りんごの樹

佐々木洸(4年/FW/筑波大学附属高校) 


拝啓 次の世を生きる全ての人へ——


















ア式1年目は一番下のカテゴリーであるB2でプレーした。




弱小校出身で、各年代でトレセンなどへの選抜経験もない自分は、入部当時のア式で一番下手な選手の一人だった。


そんな自分がB2からのスタートになるのは火を見るより明らかだったので、今下手なのは仕方がない、ここから上手くなってやろうと意気込んでいた。





だが、現実は厳しかった。








練習試合・サタデーリーグともに負け続けた。

たしかこの年は年間で勝利が2、3試合のみだったように記憶している。








忘れもしない、炎天下の天王洲での理科大戦では、相手選手に舐めプをされたあげく1-7で敗戦するという屈辱を味わった。


記念すべき上西園のア式初ゴールが話題になることもなく、試合後のチームは熱中症やら怪我明けやら病み上がりやらで凄惨な状況だった。


最後の集合で当時のOBコーチが試合内容に触れることなく(いや触れていたのかもしれないけど)、とにかく辞めないでねと言っていたのを覚えている。







そんなコーチの思いとは裏腹に、1つ上の代はどんどん辞めていったし、同期たちも次第に人数が減っていった。




辞めなかった同期たちは、すぐに活躍してB1やAに昇格していった(いや、彼らが最初B2に振り分けられていたのがおかしいくらいで当然なのだが)。


そんな中で自分は常にB2だった。






それでも自分が辞めずに頑張れたのは、周りにもっと頑張っている人の存在があったからだと思う。










4年生として範を示してくれたぶちさん、楓さん、げんさん。


同期が辞めていく中で一人残り、ストイックに練習に励んでいた奥谷さん。


飄々とサッカーを楽しむ上西園や、圧倒的守備力からゴール裏へのクロスを見せていたWG大智、群を抜いた技術と安定感の弘樹、ファンタジスタ折田、誰よりも要求していた島リーダーシップと左足キックの榎(たしかキャプテンだっけ)。あるいは、怪我に苦しみながらも笑顔で頑張れと言ってチームを去って行った穐山みっちー三谷岡野ら同期のみんな。


完璧な練習環境を提供してくださるコーチ・スタッフの皆さん。


心から尊敬する皆さんのおかげで、大変だった1年目を乗り越えることができた。














10月になり、育成チームコーチが変わって楓さん東さん後藤さんじゅりさん高宮さん&BGTの最強の布陣になった。


ここからの数ヶ月は、サッカーがとても上手くなった数ヶ月だったと思う。






それまで浅い理解だったア式用語たちの解像度が上がり、言語化ができるようになった。


意思決定の判断基準を持てるようになった。


下手な前提に立って技術負荷・認知負荷を減らしたプレーができるようになった。






B2生活で積み重ねてきたプレーメモリーが整理され、適切に引き出せるようになったことで、上達できたのだと思う。


この数ヶ月間は毎日の練習が本当に楽しかったし、練習後に楓さんらと問答をするのも最高に楽しかった。






そして1年目の冬オフが明け、迎えたプレシーズン。




育成チームとAチームが紅白戦をすることになり、自分は育成チームのインサイドハーフとして出場した。


古今東西、紅白戦はBチームが良いパフォーマンスをするものだが、この試合も例に漏れず育成チームが良いプレーをしていた。


自分自身も立ち上がりから気合いが入っていたし、相手の中心選手からボール奪取するわライン間で止まって胸を合わせてボール引き出すわで、幸運にもかなり上振れしたパフォーマンスだったと思う。


結果は確か引き分けだったが、実力差を考えると十二分の出来だったと思う。






この試合の翌週から、当時Aチームの中盤で怪我人が続出していたことや、プレシーズンで上げやすいタイミングだったことなどの幸運が重なって、Aチームでプレーすることになった。








