さて、人生の話をしよう。


今回伝えたいことは二点ある。
一つ目は「どうサッカーに向き合って欲しいか」
二つ目は「この4年間をどう過ごして欲しいか」

是非、自分には関係ないとシャットダウンせずに一度持ち帰ってみて欲しい。
無知の知という言葉があるが、自分の内側に目を向け、考えてこなかったことを知り、それを取り入れ、知に取り込むのは人間誰にとっても大事な作業だと思う。

一つ目については恥ずかしながら長々と前回のfeelingsで書かせてもらった。
短く書くと、
「自分がサッカーをしているのはサッカーの魅力に陶酔しており、その間失われるものをわかっていながらもそうしているんだ。そして僕らはこの舞台での勝利を切望している。ならば徹底的に勝利を追求しよう。自分が選んだ道での勝利が、自分が選んだ人生における道での勝利にもつながるはずだ。」

今も大差ない。自分たちが大学でサッカーをする理由は、誰もが過去体験した「あの瞬間」にもう一度出会いたいからだ。

その中で今回は「徹底的に勝利を追求する。」ということについて書きたい。

ここ最近好きな考え方は
「何事も正しい枠組みで考え、その中で行動する。」ことが万物の下にある原理であるというものだ。

全く頭を使わずに行動に移しても、思考のみで行動が伴っていなくても、当然のごとく求めているものは手に入らない。

ふと、スポーツ選手がどのように他と違うのかと考えてみる。まず第一に彼らの行動の量は他の追随を許さないだろう。その環境の誰よりも競技に陶酔し、行動量で他を凌駕する。
しかしこれだけではないことは容易に想像できるはずだ。
最近ではスポーツ選手の個人的な発信も多いので良くわかるが、彼らは自分なりの哲学を確立している。その哲学とは僕らのようにいちいち理論から論理的に考えられたものは少ないかもしれないが、まさに自分に目を向け足りないものを他から取り入れ、自分の哲学を”野性的に”作り上げているのだということが伝わってくる。

メディアで大口が目立つあの芸能人はどうだろうか。
自己ブランディングからかもしれないが、我々は切り取られた彼の一面を見聞きし「口だけ」「頭でっかちだ」などといった印象を受けやすい。
しかし彼が画一的な思考法だけでその立ち位置まで上り詰めたなんてことはあるはずがない。その思考を行動に絶えず変えてきた結果でそこまでたどり着いたのである。




さて僕らはどうだろうか?
考え抜かれた哲学に沿って、最大限の行動を行えているだろうか?


与えられた哲学を完遂することに満足していないか?
自らの哲学に咀嚼して、自分の行動に反映させろ。
与えられたプレーモデルを自分なりに解釈して、自分の武器は自分で磨け。

頭の中にあるうちはなんだって傑作だ。
思考で止まるな、行動に移せ。


周りからの考えを受け入れることを拒んで、自分の世界で満足していないか?
並外れた行動力はかなりの財産だが、思考でさらに飛躍する。
努力しても結果が出ないと身勝手に嘆く前に、周りをよく見てさらによく自分に足りないものを見つめろ。

自分の価値観にあぐらをかくな。
思考を止めるな、その上で行動しろ。




「正しい枠組みで考えられ、行動に移せる。」そんなチームに、人間に僕らはなれるはずだ。
それが「徹底的に勝利を目指す」ということだと僕は今のところ思う。











二つ目は「この4年間をどう過ごして欲しいか」について書きたいと思う。長いと思ったら日を変えて読んでもいい。でもみんなに伝えたいメッセージだ。いつかは読んでほしい。



自粛でサッカーがない自分を否が応でも見つめることとなった。

「サッカーがないと、他にもいろんな興味が自分にあることに気づけた。」

「サッカーがないと、自分が何者でもないことを痛感させられた。」

「サッカーがやっぱりめちゃくちゃ好きな自分に気づいた。」

「サッカーを言い訳に、空虚な自分を見て見ぬ振りしていた自分に気づいた。」

この全てが湧き上がった想いだ。
当たり前のことなのだが、サッカーが自分の人生の一部でしかないことに気付く。何度目のことだろうか。
でもサッカーに夢中になっている日々では忘れがちだ。
この部の外側にも大学生活があることを。


世界でも日本でも、スポーツ界、芸能界、今となっては一般社会においても20歳近く、ましてや中学生の頃から一人の人間として社会に参加している人は多くいる。

しかし、自分は?
大学生という存在、20そこらという年齢に甘えて社会を未だに「傍観」している。
社会に出る準備期間だ、やりたいことをやれる最後の期間だと吠えて。

それでもいいと、彼らに比べて経済的にも親に支えられ、社会的責任もないところで生きることを選んでいいと思う人もいるだろう。
しかし僕は、彼らの様に華々しい結果を出せといっているのではない。
完全に親から自立しろといきなり言っているのではない。

大学生という時期の捉え方を変えた方が、そもそもみんなの自己実現につながるのではないかと思うのだ。
確かにこのことに気づいてしまった以上、学生という身分に守られた一人の「人間」として見られない存在でいたくはないという気持ちからもあるが。


結論から言うと、
「社会に参加している存在であれ。」これがあるべき姿だ。

将来専門的な職業に就きたいので大学に通っているという人には、これは当てはまらないかもしれないことは前置きしておく。そういった人たちの自己実現に大学で学びを深めることは大変意義のあることだろう。

しかし、そうではない多くの人々にとって、社会に出るまでのモラトリアムとして捉える大学生活は意味が薄い。

多くの大学生にとっての将来像とは、有用な人材として就職し自分の幸せの価値観を満たして生きて行くことである。

そのためには
マーケティングの勉強をしてきました。
プロブラミングができます。
部活に打ち込んできました。
とアピールするよりは

実際にそれらを社会にアウトプットすることが自己実現に近づくと思うのだ。
アウトプットなきインプットでは効果は薄い。
社会に出て身につく技術や知識を大学のうちから先取りしていたとアピールするより、それを社会に出して自らの中でフィードバックする方が個人としての力になる。



しかし、実際に社会を見渡すと個人として何ら武器を持ってない存在が社会に参加できる機会はそこらへんに転がってるわけではない。
社会が我々を学生と見て、そこに機会を与えないのも社会的に見れば至極当然なことだろう。



ここで大学スポーツの可能性が垣間見える。
我々は個人では何ら特異的なものを持たないが、団体となるとそこに目を向ける人々がいることを3年弱で体験した。
団体として、社会に参加することが可能なのだ。
となれば、団体とは個人の集積なので、
個人として「社会に参加した」経験を含蓄することは可能であろう。

もちろんサッカーの外にも僕らの人生がある。その外で自己実現に向けて社会に参加できるのならば大いに構わない。積極的に参加するべきだ。
どこで社会に参加するかは将来の自己実現によって変わってよいのは当たり前だ。

一つの可能性として、大学サッカーを利用して、個人が社会に参加することもできるということを僕は伝えているのである。

そもそも僕らのような経済的にも人材的にも恵まれないクラブが上に行くには、クラブとして「社会に参加する」ことが徹底的に勝利を目指すためには必要だと思うが、これはまた別の機会にする。



とにかく、
我々はどんな形でもいいから「社会に参加する存在であるべきだ。」というのが今のところ僕の考えだ。

自分に甘えず、鞭打とう。




さて自分はどう社会に参加しようか、そう思って頭を悩ませているのは僕も一緒。




以上二点が僕のメッセージです。






「正しい枠組みで考え、行動に移せ。」

「社会に参加している存在であれ。」






かくいう俺の行動はいかに
主将 内倉 慈仁

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