うまい鍋の作り方

大谷一平(3年/MF/金沢泉丘高校)


 「見つめる鍋は煮えない」とかいう言葉があるらしい。間違いない。鍋なんてものはちょっと水を入れて、椎茸と舞茸とさつまいもと白菜と鶏肉と鍋キューブをぶち込んで、ふたをして強火にかけて放置しておけばいい。その間にコンビニでも行ってアイスでも買って、鍋のことなんかすっかり忘れてブランコでも乗って帰ってきて、吹き出す鍋を見つけて慌てふためいて火を止めるくらいがちょうどいい。汁なんか半分くらいこぼれているだろう具はめったにこぼれないから問題ない。鍋なんてものは往々にして放っておけば勝手に育つものなのであって、過保護はいけない。早く煮えろなんて言って、何度もふたを開けてぐるぐるかき混ぜたりしているうちはいつになっても煮えない。そういうものだ。

 

今年は、スノボに行く機会が多かった。まあ簡単にいうと、世の大半の暇な大学生と同じようにグラトリって奴にはまったという訳である。私の実家はかの愛すべき石川なのだが、帰省中は暇さえあればスノボに行っていたし、こっちに戻ってきてからも、我ら東京大学運動会ア式蹴球部員にとって命よりも大事と言われている週に一度の「月オフを全てスノボに捧げていた。ゆーひの車と山田の偉大なるお父上様のお車と愛すべきニコニコレンタカーとオリオンツアーには感謝してもしきれない。今年は通算して13,4回くらい行ったかなと思う。この程度の回数じゃ石川県民に笑われてしまうだろうけど、部活をしている東京都民だと思えばまあよく頑張った方だろう。何度越後湯沢と軽井沢に行ったことか。だけスノボに行ったわけであるが、グラトリはなかなかうまくならなかった。ノーリー3までは比較的簡単にできるようになった。ただ、そこからは、一向にうまくならなかった。ノーリー3ができるようになると、まあ当たり前のように次はノーリー5だろということで、ノーリー5の完成を目指した。ただ、いつまでたっても上手くいかない。スノボに行く時のコンディションがいつも信じられないくらい悪かった、というのは確かにあった。部活をしていると大胆に遊べるのなんて日曜の夜と月オフくらいだから、月曜は6時出発だというのに、何故か知らないが日曜は毎週終電を逃していた。3時半くらいに家に帰り、シャワーを浴びて1時間くらい寝て3時間半くらい運転してスノボに行っていたのだからまあコンディションはあり得ないくらい悪かった。ただ、運動会員たるもの、コンディションなど言い訳にして良い訳がない。どれだけがむしゃらにノーリーをうっても回転数が増えなかった。焦った。苦しかった。道具のせいにもした。そうこうしている内にシーズン最終日を迎えた、その日中にできなければ、大谷一平は1年やってもノーリー3止まりの男という烙印を押されてしまう。不安とかすかな期待を胸に軽井沢に向かった。その日も午前の内は全然うまくいかなかった。半ばあきらめかけた私は、目標を立ててからひたすらノーリーだけやっていたのをやめ、オーリーの練習を始めた。もうノーリーはあきらめてオーリーの道を拓こう。弱っていた私はそう自分を説得してオーリーに逃げた。ただ、オーリーをやっているとなんとなく着地が安定してきた実感があった。ずっと進歩を感じられずにいたので少し心が躍った。やはり成長の実感というのは精神安定剤のような役目を果たしてくれる。その踊りだした心を携えて、何となく久しぶりにノーリーをうってみた。540度回れた。あれ、、、、。何回かやってみると確実にノーリー5がうてるようになった。喜びが爆発した。3歳くらいの女の子がスパルタ母親にひもでつながれて泣きながら鬼レッスンを受けている横で歓喜の雄叫びをあげた。壁というのは往々にして高ければ高いほどそれを乗り越えたときの喜びは大きくなる。その日はにやけが止まらなかった。

 

