志在千里

飯田陽斗(1年/MF/海城高校) 


ア式との出会い——それは、まだ東大の敷居の高さも、自身の未来の輪郭も曖昧だった高校一年の冬、東大フェスの一日だった。
 肌寒さの中に陽射しが差し込む冬の日、御殿下グラウンドが陽光に照らされて輝いていたのを、ぼんやりと眺めていた。「いいグラウンドだな」その程度の感慨が、あのときの僕の全てだった。
まさか数年後、その同じ芝を自分のスパイクが踏みしめるとは、夢にも思っていなかった。

 

 サッカーとの最初の出会いは、もっと唐突で、もっと無邪気だった。小学生のある日、教室の後ろの席にいた、いかにも“サッカー小僧”な彼が、いきなり練習着一式を手渡してきた。
「一緒にやろうぜ」――その一言に押されるように、僕はクラブの門をくぐった。始まりは、そんな風に風任せだった。


ボールを蹴る感触。リフティングのリズム。公園の夕暮れ。父と交わした何気ないパス。全てが楽しくて、ただ無心に蹴ることが嬉しかった。そこに理由はなかった。ただただ、ボールが跳ねる音が心地よかった。


けれど、楽しさはいつまでも無垢なままではいてくれなかった。


小学4年になる頃から、練習に「走り」のメニューが加わった。今思えば、ほんの短い距離だったのだろう。だが、幼い僕には苦しくて、何より「義務」としてのサッカーが初めて姿を現した瞬間だった。
走るたびに、少しずつ情熱が剥がれていった。
中学に上がる頃には、すっかり気持ちは離れていて、「サッカーは、もういいかな」と、親にそう告げる自分がいた。


中学に入学し、どの部活動に入ろうかとぼんやり考えていた頃だった。まだ自分の中でサッカーの炎は消えかけていて、「新しい何か」を探そうとしていた。そんなある日、同じクラスの少し甲高い声の関西弁の少年が、突然こちらに話しかけてきた。


「お前、サッカーやってたん? 俺、兵庫県2位やから。よろしくな」


あまりに唐突で、あまりに自信満々で、一瞬「なんだこいつ」と思った。けれど、不思議とその態度がいやらしく感じなかった。むしろ、どこか清々しい。
そしてなにより――そんなすごいやつと一緒にサッカーができるのか、という思いに胸が高鳴った。
家に帰るなり父に、「海城にすごいやつがいる!」と興奮気味に話したのを、今でも覚えている。


仮入部期間、彼に誘われるまま何度か練習に参加した。汗の匂い、響く声、久しぶりに芝の上を走る足音。
気づけば、その感覚が懐かしくて愛おしくて――もう心は決まっていた。
サッカーを、もう一度本気でやってみよう。そう思えた。


中学時代の部活生活は、思い返せば順風そのものだった。先輩たちの代にも練習から混ぜてもらい、自分の代では、監督からお前らは技術がないと言われてきたが新宿区大会を優勝し支部予選を突破し何とか先輩たちが届かなかった6年ぶりの都大会の舞台で、ベスト32まで駒を進めることができた。


中学3年のとき、コロナの影響で、ほとんどサッカーができなかった。練習も試合も思うようにできず、気づけばそのまま中学生活が終わってしまった。


高校カテゴリーに上がると、周りとの壁を感じるようになった。
冬、トレセンのセレクションに挑む機会が巡ってきた。高校から選ばれたのは、僕ともう一人だけ。
「受かってやる」。
吐く息が白く溶ける寒空の下、心だけは熱かった。


だが現実は、容赦なく冷たかった。
選手権に出る高校から来てる奴ら。そいつらの足さばき、ボールタッチ、コーチング、視野の広さ…すべてが違った。
開始早々から、技術差は歴然だった。
終盤には「早く終わってくれ」と願うほど、自分の未熟さが痛かった。


結果は不合格。
悔しさは言葉にできなかった。ただ技術が足りなかっただけだ。
 セレクションに落ちたことで予定が空き行けるようになった富士急ハイランドで落ちたことを無理やり正当化することで何とか落ち着いた。


高校の外へ一歩出ると壁にぶつかるもののそれでも、高校に戻ると先輩たちの代でも先発を任されるようになっていた。


迎えた選手権。一回戦から、楽な試合は一つもなかった。
ブロック決勝。延長、pk。まさに死闘だだった。
しかし結果は残酷だ。一枚の紙切れのように、都大会への切符は目の前から風にさらわれていった。


もう、中学のように都大会はそう簡単に行ける舞台ではないのだ。
続く新人戦の2週間前、僕はひたすらグラウンドを気が狂ったように走っていた。なぜ走っていたのか。体力をつけるため?怪我から復帰するため? 答えはNOである。僕に限ってはそんなはずはない。


宿泊研修で華麗なる携帯没収をされてからの罰走である。


消灯時間を過ぎた頃、サービスエリアで買ったおやつを広げ、その当時なんか流行っていたプロスピを携帯で、テレビに繋げたswitchで遊びながらいち高校生として宿泊研修を謳歌していた。



