呪縛

川上皓大(1年/テクニカルスタッフ/東大寺学園高校)


 初めまして、テクニカルスタッフ一年の川上皓大です。

 

 

自分の番がとうとう回ってきてしまいました。本音を言うと、もう少し経験を積んだ後に戦術についてかっこよく語りたかったのですが、まだまだ勉強中ということで次回作までにあたためておくことにします。

 

 

feelingsが回ってくる時期が早いと同期のプレイヤーに愚痴を漏らしたところ、甘えるなとお叱りを受けてしまいました。彼は入部してすぐの六月に出番が回ってきていたため、愚痴を漏らす相手を間違えたみたいです。

 

 

彼には申し訳ないと思いつつも、今回はテクニカルとしてア式蹴球部に入った経緯でも話そうと思います。

 

 

 

 

 

サッカーを始めたのは小学生の頃である。2歳下の弟がサッカーを習い始めたことで暇になってしまった僕は、暇つぶしのために同じサッカークラブに所属することを決めた。

 

 

けれども、あまりにもセンスのない僕は全くもって上達しなかった。対する弟は抜群のセンスで、始めたばかりにもかかわらずその才能を輝かせていた。自分なりに練習に励んでみるものの、一向に上達しない。

 

 

サッカーを習っている小学生など皆自分がサッカー選手になれると信じて疑わない中、僕は一度もその夢を抱くことはなかった。この事実に対する、喩えようもない悲しみにも似た感情を得るには、僕はあまりにも幼すぎた。

 

 

今思い返せば、練習方法が誤っていた、そもそも練習時間が少なすぎたことが原因であるとすぐに理解できるが、当時小学生だった僕はサッカーを半ば諦めて、サッカー以外の他のことに目を向けるようになった。

 

 

弟がサッカー一筋であったのに対し、僕はサッカー以外に塾に通ったりピアノを習い始めたりした。勉強や音楽ではサッカーとは違い、テストでいい点数を取ったり難しい曲を弾けるようになるなど上達が早かった。

 

 

当然小学生の僕はサッカーの練習をせずに、塾の宿題やピアノの練習に精を出すようになった。しかし、サッカーをやめることはしなかった。ただの意地であった。

 

 

日曜日になると毎週試合があった。その日の夕食では、自分が活躍した試合について意気揚々と語っている弟の傍で、試合に出てもいない僕はただ黙っている他なかった。これ以上辛い気持ちを味わいたくないと、必死に話題を変えようとしていた。

 

 

 

歳を重ねるにつれ、弟と比較されることが多くなった。兄としては屈辱以外の何物でもない。その度に、サッカー以外で弟を越えようと決意し、サッカーの練習に励むことなどしなかった。

 

 

 

 

 

地元の中学に上がるとともに、サッカー部に入部した。

 

 

ここまで読んでくださった方は驚かれるかもしれないが、理由は単純である。小学校時代からの友達が皆サッカー部に入部した、サッカー以外にまともにできるスポーツがなかっただけの話である。

 

 

しかしここでは、弟の呪縛からは解き放たれることができた。誰も弟と比べるようなことはしなかった。

 

 

けれども、またもやベンチ生活が続いた。市の選抜にサッカー経験者で一人だけ落選したこともあった。再び、自分にはサッカーは向いていないのだと言い聞かせ、サッカー以外のことに精を出した。

 

 

中学生の時は、サッカーの上達はとうの昔に諦め、部活でできた友達といかに楽しく過ごすかということばかりを考えていた。

 

 

 

 

しかし、中学三年になると転機が訪れた。部活の顧問が変わったのである。

 

 

新たな顧問は隣の中学のサッカー部の顧問を務めていた人であった。その新たな顧問は自分をFWとして起用した。サッカーを始めて以来SBしかしてこなかった自分にである。

 

 

その顧問はひたすら前からプレスに行くことだけを自分に求めた。おそらく、僕の負けん気の強い、気性が荒い性格を見込んでのことであったのだろう。

 

 

中学最後の年でベンチ生活から抜け出すことができた。チームは泉南大会ベスト4まで進んだ。

 

 

この頃、弟は僕と同じ中学に入学し、同じサッカー部に入部していた。もちろん弟は一年生にもかかわらずメンバーに入っていた。

 

 

引退後はサッカーを続ける気などさらさらなかった。サッカーのことを考えなくても良かった受験期は、ある意味気楽に過ごすことができた。

 

 

 

 

 高校は、奈良にある中高一貫の男子校に、編入生として入学した。通学時間は片道2時間である。サッカーを続けることはないと決心し、勉学に打ち込もうと決意して入学したものの、結局サッカー部に入部した。

 

 

ひたすら勉強するだけの生活に一瞬で嫌気がさしたのと、大阪から一人で出てきた僕にとっては気の合う友達が欲しかったからである。

 

 

