ア式を中心とする大学生活で考えたこと
馬屋原翔(4年/DF/千葉高校)
「カテゴリー上下のタイミングに恵まれた」
「怪我に救われた」
「公式戦にスタメンで出場できなかったのは悔しいが、後悔はない」
「公式戦にスタメンで出場できなかったのは悔しいが、後悔はない」
引退してから振り返ってみると、まずこのような考えが浮かんでくる。
なかにはお前は何を書いているんだ、と目を疑う内容もあるかも知れないが、自分の本心はこうなのが正直なところだ。
なかにはお前は何を書いているんだ、と目を疑う内容もあるかも知れないが、自分の本心はこうなのが正直なところだ。
ア式を中心とする大学生活のなかで、自分の心がどのように動いていたのかについて、一から振り返っていきたい。
決して全てを書き尽くせたわけではないが、これまで人にはあまり言ってこなかった各時期の思いを赤裸々に記したつもりだ。
後輩たちには、僕自身の取り組みや各時期での位置を参考に、それぞれのア式での生活の道筋立てに役立ててもらえればと思う。
決して全てを書き尽くせたわけではないが、これまで人にはあまり言ってこなかった各時期の思いを赤裸々に記したつもりだ。
後輩たちには、僕自身の取り組みや各時期での位置を参考に、それぞれのア式での生活の道筋立てに役立ててもらえればと思う。
一年生
前提として、この時期はア式、大学(授業など)、バイトの3つがパワーバランス的に拮抗しており、ア式が中心になっていたとは言えなかったことを断っておきたい。
東大に来たからには勉強に力を入れようと意気込んでいた中で、僕は部活にするかサークルにするか悩んだ挙句、部活に入ることを決めた。
入部動機をつづったfeelingsにも書いてあるように最悪辞めればいいという思いも確かにあったが、辞めることが選択肢になることはないということは僕自身ですでに分かっていた。
どんなに辛いことがあろうが、自分都合で変えられることである限りは辞めることの理由にはならないと考えていたからだ。多分、これは今後にも当てはまることではある。
入部動機をつづったfeelingsにも書いてあるように最悪辞めればいいという思いも確かにあったが、辞めることが選択肢になることはないということは僕自身ですでに分かっていた。
どんなに辛いことがあろうが、自分都合で変えられることである限りは辞めることの理由にはならないと考えていたからだ。多分、これは今後にも当てはまることではある。
また、この時期に自分の4年間の目標として、公式戦にスタメンで出場することを掲げた。結局、最後まで叶うことはなかったのではあるが。
そんなこんなでア式、大学、バイトの三つに力を入れることになったのであるが、今思えば意外とバイトの存在は大きかった。
具体的な内容としては大学受験塾でチューターをしていたわけだが、大学に向かって熱心に努力する生徒たちを見ていると、自分がその輝かしさを見せてあげたいと思うようになり、部活も勉強も頑張ろうと思えた。
具体的な内容としては大学受験塾でチューターをしていたわけだが、大学に向かって熱心に努力する生徒たちを見ていると、自分がその輝かしさを見せてあげたいと思うようになり、部活も勉強も頑張ろうと思えた。
シーズン中の個人の成果としては、育成の試合にスタメン出場したことは記憶の限りではなく、正直お先真っ暗であった。もちろん代替わりでも育成チームに残った。
ポジションもサイドハーフやトップを中心に前線のほうを転々とし、プレイヤーとして定まりのない存在であった。
一方で、危機感を持つことは特になく、冬オフは一回も部室・グラウンドに来なかった記憶がある。
ポジションもサイドハーフやトップを中心に前線のほうを転々とし、プレイヤーとして定まりのない存在であった。
一方で、危機感を持つことは特になく、冬オフは一回も部室・グラウンドに来なかった記憶がある。
このような形で、春先くらいまでの期間を浪費したのが一年目だった。
二年生
ここでも、大学やバイトとのバランスが変わることはなく、あくまで日常の変哲もない要素としてア式の活動があった。
しかし、個人の境遇で変わった点として、チームでのプレイヤーとしての立ち位置が一年生の時よりも高くなったことが挙げられた。