――「ガチャン」



不意に響いた、鍵の回る音。
それと同時に眠気を堪えながら遊んでいた脳が瞬時にフル回転する。襖までの距離、およそ五メートル。先生が到達するまで、わずか五秒。


その間に隠さなければならない数々の「証拠」。
僕はとりあえずswitchとお菓子を襖の奥へ放り込み、ほっと胸をなで下ろした――はずだった。


やばい。僕の携帯がどこにも見当たらない。最後に触ったのがいつかも覚えてない。しかし見当たらない。何かの下敷きになってうまく隠れてればいいかと思い一安心する。
 
 「スーッ」襖が開く。
 
 幸いなことに担任はおじいちゃん先生。部屋に漂うスナック菓子の匂いなど、きっと感じ取れまい。案の定匂いなど全く気づかれない。
……助かった。そう思った瞬間、隣の布団の友人が不自然に枕を押さえていることに気づいた。


――おい、嘘だろ。
誰が見ても物を隠していますという仕草。
先生が告げる「お前、枕の下に何を入れているんだ。枕の下を見せろ。」


こいつ、アホやな。携帯でも入れとるんだろ。
内心ニヤニヤしながらそう思っていた。


 予想や期待というものは裏切られるためにあるのだろうか。枕を上げると現れたのは、僕の携帯である。そのまま、同部屋のやつと廊下に連行され正座である。まず真っ先に思い浮かぶ顧問の顔。走りが確定したも同然である。その日は何時間を廊下で過ごしただろうか。部屋に戻された時には、さっきまでの楽園は跡形もなく、重苦しい空気だけが残っていた。


翌朝、顧問への謝罪。


もちろん一蹴され、人生初の反省文と言うものを書く羽目になった。
とりあえず部活に行くことを禁止された。部停はなんだかんだ初めてで部活がないのにただ学校に行く変な感覚だった。


部停が明けると晴れてサッカーができる。


そんなはずがない。当然鬼の走り。選手権で全国優勝を経験している顧問は鬼のように走らせる。幸い何人も同じように携帯没収された仲間がいた。足を攣る人が絶えなかった。
 走りを終えても、筋肉痛は抜けなかった。練習に参加できても冷えた鉛のように重い足が、思うように動かない。
 
 すでに新人戦は始まっていた。数試合を終え、中学からの宿敵との対戦で、後半ようやく出番が回ってきた。久しぶりの公式戦。自分のせいとはいえ、やっと巡ってきた喜び。だが、出てすぐ相手に南米顔負けのカンフーキックを放ち、人生初のイエローカード。試合もPKで敗れ、チームの力になるどころか、足を引っ張った。


先輩と肩を並べて戦える大会は、もうインターハイだけ。
そのインターハイも、二回戦で呆気なく敗れた。東京都選抜の左ウイングに押し込まれ、右サイドはサンドバッグ状態。先輩たちが積み上げてきたビルドアップも、土のグラウンドで相手のハイプレスに屈した。
試合後、何人かの先輩に言われた。「お前らはもっと上に行けよ。」
その言葉だけが、土埃の中で鮮明に響いていた。


自分たちの代になった。


夏の3泊4日ボールに触るのは1〜2時間だけで後は走りのただの地獄の合宿。朝食を食べスキー場まで走って移動。スキー場の下から頂上まで気合いのロングスプリント。最後の傾斜は足がどう頑張っても上がらない。そりゃそうだ。スキーするための場所であって走る場所じゃない。いろんなメニューを何本も死ぬほど走った。当然のように吐いた奴がたくさんいた。
obコーチが言った。吐いてからが本番だから。むしろ吐いたほうがいい。
そんなはずがない。そう思ったが吐いた後にみんなスッキリした顔で走りのメニューに戻ってくる。なんだかホントっぽい。
そんな地獄の走りを終えると気づけば昼食の時間。昼食を食って部屋に戻ると暖房しかなく冷房がない。非常に暑い。
その後は練習場まで走り基礎練習だけして近くの森林コースまで走り6.6キロ走る。早く走れたやつからお風呂で夜飯である。この生活を数日繰り返し晴れて東京に舞い戻ることができるのである。


これでも顧問は丸くなったほうらしい。6個上のobの話を聞くと、中学合宿は1日目からマラソン大会とか言う名の宿舎からグラウンドまでの4キロ、おまけに最後は急勾配な坂道を2往復すなわち16キロを走らせていたらしい。考えただけで背筋が凍る。


そんな合宿を終え練習に励む中、9月6日スプリントのメニューのラスト一本ラスト数メートルで肉離れをした。肉離れをするのは初めてだったが肉離れだと完全にわかるくらい見事に逝かれた。


ここから怪我に悩まされる人生がはじまった。
初めに行った病院が完全なヤブ医者であってリハビリも全て適当であった。肉離れは初めてだったのでまぁそんなものかと思って医者の言う通りに2〜3週くらいで適当に復帰した。
当然すぐに再発した。


