「愉しむ」ということ

 4年 石野佑介



長いようで短かった学生生活も残り3ヶ月をきった。これまでの22年間の人生を振り返るとき、その中心にあるのは間違いなくサッカーだ。

 

実際に就職活動をしていた際にある企業のエントリーシートとして「自分史」なるものを書いたのだが、そこに書き入れたことの約8割はサッカーのことであった。改めて「自分史」を読み返してみると22年という長い時間の中で、自身が経験したこと、取り組んだことのほとんどがサッカーという要素に集約されることに気づいた。

 

そう考えると、これまでの人生が少し味気ないようにも感じられたが、面接に行ってみると15年以上もサッカーに取り組んできたことは高く評価されたように思う。自分では気づかなかったが、夢中になれる何かに打ち込み、それを継続することは並大抵のことではないようだ。

 

約20年間サッカーを続けてきた中で学んだことは挙げればキリがないほど沢山ある。目標達成のための努力の仕方、チームワーク、身体的・精神的タフさ、コミュニケーション、礼儀、責任……。今の自分自身やその価値観はサッカーを通じて形成されたといっても過言ではない。

 

限られた紙幅ではその全てについて書き記すことはできないので、ここでは20年近くにわたるサッカー人生の最後の最後に気づいたことについて書こうと思う。

 

 

率直にいって、4年間のア式生活のなかで本当に嬉しかったこと、心から喜べたことは片手で数えられるほどである。振り返ってパッと思いつくことは、辛かったことや悔しかったことなどマイナスのものがほとんどである。

 

もちろん、1年生の頃からAチームにいる時間は多かったし、3年生の頃には継続的に試合にも出させてもらって、おまけにリーグ戦でゴールを決めることもできた。一度もAチームに上がることなく、1秒も公式戦に出られないまま4年間を終える選手がいることは十分に理解している。ただ、それでも自分にとって4年間が満足のいくものであったかと問われると、そうではない。

 

自分は幼稚園の頃にサッカーを始め、小学校・中学校・高校とサッカーを続けてきたわけだが、当然その時々によって自分にとってのサッカーの位置付けや距離感、考え方は大きく異なった。

 

幼い頃であれば、何か他のことに囚われることなく、ただただボールを蹴ることを楽しむことができたが、歳を重ねていくにつれて考えなければならないことは増えていく。サッカーは相手がいて初めて成立するスポーツであり、目の前の勝負に勝てなければ楽しくない。だから、チームとしては試合に勝つことを大きな目標の一つとして活動する。そして、そこには「勝負に対する責任」が生まれる。

 

試合で目の前の相手に勝つことや良いプレーをすることはもちろんだが、試合で良いパフォーマンスを発揮するための日常的な練習や食事、私生活などのピッチ外での行動、さらにはチーム強化に欠かせない組織運営など多くのことがそこに含まれる。試合に勝つためには私生活の一部が制限されてしまう場合も多々ある。

 

こうした責任はステージが上がっていくのに比例して大きくなっていく。小学校と大学でサッカーをする際に自分が考えていたことを比較すれば明らかだ。大学のサッカー部において、この責任を果たすのは容易ではない。事実、自分はア式のなかでリクルート活動に長く関わってきたが、勧誘を行った高校生や新入生でサッカーは好きだが、「週6日活動はちょっと…」「サッカー以外のことにも時間を使いたい」といった理由から体育会のサッカー部への入部をためらう人は多かった。要するに、その責任は生半可な気持ちでは果たすことができないものなのである。

 

しかし、このような厳しい責任を果たした先に得られるものは何にも代え難いほど大きい。やっとの思いで初めて公式戦に出られた時のことや、初めてゴールを決めた時のことは鮮明に覚えている。大学に入って最初のfeelingsにも書いたが、自分はそういった瞬間を味わうために東京大学ア式蹴球部に入部した。大好きなサッカーをより楽しむためには、高い水準の要求にも応えていかなければならない。

 

ただ、残念なことに自分はア式で過ごした4年間の中で、多くの時間をチームの一員として果たさなければならない責任に悪い意味で縛られてしまった。本来は、試合や目の前の勝負に勝つことを通じてサッカーを楽しむという目的のために、多くの責任を果たすというはずであるのに、いつの間にか責任を果たすこと自体が目的になってしまっていた。特に、自身の調子が悪く、思うようにプレーできない時にそうなりがちだった。

 

試合に出るために、試合に活躍するためには、練習でこのように「しなければならない」とかこういうことは「してはならない」という半ば義務感とか禁止事項みたいなもので頭が埋め尽くされていく。もちろん、試合に出場するなどの結果を出すことができればある程度の自信が持てるのでそれで良いかもしれないが、結果を出すことができない場合はより一層「こうしなければならない」という気持ちが募って追い詰められ、負のスパイラルに突入する。

 

この負のスパイラルに陥るとどうなるか。自分が積み上げてきた自信が全て失われ、ミスを恐れて消極的になり、もちろんサッカーも楽しくなければ上手くなることもない。どんどんどんどん自分が縮こまっていく。

 

そして、自分は最悪なことに大学4年のラストイヤーで最大の沼にはまり込んでしまった。自分の実力不足、怪我など様々な要因があり全くもって思い描くようなプレーができなかった。当然試合で使えるはずもなく、6月には1年生にAチームに上がって以来初めてとなるBチームへの降格を経験した。

 

負けず嫌いな性格と、一応去年は試合に出ていたという意地やプライドがある一方で現実を見ると、完全な実力不足。サッカーが上手いか下手か以前にもう気持ちが折れてしまっていた。その後すぐにAチームに上がったが、何もできずにまたBに落ちてしまった。その後も、ア式蹴球部100年以上の歴史の中でのカテゴリー移動回数新記録を樹立したのではないかと思われるほど、AチームとBチームを行き来した。

