雑草魂

秋馬光佑(1年/FW/市立浦和高校)


どうもこんにちは

秋馬光佑(1/FW/市立浦和高校)です。まず率直に、feelings書くのはやくね?まだ入って2ヶ月くらいで書くことなくね?って思います。まあ、やった事ないけど、今までのサッカー人生を振り返ってみたいと思います。

 

 

 

2021109

 

忘れられない日だ。

19年生きてきた中で一番悔しかった日だ。思い出すと今でも胸の奥が熱くなる。その日は選手権1回戦があった日、自分の高校サッカーが終わった日だ。自分はまさかの、いや分かってはいたベンチ外。雨が降っていた。次に繋げてくれと祈るしかなかった。結果は0-2、試合出てない奴が言うことではないが、いつものスタメンの試合じゃなかった。みんな不完全燃焼だったと思う。思えばあの頃はつらかった。ケガしながらサッカーしていたし、調子も上がらなかった。それまでのリーグ戦では一応ベンチ入りしていたものの、出る時間も少なかったし、試合を変えられる選手でもなかった。今でも覚えている。選手権の試合後に3年みんなで自分の思いを言い合ったのを。みんなの話を聞いていると涙が止まらなかった。3年間の思い出がフラッシュバックしてきた。もっと長く一緒にサッカーしたいと思った。

いわば、僕の高校サッカーは不完全燃焼で終わってしまった。その時誓った、必ず大学でリベンジしてやるって。それが、ア式入部の一番の動機かもしれない。また、同じ代でサッカーを続ける仲間の存在も大きい。関東リーグの強豪校から関西、金沢、そしてサークルまで、形はどうであれ、サッカーを続けている仲間がいるのは大きな刺激になる。負けたくない思いは常にある。

高三の春、東大を目指すことを決め、東大に入れれば、ア式に入部するつもりでいた。部活に入りたかったので、私立には行きたくなかった。東大に入れるかどうかが問題だった。(まあ浪人したのは単純に学力不足なので、浪人期のことは割愛。勉強漬けの一年。勉強も結構好きで、浪人期は割と楽しんで過ごせた。今も課題しんどいけど、東大の勉強は充実しているなとひしひし感じている。) ア式を最初に知ったのは那須大亮チャンネルの取材。よく走るし、雰囲気良さそうだなって率直に思った。監督も林陵平さんで、東京都一部で、テクニカル部門も充実していて、素晴らしい環境でサッカーしているなと感じた。だから今とりあえず入部できてサッカーできていることを嬉しく思う。

 

 

 

ふー、一回休憩。

なんかこれを友達に見られるのは恥ずかしいと思うけど、なんか書きたくなってきて、筆が乗ってきたので書きます。

 

 

 

2003126日生まれ

埼玉県毛呂山町出身

サッカーを始めたのは、小4くらい?学校を終わるとすぐに近くのキツツキ公園で10人くらいで毎日サッカーしていた。めっちゃ楽しかったな~あの頃、田舎の小学生を満喫してたな~まあ今でもたまに集まって球蹴るんですけどね。クラブチームには入ってなかった。スイミング(瀬戸大也と同じ)をやっていた。小6くらいでよくわかんないけど出来たてのサッカースクールの1期生として入った。コーチが青森山田で上手かったことしか覚えてない。中学は中体連として、前述の小学以来の友達と一緒に部活に入った。まあ弱勝チームだったけど、先輩はまあまあ上手い人が多かった。多分その頃からだ、本気でサッカーを努力し始めたのは。まずたくさんサッカーを見た。Jだとサンフレッチェ・ガンバ・レッズが強かった頃だ。そして、シュート練習を部活の後、公園で母とマンツーマンでやっていた。また、近所の奴とたくさん走った、筋トレもした。ほんの少しずつではあったが、上達を感じられるようになった。サッカーのそういう部分、努力したらした分だけ少しずつでもやれることが増えていくこと、に僕はのめり込んでいった。努力することの楽しさを感じていた。中2からスタメンで出してもらって、先輩最後の試合を勝たせられなかったのは悔しかった。そして中3、顧問が変わった。流経大柏でスタメンのCBなのになぜか中学の社会科教師になったひとだった。とにかく毎日怒鳴られた。今では問題になりそうな愛のムチを何回も受けた。でもスパルタだったけど、ワンランク上のサッカーを示してくれたように思う。練習でも頭を使うようになったし、技術的なこともたくさん教えてもらった。プルアウェイやチェックの動きなどFWのオフザ・ボールを教えてもらったのは貴重だったと今になって思う。最後の学総は関東大会優勝のチームと一回戦で当たって、ボロ負け。悔しかったが、同時にもっと上のレベルでサッカーしたいと思うようになった。

