何もかも終わった未来の自分から、何も知らなかった過去の自分へ

折田舜(4年/MF/三鷹中等教育学校)

 
 答え合わせをしよう。
 4年前、何一つ成せなかったこれまでのサッカー人生を覆そうと、東大ア式蹴球部へと入部した自分。サッカーを続けるか迷いながらも、それでも「このままじゃ終われない」という思いから、あらゆる可能性に満ちた大学生活を、これまで通りにサッカーに費やすことを決めた自分。
 当時の自分は、その選択を結果で正当化すると決めた。その象徴が、「未来の自分を黙らせろ」という、若々しさと愚かさに満ちたフレーズである。今から振り返れば恥ずかしくなるような入部フィーリングスの一番上で、その文字列が小さな胸を張っている。

 

 それが最初の気持ちであったならば、当時の自分が言うところのこの未来、何もかも終わったところから、今の自分は過去の自分に答え合わせをしてやらなければいけないわけだ。結果はどうだったか?その威勢の良さに見合う活躍はできたのだろうか?
 その答えはシンプルで、正直首を横に振ってしまうだけですむ話ではあるのだが、そんな態度はもう引退してしまった自分という無責任な立場だからこそ取れるものである。過去の自分が何も知らないのと逆に、未来の自分は何もかも知っているという理由により、どちらの自分も無責任かつ特権的な立場にいる。何も知らなかったらどんなことだって言えるし、全部の結果を知っていれば、あの時こうしておけばなんて後出しもいくらだってできる。そんな立場から自分を裁いたところで、得られるのは自己嫌悪と後悔だけだ(ここだけ自我を出すことを許していただきたいが、裁くという言葉には極めて重要な含意がある。ただそれを語り出すと読者が逃げ出すことをすでに前回で学んでいるし、せっかくの卒部フィーリングスなのでここでは何も言わない)。
だから、まだ選手だったその時自分が思っていたことを書こう。過去の自分と未来の自分の間、その長いようで短かった間のことだけを話そう。せめて、ありのままを綴ろう。
どうか少しの間お付き合いいただきたい。                                                                     

 

 

 意外と緊張はしていなかった。
 少し前まで一緒にプレーしていた彼らの声援。背中を叩いてくる監督とスタッフ、ベンチメンバー。審判が用具を確認するときの、明らかに普段とは違う顔つきのチームメイト。同じような顔をしている一回り大きい相手選手。かねてからそこに立つことを渇望していた、白線によってそれ以外の世界から切り取られた聖域。何もかもが輝いていたのだろうけれど、そのときはそんなものに目を向けている暇はなかった。研ぎ澄まされた感覚。目の前のものがクリアに見える、良い意味での視野狭窄。
 笛が吹かれた。
 やはり最初に感じたのは、相手選手とのレベルの差だ。浮き球を競り合って、その身体能力の差に愕然とする。片や、二軍とはいえリーグ上位に位置する大学の選手、片や、1月前までリーグ戦中位の大学のセカンドにすら入っていなかった人間では、確かにこの程度の差はあるだろう。我らが主将ましろは、相手の体当たりを受け開始3分でまさかの負傷退場。流石に焦ったけれど、代わりに一緒にやってきたえのけんが出てきて安心する。
 自分に任されたのは、ワンアンカー。横には戦術眼ア式1の章が降りてくる。とりあえずボールを渡しておけばなんとなるという算段を立てておく。右前には我らがエース谷。こちらもどんなクソボールでも処理して、なぜか何メートルも前進させてくれる。自分は上手くないので、とにかくこいつらになるべくいい形でボールを渡すのが仕事だと認識する。

 

 バックラインからボールが来て、同時に背後から敵もやってくる。調子が悪い時はタッチをミスって取られるけれど、今日は行ける気がした。左手で敵を抑えながら、右足の円を描くドリブルで敵を振り切る。顔を上げても、ボールはあるべき場所にある。ミスをすることはない。
 試合内容はそこまで悪くないと感じる。最初は押されていたけれど、途中からある程度はボールが持てる。崩しは手間取っているし、やはり相手の個々のクオリティーは高いけれど、勝てない試合ではないはずだ。