一年間活動してきていた以上、そうなることは当たり前のことかもしれないが、一年目に一緒にプレーしていた周りの人たちよりも自分の評価が上がってきていたのを感じていた。
一年間活動してきていた以上、そうなることは当たり前のことかもしれないが、一年目に一緒にプレーしていた周りの人たちよりも自分の評価が上がってきていたのを感じていた。
やる気が特段あったわけではないが、毎回の練習に真面目には取り組んでいたからなのか、ラントレでフィジカル面の強化ができたからなのか、いい変化が生まれてきていた。
しばらく定まることのなかったポジションも、サイドでの正対が相対的にはできているということで、徐々にサイドバックに固まっていった。
振り返ってみれば、高いクオリティを持っておらず攻撃でプラスを生み出せない自分がより高いレベルでプレーしたいと考えた場合、妥当なことであったと思う。
振り返ってみれば、高いクオリティを持っておらず攻撃でプラスを生み出せない自分がより高いレベルでプレーしたいと考えた場合、妥当なことであったと思う。
育成の試合でスタメン出場することも徐々に増えていき、GW前と夏休みくらいにそれぞれAの練習に参加する週間を手に入れることができた。
この頃は、自分の他にもA練に参加する育成プレイヤーが時々いたが、Aの選手に「今までの育成体験生でお前が1番やれてたぞ」などと声をかけられたこともあり、嬉しかった。
この頃は、自分の他にもA練に参加する育成プレイヤーが時々いたが、Aの選手に「今までの育成体験生でお前が1番やれてたぞ」などと声をかけられたこともあり、嬉しかった。
結局、そのままAチームに上がることはできず育成にとんぼ返りはしていたのだが、良い感触を持てていた時期であった。
しかし、二年生で迎えた代替わり、僕はAに上がれず育成に残ることになった。
正直、上がれるかもという希望を抱いていたのでショックだったが、反骨精神が刺激されモチベーションが高まった。
そのままの勢いで頑張っていたら冬オフ前にはAに上がることができた。
正直、上がれるかもという希望を抱いていたのでショックだったが、反骨精神が刺激されモチベーションが高まった。
そのままの勢いで頑張っていたら冬オフ前にはAに上がることができた。
その後、年明けの始動ちょっと後くらいまでカテゴリー上下が続いた。
①育成にいるんだという反骨精神から、モチベーションが高まり頑張る
↓
②評価が上がってAに上がる
↓
③公式戦の出場に一歩近づけたとモチベーションがさらに上がる
↓
④自分の実力のあまりの足りなさを痛感し、モチベーションの高まりよりも下がり基調が強くなる
↓
⑤パフォーマンスで悪目立ちしてしまい、育成に落ちる
↓
①育成にいるんだという反骨精神から、モチベーションが高まり頑張る
↓
・・・
↓
②評価が上がってAに上がる
↓
③公式戦の出場に一歩近づけたとモチベーションがさらに上がる
↓
④自分の実力のあまりの足りなさを痛感し、モチベーションの高まりよりも下がり基調が強くなる
↓
⑤パフォーマンスで悪目立ちしてしまい、育成に落ちる
↓
①育成にいるんだという反骨精神から、モチベーションが高まり頑張る
↓
・・・
この期間は、上のようなサイクルが続いた。
Aに上がったり、育成に落ちたりするタイミングが、上手く自分のモチベーションを保てていた。
そして、アミノバイタルカップ時に③のタイミングにあったことから、出場は叶わなかったがベンチ入りすることができた。
Aに上がったり、育成に落ちたりするタイミングが、上手く自分のモチベーションを保てていた。
そして、アミノバイタルカップ時に③のタイミングにあったことから、出場は叶わなかったがベンチ入りすることができた。
※今となってはふざけているとしか思えないが、この年はアミノの試合と追いコンの日程が被っており、漫才担当代として迎えていた僕は、ベンチ入りしていた試合前に会場の最寄駅にあるカラオケでペアと漫才の最終確認をしていたことがあった。結果的に「瞬間最大風速」を記録することができたようで、良い思い出ではある。
このような形で、リーグ戦開幕をかつてなく楽しみにして終えたのが二年目だった。
三年生