人は無意識の内に鍋を見つめ続けてしまう。早く煮えろ、そう願って。日本には一途であることを非常に高く評価する文化があるように思う。「~一筋」という言葉が常にポジティブな意味合いを含んでいることからもみてとれる。「フロンターレ一筋30年」、「ユニクロ一筋」、「嫁一筋」、「ミズノ一筋」、「アンドロイド一筋」。内容が何であれ、一途であることは非常に美しいとされる。逆にやることをころころ変える奴というのはどうも好かれない。飽きっぽい奴、すぐ諦める奴、一貫性のない奴というのはだいたいばかにされる。私も20年間日本で生きてきたわけでその価値観にはどっぷりつかっているし、だからこそ一度「ノーリー5を完成させる」と決めてからは、他の技にうつつを抜かさずノーリーの練習だけに集中した。確かに一途な奴というのは美しいし、自分も一途な男になりたいと思う。ただ、「成長」という部分にフォーカスしてみると一途であることは必ずしもプラスに働くとは限らない。第一に一途であると、行き詰った時の選択肢が、諦めるか、諦めないかの二択しかなくなる。何かやっていると行き詰るときというのは必ず来る。そういう時はだいたい、そのままやっていてもなかなか上手くいかない。何かを見落としていたり、いまのやり方に限界が来ていたりする。それなのに一途であろうとするあまりそれに気づかず、諦めてはいけない、という思いでがむしゃらに頑張るから苦しい。その苦しさに耐えきれなくなると諦めることになる。一度諦めるともうそこには戻ってこない。自分には才能がないのだ、と思い込んでしまうし、やることをころころ変える奴というのは「ださい」から。第二に、一途であると想定外の副産物を得られる可能性がぐっと下がる。一つのことをやっている時、というのは基本的には自分が想定した結果しか得られない。それはそう。ある目的があり、そのために何ができるか、考えてやっているのだから得られる結果が想定内のものであるのは当たり前である(ただ、これはマインドの問題なのだが)。右足のシュートをうまくしよう、と思い、右足のシュートの練習だけしていても右足のシュートがうまくなるだけである(そのように思ってしまう)。ただ、そいつが浮気性なやつで、右足のシュートをうまくする、という目標と同時に、左足のシュートもうまくする、という目標を掲げていたとしたら話は違う。某伝説のサッカー漫画の話になるが、「幻の左」という必殺シュートがある。これは、右利きで右足の強烈なシュートを武器にしていた主人公が、そのシュートを打ち続けている内に、その衝撃を支えていた軸足である左足の筋肉が異常なほど発達し、右足より強いシュートを左足で打てるようになったという話だ。彼がこの筋肉の異常発達に気付いたのはある先輩の助言がきっかけなのだが、それがなければ左足でシュートを打つことなど考えてもみなかった彼にとって、左足の筋肉の発達など右足のシュートを安定させるために必要なものという意味合いしか持たなかった。しかし、たった一つの助言でそれは変わった。「幻の左」が生まれた。想定外の副産物が生まれた。この話には続きがあって、「幻の左」の存在に気付いた彼はそれを武器にして戦っていくわけであるが、そのうちに次は右足の筋肉が異常に発達し、「幻の左」を超えるパワーを持つ右足のシュートを打てるようになる、というものだ。これも想定外の副産物である。彼はとくに一途だとかそうでないとか意識していたわけではないが、一つのことしかやっていなかったという点で説明がつく。一つのことしかやっていなかった彼は偶然にも新しいことをはじめそれらが相互作用を起こしたわけだ。この「相互作用」こそ、成長を加速させる有能な燃料である。私のスノボの場合も、「相互作用」とまではいかないが、ノーリーの練習をいったんやめてオーリーの練習をはじめたことで、思いのほか、着地が安定するようになり、ノーリー5の完成につながった。偶然にも一途さを捨てたことで、想定外の副産物が得られ、成長につながった。なんとなく鍋を見つめるのをやめたら煮えていたというわけである。

 

そういうわけで、こと成長という分野に関しては一途であることをやめるとよいかもしれない。何か目標を立てる。まずはそれに向かって努力する。達成できればそれでいいし、どこかで行き詰ったら一度意識的にやめてみる。そして違うことをやってみる。違う鍋に火を点す。そしてまた努力する。ある程度時間が経ったらまた前の目標に戻ってくる放っておいた鍋が煮えていないか見に来る。煮えていなかったらまた違うことに戻ればいいし、煮えていたら儲けものである。おいしく頂くだけである。用意しておく鍋は多ければ多いほど良いだろう。成長という分野において、人間は無限の可能性を持っている。どれだけ食べても満腹にはならない。そして鍋が多ければ多いほど、想定外の副産物を得られる可能性は高くなる。一途である必要なんてない。いろんなことに挑戦する。ころころやることを変え。放置しておく鍋なんて多ければ多いほどわくわくするものだ。

 

一つ、言い忘れていた。鍋の具材についてだが、たまに、とり団子を入れるとなかなかうまい。試してみてほしい。ちなみに、スパルタ母に泣かされていた女の子は帰り際に見たときは、笑顔で走り回っていたのでどうぞご心配なく。

 

大谷一平

コメント