 

 敵サイドバックがボールを持つ。後ろを確認しておいてから、わざとライン間を若干開けてパスを誘う。出てきた縦パスをインターセプト。足元にボールが入ると結構しんどいのでこういうことをするしかないのだが、うまくいくと相手を出し抜いた感があって面白い。

 

 マイボールをサイドに展開する。長田は敵の応援団に煽られてサイドバックとバチバチやり合っている。バックパスに敵が食いつく。敵がボールに触る前に、先に身体を入れてボールを確保。遅れてきた相手に狙い通り吹き飛ばされてファールをもらう。

 

 自分のプレーもそこまで悪くない。別に前進も方向を変えるのも味方頼りだ。けれど自分のやれることは全てやっていた。盛り上がる応援の声、無駄に長い個人チャントも自分を後押しした。いつもより、自分が速くなったように感じる。

 

 試合はかなり五分五分で、何度かこっちの決定機があって、ちょっと危ないシーンがあって、そして、シュートなんだかクロスなんだかよくわからんボールで失点して前半が終わった。
 落胆があったのは否定しないけれど、全然まだ行けると思った。ハーフタイムにも仲間に励まされて、意気込んで後半のピッチに入った。

 

 後半は打って変わって、ひたすら押し込まれる展開になった。ボールがこちらのものにならない。ずっと守備で振り回され、危ないシーンが何度もあった。前半張り切りすぎたのか、疲労を感じ始める。プレッシャーが遅い。球際が弱くなる。よくないな、と思っていると、やはりベンチはよく見えているようで、あっけなく途中交代を命じられた。

 そこからはいつも通りだ。少ししてさらに失点。何もできることなく、チームが負けるのをベンチで眺めた。いつもと違うのは、自分もその敗戦に関与していたということ。

 

 これが、自分がたった一度だけ公式戦にスタメン出場した時の話だ。大学3年秋の東京都トーナメント3回戦帝京戦。2試合出場した公式戦のうちの1つで、そんなものがあるとするならの話ではあるが、ア式での最初で最後の輝きだったと言えるだろう。もちろんこれも、同ポジションの歌が怪我したから回ってきただけの出番ではあったが。
 この時期、自分はとてつもなく調子が良かった。ボールを取られる気がしない。敵の動きがよく見えて、その逆が使える。守備も悪くない。練習試合相手の社会人チームから引退したらうちに来ないかと声をかけられたりもした。谷は自意識過剰だって決めつけてきたけれど。育成チームで過ごす絶望的な時間が長かった自分には、あまりにも輝かしい日々だった。

 

 そして、そんな栄光の日々は、それ以降の自分にとっては呪いとなった。

 

 次の週の練習試合で、自分は足を負傷した。歩けなくて、家まで送ってもらった。ありがとうイシコ。ばあちゃんがお小遣いあげなくてすまん。ようやく松葉杖付きで練習に来れるようになったのは、次の週とかだった。(松葉杖の移動が遅すぎて遅刻した)。みんなは新しくきた徹さんの練習で、ちょっと上手くなっているみたいだった。そこまで焦りはしなかった。怪我が直ったら、いくらでも巻き返せるだろうっていう自信はあったし、何よりオフが目の前だった。オフに自主練するやつはそんなにいないだろうという見込みもあった。

 

 オフ中、できるだけリハビリした。整骨院に通い、ぶっ壊れた足首とそれ以前からぶっ壊れていた身体の動かし方の矯正に努めた。誰もいないグラウンドで走っていた。走るのは好きだったから別にそこまで苦ではなかった。

 