一言で表せば、三年目は色んな意味で転換点となった年だった。
ここからは、総じて文量が多くなってしまうことをご容赦いただきたい。
ここからは、総じて文量が多くなってしまうことをご容赦いただきたい。
今までよりも高いカテゴリーで活動できていたことに変わりはなかったが、問題はアミノバイタルカップから初夏までの期間にあった。
端的に言えば、上で言っていたところの④の期間が今までになく長く続いていた。
アミノでは結局出場機会はなかったし、リーグ戦に向けてチームの完成が進められるなかで自分のパフォーマンス・評価が芳しくないことは明らかであったからである。
端的に言えば、上で言っていたところの④の期間が今までになく長く続いていた。
アミノでは結局出場機会はなかったし、リーグ戦に向けてチームの完成が進められるなかで自分のパフォーマンス・評価が芳しくないことは明らかであったからである。
しかも、モチベーションの下がり方としても、それまでの状況とは大きく異なっていた。
それまでは、チームの中での自分の足りなさを痛感することが多かった。自分のプレイヤーとしての出来を、あくまでチーム内の視野に限定して考えてきていた。まだリーグ戦で戦う相手の強さを知らなかった。
一方、怪我人の影響で第一節・第二節と試合終盤にリーグ戦に出場でき(てしまっ)たことで、自分のプレーがいかに通用していないかを痛感させられた。
気持ち的にも暗い時期であり、毎回の練習を公式戦に向けて最高の準備をする機会として捉えられていなかった。試合に出たところで通用するはずもなかったので、ベンチでも正直出番が来ないで欲しいと思いながら試合を見守っていたことがあった。
気持ち的にも暗い時期であり、毎回の練習を公式戦に向けて最高の準備をする機会として捉えられていなかった。試合に出たところで通用するはずもなかったので、ベンチでも正直出番が来ないで欲しいと思いながら試合を見守っていたことがあった。
こんな状態であったから、グラウンドに運ぶ足がとても重くなっていた。駒場から本郷に向かう際には、渋谷→表参道→千代田線で根津へ、というのがマイルートであったが、毎日のように「根津で降りずにこのまま乗っていれば、家に帰れるのに」という精神状態で混みかけの千代田線を降り、部活に向かっていた。
ア式では、Aチームよりも育成チームの方が居心地がいいという認識を持っている人がたまにいると思うが、まさしくこの当時の自分は「育成チームに落ちてしまいたい」くらいのメンタルでいた。
サッカーが嫌いになったとか、退部したいとか思っていたわけでは決してない。むしろ、自分の目標と照らし合わせた時に、このままAチームで苦しくもがいているよりはいっそのこと育成チームで初心にかえった方が未来があるのではないか、とうっすら感じてしまっていた。Aチームと育成チームでプレーすることには、それぞれ良いことも悪いこともあると思うが、自分として育成チームの方がいいかもしれないと感じつつあったのである。
サッカーが嫌いになったとか、退部したいとか思っていたわけでは決してない。むしろ、自分の目標と照らし合わせた時に、このままAチームで苦しくもがいているよりはいっそのこと育成チームで初心にかえった方が未来があるのではないか、とうっすら感じてしまっていた。Aチームと育成チームでプレーすることには、それぞれ良いことも悪いこともあると思うが、自分として育成チームの方がいいかもしれないと感じつつあったのである。
こんな姿勢であったから、周りで本気でプレーする人たちには大変迷惑をかけてしまい、申し訳なく思っている。指導陣にカテゴリー変更を直訴してしまっても良かったが、Aチームにいることで得られる可能性を捨て切ることもできない状態だった。
実際に自分の姿勢を指摘されてから、せめて本気でやっている人の邪魔にはならないようにしなければならない、となんとか自分を繋ぎとめ続けた。
実際に自分の姿勢を指摘されてから、せめて本気でやっている人の邪魔にはならないようにしなければならない、となんとか自分を繋ぎとめ続けた。
当然の帰結として、僕は4月の最終週に育成チームに降格した。
