東大生の価値とは

大谷一平(4年/MF/金沢泉丘高校)



「大谷一平さんですか。ほぼ、大谷翔平じゃん。はははは。しかも、通訳の方もね?一平さんだよね。全く一緒じゃん。そのままじゃん。ははははは。」

 

 

おしゃれ風な丸眼鏡をかけた男の面接官は、開口一番、あたかも自分がそれなりに面白いことを言っているかのように、東京弁で、堂々と、こう言った。サークルの飲み会で磨きに磨き上げたのだろう「一流のアイスブレイク術」を遺憾なく発揮してきた。横にいた若い女の面接官も、丸眼鏡があたかも決定的に面白いことを言っているかのように、楽しそうに笑った。

 

 

 

就職活動は、人生で経験してきたイベントの中で最もくだらない、不毛なものだった。何より、自分よりも、能力面でも、精神面でも、体力面でも、明らかに劣っている人間に、自分という人間を判断されるのが、気に食わなかった。私立の大学に、ほとんど勉強もせずに入って、大学では、サークルに入って飲み歩いて、適当に単位をとって、就活だけは、うまくやって。人生で一度もまともな努力をしたこともないような人間に、自分の人生について語るのが、本当に嫌だった。

 

 

 

「なるほど、大学では、サッカー部に入っていたんだね。そこでは、どんな役割で、チームにどんな影響を与えたの?ピッチ外では、どんな仕事をしていたの?」

 

 

丸眼鏡は、あたかも物事の核心に迫る質問をしているかのように、言った。大学の部活というものを全て理解しているかのように。

 

 

 

大学の部活において、存在しているのは、個人間の競争、それだけである。人より良いプレーをして、Bチームのスタメンになる、Aチームに上がる、公式戦のメンバーに入る、公式戦のスタメンになる、試合に出てチームを勝たせる。各々が、自分の目的を達成するため、全力で努力する。闘う。チームへの影響を考えられる余裕がある人間なんて、ほんの一部だ。もちろん、練習や試合の質が明らかに低かったら皆、声を張り上げるべきだが、あくまで、第一に考えるべきは、自分のパフォーマンスだ。各々が、自分のためにプレーした結果、間接的にチームに影響を与えることになる。そういうものだ。

 

そして、ピッチ外の仕事なんて、ピッチ内のパフォーマンスに比べれば、全く重要でない。ア式のユニット活動は、自分では理解できないほど、高度なことをやっているが、選手として、大学で部活をやる以上、あくまでもピッチ外の仕事は、おまけである。

 

よって、丸眼鏡の質問は、全くもってピントのずれた質問となる。彼女が「新しい服を買ってきた!」と言ったときに、その服のタグの素材を聞いているようなものだ。

 

 

 

「大谷さんの強みは何かな?」

 

 

 

就職活動では、一貫して自分の強みは、努力し続ける力だと言った。丸眼鏡は、ぽかんとしていたが、これが正真正銘の本心だった。小3の時に、深刻なオスグッドになってから、実家を出るまで、毎日ストレッチをやった。小4のクリスマスに、サンタさんから、木場克己(2011)『体幹力を上げるコアトレーニング』成美堂出版.をもらってからも(サンタさんのチョイスが興味深いという話は置いておいて。)、実家を出るまで、毎日体幹トレーニングをやった。小4か小5でトレセンに選ばれてからは、分かりやすく影響を受けて、中学の部活を引退するまで、毎日サッカーノートを書いた。中学、高校では、毎日自主的に朝練をやった。中3から、高校の部活を引退するまでは、毎日朝起きてすぐに3キロ走っていた。高校の部活を引退してからは、受験に向けて、全力で勉強をした。(こう振り返ると、大学に入ってからは、やや「人生の夏休み」気味だったかもしれない。)

 

面接で、「自分の強みは、努力し続ける力です。」と言っても、基本的には、丸眼鏡と同じ反応をされた。面接官が求めているのは、「リーダーシップ」とか、「コミュニケーション力」とか、なのだろう。「リーダーシップ」くらい、少なくともそこら辺のサークルで遊びまわっている人間を圧倒するくらいには持っている。小中高のチームでは、ずっと主将をやっていた。学校でも、会長とか、総合責任者とか、応援団長とかを、ずっとやっていた。「コミュニケーション力」も、少なくとも、恥ずかしげもなく「一流のアイスブレイク術」を披露してきた丸眼鏡を凌駕するくらいにはある。そもそも、サッカーというスポーツは、「コミュニケーション力」がないとできない。

 

それでも、それが自分という人間の本質だとは思えなかった。自分の本質は、やはり「努力」にあった。結果的に、自分の強みは、愛する第一志望御社にのみ刺さったようだった。

 

 

 

 

本題に入ろう。東大生の価値とは何か。

 

 

皆、東大生の価値は、「頭が良い」ことだと思っている。皆、東大生は、難しいクイズに即答できる王様だと思っている。しかし、明らかにそうではない。難しいクイズに即答できるのは、決して「頭が良い」からではなく、難しいクイズを解く訓練をしたからである。訓練を受けていない人間は、いくら「頭が良」くても、「超難問」に即答することなどできない。

