山里亮太イズム
大学生になってから3年という時間が経過しようとしている。いま僕の中の大きな部分を占める感情はある種の諦めである。
この諦めという表現が一般的な意味のそれと一致しているか、そしてチームを率いる立場として適切であるかはわからないが、自分の中では一番しっくりくる言葉だ。
経済学部に進学すること。
英語を話せるようになること。
中国語を話せるようになること。
自炊すること。
毎朝7時に起きること。
週に1本映画を見ること。
エクセルを使いこなせるようになること。
関東昇格。
東京都一部リーグの最優秀選手になること。
カフェのかわいい店員さんに話しかけること。
これらは大学生になってから現在までで、自分がやろうと決意したが実現できなかったことのリストである。もちろんこれ以外にもたくさんある。誰でも数分考えれば10個程度は列挙することができると思う。
僕の場合、これらができなかった原因はいずれについても同じで、自らの内から出てくるエネルギーの圧倒的な不足である。やろうと思ってからしばらくは持続しても、もしくはある程度の成果を得ても、時間が経つと自らを突き動かしていた衝動は縮小し、目標を達成するより前に挫折する。終いには挫折の要因を外的な要素に帰すことでその一件を落着させようとする。
自分にはできると盲信し、幾度となくそれが過信であると気づかされるうちに、自分の限界というものを無意識のうちに自覚させられる。悲しいかなこれが大人になるということなのかもしれない。
これが僕の中にある諦めという感情の少し詳しい説明である。
話はガラリと変わる。
人が前進するための方法は2つしかないと思う。
(そもそも前進しようとしないという選択も人生を楽しむ上では賢いものだと思うが、自分はどちらかというと前進することの方に魅力を感じる性質を持っている。)
一つ目は自分で動くことだ。
これは、自分の中に強い意志を持ち、それによって自分の行動を決定していくということである。それができる人間はおそらく多くはないが確実にいる。
僕は中高と私立の進学校に通っていたので、サッカー部は決して強くはなかったし、意識が高い部活でもなかったが、とある同期部員は毎朝、毎昼休み、毎放課後にグラウンドに出て練習をして神奈川県の国体選手に選ばれていた。
彼は能力も高く得られた成果も大きかったが、能力の高い低いもしくは得られる成果の大きい小さいに関わらず、このようなプロセスをへて成長できる人間は心の底から尊敬できる。
二つ目は外的な力で動かしてもらうことだ。
これは、自分の意志に関わらず外的な力とによって、いわば強制的に自分を動かすということだ。この外的な力というの多種多様であり、時としてそれは人であったり環境であったりする。
ウェイトトレーニングを自分1人でやるときとトレーナーさんについてもらってやるときとでは追い込みの具合が大きく異なる。それは翌日の筋肉痛で文字通り痛感させられる。
僕の尊敬してやまない芸人の山里亮太さんは、著書『天才になりたい』の中で次のように語っている。「僕は根性がない。好きなことにはストイックになれるけど、嫌いなことにはまるで根性ない。逃げ道があったら、すぐそこに逃げてしまう。(中略)だから、逃げ道を断ってしまえばいい。簡単に言うと後に引けない状況にしてしまう。」
もちろん、そういった状況に身を置くという最初の行動自体にもエネルギーが必要だが、瞬発的にエネルギーを出すことはそれを維持することよりもいくらか楽なはずである。
文章の前半で書いた諦めとは自分で動くことへの諦めである。ここに関しては自分の中にある諦めの感情を自認せざるをえない。ただ、幸いなことにやり方は他にも残っているのであり、決して前に進むことについて諦めたわけではない。
自分なりの最高速度で前に進んで行く。
という感じのFeelingsです。
やはり諦めという言葉の有する負のイメージが強いのか、ここまでの文章を読み直した時、書いた本人でもネガティヴな印象を持ってしまいます。これらの所論は、前に進むためにどうすればいいのかを自分のこれまでの行動と内面から分析し真剣に考えた記録として、ポジティブに捉えてもらえると嬉しいです。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
『天才になりたい』もし読みたい人いたら貸します!おそらくいないけど!
新4年 主将 沢登孝介
天才になりたい、是非読みたいと思います!
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