相当サッカーに向き合う姿勢が良くなかったので、今回限りは上で言っていたサイクルによるモチベーションアップは起こらなかった。むしろ、育成チームという安全地帯に来られて良かった、と安心しさえした。
相当サッカーに向き合う姿勢が良くなかったので、今回限りは上で言っていたサイクルによるモチベーションアップは起こらなかった。むしろ、育成チームという安全地帯に来られて良かった、と安心しさえした。
育成に落ちた直後の週は、マッチメイクの都合でセカンドと育成が一緒にトレーニングマッチに挑むなど、Aの選手とのプレー機会があって、いいアクセントになっていた。
また、その次の週のサタデーリーグも、相手がそれなりに強く、自分もそれに触発されて良いプレーができていた。試合前にゲームキャプテンに任命されたことも関係していたかもしれない。全体的に育成チームの良さを享受しながら活動していた。
また、その次の週のサタデーリーグも、相手がそれなりに強く、自分もそれに触発されて良いプレーができていた。試合前にゲームキャプテンに任命されたことも関係していたかもしれない。全体的に育成チームの良さを享受しながら活動していた。
自分のア式生活の転換点となったのも、この5/11のサタデーリーグだった。
前半の折り返しくらい、最終ラインを引き上げるための方向転換に右足を踏ん張った瞬間、接触とかをしたわけではないのに膝がガクンとなった、ような気がした。
が、調子は良かったし、違和感もなく走れていたのでそのまま出場し、無事にハーフタイムを迎えた。
が、調子は良かったし、違和感もなく走れていたのでそのまま出場し、無事にハーフタイムを迎えた。
後半開始前、入念にグリコサミン体操をして、ひざの不安感が特にないことを確認し、ピッチに入った。(すでに靭帯が緩んでいたかもしれないと考えると、逆効果であっただろうと今は思う)
そのまま問題なくプレーを続け、膝のことが頭から離れてきた頃に、相手のロングボールが飛んできた。相手のフォワードが自分を背走していたので、一旦ボールを後ろに隠した。
ターンをして深さをとった味方にパスしようとした時、僕は膝から崩れ落ちた。
ターンをして深さをとった味方にパスしようとした時、僕は膝から崩れ落ちた。
あ、立てないわ、これ。
サッカーを始めてから、転んでもすぐに立つという基本を大切にしてきた自分だったが、この時だけは立てなかった。立とうと思えなかった。
プレーがきれ、5メートルほどのピッチ脇までなんとか移動した。
目の前で徹さんが見ていたようで、相手の足に引っかかったんでしょ、的なことを言われたが、違うんです、ただの自爆なんです、と心の声で返答した。(家に帰った後、怪我をしたシーンの映像を見せた時、ただの自爆じゃん笑、となんの気遣いもなく笑ってきた母・妹もどうかと思うが)
目の前で徹さんが見ていたようで、相手の足に引っかかったんでしょ、的なことを言われたが、違うんです、ただの自爆なんです、と心の声で返答した。(家に帰った後、怪我をしたシーンの映像を見せた時、ただの自爆じゃん笑、となんの気遣いもなく笑ってきた母・妹もどうかと思うが)
その後、サポートを受けながら東大病院に向かい、詳しい診察は後日行うということで、連絡を受けた父親の運転で帰宅した。
こんなわけで右膝前十字靭帯を怪我したわけだが、多くのプレーヤーが陥るような悲観的状態に、僕はならなかった。
サッカーに対して前向きに取り組めていなかった時期だったから、「あ〜、合法的に(?)サッカーから離れられるな」というのが正直な第一印象だった。(診断結果を伝えられる時も、先生があんなに言いにくそうな表情で長期離脱の必要性を伝えてくださったのに、僕のほうは特に落ち込むことはなく、すんなりと聞くことができてしまっていた)
サッカーに対して前向きに取り組めていなかった時期だったから、「あ〜、合法的に(?)サッカーから離れられるな」というのが正直な第一印象だった。(診断結果を伝えられる時も、先生があんなに言いにくそうな表情で長期離脱の必要性を伝えてくださったのに、僕のほうは特に落ち込むことはなく、すんなりと聞くことができてしまっていた)
