練習が始まったのはラッキーだった。心臓を気にして胸トラップを避けていたが、サッカーの面白さを久しぶりに享受した。

もともとやりたいと思っていた右SBで評価されて、継続的に試合に絡めたのは非常に良かった。Aチームと比べると完成度は低いが、同じプレースタイルの中でサッカーをして、今までに感じたことのないサッカーの魅力に気づいた1年間(厳密には半年間)だった。

 

 

3年になった。

サッカーは楽しめているから、スタメン奪取に挑む勝負の年と位置付けた。

シーズン開始時は育成チームだった。育成では中心選手となり、DFラインを中心に様々なポジションを試させてもらってプレーの幅が広がりつつあった。

そのような立場だったのでAチームにもたまに呼ばれるようになった。ただ、Aチームでは大した活躍ができず、数ヶ月したら育成チームに戻ってくるということが度々繰り返された。

 

この時期は非常に苦しかった。自分と同じポジションの選手より優れている部分はあるのに関わらず、Aチームには定着できない。本来の予定ならこの頃には試合に絡み始めているはずなのに。

ア式でもこの大学2、3年の時期は理想と現実のギャップに悩み、休部や退部を選択する部員が増えがちだ(より良い人生を送るために、立ち止まって考える時間を取ったり、新たな挑戦に移行したりするのは大切で、休部や退部を悪くいう意図はない)。

でも、僕は大学1年次の休部期間に自分の人生についてしっかり考えたり、他のこととサッカーを比較したりして、その上でサッカーに戻ることを決めたため、「一旦休部しようかな」という気持ちにはならずサッカーに集中して取り組むことができた。

 

確かに、「心臓の異常」という災いでサッカーを一時は奪われたが、それにより生じた時間をうまく活用したことで、サッカーに対する情熱を再確認して強い心(メンタル)を手に入れた。

災いや挫折があって1つの道が絶たれた時は、別のメリットをもたらす新たな道に進むチャンスなんだと伝えたい。

 

 

しかし、Aチームに定着できないまま気づけば、4年6月になっていた。引退まであと4ヶ月。

当時キャプテンを務めていた育成チームが勝負強く、サタデーリーグで無敗街道を突っ走っていたため、「サタデーリーグでの優勝」にア式での個人的な目標を切り替えかけていた。しかし、就活も終わって時間ができたので、「Aチームで公式戦に出て活躍する」という限りなく遠く思える目標を達成するための現状分析をしてみた(当時のメモが見つからなかったためだいぶ簡略化)。

 

自分の強み

・対人守備

自分の弱み

・ビルドアップ

当時のチームの状況

DF陣の怪我人多め

 

強みは監督からも評価されていると聞いていたので、試合でその良さを発揮し続けることを意識した。

当時のチーム状況もDFの自分にとってはチャンスだった。

弱みが本当に弱みなのか、改めて①パス成功率②パスミスしたシチュエーションを分析してみた。

その結果、①のパス成功率はほぼ全ての試合で90%を超えていたし、②のシチュエーションもドリブルの減速のタイミングが遅く自分でパスコースを減らしている場合がほとんどだと気づいた。

何となく苦手意識を持っていたビルドアップだったが、分析の結果、パス成功率は低くないことが判明し、改善すべき点も具体化された。

それだけでプレーする際の自信が向上した。

自分の弱みはただの苦手意識じゃないのか点検してみるのは意外と重要かも知れない。

 

8月になった。

3年ぶりに京都大学との定期戦である双青戦が京都で開催され、僕は2軍戦と3軍戦に出場した。この時のプレーはめちゃ良かった。

双青戦の後に1週間のオフがあり、チームが再始動する際にAチームにまたまた昇格した(もう何度目か分からない)。

昇格後は、無理な時はセーフティに蹴る(無理の基準を育成チームでプレーしていた時より下げる)ようにプレーを少し変えたり、練習の紅白戦で絶対に勝つことを意識して度々トップチームに勝ったりしていたら、9/4の日文戦で試合メンバー(ベンチ)に入った。

 

そうしたら、その試合で左CBとして先発していた矢島が負傷した。「誰が出るのかな」と思っていたらいきなり監督に呼ばれた。

「やっと出られる」という喜びと「失敗できない」という緊張が入り混じる中、ベンチでは脛当てが手につかずモタモタしていたが、ピッチに入ると普段通りにプレーできた。対人守備という自分の強みも発揮して、チームの勝利に貢献できた。

 

最終的に、途中出場の試合も入れて6試合に出て42分、勝ち点16点分に関われた。

色々湧かせるプレーもしたので、「Aチームで公式戦に出て活躍する」という目標も達成できたと満足している。

 

 

 

実は、「心臓の異常」という災いのおかげで、もう1つ良かったことがある。

1年の休部期間のうちに、色々バイトをするうちに高時給で業務内容も面白いバイトに行き着いた。

ここで効率よく稼げたおかげで、部活引退後に1ヶ月程度ヨーロッパ周遊旅行をしてカタールW杯の現地観戦にも行けた。

 

 

 

ここまで、心臓の異常でサッカーをできなくなった時間を使って行ったことが、苦しい時にもサッカーに打ち込むメンタルを養い、部活引退後に旅行するだけのお金ももたらしてくれたことを書いてきたが、災いを福に変えたのはそれだけではない。

3年次以降に育成チームで右 SB以外の複数ポジションをこなしてきたことが、最後Aチームで左CBのポジションでスタメンを獲得するという結果をもたらしてくれた。

 

大学1年次にア式に入った頃は、サッカーをできなくなるとも育成チームにとどまり続けることになるとも思っていなかった。でも、そうした苦境に直面した際に、できる範囲で工夫しつつ努力を重ねたおかげで最後に満足のいく結果を得ることができた。

災いや挫折は、努力によって、福(成功の要因)に変えることができると学んだ大学4年間だった。

 

 

でも、災いや挫折といった苦境の中で頑張り続けることは簡単じゃない。僕も育成チームからAに上がれない状況が続いた時は努力が難しい時もあったが、そんな自分を奮い立たせてくれていたのは、とある漫画のセリフだったので、いつもの形式で紹介していく。

 

座右の銘セリフ②

「小僧!お前はまだ待機だ!!

 おれの時間には限りがある!!

 ―いいか 人には必ず「出番」ってものがあるんだ!!」

(『ONE PIECE』 ゴール・D・ロジャー)

 

幼少期のペドロがロジャー海賊団の船に乗せるように頼んだ時に、ロジャーがかけた言葉。

 

この言葉を胸に、いつか自分が必要になる時が来ると言い聞かせて練習に励んでいたが、そうしたら矢島が急に負傷して「出番」がやってきたのは、上で書いた通りだ。

このセリフは、不遇をかこっている時でも準備を怠らない重要性を教えてくれた。

 

 

それと、漫画のセリフではないけど、もう1つ好きな言葉を紹介しておく。

「緊張するのは成功が近いから」

 

将棋の羽生善治九段の言葉だと思っていたが、feelings執筆にあたり調べてみたら、誰の言葉なのかよく分からなかった。

いずれにせよ、リーグ戦の緊張する場面などでこの言葉は幾分気持ちを楽にしてくれた。

プレッシャーのかかる場面では思い出してみてほしい。

 

 

 

最後に、監督、OBコーチ、LB会の皆様、同期、先輩、後輩、家族など自分がサッカーを楽しむ環境を作り支えてくれた全ての方々に、この場を借りて感謝を伝えたい。

 

本当にありがとうございました!

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