 オフ明け、なんとかサッカーができるまでには戻したが、足首の違和感は取れなかった。ボールが離れる。すぐどっかに行ってしまって、あるべき場所には収まらない。別に怪我のせいだけではなかった。ポジションをどう決めるのか忘れている。守備でついていけない。なんかみんなはすでに徹さんの教えをある程度理解しているようで、リハビリしかしてなかった自分は遅れているような気がする。
 すぐ、育成に落とされた。徹さんとの面談が開かれた。シーズンでは絶対に必要になる、みたいなことを言われた気がする。すごく嬉しかったし、なんとかして這い上がってやろうと思った。

 

 全然ダメだった。別に育成に落ちても調子は変わらなかった。小さい怪我が続いた。最初は、それのせいにした。けれど、それが終わっても、プレーは戻らなかった。いつの間にか、全ての原因を押し付けていた足首の違和感も無くなっていた。
 同じポジションの古川さんにどうすればいいか聞いた。別に今が調子悪いだけで、上手く行っていた時期はたまたまうまくいっていただけ。下手になったわけではない。みたいなことを言われた。その通りだ。同時期にフィードバック制度ができて、いち早く駿平にフィードバックをお願いした。何か突破口が見えると思った。駿平に言われたことも同じだった。Aで活躍するためには、あの頃に戻るだけではなくて、あの頃以上のプレーをしなければならないのだ。
 プラスを作れない。方向を変えられないと駿平に言われて、全くその通りだと感じた。特に恒常的に酷い育成の状況もあって、自分で何とかしないとという思いが強まった。タッチ数が増えた。ロストが増えた。文句は言われたし、その通りだとも思ったが、前みたいに来たボールを味方に流すだけでは、Aチームで活躍できないと感じた。とにかくチャレンジした。うまくならないといけないと思った。けれど、あの頃よりもうまくなるどころか、あの頃のプレーすらも戻ってこなかった。
 焦っている間に、アミノが始まった。一緒に落ちてきた希一はいつの間にかAに戻っていて、スタメンにまでなっていた。その間、自分はインフルで倒れていた。インフルから復帰したら、リーグ戦が始まっていた。
 そこからはあっという間だった。試合は空費されていく。自分が出れる試合は、一試合ずつ減っていく。チームが勝てていないのもあり、応援していても正直全く楽しくなかった。
 5月ごろ、調子が上向き始めた。選択肢を選べる。ボールも自分で運べる。育成程度のプレッシャーなら失わない。ようやく、調子が戻ってきたかなとか思い始めた。何試合かいいプレーをして、ある週の水曜日、育成コーチの皓太が話しかけてきた。折田さん、今週で上がりましょう。テンションが上がった。皓太は本当にこういうところが上手かった。テンションが上がった自分は格上の大東相手にそこそこいいプレーをした。あのロン毛がいなかったおかげもある。
 その結果、Aに上ることができた。ここから頑張ってやろうと、そう思った。歌に敵うとは思わなかったけど、守備ができるという強みもあるし、そこを押し出せれば残れると思った。
 1月ぶりに戻ったAは、当たり前だけどもう元のAとは全く違っていた。守備の圧が違う。パスが通らない。すぐボールを失う。守備もそんなに良くない。スピードを上げてしまう。視野が狭い。
 すぐに、自分はこのチームでやれるレベルにないことがわかった。自分が足踏みして、自分の運命を調子の波とかいう訳のわからないものに委ねて一喜一憂している間に、Aのやつらは毎週厳しいリーグ戦を戦い、必死になってやっていた。明らかに、その差が出ていた。別に、自分が全力でやっていなかったとは言わない。ただ、その質が、解像度があまりにも違ったのだ。リーグ戦にはベンチ入りしたものの、明らかに序列は一番下だった。
 練習が自分のせいで止まった。徹さんから色々なアドバイスをもらった。その通りだったけれど、どう改善したらいいかわからなかった。練習はボロボロで、もう育成に落とされることはほぼ確定していた。
 その頃、セカンドチームの練習試合はなく、試合ができないというストレスもあった。自分がAにいた最後の週、一橋戦だけ練習試合が予定されていた。せめて、試合でいいプレーをすれば、踏みとどまれるのではないかという淡い期待のもと、できる限りの準備を整えていた。