そっから大きな病院に行きリハビリをし12月には徐々に復帰し始める。しかしもう引退まで残り5ヶ月。もう残された時間は少なかった。


迎えた東大フェス。病院から試合出場は禁止されていた。監督に「出ろ」と詰められたが、再発を恐れてベンチを選んだ。三日で三試合――そんな無茶はできない。
チームは優勝した。相手はすべて格上。決勝の武蔵戦では劇的ゴールが生まれ、仲間たちは歓喜の渦に包まれた。その光景を、僕はただコートの外から見ていた。羨望と悔しさと、焦りが胸をかき乱した。


振り返れば自分の代になって選手権も新人戦も出場していなかった。気づけばもうインターハイしか残っていない。


冬は怪我が多い。誰よりも入念にストレッチを心がけた。もう次怪我したら本格的に引退の文字が見えてくるのだ。


聖バレンタインが殉教した日である2月14日
男子校においては本来何の意味も持たないはずのその日が僕には有意味な日となってしまった。


左半膜様筋肉離れ。


あれほど暗く長い夜はあっただろうか。絶望感に苛まれ枕を濡らした。
タイムリミットはメンバー選考を兼ねた3月28〜29日の千葉遠征、4月1〜3日の群馬遠征である。千葉遠征まで6週間。もちろんその遠征メンバーに入るためにもその試合に出るためにも4〜5週にはほぼ完全に復帰しコンディションを上げなければならない。


医者から告げられる。
全治は6〜8週間。ただぼんやりとした眼前の光景に時だけがただ流れる。
このまま引退は笑えないなぁと思いつつなぜか病院は長めに全治を言ってくるからなんとかなるんじゃないかと楽観的に思う自分もいた。
復帰を待ってくれている同期、親、監督。
可哀想なやつだと周りに思われたくなく復帰は全然間に合いそうと少し嘘をつくことしかできなかった。


そこから1ヶ月くらいは練習にほとんど行かず練習の時間に1人で病院に行ってリハビリをしていた。周りが練習しているのを見たら色々思う事があると思うのでちょうどよかった。
4〜5週経った頃、対人やスプリント系以外は解禁された頃もう医者は無視して練習参加し始めた。怪我のリスクはだいぶあるがもう怪我したらしゃーないなと思いつつ、もうそろそろ完全に練習参加しなきゃどうしようもないし出来るだけスプリントを入れないように練習していた。
千葉遠征は30分程度、群馬遠征は60分程度の出場だったが何とか上手く乗り切ることができた。



無事に大会メンバーにも選ばれスタメンにも復帰できた。


インターハイ二回戦。
死闘の末、PK戦を制してブロック決勝への切符を手にした。しかし、歓喜の影で僕の右ハムストリングは悲鳴をあげていた。中一日しかない猶予。わずかに走るだけで鋭い痛みが突き刺さり、前日の練習ではほとんどピッチに立てなかった。


そして迎えたブロック決勝。相手は格上、T3の東京成徳大学高等学校。誰もが、この試合が僕らの終着点だと思っていた。だからこそ、出ないわけにはいかなかった。大学で続けるつもりもない。これが人生最後のサッカーだ。アップの時点で右足は限界を超えていた。それでも――壊れる覚悟でピッチに立った。


開始10分。予想通りの瞬間が訪れる。右足に走った鋭い断絶。肉離れ。そこから先の記憶は断片的だ。映像を見返せば、なおも60分過ぎまでピッチに立っていたらしい。先制され、追いつき、延長で逆転。歓喜の渦の中、都大会への扉が開かれた。


だが、僕は素直に笑えなかった。最後は覚悟して臨んだ。それが現実になっただけだ、と冷めた気持ちすらあった。


迎えた都大会初戦。終了間際、決定機を逃した直後に喫した失点。その一撃で僕らの夏は終わった。引退。


ただただ、不完全燃焼だった。振り返れば、高校最後の一年の半分以上、僕はプレーすらできていなかったのだ。


上手く勉強モードに切り替えれず呆気なく浪人。当初は浪人するか迷っていたがしてみると楽しい毎日だった。


駿台御茶ノ水フットサル部発足。
確か五月半ばのことだった。
主将・小林勇太(現ア式蹴球部一年)を中心に、サッカーを愛する連中が自然と集い、月に一度ほど近くのフットサルコートで汗を流した。あの時間は、受験期の張り詰めた日常に差し込む小さな光だったのかもしれない。


やがて無事に東大に合格し、気がつけば僕はア式蹴球部に身を投じる覚悟を固めていた。
正体、ディアゴナーレ、辺を覗く――耳慣れぬ専門用語の嵐。そして、経験したことのないポジション。戸惑いは絶えない。だが、不安の裏には確かに胸の高鳴りがある。


僕の戦いはまだ始まったばかりだ。
いつの日か御殿下のピッチに立ち、仲間と共に声援を背に戦う瞬間を夢見て。僕はこれからも走り続ける。

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