念願のAチーム。














だが、練習に全くついていけなかった。








4対4+FW4では、味方が限定してくれたボールを奪いきれず、永遠に守備。


3対3対3では、ロストして永遠にネガトラ。


紅白戦では、自分のところから谷にボコられる。










当時のチームは毎週同じメニューの練習を積み重ねて試合に臨んでおり、その分毎回の練習の強度や緊張感は凄まじいものがあった。


ミスすれば当然怒号が飛ぶし、何より味方に迷惑をかけているのがいたたまれなくて、次第にメンタルを病んでいった。










そんなある日、(電車遅延ではあったものの)練習に遅刻してしまった。




練習でも迷惑をかけているのに遅刻をするのはありえないから早く着くようにしたいと思ったが、でも練習前の部室は先輩たちがいっぱいいてちょっと気まずいし練習前は一人になりたかった。








ということでそれ以来、毎練習前にめっちゃ早く家をでて東大前駅のトイレに引きこもるようになった。










到着直後は気が楽だから、参考にしている選手の映像をみたり自分のプレーを振り返ったりしているのだが、練習開始時刻が近づくにつれてだんだん気が重くなっていき、しまいには吐き気がしてくる毎日だった(いや、そりゃ公衆トイレに何分もいたら気分が悪くなるのは当然だが)。


つらくてそのまま練習に行きたくないと思った日も何度もあったが、エミネムを爆音で聞いて必死に気持ちを奮い立たせてトイレから出ていた。


東大前の長い階段をのぼると、春休みの午後はいつも憎たらしいほどいい天気で、でも別に自分のことがちっぽけに思えてくるほどの雄大さは無くて無性に腹立たしかったのを覚えている。






そんなこんなで日々練習に向かい、必死でプレーして、たまにちょっとうまくいって嬉しいけど、やっぱり下手すぎてどやされる毎日を送っていた。










だけど、このままではいけないと思ったし、いつまでもみんなに迷惑をかけていられない。何よりサッカーは好きだしうまくなりたかったから、自分は戦略を立てることにした。












まず、うまくなるには高いレベルの環境でプレーすることが必要だと考えた。
具体的にはAチームに残り、どんな形でもいいから試合に出場することを目標にした。





そのために、どこに集中的にリソースを注ぐべきかを考えた。





まず必要条件として、当然のことながら、指導陣から信頼して使われるにはア式的なプレーが最低限はできる必要があるから、それを満たすこと。

加えて、当時のア式の中盤は技術や戦術理解に優れた選手が多く、フィジカルに優れた人は少なかったので、差別化して選ばれる理由を作るためにフィジカルを鍛えること(幸いにも自分はア式の中盤として背が高かったし、フィジカルコンタクトへの抵抗感もなかった)。





自分の力とチームの力を比較した結果、この2点に特にフォーカスを当ててトレーニングに励み、監督にとって計算できるフィジカルのある中盤を目指すことにした。








前者のア式的なプレーを遂行するには、自分には最低限のボールを扱う技術がなさすぎた。




だから、毎日練習終了後から後練の育成がフルピッチを使うまでの間、ひたすら壁にむかってボールを蹴って、キックとコントロールの練習をした。

戦術理解の部分では、ア式には陵平さんはもちろんのこと、俊哉さんおかぴさんという頼りになるコーチや、めちゃくちゃうまい先輩や同期がいたので、彼らの言うことを素直に聞いてなんでも吸収しようと練習に望んだ。








後者のフィジカル能力向上のためには、運動・栄養・休養への理解を深め、片っ端から行動に移した。






身体運動科学の教科書を読んだ。


筋トレの効果的なやり方をひたすら調べた。


毎練習後、先述の通りボールを蹴った後、誰もいなくなった部室に戻って筋トレをした。


陶山に足がどうやったら速くなるか聞いた。


近所の公園で足を速くするトレーニングをした。


栄養について調べた。


タンパク質をたくさん食べた。


揚げ物は控えるようにしたし、お菓子も一切食べなかった。


睡眠時間を確保した。


睡眠の質が上がるという行動をひたすら試した。


習慣化の技術を調べてこれらの行動を習慣化した。







このように、戦略を具体的な行動に落とし込んで実行していった。










そうはいっても相変わらずレベル的にはいつ育成チームに落ちてもおかしくない状況が続いており、結局5月に足を骨折したのが決定打になって残りの2年生の期間は育成チームで過ごすことになった。