そこで選んだのが、市立浦和。選手権出場回数埼玉県トップタイの古豪。であると同時に、謎に県内最高倍率の高校だ。勉強の方は問題なかった。悩みの種は通学距離だった。田舎毛呂山から浦和までは一時間半から二時間かかる。親からも近くの同じくらいの進学校、川越高校に進めばと言われたが、やっぱり、市浦でサッカーしたかった。流経の顧問に相談した。市浦進学に背中を押してくれた。その時言われた言葉が印象に残っている。

「雑草の如く、逞しく頑張れ。」

そして、市立浦和に入学した。

 

 

 

ふー、いよいよ最後。ここまで読んでくださった方ありがとうございます。

 

 

 

そして、サッカー部に入部した。自分の代は38人。3学年で約120人。そして県一部リーグにずっといる。周りはクラブチームも多かった。最初は走り。走りではそこそこついていけていたが、ボールが入る練習では、下から数えたほうがはやいくらい下手だった。1年のうち、2人はすぐにトップチームに入ったが、もちろん自分は1年のCチーム。やるしかないって思って、毎日できる時間はずっと自主練していた。(自主練に付き合ってくれた奴ありがと)しかし、そんな矢先に怪我の嵐が訪れる。怪我から復帰しては怪我をする、という最悪の悪循環に陥った。結局、1年のU16の公式戦には1回も出られずに1年が過ぎた。危機感はあった。このまま終わってしまう予感しかなかったが、そうしたくない、未来を変えたいという思いも強かった。そして訪れるコロナ禍。これはチャンスだと思った。ほぼ毎日(それは盛ったが)、朝は走り、午前は地元のやつと試合し、午後は公園の壁を使って、「止めて、蹴る」の基礎やリフティングをひたすらに練習した。これが少しずつだが、効いてきた。できることが増えてきた。が、すぐには自分の立ち位置はさほど変わらなかった。やり続けるしかなかった。高校サッカーについて胸を張って言えることが1つある。それは誰よりも自主練したということだ。抜かれても抜かれても生えてくる雑草の如く、しぶとく練習し続けた。1年の冬合宿では3、4試合やって無得点。決定力の無さをDF陣にキレられたこともあった。ポストプレーも少しはできるようになり、シュートも入るようになった。そして、代替わりの2年の10月に変化が起こる。初めて今までのトップスタメン陣の試合に出してもらった。裏に走ると、ちゃんとボールが出て来て、やっぱ違うなと感じた。もっと一緒に試合したいと思うようになった。トップの練習に初めは萎縮していたが、自主練の成果が出たのか、自分の良さを出せるようになった。スタメン組との紅白戦には毎回胸を躍らせワクワクしていた。3年春休みのカップ戦でも強豪校と試合でき、充実感が高まっていった。そして3年4月、リーグ戦メンバーに選ばれ、公式戦ユニをもらった時は夢が叶ったように、本当に嬉しかった。同月の関東予選でついに公式戦初出場を果たす。0-1で負けている状況下、出場するも、シュートすら打てずに終わる。悔しかった。レベル差を感じた。練習するのみだった。しかし、うまくはいかなかった。怪我により、インターハイ予選には絡めなかった。リーグ戦ではなかなか出場機会が得られず、リーグ戦後のセカンドの試合も少なかったため、試合に出れないフラストレーションが溜まっていた。むしろ、夏休みの一時期出ていたBチームの試合の方が一本目で出られるしいいやと思うことさえあった。トップに戻っても小さい怪我が重なり、いいプレーもできなかった。リーグ戦に出ても何もできなかった。入学時の目標であった、選手権の選手名簿に乗ればいいやという、3年の自分にとってははレベルの低い目標に甘えていた。確かに選手権メンバーには選ばれた。しかし、試合に絡める選手ではなかった。雑草のような逞しさは完全に欠けていた。だからこそ、選手権一回戦でベンチ外だったのだろう。今、これを書いているこの瞬間、悔しさが再び、体から滲み上がってきた。一番大事で、目標にしてきた選手権を目の前にして、今までの自分の原動力であった雑草魂を忘れていた。悔やんでも悔やみきれない。

 

 

 

だから東大ア式での4年間は雑草魂をずっと持ち続けるつもりでいる。もう二度とこんな悔しさは味わいたくない。

 

 

 

入部して2ヶ月、思うようなプレーは出来ていない。

しかし、口だけの選手にはなりたくない。

だから、現状を変えるための努力がもっと必要だと感じている。

がむしゃらにやり続けるしかない。

強がりかもしれないが、俺はもっとできる、と自分では信じている。

 

 

 

ふー、終わった。

流石にここまで読む人はいないでしょ。

意外にfeelingsを書くのは楽しかった。

何かがストンと落ちた気がします。何かを書き起こすことは大事。

 

 

僕の稚拙な文章を最後までお読みいただきありがとうございました。

 

コメント