ニコイチ

坊垣内大紀(4年/テクニカルスタッフ・学生コーチ/聖光学院高校)


「永遠」は短い。












そのことにまだ気づいていなかったころの僕は、世界はとっても美しくて純粋で、自分は世界のありのままを感じながら生きていると思っていた。

けれどそれは間違っていた。僕は、世界のことも自分のことも、何ひとつまともに分かってはいなかった。











昔の何気ない日常が美化されるのは、その儚さに後から気づかされるからだ。その時は当たり前のようにずっと続くと思っていた時間は、知らぬ間に途切れてしまう。そして終わった後になって初めて、時間は有限であることをまざまざと感じることになる。誰もが過ぎ行く時の流れには逆らえないことを理解しているはずなのにそう思ってしまうのは、今が幸せだからこの時間だけがずっと流れていてほしい、という利己的な望みを踏まえたある種の思い込みでもある。




そんな思い込みは、姿形を変えてあらゆるところに存在している。

世界には少なからず虚構や欺瞞があって、社会を回す立派な歯車として溶け込んでいる。世の中には幻想で地位と食い扶持を得ている人がいて、例えば政治家なら潔白を、宗教家なら清貧を、アイドルなら純潔を、アーティストなら独創を求められるから、彼らは求められる姿を幻想として見せる。そしてファンや支持者はその姿が必ずしも真実ではないと何となく察しつつも、今の姿をこれからも見せ続けてくれるはずだと思い込み、信頼することによって彼らを支えている。
そのため幻想が壊れると、信頼を裏切られたと感じた人は離れていき、彼らの地位が揺らぐことになる。お金が絡まない政治家などいないはずなのに汚職が判明した政治家には誰も投票しないし、1人の人間なんだから恋人がいたっておかしくないのにその存在がバレたアイドルは大炎上する。己を律することの難しさを知りつつも夜遊びの激しい宗教家の発言からは正当性を感じなくなるし、相応のしがらみはあるだろうなと理解しつつもクライアントのピエロだったアーティストの作品はその魅力が激減して見える。
仮にそのような事になってしまったとして、誰に責任があるのかは正直いって分からない。幻想である程度お金を稼いでいる以上、幻想が壊れ自らの商品価値が下がるリスクのある行動を取るのは馬鹿であるとも言えるし、そもそも幻想などに信頼を寄せ求め続けること自体が滑稽極まりないとも言える。確かなのは、世界はそんな幻想が生まれては壊れることを繰返して成り立ってきたということだ。













今回、幻想がまた1つ壊れた。






誰かのでは無い。自分自身の、である。





人生をかけて見事に作り上げたと思っていた博愛精神は、実は薄っぺらいハリボテに過ぎなかった。代わりにその裏には底知れない何かが棲んでいることに気付かされてしまったのである。

 





同年代のアスリートが世界を席巻しはじめた。甲子園で戦う球児はいつの間にか何歳も年下になっていた。新しいモノや文化が次々と現れ、耳に入る頃には既にひとしきり消費された後だった。一緒にバカをやっていたはずの高校同期はいつの間にか常識を身につけ、一足先に社会に出て行った。

時計が止まっていたのは、僕だけだった。

自らが変わり者だと分かっていたのにそこから抜け出せなかった悲しき生物は、誰も救えなければ誰からも救われないバケモノへと成り果てていた。













バケモノは、世の中を冷めた目で見ていた。

 




「努力は必ず報われる」

はっきり言って、この言葉は嘘だと思う。




努力できる人、努力を続け成功に繋げられる人は基本的に努力の「才能」があるとみなされる。普通の人は自分を楽な方に逃がそうとしてしまうからだ。
凡人は天才よりも努力しなければならないのに、凡人なので人以上の努力ができない。僕はこのアンビバレンスが人間の常だと思っているからこそ、努力を誰でも出来るものと見なし、努力や気合で全てが解決できると思っている根性論者を嫌っている。
努力というモノサシだけで全てが何とかなるのなら、この世に才能という概念は存在していないだろう。努力は誰のどんな能力をも加速度的に伸ばす麻薬でも、あらゆる才能を凌駕する一発逆転の魔法なんかでもなく、良くも悪くも単なる必要条件でしかない。






一流と同じ訓練をしても一流になれるわけではないように、すべてにおいて才能という要素は多かれ少なかれついてまわる。それは心という面でも同じで、愛情にもスペックという概念が存在する。
良く考えればそんなことは当たり前なのだ。自分の心とマザーテレサの心がもつ愛情の量と質が同じはずが無い。それなのにほとんどの人は他人への愛情が全ての人に等しく標準装備されていると勘違いしてしまうので依存や支配、時には暴力を真実の愛と混同してしまう。そのような嘘が蔓延る世界では誰が真実の愛を持っているのかも分からないし誰も真実の愛とは何かを教えられないので、代わりに「飾らない自分を愛してくれる運命の人が必ず現れる」という無責任な言説が一般化する。そしてそれを信じてしまった迷える子羊にそんな甘い話が都合よく来るはずもなく、聞いていた話と違うじゃないかという嘆きは誰にも届かず1人途方に暮れる。要するに、愛するという行為にも向き不向きが存在するのである。








バケモノは愛するということに関して、とことん不向きだった。


偉そうなことに、自分は善人だと思っていた時期があった。そこそこ気が配れるし、愛想も悪くない。他人のために何かしてあげることにあまり見返りを求めたりもしない良い人だと自惚れていた。けれどそれはバケモノによる人間の真似事を心からの愛だと誤解したことによる傲慢に過ぎなくて、本当の自分は利己的で冷淡な、アガペーとは対極の存在だった。そして僕の心のスペックでは、善人ごっこに飢えた醜い自分を愛することは出来なかった。他人も自分も正しく愛せない僕には、愛する才能という人間に1番必要な要素が著しく欠けていた。