ただ、怪我をしてからも上記のことは続けていたし、その甲斐あって2年生のシーズン終了時には最低限の技術と(ア式内では)当たり負けしないフィジカルを手に入れることができた。






このシーズンも本当に多くの人に支えられたシーズンだった。



特に同期には、自分がつらかった時期にたくさんの声をかけてくれて感謝しかない。いしこのナイスプレイって声には本当に救われた、ありがとう。真路はやじさんとともにセカンド史上最強のCBを築いてくれて、自分のロストを全て無かったことにしてくれた。谷や北川、吉本はしれっと参考になるアドバイスをくれたし、育成でともにプレーしていたみんなも何かと気にかけてくれて感謝している。




怖いと勝手に思っていた先輩方も、この文章を書くに当たって過去の記録を見返したところ、めちゃくちゃ親身にフィードバックをくださっていたことに改めて気付かされた。
自分が勝手にいっぱいいっぱいになってしまっただけで、皆さんとしてもいい方々だったということはここにきちんと述べておきたい。














続く3年目、代替わりのタイミングで再びAチームに上がってからは、成長を実感するシーンが増えた。






以前よりボールロストが減ったし、立ち位置も改善された。

そして何より、トレーニングの甲斐あってフィジカルが向上していた。

プレシーズンのフィールドテストの30m走でチームで1番をとった時は報われた気がしてちょっと嬉しかった(怪我をしていた北川と陶山は参加していなかったけど)。








そして迎えたリーグ開幕戦。


上智相手に3-0とリードした後半に、怪我明けの味方に変わってボランチで途中出場リーグ戦デビューを飾ることができ、試合もそのまま勝利することができた。





その後の試合も試合終盤にクローザーとして投入されることが増え、途中出場を積み重ねることができた。










このシーズンは結果的に陵平さんが指揮をとるのは最後となるシーズンで、リーグ再編もあり関東昇格を現実的な目標に掲げ戦っていた。


ただ、立ち上がりこそ連勝したものの、その後は勝ち点を取りこぼす試合が多く、いまいち波に乗り切れずに中位で前半戦を終えた。





自身としても、はじめはリーグ戦に関われるようになったのが嬉しかったが、やっていることはみんなが作ってくれた試合におまけで出場するだけで、勝ってみんなが喜んでいても素直に喜べなかったし、引き分けや負けで悔しがっていても別のところでモヤモヤしていた。









そんな中、チームは夏の中断前の4連戦を迎え、4連勝すれば3位フィニッシュの可能性が残る状況になった。








連戦初戦は勝利したものの、2戦目は引き分けとなってしまい、関東昇格に向けこれ以上勝ち点を落とせない3戦目、横国戦。




この週絶好調だった水さんが熱中症?になったり、大智が仕事人っぷりを発揮しついでにカードをもらったりと盛りだくさんだった試合は、多くの好機を作ったものの決めきれずに1-1のまま後半アディショナルタイムを迎えていた。


そしてここからの数分間は、自分のサッカー人生で忘れられない瞬間となった。


まるで山王戦のラストのように、今でも鮮明に思い出すことができる。








90+5分に最後の交代枠として出場。

カウンターの流れから味方が打ち損じたシュートが自分に向かって飛んでくる。

咄嗟にトラップする。

寄せてきた相手を2タッチ目でかわす。

ゴール前で視界がひらける。

無我夢中で左足を振る。




一瞬の静寂の後、ゴールネットが揺れる。


歓喜に沸く御殿下。


みんなにもみくちゃにされながら、自分も喜びを爆発させた。





時計の針は90+7分、試合はそのまま2-1で終了し、ギリギリのところで勝利を掴むことができた。








夢に見ていたリーグ戦の舞台で劇的な決勝ゴールを決められて嬉しかったし、何よりも自分がチームの力になれたこと、そして自分のゴールでみんなが喜んでくれたことが最高に幸せだった。









