儚くなんかない
馬塚天志郎(1年/MF/桐蔭学園高校)
プロサッカー選手になる確率は0.2%以下らしい。これは、現在のJリーガー約1800人をサッカー人口約75万で割った数字である。この中でサッカーを遊び程度にやっている層を抜いたとしても、確率はやはり0.5%以下だろう。また、Jリーガーでもサッカーだけで生活できる層は極端に少なく、大半は他の仕事と両立してなんとか生活できるレベルだ。プロサッカー選手とはそういう職業なのである。
サッカーを真剣にやっている人は、必ずと言っていいほどプロサッカー選手を目指す。しかし、大半はどこかで諦める。サッカーを辞める。もしくは、真剣にやるけどプロは目指さないという、絶妙な距離感でサッカーと付き合うことになる。もちろん自分も後者の1人であって、プロを目指すわけではないが、遊びでやるわけでもない。
このような付き合い方が1番難しいのは言うまでもない。サッカーが好きで上手くなりたいから練習に真剣に取り組む。練習前のストレッチは欠かさないし、常にどうすれば上手くいくかを考えながらプレーする。だからといってオフの日に1人で自主練をする訳ではない。オフが増えれば喜ぶし、ランメニューはできることならやりたくない。サッカーを好きなのか嫌いなのかはっきりとしない。
なぜ、このような状態になるのか。
第一に、「なりたい/なりたくない」以前に、自分がプロサッカー選手に「なれない」ことを悟ってしまう。現実を見てしまう。
自分はいつ悟ったのだろう。
明確なきっかけがあるわけではない。小中高とサッカーに関わることは常に挫折を伴っていたが、「〜のプレーを見てプロになれないと思った」などという明確なものはなかった。むしろ、自分の周りにはうまい奴がたくさんいたが、いつも心の中では「大したことなくね」と思っているタイプだった。本気を出せば自分でもそのレベルに行ける自信もあった。しかし、それはもちろん過信であって、なかなか上手くならない。理想と現実の距離に落ち込む日々が続く。そして、小さな挫折を重ねるうちに、なんとなく「プロにはなれない」と悟ってしまった。もっとわかりやすく言えば、冷静に自分のサッカー選手としての価値を考えられるようになった、適切に評価できるようになったのだろう。
いまでも、プロの試合を観に行くと「いつかこういう場所でやりたい」と思う。しかし、その可能性は限りなく0に近いことを知っていて、そのために努力しようとも思わない。そして、2、3日すればその思いも薄れていく。
第二に、プロにはなれないと分かりながらも、サッカーに魅せられる、もしくは悔しい経験をして、「まだ続けたい」と思う。
やはり、2022年のカタールワールドカップが大きい。勝てないと思っていたドイツとスペインに勝ってグループリーグを見事に突破したとき。勝てると思っていたコスタリカにあっけなく負けたとき。数々のチャンスを作りながらもpkでクロアチアに負けて敗退したとき。それらの結果はどれも想像を超えていた。勝てると思われてた試合で負ける、負けると思われていた試合で勝つ。試合が終わるまでどうなるかわからない。そこがサッカーの面白さであり、魅力である。
これはプロの試合特有のことじゃない。格上の相手に勝った時の嬉しさや、勝てると思っていた相手に負けた時の悔しさは言葉では言い表せないものがある。俺は高校サッカーでは片手で数え切れるほどしか勝っていないが、そのどれもが特別で価値のある試合になっている。
そんなわけで、大学でもサッカーをやろうと思うようになった。
家から本郷までの道のり、鷺沼駅の手前に鷺沼小がある。そこに三苫選手の横断幕がある。田園都市線に乗ってその横断幕を見るたびに、これを見てサッカーを始める子供の多くが、サッカーに魅せられながらも挫折を繰り返し、いずれ現実を見るようになるのかと思う少し冷めた気持ちになる。それでも何か特別なものが残ればいいな、と保護者でもないのにそんなことを考えてしまう。
情熱というのは、0か100ではない。生活の全てを捧げるほどの情熱をサッカーに対して持っていなくても、サッカーと向き合い、真剣に取り組むことはできる。常に上手くなることを考え、自分がどこまでいけるか、どのレベルまで通用するかを知りたい。その先にどんな結果が待っていようと納得できる、自分に誇れる。