 練習試合は中止になり、順当に自分は育成に落とされた。

 

 そこからのことは、もう思い出したくもない。
 育成は調子を落とした。自分のせいで負けた試合もあった。サタデーで自分のロストから失点して前半で下げられた。後半さらなる泥試合を展開するチームを見ながら、自分は何をしているのだろうと思った。げんとやようが調子を上げて、自分のポジションはインハになった。下手だったにも関わらず、インハだからしょうがないという言い訳をどこかでしていた。7月8月、特に高校生に惨敗したときのこと。双青戦で、勝っていた二軍戦に出場して逆転負けを招いたこと。4年間のア式人生の中でも、トップクラスに悔しい出来事が連続した。練習が楽しくなかった。うまくなっている気がしなかった。クオリティが低くても、何となくやれてしまっていた。プレーも変わらなかった。
 「前の方が良かった」
 「もっとやれると思ってた」
という声が、どこからともなく聞こえた。不愉快に思うと同時に焦った。どうにもならなかった。あの時想像していたリーグ戦で活躍する自分と、今の沈み切った自分の落差に苦しめられた。何をしているのかと思いながら、時間はあっという間に過ぎた。できたはずのことができない。これ以上に苦しいことはなかった。それはうまくなっていないということであり、自分のやってきたことが無駄であるということでもある。週6の練習とそれの準備に費やす時間、うまくいかないことへの悩みや苦しみ、その全てに価値がないという宣告であった。練習に行きたくなかった。後で自分の映像を見返し、その下手さ加減を目の当たりにすることが嫌だった。全く改善しない自分のプレーに対し、時間を割いてフィードバックをしてくれる駿平に申し訳なく思った。
 夏オフ中、一人公園でボールを蹴っていて、サッカーってこんなに楽しかったか?と思ったりした。

 

 そんな中、転機が訪れた。夏オフ明け、皓太が3-4-3をやると言い出した。正直、驚き以上に喜びが勝った。3-4-3は一番好きなフォーメーションだった。2ボランチにより、ポジションをある程度自由に取れることと、中盤の人数が増えることにより失いにくくなることが、下手な自分にとって大きかった。
 3-4-3の練習は楽しかった。Aチームと違うシステムで戦うことへの不安、つまり昇格しにくくなるのではないだろうかという不安は若干あったが、それ以上にサッカーの楽しさが勝っていた。そこからは自分も育成チームも調子が良かった。何か、重しのようなものが取れたのかもしれない。とにかく、いいプレーをすることだけを考えていた。
 東経大戦で先制点を決めたことは特に覚えている。バイタルに走り込んでのシュート、昔得意だった形から久しぶりに点を取ることができた。その試合、勝ち切ることはできなかったものの、久しぶりにサッカーが楽しかった。
 次の週の東工大戦、皓太は4年が上がるためのラストチャンスだと言った。一緒にやっていた同期も、気合が入っているように感じた。自分も今日で上がるんだと、意気込んで用意した。この試合、自分はかなり調子が良かった。トップの脇に落ちてからドリブルで運ぶ形で何回か前進させることができた。特に運びながら選択肢を見せることができたところは、多少上手くなったのかなとも思った。久しぶりに、自分のできるプレーは全てやったと感じることができた。上がれるのかな、とも思ったりした。

 

 別に全くそんなことはなかった。残留争いで鬼気迫るチームに、育成でちょっと上手くいったくらいのやつがつけ入る余地などなかった。
 悔しくなかったといえば嘘になる。だが、正直これで上がれなかったらしょうがないという気持ちがあったことは否めない。選手としては、もう死んでいたのかもしれない。その点で、上がれなかったのは正しかったとも言える。
 そこから最後の週までは、あっという間に過ぎた。

 