この選択は半分正解で半分間違いであった。

 

 

同じようにサッカーをやってきた同期とはすぐに仲良くなれ、友人関係で困ることはなかった。

 

 

しかし、一つ誤算があった。中学時代と比べ、勉強が得意な人が多い高校であったため、必然的にサッカー部もそれほど強くはないであろうと高を括っていたのだが、サッカー部の部員たちはとてつもなくサッカーがうまかった。

 

 

サッカー部の同期や先輩方はその思い込みを粉々に打ち砕いた。元々二十人ほどいたらしいのだが、高校に上がるタイミングで半数がやめてしまったらしい。やめたのは試合にあまり絡めなかったものばかりで、結果的に残った半数はレギュラークラスばかりだった。

 

 

そんな中に高校受験でサッカーから半年ほど離れたやつを放り込むと、その者に待っていた末路は再びのベンチ生活である。

 

 

けれども、ベンチ生活には慣れている僕は、それなりに楽しくサッカーをやっていた。下手なことを小馬鹿にすることもなく、優しく教えてくれた同期のおかげもあったのかもしれない。

 

 

ただ、間違いなく、心のどこかに、最高学年になれば試合に出られると確信していたところがあったからであろう。都合のいい妄想である。中学時代の経験が僕をそう思い込ませたからかもしれない。

 

 

そのため、一番部下手なのにもかかわらず、大した練習もしなかった。一つ上の代のインターハイ予選にも出場機会は回ってこなかった。

 

 

 

 

そうこうしているうちに先輩方が引退し、自分たちが最高学年となった。

 

 

忘れもしない、新チーム初の公式戦となる後期リーグの開幕戦で、僕は1秒たりとも試合に出られなかった。僕以外の同期は全員ピッチで活躍しているのに、僕だけはベンチに座って試合を眺めているだけだった。

 

 

試合後のMTGが終わると同時に、形容し難い感情が腹の底から込み上げてきた。

 

 

いつも試合後は同期や後輩とダラダラおしゃべりするのがルーティーンであったが、その時だけは一人で部室に戻り、泣きじゃくったのを覚えている。

 

 

いまだに当時の感情を完全に表現できる言葉には出会っていない。努力もしていない人間が今までの行動の結果に対して涙するのは、あまりにも愚かであっただろう。

 

 

幸い同期や後輩は完全にスルーしてくれた。いつもはふざけて自分の下手さをネタにしている僕が、目を真っ赤にして鼻水を啜っているのだから、当然気付いていたはずである。その優しさにまた泣きそうになった。

 

 

 

 

ここから、サッカーに対する意識は変わった。学校まで死ぬほど遠いにもかかわらず5時に起きて朝練を始めてみたり、積極的にサッカーのプレー集などを見るようになった。

 

 

今思うと、その成果は微々たるものであったのであろう。しかし、顧問の先生は次第に僕を試合で使ってくれるようになった。おそらく朝練をしているところを見てくれていたのであろう。

 

 

甘いと言えば甘いが、僕にとってはこれほど幸運なことはなかった。

 

 

そして、試合に出られるようになるにつれて一つの目標が生まれた。インターハイ予選に出場し活躍するという可愛い目標であったが、自分のサッカー人生においての初めての明確な目標であった。

 

 

幼い頃からサッカーに本腰を入れずいわばサッカーから逃げてきた自分が、真剣にサッカーと向き合おうとし始めたのがこの時期であった。

 

 

 

 

しかし、2年の1月からコロナ禍が始まり、サッカーどころの話ではなくなってしまった。けれども、サッカーに向き合い始めたばかりの僕は切り替えて勉強などできなかった。

 

 

毎日、ランニングや筋トレを欠かさず行い、あの幼い頃から比べられてきた弟と近くの公園でボールを蹴り合った。全く勉強に身が入らず、ひたすらサッカーのことばかり考える生活を数ヶ月送った。

 

 

けれども現実は厳しく、インターハイは中止が決定した。その知らせを聞いた僕は穴の空いた風船のように腑抜けてしまった。

 

 

結局、僕はインターハイ予選に一度も出場できなかった。

 

 

トレーニングは続けてはいたが、モチベーションはなくただ時間を浪費しているだけであった。勉強にも熱が入らなかった。

 

 

3年の夏には、顧問の先生の計らいで引退試合を開催してもらい、両親に見てもらった中で一番良いプレーをすることができたが、自分の中でのモヤモヤは晴れず不完全燃焼に終わった。

 

 

ただただ虚しかった。

 

 

 

 

その後受験勉強を本格的に始めたが、学力的な問題から東大ではなく他の大学を受験することにした。自分なりに勉強してみたが、サッカーへの未練は忘れられず、日々部活のあった日常を思い出しながら勉強していたことを覚えている。

 

 

