投稿

導かれて

堀之口倭(1年/MF/江戸川学園取手高校) 東大ア式に入部して、およそ半年が経 った 。 ア式には、 充実した 環境と整備された体制 が ある。この部活に所属できていることを、誇りに思う。 今の自分には、技術・フィジカル・戦術理解、どれも不足している。すべてにおいて強化 を図らなければならない。加えて、怪我がちな身体 に、 気にしいな 性格 . . . 。 正直、課題 は山積み 。 それでも、素晴らしい同期たちや先輩方に 揉まれながら 、毎日の練習に励んでいる。勉強 と部活で埋め尽くされる生活 。 これは、自分にとって理想的な日常である。 ふと考え てみ る。 これまでの自分の人生で、 何 が自分をこの生活 へと 導いたのだろうか 。 これを 機に 、 少し 振り返ってみたい まず、サッカーを始め てい なければ、 ここにはたどり 着いていないだろう。 5 歳からロンドンに住 みはじめた 。 引っ越してからすぐ、友達に誘われてサッカーを始め た。 父は野球畑の人だった から、 もし日本にいたままだったら 、 サッカーをやっていなか ったかもしれない。 一方で、 5 年間もイギリスに住んでいたにもかかわらず、英語はほとんど話せない。通っ ていたのが日本人学校だったから。現地校やインターナショナルスクールに通っていた ら、今ごろは英語をペラペラに話せていたかもしれない。 結局、 英語力が 一番 伸びたの は、 高 3 の 受験 期 。 ただ、もしあのとき現地校に通うという選択をしていたら、おそらく自分は東大には来て いない。 そう考えると、あの頃 の自分がした選択は正解だったな、と思う 。 10 歳 で日本に帰国した。 帰国してからの 2 年間は、今振り返ると、どこかぼんやりと過ごしていたように思う。な んとなく塾に通い、少年団でサッカーをして、友達と遊ぶ。そんな日々を過ごし、中学受 験も「一応」というくらいの気持ちで臨んだ。 そして、唯一受験した江戸川学園取手中学校に入学した。 入学後 、サッカー部に入った。 江戸取は、いわゆるスポーツ強豪校ではない。一定程度の進学校という位置づけだろう か 。 そんな環境の中で、自分がサッカー をより好きになったのは 、一つ上の先輩たちの存 在が大 きかった。 先輩たちは、とにかく上手かった。 中学の新人戦や総体では、スタメンで出る...

無力

 沖原凜久(1年/テクニカル/湘南高校) 初めまして。テクニカル1年の沖原凜久です。高校生の時から読んでいたfeelingsを自分が書くというのはとても違和感がありますが、この機会に今までのサッカー人生とア式での半年間を振り返ってみたいと思います。昔からスカしてしまいがちなので、こういうパーソナルな感情を文章にして曝け出すのは非常に苦手なのですが、最後まで読んでいただけると幸いです。 2006年5月3日、神奈川県の都会とも田舎とも言い難い町に生まれた僕は物心がつくや否や、のちの人生の大部分を占めることになるサッカーと出会った。きっかけは年少の頃の先生が熱心なサムライブルーのファンだったからだそうで、それに出会ってからというもの平日は園庭で、休日はサッカー未経験の父を公園に連れ出して無我夢中でボールを追いかける日々だった。 そのため当然のように小学校に入学すると同時に地元の少年団に入団した。この少年団はお世辞にも強いとは言えなかったが僕の学年は20人以上が入団し、そこそこ有望な代だったと今になって思う。 僕はというと周りより少しだけ歴が長いというアドバンテージがあったのと足が速かったのもあってチームの中では一二を争うくらいには上手かった。(余談だが、この頃掛け持ちしていたスクールで以降ずっと先輩となる野澤さんと出会う。)したがってこの頃は僕も例に漏れずプロサッカー選手になることを志していた。丁度ロシアW杯があったのもあり、卒業文集には『選手と監督の両方でW杯で優勝したいです』などと恥ずかしげもなく将来の夢を宣言した記憶がある。ここまでは順風満帆なサッカー人生だったと思う。 中学校ではクラブチームに行く選択肢もあったが地元の中学校のサッカー部が強かったこともあり、少年団の仲間と部活でサッカーを続けることを選んだ。この部活にはリフティングテスト(合格するまでスパイク履けない+試合出られない)なるものが存在したが少年団時代からの対策もあって数日で合格することができた。この時くらいまでは中学でも今まで同様にやっていけると思っていた。 まったくもってそんなことはなかった。 中一の2月頃、コロナウイルスがやってきた。丁度この頃、明らかに僕は伸び悩んでいた。理由はいくつも考えられた。サッカー歴の長さだけでは通用しなくなったから。シンプルにフィジカルがどんどん周りに追い抜かれ...