 引退試合のことは正直、あまり覚えていない。とにかく、勝つことに必死だった。楽しかった気もする。いつも一緒にやっていた奴らだけじゃなくて、イシコとかひろき、だいちとかとも一緒に出られたのも嬉しかった。
 次の日、Aチームも最後の踏ん張りを見せて残留した。それについては自分が語るべきではないから、どうか他の人の文章を読んでほしい。結局毎度のごとく、自分は蚊帳の外だったとだけ付け加えておく。

 

 と、暗い文章を書いてみると、最近流行りの「なんで大学でサッカーやってたのか」という質問が飛んできそうだ。その通りだ。4年間サッカーをやってきて、得られた成果は無と言っていい。浪費された時間。空転した努力。それが自分の4年間だ。大見得切った入部当初の威勢はかけらも残っていない。
 自分が言えることは何もない。結果が全てであって、ここで自分は、「結果が出なかったけど頑張りました」だとか、「それでも頑張ったことは無駄じゃありませんでした」とかいっても、何もかも空虚なだけだ。「悔しいです」とかいってみても、それもまた「本当に悔しいっていえるほど頑張ったのか」という話になる。自分は頑張ったと言い張ってみても、それはただの自己満足であって、結果が出ていない以上そんな自己評価はどうでも良いものだ。

 Aで戦っている同期をみていると、悔しがる権利すら自分にはないのではないかと思えてくる。

 

 それでも、自分は心底弱いので、自分のことだけをみてしまう。同期の中で1、2番を争うレベルで下手だった自分。怪我を繰り返しろくにプレーできなかった自分。何をすれば良いのかわからず、ピッチ上を彷徨って先輩や同期に怒鳴られていた自分。
 楓さんの指導で何かを掴んだ自分。高校時代の先輩と対戦し、めちゃくちゃ上手くなったなと言われた自分。初めてAチームに上がった自分。最初だけ調子が良かったものの、すぐに育成に落とされた自分。そこで勝てずに苦しんだ自分。俊哉さんの指導で、上手く行かないながらも色々と学んでいた自分。
 そして、2度と戻らないあの素晴らしい瞬間と、その後。

 

 正直に言ってしまおう。入部した時、こんな4年間になるとは思っていなかった。まさか、自分がAチームで、ましてや公式戦に出る日が来ようとは、思ってもみなかった。同期のように、中高で当たり前にチームの中核を張っていた奴らとは違う。今までのサッカー人生の中で、1度も公式戦にスタメンで出たことのない自分が、まさかAチームの公式戦に出る機会が来るとは、思ってもみなかった。

 

 そう、これが正直な感想だ。
 ずっと、自分の戦う相手は自分だった。Aチームに上がるだとか、試合で勝つなんてことは、下手くそな自分が掲げるにはおこがましい目標だと思っていた。だから、一瞬一瞬を全力でやること。昔の自分より、少しでも上手くなること。目の前の相手には、絶対に負けないこと。そうやってたどり着いたのは、そりゃ自分からしたら途方もない遥か先でも、他のみんなからしたらもう当たり前のものだった。初めから、そんなやり方をしてたら勝てるはずもなかった。
 そして、最後の一年はその自分の物差しですら、自分との比較という敗北者が用意したどうでもいい基準ですら、自分は敗北した。

 

 それこそ、一生育成にいたままだったら、また少し話は違ったのかもしれない。最初から公式戦は届かない舞台で、それでも全力でやりました。終わり。くだらないけれど、まあ理解はできる話が一つ。もしくは、努力の結果、ようやく4年の最後に公式戦に絡めました、とか。
 けれど、あの一瞬、憧れていた舞台に指がかかったその一瞬と、そしてそこからの転落があったからこそ、そんな単純な話では済まなくなった。自分という比較基準ですら敗北している。唯一の言い訳は失われている。敗北という事実以外、後には何も残らない。

 

 誘われていたチームには、結局行かなかった。失望されるのも、失望するのももうこりごりだった。もうあの頃には戻れないという、自分自身の諦めの表明かもしれない。
 長かった自分との戦いは、敗北という形で終わることとなったわけだ。

 