では退部という形でそのままサッカーから離れてしまおうと思ったかというと、実はそうでもなかった。自分でも不思議なことではあったが、自分のメンタルを心配して話しかけてきてくれた人たちの一抹の不安とは裏腹に、本当に1ミリも、退部したいと思うことはなかった。サッカーが嫌いになったというよりは、下手な自分に打ちのめされてしまうことに嫌気が差してしまっていただけだったから、サッカーは好きなままであったし、下手な自分を突きつけられることがないままにより良いプレーに向けてフィジカルや戦術理解の向上に集中できる境遇は、自分にとって天国とさえ言えるようなものであった。
だから、手術前後の期間(6月中旬くらいから8月初旬まで)に一旦休部させていただくことはあったものの、プレーができなくても練習には顔を出し続けたし、手術前後のリハビリにも懸命に取り組んだ。
だから、手術前後の期間(6月中旬くらいから8月初旬まで)に一旦休部させていただくことはあったものの、プレーができなくても練習には顔を出し続けたし、手術前後のリハビリにも懸命に取り組んだ。
先輩からリハビリ期間の重要性をたくさん伝えられたり、これまで共にプレーしてきていた仲間が徐々にピッチでの活躍の場を広げていったりしたことなど、自分のモチベーションを引き上げてくれる存在がたくさんあったのは大変ありがたかった。
これらの存在の中でも、とりわけ転換的なものであったと思い出されるのは、2つ上のテクOBである。9月くらいにいつも通りリハビリに励もうとグラウンドに向かった時、赤いウェアを着たとりわけがっしりしたプレーヤーがいた。はじめは外部からきたゲストなのかな、くらいに思っていたが、周りの話を聞くにどうやらOBが来ているらしかった。現役のころはどちらかというと細身体型であった人が、いつの間にがっしり体型になったのだと驚嘆し、感動した。気づいたら僕はその人に話しかけにいっていて、トレーニング習慣について質問攻めにしていた。これが、フィジカル強化にブーストがかけられた日となった。
これらの存在の中でも、とりわけ転換的なものであったと思い出されるのは、2つ上のテクOBである。9月くらいにいつも通りリハビリに励もうとグラウンドに向かった時、赤いウェアを着たとりわけがっしりしたプレーヤーがいた。はじめは外部からきたゲストなのかな、くらいに思っていたが、周りの話を聞くにどうやらOBが来ているらしかった。現役のころはどちらかというと細身体型であった人が、いつの間にがっしり体型になったのだと驚嘆し、感動した。気づいたら僕はその人に話しかけにいっていて、トレーニング習慣について質問攻めにしていた。これが、フィジカル強化にブーストがかけられた日となった。
冬オフに入っても、リハビリ・トレーニング熱は全く冷めず、これまでの冬オフのそれとは打って変わって2〜3日に1回は部室に足を運んで筋トレをし、オフ前と同じ頻度で月曜日以外はラントレを継続した。オフ明けに少しでも自分の変貌で久しぶりにあった周囲の人たちを驚かせたかったので、みんなと会いにくいタイミングで部室に行ったり、ア式にはユーザーが多分いないと思われた駒場のトラックで走ったりした。一緒に走ることはなかったが、お互いの存在は認知しあっていたのではないかと思われる、あの青いジャージのおじさんは今も駒場のトラックを駆けているのだろうか。
そして、自分のリハビリ・トレーニング熱を最高潮に引き上げたのが、始動後にチームに来てくださった新トレーナーの存在であった。
始動当時、育成チームにはDLが僕しかいなかったので、マンツーマンでリハビリを見てもらっていたのだが、怪我前よりも良い状態で復帰するという目標を掲げることを可能にし、その実現に向けて最大限のサポートをしていただいた。
中には、そんなことまでやっちゃっていいのか、と心配になるメニューもあったが、最大限慎重に、でも最大限に全力で取り組むことができた。
始動当時、育成チームにはDLが僕しかいなかったので、マンツーマンでリハビリを見てもらっていたのだが、怪我前よりも良い状態で復帰するという目標を掲げることを可能にし、その実現に向けて最大限のサポートをしていただいた。
中には、そんなことまでやっちゃっていいのか、と心配になるメニューもあったが、最大限慎重に、でも最大限に全力で取り組むことができた。