今までのこと

坂口洋太(1年/DF/高卒認定) はじめまして。1年プレーヤーの坂口洋太です。中学時代からザーッと振り返ってみようと思います。 中学時代 中学では鹿児島ユナイテッドFC U-15に入った。小学生の頃からコツコツした練習が嫌いで、技術より身体の大きさでどうにかしてきた。セレクションも、すでに168cmあった身体と得意の直進ドリブルでゴールを量産して合格してしまった。 同期のほとんどは自分より上のカテゴリーのトレセンに選ばれていたので、厳しい3年間になるだろうなとは思っていた。とにかく声を出して、走って、闘う気持ちを見せようとした。普通はそこで技術を埋めるために自主練をするのだろうが、自分はやっぱりしなかった。 やる気を見せていたからか、Aチームの練習に参加したり、大会でベンチ入りさせてもらったりした。でも何もできず、練習の質を下げているのが申し訳なかった。それでも何かを変えようと動くわけではなかった。時間もチャンスもあったのに、もったいないことをしたと思う。 中2になると、自分たちより上手い後輩が入ってきた。彼らは後にクラブユースの九州大会で準優勝する。紅白戦では普通にボコされていた。夏頃までは3年生の試合に出させてもらっていたが、その後は1年生にポジションを取られ、Aチームの試合にはほとんど出なくなった。 同期の遅刻や忘れ物も増え、素行もプレーも悪い最悪の世代と言われるようになった。練習や試合に行くのが楽しくなくなった。いつからかボールに触ることまで怖くなった。ミスをしたくなくて、とにかく目立たないようにキーパーに返すか、ロングキックで飛ばすかしていた。 そんな状態で、代替わり後は消去法でキャプテンになった。チームの雰囲気を締めることも、プレーで活気づけることもできなかった。 中3の夏、ユース昇格の面談で保留を言い渡された。ずっとサッカーをしてきたから、将来の夢はプロサッカー選手と言っていた。でも、上手くなるための努力をしているわけでも、サッカーを観てワクワクしているわけでもなかった。この状態でサッカーのためだけに高校へ行っても仕方がないと思い、2回目の面談を前に辞退した。最後の大会も1回戦であっけなく負けて、もうサッカーはやらなくていいかなと思った。 ここまで読んでもらえば分かると思うが、ジュニアユース出身でキャプテンだったからといって、全然上手くない。 勉強は英...

省エネ

島本悠馬(1年/FW/日比谷高校) はじめまして、プレイヤー1年島本悠馬と申します。執筆は苦手で拙いものになるとは思われますが、1回目のfeelingsということで、自分がア式とどういった向き合い方をしていこうと考えているかを書いていこうと思いますので軽い気持ちで読んでいただけると幸いです。 振り返ってみると自分は生涯省エネで生きてきたのだと思う。サッカーも受験も他のことも。常にその瞬間を乗り切るために必要なだけ頑張ってそれ以上は何もしない、それの繰り返しだった。先のことは考えずにその一瞬を乗り切ればいいと思っていた。容量が良かったのもあるだろうが、それでなんとかなってきてしまった。 受験において自分は大きなアドバンテージを持っていた。海外で過ごした期間で培った英語力だ。よくセコいと言われるし、正直自分もそう思う。アドバンテージがあればさぞ余裕をもった点数で受かったのであろうと思う人もいるのだろうが、割とギリギリだった。これも全て省エネで乗り切ろうとしたせいなのだと考える。合格するギリギリの点数に届く分の努力しかできなかった。模試で芳しくない点数をとって大いに焦った瞬間もあったが、それもなんとかギリギリ受かるのではないのかと思えた途端に手を抜いてしまった。 サッカー人生においても似たようなことがいえる。年中でサッカーを始めて、体格のせいかはじめはキーパーだった。通っていた幼稚園には小学生までやっているサッカーチームがあってそこに所属していた。かなり強いチームでカテゴリーもあったが、ドイツに行く小4までAチームのスタメンをずっと張ることができた。ただ、そこでしていたことは無心で提示されたことをやるだけだった。早めに始めたことや体格のアドバンテージもあって、それだけでなんとかAチームに居続けられたからだ。そこから、転々といろんなチームでプレーしてきたが、どこも自分ががむしゃらに努力しないとスタメンでプレーできないというようなチームではなかった。挑戦をしなかったのだ。 一旦ここでなぜア式に入ったのかを説明すると、堕落した大学生活を回避したかったからだ。ア式に入っていなければ省エネどころか一切のエネルギーを消費しない生活を送っていただろう。 ア式に入ったタイミングでは、もちろん周りのレベルは高いが、今まで通り適度に頑張っていればどうにかなるだろうと考えていたが、入ってすぐそ...