 

正直、AチームとBチームを2往復くらいした時点でポッキリと心が折れて、真剣にサッカーをやめることを考えた。母親にも「やめるわ」と言っていたし、20年近くサッカーをやってきて最後に心残りがないように次の練習試合を人生最後の試合にしようとも決めていた。

 

しかし、いざやめようとすると意外と簡単ではない。これまでの20年近くの小さい頃からの思い出がフラッシュバックしてくる。楽しかったこと、辛いことを耐え抜いたこと、自分に対して期待してくれて応援してくれた多くの人たちのことも。結局、サッカーが好きだから、こんなにも多くの時間とエネルギーを費やしてきた。ここで中途半端な形でサッカーをやめたらこれまでの自分の努力や応援してくれた人たちのことを裏切ることになるのではないか、そんな思いが膨らんだ。

 

そんな時、やめようと思っていることを母に話すと、母は

 

「あと数ヶ月だし、適当にやれば?」と言った。

 

一瞬、そんな適当に週6日も時間を割くほど暇ではないと思った。しかし、少し考えてみると自分の中で考え方が一気に180度変わった。

 

「適当」というと一生懸命やっている人に対して失礼で語弊があるが、自分の中では、それは良いプレーをしてAチームに上がるとか、公式戦に出るとかそういうに囚われることなく、とにかくサッカーをすることを楽しむということだと捉えられた。どうせ同じことをやっていても試合に出られるわけはないし、それならば、ここ数年忘れかけていたサッカーの楽しさを最後に存分に味わおう。そう思って最後まで続けることを選択した。

 

それ以降、引退までの2, 3ヶ月はサッカーをすることが楽しくて仕方がなかった。何にも囚われることなく、ただボールを蹴ることを楽しむことができた。そんな中で、もっともっとサッカーを楽しむためには勝つことが必要だと感じた。やはり、やるからには目の前の相手に勝ちたい。勝つためにはやらなければいけないことが多くある。

 

自分より上手い選手ばかりだったAチームとは違い、Bチームには1年生や、まだまだ改善の余地がある選手が多くいた。そのような状況で勝つためには少しでも経験値のある自分がプレーで示し、言葉でも積極的に発信していく必要があった。これまでは、自分から積極的に発信しチームを引っ張ることはあまり得意ではなく、そのような行動がとれずにいた。しかし、心から湧き上がってくる、勝ってもっとサッカーを楽しみたいという思いに駆られて自然と身体が動いていた。

 

勝負に勝ってサッカーを楽しみたいという目的を達成するために、自分がしなければならないこと、つまり「勝負に対する責任」を自然と果たしていたのである。そして、結果的にそれが上手くいくか否かに関係なく、責任に縛られてサッカーをしていた時よりも圧倒的にそのプロセスを楽しむことができていた。また、そうしたプロセスがあるからこそ、何もかかっていない練習試合であっても、そこで生まれる良いプレーやチームの得点は、これまで公式戦で経験したそれと同じかそれ以上に喜ばしいものであった。4年間の大学サッカー生活の最後に、いつの間にか忘れてしまっていたこの感覚を味わうことができたことは、本当に最後までサッカーをやり切るという選択をしてよかったと思わせてくれた。

 

傍から見れば、1年生からAチームに在籍したのにも関わらず、4年生では1秒も試合に出られず、最終的にはBチームに転落するという、しょぼい大学サッカー生活だったのかもしれない。しかし、最後の最後に20年近くサッカーを続けてきた中で、最も大切な教訓のひとつといえるものを得た。

 

それはつまり、「物事に取り組むことの本質は楽しむことにある」ということだ。何かに取り組むということは、そのことに対して僅かでも楽しいとか好きだとか思える部分があるということだろう。ただやっているだけでは意味がない。高い目標や目的を成し遂げてこそそれをより楽しむことができるし、意味がある。その達成のためには、義務感や他人からの強制によって努力をするのではなく、主体的に行動することでプロセスを楽しみつつ努力をすることが一番の近道である。逆に、それができないのであればその物事に取り組む価値はないだろう。自分はサッカーをすることに対して途中で心が折れてしまったものの、やはりサッカーをすることが楽しいし好きだからこそ、最後まで取り組むことができたと思う。

 

20年近くにわたるサッカー人生を振り返ると、結果論かもしれないが、サッカーを楽しむことができていた時は必ずといっていいほど良い結果を出すことができていたと思う。また、良い結果を得ることができればサッカーがより一層楽しくなり、それが次の成果につながる。楽しむことによって、好循環が生まれて自ずと良い方向へと進んでいく。

 

おそらく、これからの人生では、サッカーほどに自分が好きなことばかりをすることができるわけではないと思う。時にはやりたくないが、やらねばならないこともあるだろう。それでも自分がそれに取り組むということは、どこかに僅かでもポジティブなポイントがあるはずで、それを見出して努力することができれば、自ずと結果を出すこともできるだろう。常に「楽しむ」という視点を忘れずにいられれば、良い方向へと進んでいけるはずだ。

 

 

最後に、この先、真剣にサッカーをすることはもうないと思うので、感謝の気持ちを伝えたい。自分にとって、約20年という長い間、不自由なく大好きなサッカーに打ち込むことができたことは間違いなく重要な意味を持つことだった。それを支えてくれた指導者やチームメイトのみんな、サポートしてくれた方々に感謝を伝えたい。本当にありがとうございました。

 

そして、幼い頃から一番近くでサポートしてくれた両親。サッカーに取り組む機会を与えてくれたこと、また自分が出ない時でも試合を観に来てくれるなど、常に味方になって応援してくれたこと、本当に感謝しています。ありがとう。



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