こうした過程を経て、9月ごろにはジョギングもできなかった状態から、11月ごろには長距離走が、年明けにはダッシュが、春にはリフティングやパスができるようになっていった。
徐々に復帰への道筋が見えてきたことに希望を抱きつつ、焦りや不安も少なからず感じていた。怪我前と全く同様の感覚でプレーすることはできないだろうし、チームのトレーニングの様子を見るに、今混ざったところで怪我をしてしまう強度だなと感じていたからである。また、リーグ戦出場に向けて当初はアミノくらいまでに復帰しておきたいと思っていたが、結局はリーグ戦開幕にも間に合わないスケジュール感だったのも大きかった。
徐々に復帰への道筋が見えてきたことに希望を抱きつつ、焦りや不安も少なからず感じていた。怪我前と全く同様の感覚でプレーすることはできないだろうし、チームのトレーニングの様子を見るに、今混ざったところで怪我をしてしまう強度だなと感じていたからである。また、リーグ戦出場に向けて当初はアミノくらいまでに復帰しておきたいと思っていたが、結局はリーグ戦開幕にも間に合わないスケジュール感だったのも大きかった。
このような形で、希望と不安を抱きつつ終えたのが三年目だった。
四年生
四年目は、文字通りア式を中心とする生活だった。
授業のない日も増え、あと半年で引退となった以上、できる限りのケアをして再びの怪我による離脱を避けたいと思うようになり、自然とサッカーに費やす時間が増えていった。
授業のない日も増え、あと半年で引退となった以上、できる限りのケアをして再びの怪我による離脱を避けたいと思うようになり、自然とサッカーに費やす時間が増えていった。
新入生練習の始まる4月の終わりから5月の頭ごろの時期に、一部メニューではあるが全体トレーニングへの合流が始まった。
強度としては抑えめであった新入生練習は、僕にとって参加しやすいものであったので何度か混ざらせてもらった。自分の調子を無理のない環境の中で確認できただけでなく、他の上級生プレーヤーと比べても早くから新入生とコミュニケーションの機会を持てたのは非常に幸運なことだったと思う。
強度としては抑えめであった新入生練習は、僕にとって参加しやすいものであったので何度か混ざらせてもらった。自分の調子を無理のない環境の中で確認できただけでなく、他の上級生プレーヤーと比べても早くから新入生とコミュニケーションの機会を持てたのは非常に幸運なことだったと思う。
新二年生のプレーヤーとは一緒にプレーをしたことがないどころか自身のプレーを見てもらったこともほとんどなかったため、僕がどんなプレーをするのか楽しみです、的なことを複数回言われるようになった。僕は、そんなに上手いわけじゃないから期待しないでね、とは言いつつも良いプレーを見せたいと内心燃えていた。
しかし、合流初期の頃は全く調子が上がらず、ロンドに参加しても鬼になっては回され、ボールが来ては失うという悲惨な有り様だった。わかっていたつもりではあったが、以前は乗り越えられていた水準につまずいてしまっている状態から抜け出すことは非常に難しく、辛いことであった。トレーナー陣を中心とする励ましになんとか勇気づけられ、頑張る日々が続いた。
しかし、1ヶ月くらい続けていると、徐々にコンディションが上がってきているのがわかった。5/31には1年ぶりとなる対外試合(vs高校生)への15分の出場を果たした。自身のスマホの写真アプリには、この試合前の広報用のスタメン写真を中心に、紅白戦での良かったプレーのスクリーンショットや練習でのうまくいったシーンなど、この時期の活動に関する写真・動画がたくさん残っている。改めてプレーできることの喜びを噛み締められたことの現れとしてこれらの素材があり、これまで消去することはなかった。iCloudの容量不足の危機にある今でも大切なものであり、多分今後もしばらくはそのまま残すことになるだろう。
これらの素材の中で特に印象的なものが二つ。
一つ目は、6/7の横国との試合でのワンシーン。後半30分に途中出場したことを映すこの動画は、復帰後初めて公式戦(国公立リーグ)に出場した場面になっており、自身にとって重要な軌跡の一つである。久しぶりの出場で緊張しているのか、明らかに落ち着きのない様子が伝わってきて面白い。