──────そんな人間は、どうやってこの世の中を生きていけば良いのだろう。

俳優、料理人、パティシエ、職人、音楽家、スポーツ選手。それ特有の世界に飛び込まないとなれない職業を目指す才能も度胸も覚悟も無い人に残されているのは、それなりに勉強して就職するという「普通」の生き方であり、言うまでもなく自分もその道を選ぶことになる。









バケモノは、「普通」になることを求められてきた。



間違った愛の言説に自らも無意識に踊らされていることを棚に上げていたボンクラの「普通」を目指す長い旅路は、この時には始まっていたのだろう。勉強は全くもって好きではなかったが、「普通」になりたかった人間もどきにとってはこれが唯一の方法だった。

結果として、「普通」になるために普通でない大学に入る選択をすることになる。

「東大生なんてすごいね」とよく言われるが、違うのだ。すごいのは東京大学のブランド力であって、誓って自分自身では無い。
逆に言えば、その錯覚を利用するために自分は浪人してまでこの大学に入る選択をしたとも言えるかもしれない。社交性、求心力、ステータス。欠けているものだらけの自分が虚勢を張るための口実を勝ち取っておかないと将来誰からも相手にされない、と思った。とは言いつつも自分が運良くこの大学に入れたのは環境に恵まれていたからで、自らが地頭が良いわけでもなければ歯を食いしばって努力することもできないろくでなしであることはよくわかっていた。





だが、与えられた環境や才能を存分に活かして人生を謳歌するハイスペックたちも、虎の威を借りて自分を大きく見せる小賢しい狐も、時に加害者に、時に被害者になりながら甘くて苦い社会を生きていく。
世の中は、そんなものなのである。









後から作られた普通の人格と、その裏で普通になることを渇望し続けるバケモノ。僕の中に棲む2つの生き物は、2つで1人の人間をこれまで作りあげてきたことになる。






──────では、僕にとって「本当の自分」とは?









順当に答えるなら後者こそが本当の自分であり、それをひた隠しにするために偽装工作を自ら施していると考えれば違和感もないだろう。だが、僕は一概にそうとも言いきれないのかもしれないと思うようになった。


MBTI診断というものをご存知だろうか。

簡単に言えばたくさんの質問をもとに回答者を16タイプの性格に分類する診断である。意外と当たっていることもあり、話のネタにもなるので結構面白い。

そんな診断を、友人の勧めでやってみた時のことである。あまり考えすぎず直感で質問に答えていく中で、ある疑問が浮かんだ。






「今、自分は『どっち』で答えているのだろうか?」







直感で答えているのであれば、普通は作られていないありのままの要素が強くなりがちだ。だが僕は普通の人になりきる実戦経験を無意識のうちにこれまで積みすぎたせいか、自分の意思とは関係なく普通の人がしそうな回答を反射的に導き出しているように思えることに絶妙な気持ち悪さを覚えたのである。

結局出てきた結果は周りの人からは確かにそれっぽいね、と言われている。何年も一緒にいれば、何となく僕の心の複雑性を感じとる人もいただろう。果たしてこれは、それを踏まえた上での言葉だったのだろうか?真実は、知る由もない。









自分は何者なのか。選手以外の人間として体育会の部活に所属していた以上、嫌でもこの問題と向き合わされる機会は多い。




僕は、ある何かの存在をそれ単体で語ることは出来ないと思っている。

例えば、辞書の見出し。

ある言葉を説明するには、それとは別の言葉を紡ぐ必要がある。別の言葉によって示された言葉は、また別の言葉を説明するために用いられる。星の数ほどある言葉は、時に補完し、時に補完される事でそこに存在している。





人で考えてみるとどうだろうか。

生年月日、居住地、血液型などその人が持つデータこそ沢山あれ、その全てがその人自体をダイレクトに示すものにはなっていない。仮に人類の歴史上その人しかできない事があったとしても、それはこれまで誰も達成できなかった偉業や技能との関係性がその人だけ特殊だったと捉えられる。
しかも難しいのは、モノと違い人には人の手によって本質を示す単語を後付けすることが出来ない。




だからこそ、個人の解像度を高めるには、他との繋がりのメカニズムを一つ一つ紐解いていくしかない。


好きなこと、嫌いなこと。やる気が湧く時、湧かない時。仲が良い人、嫌いな人。それぞれに何かとの関わりがあり、それがトリガーとなって感情が生まれる。その感情に基づく行動を帰納的に捉え続けることで、自分という人間の輪郭を少しづつくっきりさせていくことが出来る。








最初にバケモノの存在を自覚した時、僕はそれを拒絶しようとした。正確に言えば、信じたくなかった。けれど、何かを受け入れることはそれ以外のものを否定することでもないし、それまで持っていたものを捨てることでもない。

自分が何者かを突き詰める中でもはや無視出来ない存在なのであれば、受け止めるべきだろう。バケモノと生きてきた過去を。バケモノと生きていく未来を。












言葉は、心を映す鏡だ。言葉が貧しければ、鏡は汚れ、ありのままの心を映し出せなくなる。そんな考えから、正しく言葉を扱える人でありたいと思ってきた。


締切に追われ無理やり絞り出した今回の言葉が、どれくらい今の心の内を細かに表せているのかは分からない。結局のところ言いたいのは、この4年間で少しだけ自覚することが出来た自身の心の正体をより鮮明に描ける人間になりたい、ということである。


 













 

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

『徒然草』より







いつの日か、自分が何者であるか胸を張って答えられる日が来ると願って。













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