結果的に受験は失敗し、他に滑り止めの私学を受けていなかった自分は浪人することが決まった。かなりのショックを受けたが、いつまでもそのままでいるわけにもいかず、予備校を決めて浪人生活をスタートさせた。

 

 

 

同じ大学を受験するためにもう一年勉強しなければいけないことに嫌気がさした僕は、浪人生活を始めて1ヶ月で志望校を東大に変えた。

 

 

その本質的な理由は、向上心とかではなく、自分を落とした大学には通いたくはないというひどく自分勝手でわがままな理由であった。当然両親からの反対を受けたが、模試の判定が悪ければ東大受験を諦めるという条件付きで、最後は東大を志望校にすることを認めてくれた。

 

 

この両親の決断には相当の覚悟が必要であっただろう。父も母も、常識はずれで無謀なことを言い始めた長男を最大限サポートしてくれた。この時のことは一生感謝してもしきれない。

 

 

東大を目指したことをきっかけに、僕はすべての時間を勉強に費やした。冗談抜きに今までで一番努力したであろう。

 

 

辛い時も多々あったが、そんな時に心の支えとなっていた一つが東大ア式の存在である。

 

 

高校時代に東大フェスには参加していたし、高校の先輩方もア式で活躍されていたので、ア式の存在は高校生の時から知っていた。

 

 

しかし、下手な僕はア式のような高いレベルのところでプレーするなど微塵も考えていなかった。ただ、東大フェスの時に紹介されたテクニカルのことはずっと心に残っていた。

 

 

分析という手段でサッカーに対してプレー以外の部分で貢献するという考えは、当時試合に出られるかさえ怪しい僕にとっては非常に魅力的であった。でも、その当時は東大に入学できるとなど思いもしなかったので、現実的な将来のプランとして真剣に考えることはなかった。

 

 

そんな経験からア式のテクニカルに入ることが東大を受ける上でのモチベーションとなっていた。

 

 

勉強の合間に見る大好きなセレッソの試合を見ながら、試合の分析をして改善案を提示できている将来の自分を想像していた。

 

 

 

 

そして、一年後、無事に東大に合格することができた。ただ、その直後は合格した嬉しさや受験勉強を終えた解放感、引越しなどの雑務から、ア式のことを考えている暇はなかった。

 

 

入学後もすぐにア式の体験にはいかず、さまざまなサークルを覗いてみた。でも、しっくりくるものはない。

 

 

もちろん、ア式の存在が頭にちらつくこともあったが、本気でサッカーに向き合うことに迷いが生まれ、なかなか勇気が出なかった。

 

 

普通の大学生として生活することへの憧れなどもあったのかもしれない。

 

 

そのような時期に後輩からア式の練習会に行こうと誘われ、練習会に行くことになった。プレイヤーとして参加することも考えたが、浪人時代に憧れ続けたテクニカルの見学として練習会に行くことを決めた。

 

 

そして、最初の見学で入部を決めた。今まで追い求めてきた理想のア式がそのまま目の前にあったからである。むしろそれ以上だったかもしれない。

 

 

ここなら、高校生の時のようにまたサッカーと向き合うことができる。

 

 

それ以外に入部を決めた理由などなかった。

 

 

 

 

ざっと振り返ってみても、なぜ僕がサッカーに携わり続けてこられたのか理解に苦しむ。サッカーを好きであった時期よりも、憎んだ時期の方がよっぽど多い。

 

 

どんな感情を抱いても僕は結果的にサッカーから離れることはなかった。いや、離れられなかったのかもしれない。

 

 

まるでサッカーに呪われているかのようである。

 

 

ただ、今は、そんなサッカーを分析という手段で解明してやりたいと思っている。これほどまでに僕の人生を左右してきたサッカーという魔力に、正面から向き合ってみたい。

 

 

プレーではほとんどうまくいかなかったが、分析官としてなら、うまくやれるかもしれない。そんな気持ちでテクニカルとして活動を始めた。

 

 

 

 

 もう入部して一年が経とうとしている。着実に成長していると感じる時もあるが、先輩方を見てまだまだだと思うことの方が大半である。努力を惜しんでいる暇など一ミリもない。

 

 

時たま、プレイヤーと同じようにサッカーをやりたいと思う時がある。

 

 

ピッチでボールを追いかけているプレイヤーが無性に羨ましくなる時がある。

 

 

そんな時、まだプレイヤーとしての自分に未練があるのだと自覚するのと同時に、プレーを諦めたという、後悔が混じった物悲しい気分になる。この葛藤がいつまで続くのかわからないが、一生続くような気もする。

 

 

ただ、僕がもしプレイヤーであったなら、サッカーから逃げ続けることしかできなかったのかもしれない。

 

 

もうサッカーから逃げるようなことはしたくない。自分が決めた選択が正解だったと言えるようなこれからを過ごしたい。

 

 

 

 

 

サッカーからの呪縛はいつ解けるのだろうか。

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