二つ目は、同じく6/7の試合でのワンシーン。試合終盤にサイドを駆け上がった自分に最終ラインからの綺麗なビルドアップを経たパスがやってきて、それをゴール前まで運んだ後に左足でシュートを放つ。そのボールは味方に当たって軌道を変えたのち、ゴールに吸い込まれる。すっきりしない感じで喜ぶ自分や得点に舞い上がるチームメイト、ベンチで抱き合う指導陣など、良い思い出を映していながら見ていて面白い動画である。
一つ目は、6/7の横国との試合でのワンシーン。後半30分に途中出場したことを映すこの動画は、復帰後初めて公式戦(国公立リーグ)に出場した場面になっており、自身にとって重要な軌跡の一つである。久しぶりの出場で緊張しているのか、明らかに落ち着きのない様子が伝わってきて面白い。
二つ目は、同じく6/7の試合でのワンシーン。試合終盤にサイドを駆け上がった自分に最終ラインからの綺麗なビルドアップを経たパスがやってきて、それをゴール前まで運んだ後に左足でシュートを放つ。そのボールは味方に当たって軌道を変えたのち、ゴールに吸い込まれる。すっきりしない感じで喜ぶ自分や得点に舞い上がるチームメイト、ベンチで抱き合う指導陣など、良い思い出を映していながら見ていて面白い動画である。
こんな形で着実にコンディションを整えていければ良かったが、6月中旬から終盤にかけて就活の最終面接期間が山場を迎え、この時だけはどうしてもサッカーに費やす時間が減ってしまった。アピール時間の確保も難しくなってしまったまま、7月頭の夏オフに突入した。
夏オフ明け、B2からの再スタートだった。正直自身の置かれた場所には驚きを抱いたが、やるしかないと気持ちを前向きにして取り組んだ。この時期になると双青戦が意識されるようになってきて、自分としても奮起しないわけにはいかなかった。育成の選手にとって貴重なアピールの機会になることをそれまでの経験から痛いほどわかっており、引退までにリーグ戦での出場を目指すのであればほとんどラストチャンスになると考えたからである。
もう一つ、双青戦に向けて自分を奮い立たせる要因があった。父が双青戦を観に行くと言ってきたことであった。大学入学以来、一度も自分のプレーを生で見せられていなかった人に、怪我を通して自分がどのように立ち上がってきたのかをプレーで示せるまたこれとないチャンスに、自然と力が入った。小中学校の頃はあんなにも自分のプレーを見て欲しくないと思っていた人に、自分のプレーを見せてやりたいと思うようになった自分の成長を不思議に思いつつ、一つでも上のカテゴリーで双青戦に出場したい、と強く思った。
その後の数週間、僕は快進撃を見せた。週末の対外試合で良いパフォーマスを更新し続け、週単位でB2→B1(の新入り)→B1(のスタメン)とのし上がっていった。コンディションが良かったことは周りもわかっていたようで、各方面から復帰後一番のパフォーマンスだとの声をかけられた。
その結果、双青戦の数日前の練習はAチームに帯同することになった。その日は、本当にこれがラストチャンスだという気持ちで、ただ自分の全力を出すことに集中してプレーした。必ずしも通用していたわけではなかったが、全くやれなかったわけでもなく、望みを持ち続けて双青戦に臨むことになった。
双青戦当日、僕は二軍戦に出場することになった。チームとしての戦績は決して良くはなかったが、カテゴリーを問わないチーム関係者に、父に、自分の全てを見せるだけのパフォーマンスをすることができた。
翌日の夜、カテゴリー移動の通知が飛んできて、次週からAチームで活動できることになった。それを知った時は、周りに同期がたくさんいたので少し嬉しさを表すくらいにしていたが、内心は発狂しそうなくらい嬉しかった。嬉しすぎて、Slackで流されたそのメッセージをスクショしてしまった(これも今後しばらくは消すことがないだろう)。リアクション機能でたくさんの人が祝福・応援してくれていることもわかり、気持ちを新たにAチームでの活動に向けて準備を進めた。
これからの事の顛末としては、皆さんがご存知の通りである。一瞬、リーグ戦への出場が見えた時期もあったが、最後の最後でチャンスを掴めなかった。