勢いそのままに迎えた4連戦の最終戦、東京理科大戦でも途中出場から2ゴールを決めることができた。


終わってみれば、鬼門の4連戦を3勝1分で乗り越え、他会場の結果と合わせ3位フィニッシュになんとか望みをつなげることができた。






これらのゴールの後、自分はそれまでのボランチからCFにコンバートされ、残りの試合はCFとしてプレーすることになった(結局このコンバートが近年稀に見る大成功となった、人生わからないものである)。




スタメンを奪うまでには至らなかったが、それまでの途中出場とは違ってチームの一員としての実感を持ちながらプレーすることができたと思う。


結局昇格にむけた天王山に敗れてしまい、リーグ戦3位フィニッシュは叶わなかったが、後期のチームの雰囲気は最高で、玉川戦の劇的勝利や帝京戦で掴み取った勝利など、最後の方にちょこっと出場させてもらって幸福な時間だった。



また、リーグ戦終了後の東京カップをお世話になったおかぴさんとともに戦えたのも最高に嬉しかった。あの3試合は自分の中で忘れることができない試合になった。








このシーズンは幸運にもチームにとって大事なゴールを決めることができ、大きく成長したシーズンだったと思うが、それはひとえに支えてくれるみなさんのおかげだったと思う。


陵平さんには、自分を信じて大事な場面で使ってくださって、CFとしての自分を見出してくださって感謝しかない。


おかぴさんには、トップチームのみならずセカンドチームを率いてくださって、毎週一緒に映像をみてくださって、本当にお世話になった。


先輩方は最高の雰囲気のチームをつくってくださったし、同期や後輩もいい人ばかりで、みんなのために勝ちたいと心から思えるチームだった。








それから、幸運に恵まれてゴールを決めることができたが、その幸運が降りてきたのは、つらかった時期も能力を高めるための行動を継続したことで、どんな形でもいいから試合に出るという必要条件を満たすことができたからだと僭越ながら思う。


結果は本当に本当に運がよかったが、必要条件を満たし続けたその点においては、少しだけ自分を褒めてもいいかなと思う。





それにしても、たった一つのプレーでここまで人生が変わるとは思っても見なかった。非線形どころの騒ぎじゃない。










そして迎えた4年目。




新たに徹さんと高口らの指導のもと、より整理されたサッカーに取り組んだ。








ラストシーズンは使ってもらう機会が増えた分、自分の力不足を痛感したシーズンだった。








リーグ開幕戦は5バックを敷き成蹊相手に勝ち点を掴みにいったが、スーパーなロングシュートに沈んだ。


第2節は帝京相手に完敗。


3、4節の日大文理、武蔵では勝たなければいけない試合で不甲斐ない試合をして引き分け。


5節の学芸戦は立ち上がりから良い試合運びをするも、クオリティの差を見せつけられ敗戦。










勝ち点をとるのがこんなにも難しいとは思わなかった。








だから、続く学習院戦で初勝利を手にした時は本当に嬉しかった。

自分も大事な得点を決めることが出来たし、みんなのパフォーマンスも最高で、ここまで本当に長かった、これで今シーズンはもう大丈夫だと思った。





だが安堵したのもつかの間、次の試合から再び負け続け、あれよあれよと気づけば残留争いに巻き込まれてしまった。








同期たちは入部当初から活躍を期待され有望だといわれていた代だったし、とても力強い後輩たちも多くいたから、まあ単純に考えたら自分のせいで負けているわけで、責任を感じないわけがなかった。




あるいは、監督やコーチ、スタッフは最高の環境を提供してくださっていたし、
応援団は闘志を奮い立たせてくれるような最高のサポートをしてくれた(いつだったか、後半途中からずっとPride of URAWAを歌い続けてくれて、あれは本当に力になった。ありがとう)。