劣等感/努力/新しい自分

山本一瑳(1年/FW/開成高校) 私の人生における選択、行動は結局のところ、コンプレックスの反動なのかもしれない。自らに根付いた強い劣等感が私を縛っているのだ。 幼稚園 サッカーを始める。公園で球を蹴っている小学生が楽しそうだったのと、そいつらに負けたくなかったのが動機だ。早く生まれた分、他の子より体は大きく身体能力も高かったので当然サッカーも上手いほうだった。 小学生 土日は少年団に行き、平日は公園で3個上のやつらとずっとサッカーをした。空いてる時間は壁打ちをしていた。私のいた少年団は地区でも最弱候補、負けては私は号泣しボールに当たり散らかした。 私の次に上手いやつらが一人また一人と辞めていった。小四で監督から選抜チームに推薦の話を貰った。セレクションを受けて、合格。そこからは土日平日選抜のほうの練習に出た。体が大きいわけでも足が速いわけでもなかったが、正直上手いほうだった。練習試合はいつもJクラブのジュニアか強豪街クラブだった。海外遠征も経験した。自分の力がより広く通用していくのが楽しかった。ここが人生の最高到達点だ。 怪我をして戻ってきた自分にもう特別な何かは残ってなかった。相手が抜けなかった。シュートが入らなかった。前を見ても目の前の敵が見えるだけ。ボールを持つのが怖かった。何より、努力の仕方を知らなかった。甘やかされて育てられ、ストレスに晒され耐える術を持たなかった。怒鳴ってくるコーチが嫌いだった。当然ベンチ。この頃にはもう負けても泣くことはなかった。サッカーは自分の中で人生をかける価値のあるものではなくなっていた。 私の代はチームの歴史的に見てもかなり強い代だった。県1部リーグは二連覇した。私達はは当然県優勝を目標にした、県ベスト16。全員まあ勝てるだろうと思っていた。リーグ戦勝ってるし。直前の大会でも勝ってるし。 普通に負けた。170cmのCFに決められ相手のゴールをこじ開けられなかった。私はベンチで眺めていた。ざまあみろと思った。俺がいたら勝ってんねん。チームはぬるっと解散した。 私は少年団に戻った。卒団大会は人数が足りなく近所のチームと合同で出場したところ、今まで勝てたこともないチームに勝ち続け地区で準優勝した。私はこういうのでいいんだよ、と思った。これくらいでいいんだよ、と思った。これが自分の弱さなのに。 少年団の仲間はサッカーを辞めるやつが多か...