結局、入部当初に掲げた目標は達成されないままに終わってしまい悔しさは感じたが、最後の一年、特に数ヶ月はア式での活動に全てをかけて取り組んだから後悔はなかった。
結局、入部当初に掲げた目標は達成されないままに終わってしまい悔しさは感じたが、最後の一年、特に数ヶ月はア式での活動に全てをかけて取り組んだから後悔はなかった。
以上のことを思いながら活動した自身が引退を迎えた時、一番冒頭に記したような考えが浮かんできたということである。
一点補足しておくとすれば、「怪我に救われた」箇所であろうか。ここまで読んできて、怪我をしていなかったらもっと活躍の場を広げられていたんじゃないか、と思った人、もしくは僕のこれまでを知っていてそう思っている人もいるのではないかと考えたからである。しかし、これに限っては、怪我をしていなかったからといって好転するようなことでもなかったと思う。むしろ、怪我をしていなかったら、退部やサッカーから離れるという選択肢がいつかの時期により現実味を帯びてきて、もっと悪い結末になっていただろう。もちろん、世の中には怪我や故障によって道筋を断たれてしまったスポーツ選手もたくさんいると思うため、怪我をして良かったと言ったり、怪我に対して全肯定的に捉えたりはしていないし、そこは誤解してほしくない部分である。しかし、それでも、怪我に救われ生かされたというのは、自分にとってはとてもありがたいことであった。
以上が、ア式を中心とする大学4年の10月までに僕が考えてきたことである。
ちなみに、現役時の長い1日を繰り返す生活とは打って変わって、引退後は過ぎ去るのが早い日々を過ごしている。サッカーへの紛らわしになると思ってできていなかった遠出をたくさん行なって、執筆をしている時点(11月末)までだけでも北海道や広島、秩父、茨城、外房などに足を運んだ。
今後も、卒論には抜かりなく取り組みつつ、残された学生生活を最大限に楽しめればと思う。
今後も、卒論には抜かりなく取り組みつつ、残された学生生活を最大限に楽しめればと思う。
最後に、これまで支えてくださった多くの方々への感謝を述べたいと思います。
まず、先輩・同期・後輩を問わず自分と関わってくださったア式関係者のみなさま。今回のfeelingsでは、特例を除いてチームの限定的な誰かに関するエピソードを取り上げるのを避けました。そうしてしまうと、取り上げられなかった方々への感謝の気持ちを表すのが難しくなってしまうと感じたからです。僕のア式での道筋立てに方向性をそれぞれのプレーや活動、会話で示してくださった皆さんには本当に感謝しています。自分が勝手に支えられに行っていただけかもしれませんが、改めてこれまでありがとうございました。
次に、幼稚園・小学校・中学校・高校でのサッカー生活で自分と関わってくださったみなさま。今回のfeelingsでは大学での活動についてまとめることに注力したため、それ以前の活動について触れることができませんでしたが、それぞれの時期に指導してくださったり、一緒に目標を追いかけてくれたりした方々の助けなしに、ここまで濃度の高い大学生活を送ることはできませんでした。頻度の多寡はありますが、これまで続けさせていただいているご縁をこれからも大切にしていきたいと思っていますので、引き続きよろしくお願いします。
最後に、家族のみんな。サッカーである・ないにかかわらず、これまで支えてくれてありがとうございました。年齢が上がるにつれて、面と向かった気持ちの伝え合いが照れ臭くなることも増えてきたとは思うけど、今も変わらずに支えてくれていることはわかっているつもりです。プレイヤー生活の締めくくりという点では有終の美という形で感謝を伝えることはできなかったけど、僕の取り組みでみんなに何か与えられたことが少しでもあれば幸いです。無理のきく今の時期に、伝えられるありったけの感謝は伝えていければと思うので、これからもよろしくお願いします。
以上をもって、僕の大学生活の、特にサッカーに関する部分の、軌跡としたいと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
馬屋原 翔
コメント
コメントを投稿