そして、本当の限界に辿り着き、胸を張ってサッカーを辞め、次のステージに進みたい。
最高の形でサッカーをやめる為に、サッカーを続ける。
そんなサッカー人生は決して儚くなんかない。
110期 馬塚天志郎
このような付き合い方が1番難しいのは言うまでもない。サッカーが好きで上手くなりたいから練習に真剣に取り組む。練習前のストレッチは欠かさないし、常にどうすれば上手くいくかを考えながらプレーする。だからといってオフの日に1人で自主練をする訳ではない。オフが増えれば喜ぶし、ランメニューはできることならやりたくない。サッカーを好きなのか嫌いなのかはっきりとしない。
なぜ、このような状態になるのか。
第一に、「なりたい/なりたくない」以前に、自分がプロサッカー選手に「なれない」ことを悟ってしまう。現実を見てしまう。
自分はいつ悟ったのだろう。
明確なきっかけがあるわけではない。小中高とサッカーに関わることは常に挫折を伴っていたが、「〜のプレーを見てプロになれないと思った」などという明確なものはなかった。むしろ、自分の周りにはうまい奴がたくさんいたが、いつも心の中では「大したことなくね」と思っているタイプだった。本気を出せば自分でもそのレベルに行ける自信もあった。しかし、それはもちろん過信であって、なかなか上手くならない。理想と現実の距離に落ち込む日々が続く。そして、小さな挫折を重ねるうちに、なんとなく「プロにはなれない」と悟ってしまった。もっとわかりやすく言えば、冷静に自分のサッカー選手としての価値を考えられるようになった、適切に評価できるようになったのだろう。
いまでも、プロの試合を観に行くと「いつかこういう場所でやりたい」と思う。しかし、その可能性は限りなく0に近いことを知っていて、そのために努力しようとも思わない。そして、2、3日すればその思いも薄れていく。
第二に、プロにはなれないと分かりながらも、サッカーに魅せられる、もしくは悔しい経験をして、「まだ続けたい」と思う。
やはり、2022年のカタールワールドカップが大きい。勝てないと思っていたドイツとスペインに勝ってグループリーグを見事に突破したとき。勝てると思っていたコスタリカにあっけなく負けたとき。数々のチャンスを作りながらもpkでクロアチアに負けて敗退したとき。それらの結果はどれも想像を超えていた。勝てると思われてた試合で負ける、負けると思われていた試合で勝つ。試合が終わるまでどうなるかわからない。そこがサッカーの面白さであり、魅力である。
これはプロの試合特有のことじゃない。格上の相手に勝った時の嬉しさや、勝てると思っていた相手に負けた時の悔しさは言葉では言い表せないものがある。俺は高校サッカーでは片手で数え切れるほどしか勝っていないが、そのどれもが特別で価値のある試合になっている。
そんなわけで、大学でもサッカーをやろうと思うようになった。
家から本郷までの道のり、鷺沼駅の手前に鷺沼小がある。そこに三苫選手の横断幕がある。田園都市線に乗ってその横断幕を見るたびに、これを見てサッカーを始める子供の多くが、サッカーに魅せられながらも挫折を繰り返し、いずれ現実を見るようになるのかと思う少し冷めた気持ちになる。それでも何か特別なものが残ればいいな、と保護者でもないのにそんなことを考えてしまう。
情熱というのは、0か100ではない。生活の全てを捧げるほどの情熱をサッカーに対して持っていなくても、サッカーと向き合い、真剣に取り組むことはできる。常に上手くなることを考え、自分がどこまでいけるか、どのレベルまで通用するかを知りたい。その先にどんな結果が待っていようと納得できる、自分に誇れる。
そして、本当の限界に辿り着き、胸を張ってサッカーを辞め、次のステージに進みたい。
最高の形でサッカーをやめる為に、サッカーを続ける。
そんなサッカー人生は決して儚くなんかない。
110期 馬塚天志郎
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