Connecting the dots

水澤克(1年/テクニカル/春日部高校) 2025 年 10 月 12 日 ― 奇しくも俺の 18 回目の誕生日 ― この日、高校サッカー生活が終わった。選手権の 2 次予選 1 回戦だった。相手は格上で、結果的には 1-4 で敗北したが間違いなくいい試合だったし、心が動かされる試合だった。かく言う俺は試合終了の笛が鳴った時、応援側にいた。自分の実力的にメンバー外なことに異論はなかった。 思えばこれまでのサッカー人生で不動のスタメンになったことなどない。小学校のときは地元のサッカースクールでサッカーをし、一応小6ではキャプテンを務めたが、チームの絶対的な存在ではなかった。(そもそもキャプテンに選ばれた理由も真面目だからというだけである) その後、中学受験などはせずに地元の公立中学校に進み、当たり前のようにサッカー部に入った。サッカー部の同期は 20 人だった。これは自分の代の前後を見ても多い人数だ。同期にこれだけの人数がいるということは、中 3 になってもスタメンになれない、ましてやメンバーに入れない人がいるということだ。俺はその戦いに勝てなかった。最後の大会のメンバーには選ばれたものの、ほとんど試合には出られなかった。 そして、高校受験を経て春日部高校(以下、春高「かすこう」)に入学した。迷うことなく、半ば惰性でサッカー部に入った。入部時には高 3 の秋まで部活が続くことを顧問から脅されたが、その覚悟はあった。同期は34人(受験勉強を理由に退部者が出たが、それでも引退時に 31 人)。中学時代よりも厳しいメンバー争いだった。またしても俺はメンバー争いに勝てなかった。高 1 のとき U16 のリーグ戦で 1 回スタメン出場したが、それ以外はほとんど A チームに絡めなかった。そんな状態で 3 年間を過ごし、冒頭で書いた選手権まで時は流れた。 ここまで見たように、俺のサッカー人生は悔しい思いしかない。同期の人数が多くて運が悪かったと言ってしまえばそれまでであるが、それでも不甲斐ないサッカー人生だ。実際、部活をやめようと思ったこともあったし、選手権の敗北後に流した涙は試合に負けた悔しさや引退することの悲しさはもちろんあったが、それ以上に 1 度も満足のいく結果を残せなかった自分のサッカー人生に対する悔しさ、無力感から来たもののほうが大きい。...

成り行き

 磯貝泰成(1年/GK/海城高校) 中田さんからの「今までのサッカー人生の振り返りという内容のfeelingsは見飽きたから、何でもいいから面白いものを書け。」という無言?の圧を跳ね除け、無難にこれまでのサッカー歴と、ア式に入った経緯を書き連ねることを決意した。 小学校: サッカーが一番かっこいいスポーツ(と思っていた)という理由から、小学校チームに入団。決して強いチームではなく、試合にもあまり勝っていなかったが、純粋にサッカーが楽しくてサッカーをやっていた。最初はFPだったが、小3くらいでGKの子がチームを去ったため、GKに転向。 小学生ながら、自分はプロになれるような人間ではないことを理解しており、中学に上がったらサッカーをやめてしまうかもなあと思っていた(気がする)。 高学年になると、家から近い&兄が通っているという理由から海城中学を志望し、小6夏ごろまでサッカーもやりつつ、中学受験のためのお勉強をそこそこ頑張っていた。 中学校: 無事合格&海城サッカー部入部。自分は人見知りだったし、サッカー上手いガキ特有の攻撃的な目が苦手だったため入部するか迷っていたが、なんやかんや入部した(体験練習で新入生の中で自分が一番太っていることに気づき、入部する気がちょっと失せた)。 中学時代は個人としてもチームとしても割とずっと真面目にやっていたと記憶しているものの、目標としていた都大会出場は、新人戦・総体ともにあと一歩のところでかなわず、不完全燃焼感を抱えて中学サッカーを終えたと記憶している。 ちなみに中3の12月、体重は90kg台に突入していた。 高校: 中学時代、自分の代で何の成績も残せなかったからか、高校に入った自分は「自分の代で良い成績を残す」ことにこだわっていたし、爪痕を残さなければ単なる「数ある代のうちの一つ」に過ぎなくなってしまうという焦りを感じていた(顧問にこの焦りを植え付けられていた気もする)。 また、高校入学直前に、パフォーマンス向上・モテたいなどの理由からダイエットを決意した。 高一: 1個上の代の試合で出場機会を得ていたのはいいものの、この一年間は大会でもリーグ戦でもなかなか勝てなかった。特にリーグ戦で勝った記憶はない。 正直、負け続ける現実から逃げるように、「1個上の代だから〜」「自分の代でこの敗北を糧にすれば〜」という言い訳・甘えが常に脳裏...