当然選手はそれに応えて結果を出すのが仕事であるから、それができないのが本当に申し訳なかった。








言うまでもなくリーグ戦という舞台は、ア式に関わる全員が目指し続けてきた舞台である。



自分より遥かに上手いのに、タイミングが合わず思うように出場できなかった諸先輩方や同期、後輩の姿を、4年間たくさん目の前で見てきた。


運が良かっただけの自分が、この場所に立つことの責務を果たせているのか。


葛藤する日々だった。







結局チーム状況が劇的に改善することはなく、降格圏内でリーグ戦終盤を迎えることになった。










この時の自分は、なんとしてでも目の前の試合で勝利して残留しようといっぱいいっぱいになっていた。











そんなある日、練習見学に来た山口遼さんと姿勢改善について話していたときに、ふと「それって最終節までにモノにできますかね?」という質問が口をついた。


それに対する返答は、「別にサッカー人生は続いていくからよくない?」だった。






このやりとりは、視野狭窄を起こしていた自分にとって、文字通り背筋を伸ばして前を向かせてくれるものだったと思う。







ア式の選手ではなくなっても自分のサッカー人生は続いていくし、その中でできることが増えたら楽しいだろう。


選手として第一線でプレーはしないとしても、週末のフットサルでボールが思うように扱えたら楽しいし、日々の生活で肩甲骨の可動域が広がったら嬉しいはずだ。


なんならもしサッカーに全く関わらないとしても、あるいは極端な話死ぬとしても、その直前まで新たな世界を求める姿勢は、とても尊いと思う。


願わくば、その姿勢を見た誰かが意思を引き継いでいってくれたら、これほど嬉しいことはない。







そんな、アイアンバイブル的に言えば世界が滅ぶ前日にりんごの樹を植えるような、あるいは世界が滅ぶ前日に産まれた赤子に名前をつけるような、そういう人間でありたいと思うようになってから、サッカーに対するピュアな情熱を取り戻すことができたと思う。


サッカーがまた楽しくなったし、もっといろんなプレーを試して上手くなりたいという欲求をより強く持つことができるようになった(もちろん目の前の試合に勝つために全力を尽くすし、プレーに対する結果は自分が負うのは変わらない)。




このいい精神状態になってから、自身のパフォーマンスがよくなったと思うし、チームとしても、やっと一つになって戦うことができ勝利を重ねることができた。








玉川戦など悔やまれる試合もあったものの、結果的には無事残留することができ、最低限の役割は果たせたのかなと思う。









期待されたチームでこのような結果になってしまって本当に申し訳なく思っているし、結局最後までチームを勝たせられる選手にはなれなかったけど、皆さんのおかげでア式でのラストシーズンをなんとか全うすることができた。






徹さんと高口はじめコーチやテクニカル、スタッフには本当にお世話になった。ラストシーズンで自分が上手くなれたのは、あるいは残留できたのは皆さんのおかげだと思う。ありがとうございます、これからもア式をよろしくお願いします。


同期にも本当に感謝している。スーパーなみんなとともにサッカーができたのは自分の誇りです。歌と陶山と吉本、後は頼みます。


後輩はラストシーズンをともに戦って本当に頼もしかった。特に誠二郎とはポジション争いをして、沢山成長させてもらったし、最後は一緒にプレーできてよかった。一時期は不仲?になってしまってとても申し訳なかったけど、誠二郎とポジションを争えたのは自分の自慢です、ありがとう。


LB会の方々や体育チームの方々、スポンサーの方々、東大職員の方々、守衛の方々、都学連の方々、審判の方々、相手校の方々、保護者の方々、その他名前を上げきれない数多くの皆様のおかげでア式の活動は成り立っています。ここに深く感謝を申し上げます。これからも東大ア式蹴球部をよろしくお願いいたします。


最後に家族にはここまでサッカーを続けさせてくれて本当に感謝しています。自分がここまで幸せなサッカー人生を送れたのは家族のおかげです。本当にありがとう。












あらためて、幸運に恵まれた、本当に幸せな4年間だった。


関わってくださった全ての人に感謝して、このfeelingsを終えたい。


















どうか我らの愛すべき 鎖を止めないで——

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