 

そもそも、「頭が良い」という言葉は、曖昧なものである。頭の回転が速いとか、記憶力が良いとか、要領がよいとか、勉強ができるとか、色々な意味を持つ。東大生より頭の回転が速い人間や、記憶力が良い人間や、要領がよい人間なんて、ごまんといる。

 

では、「頭が良い」の意味を、「勉強ができる」に限定すれば、東大生の価値は、「頭が良い」ことだと言えるだろうか。しかし、この答えも否である。確かに、日本で一番難しい入試に合格できた東大生は、「勉強ができる」のかもしれない。しかし、それだけでは、本質を捉えることはできない。学力の高さを測る検査で高得点をとった人間は、学力が高い!と言うのは、ほとんど同義反復である。大した意味を持たない。重要なのは、なぜ、勉強ができるのか、である。

 

親が、小学生の時から、SAPIXに通わせてくれて、中学受験をさせてくれて、鉄緑会に入れてくれたから、勉強ができるのだろうか。そうではない。いくらお金をかけても東大に入れない人間なんてどれだけでもいる。遺伝子が優れていて生まれながらにして、勉強ができたのだろうか。そうではない。生まれながらにして、世界史の大きな流れを説明できる人間なんていないし、文法的に複雑な英文を和訳できる人間なんていない。東大生が、日本で一番難しい入試に合格できたのは、

 

目的を達成するために、適切な努力をすることができた

 

からである。そして、学力(学校の勉強ができる力。)というものは、日本で一番多くの人間が高みを目指すものである。日本人は皆、可能な限り良い大学に行きたいと思っている。以上より、東大生は、日本で一番、適切な努力ができる人間だと考えることができる。

 

 

東大生の価値とは、目的を達成するために、適切な努力ができることである。

 

 

偶然にも、筆者の強みと重なってしまったが、何も自分こそが東大生の象徴だとか思っているわけではない。

 

「適切な努力」という言葉には、いわゆる「努力の量」だけでなく、「努力の質」と呼ばれるものも含まれている。よって、「俺は、1日20時間勉強していたけど、東大には受からなかったぞ。」という主張は退けられる。もちろん、遺伝的に、環境的に恵まれているという側面も少なからずあるだろうが、適切な努力ができなければ東大には入れない。

 

以前ある人が、面白いことを言っていた。

 

「偏差値が高い大学の部活は、中途半端な公立大学の部活より、よっぽど強いんだよな。」

 

偏差値が高い学校の部活は、運動はできるけど、勉強はできない、という人が入れない(スポーツ推薦がある学校は別だが。)ため、弱いはずである。しかし、実際のところ、そうとは限らない。旧帝の部活は、だいたい強い(「東大の野球部は、いつも負けてばかりで、全然強くないではないか」という主張は、かなり的外れなもので、六大学野球のレベルが異常に高いだけで、一般的に見れば、かなり強い(らしい)。)し、高校サッカーを見ても、スポーツ推薦がある高校を除けば、進学校ほど強いということが多々ある。これは、「頭が良い奴は、運動神経も良い」からではなく、勉強ができる集団は、往々にして適切な努力をすることができるからである。

 

 

「東大生の価値」を踏まえて、2点言える。

 

 

第一に、努力をやめたとき、東大生は、東大生としての価値を失う。

 

適切な努力ができることを強みとする人間が、努力をやめたとき、その人間の強みは損なわれる。逆説的だが、東大生が社会で活躍するためには、努力し続けなければならないのである。少しでも野望があるなら、努力を続けなければ、それは達成できない。ワークライフバランスとか言っている場合ではない(とはいっても、子どもは5人は作る予定だし、全力で育てるつもりだ)。努力だけが、東大生を東大生たらしめる。

 

 

 第二に、東京大学運動会ア式蹴球部の強みは、適切な努力ができる集団であることである。

 

ア式の強みは、頭が良いことだと思われがちである。自分たちですら、そう思っている節がある(恥ずかしいことに、八代が何かのインタビューで、「自分たちの強みは、高いインテリジェンスを生かしたサッカーです。」とか言っていたような気がする。)。しかし、東大生の強みは、適切な努力ができること、である。ア式は、「頭の良さを生かしたサッカー」ではなく(そもそもそんなものが存在するのか不明だが。)、「適切な努力を基盤としたサッカー」を目指すべきなのである。その点で、陵平さんが、少しきつめのラントレを導入したのは、合理的だった。東大生たる選手で、走りがきつくて辞める、という選手はいなかった。結果的に、リーグ戦で走り負けることは、ほとんどなかった。ア式が関東に昇格するには、「頭の良いサッカー」という幻想を捨てて、泥臭く、お得意の努力を続けるしかないのである。

 

 

 

 

 東大生の価値は、適切な努力ができることである。努力だけが、東大生を東大生たらしめるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

 

とはいっても、おれはいつまでたっても自分は天才だと思っているし、最強だと思っている。

 

 




 

 

詭弁家、自信家、社畜

 

大谷一平

 

 

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#がんばれ安宅

 


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