 以上が、ア式にいた時の話だ。今、何もかも終わった未来にいる自分は、こんな話を聞いてどうすればいいのだろうか。もっとやれただろうと自分を責め立てるか、十分頑張ったと自分に言い聞かせるか。どちらにせよ、自己嫌悪も自己憐憫も生憎と救いにはならない。というかそもそも救いなんてものはない。何も言えることはないし、言うべきこともない。終わった未来にいる自分はこうして黙り込んでしまったわけである。こんな結末を4年前の自分は想像していただろうか。まさかこんな形で黙り込むとは思ってもみなかっただろう。
 あるいは、もっと努力できたという結論から逃げているのだろうか。それはあるかもしれない。だが、当時はどうしたら良いのかわからなかった。そして、もうこれ以上あの熱量でサッカーを続けるのは不可能だとは言い切れる。4年前のコンティニューを望んだ自分と違って、今の自分にそんな気力は残っていない。
 そしてもし過去の自分がここまでの話を聞いたら、どう思うだろうか。別にどう思ってくれたっていいのだが、胸が張れるようなものでないのは残念だ。どうせなら高笑いしながら、やってやったぜと自信満々に宣言できるような結末が良かった。けれど、そうはならなかった。

 

 

 最終節、何とか勝利を収め、ピッチ上で恒例の写真撮影が行われる。
 自分がチームにおいてどうでもいい人間であることを思い知らされるこの時間が、中学以来ずっと嫌いだった。これまでのリーグ戦の辛さも、何とか勝利できた喜びも、全部自分は関わっていない。同期はユニフォームを着ていて、自分は着ていない。
 歌がやって来て、自分に言う。
「俺ら、もっと上手くなれたよな」
 一瞬だけ背中が見えたと思ったら、いつの間にかまた遥か遠くに行っていた同期が、そんなことを言う。

 

 

終わり。

 

 最後に、卒部feelingsということで、お世話になった皆さんにお礼をしておきたいと思います。
 1~4年のときに面倒を見てくださったOBコーチの皆さん、そして陵平さんと徹さん、本当にありがとうございました。OBコーチの中でも、特に文中でも名前をあげた楓さんと俊哉さんには、お世話になりました。楓さんには一緒に映像を見てもらい、ひたすら「なんで?」と質問責めにされたことを覚えています。そのおかげで目的意識を持ってプレーできるようになりました。俊哉さんには、特に3年の頃、ターンの向きだとか、プレー選択だとか、めちゃくちゃ細かい指摘を繰り返ししてもらった記憶があります。社学の授業そっちのけで帝京戦の映像見てもらって、まだ荒いけれどこの調子で上達すれば公式戦でもやれるって言われたことはとても自信になりました。また、オカピさんにもお世話になりました。3年の頃の少しAに上がった期間と、暫定政権のときに、いろいろ教えてもらいました。公式戦初出場の都トーナメント成城戦の時に、信頼しているから自信持ってやれ、と言ってくれたのがめっちゃ印象に残っています。もらったシティのビルド集もめちゃくちゃ見てました。
 先輩と後輩に。下手な自分でしたが、一緒にサッカーをしてくれてありがとうございました。特に先輩には自分が下手なせいで迷惑をかけたと思います。練習中は怖かったけれど、セット間とかは優しくアドバイスしてくれて助かりました。
 後輩のみんな、頼りない先輩だったと思うけれど、一緒にやれて楽しかった。試合中とか結構厳しく言うことも言われることも多くて、嫌われてるのかなと思っていたこともあった。だからこそ、引退した日のカラオケで、高木と航平から話を聞けて、ある程度は先輩やれてたのかなって思って正直かなり嬉しかった。育成の王とかいう蔑称も今では懐かしく感じる。これからはOBコーチとして、みんなが少しでも楽しくサッカーできるように手伝いたい。
 同期に。今更だけど4年間ありがとう。
 駿平。フィードバック本当にありがとう。指摘はいつも的確で、駿平がいなかったら自分はずっと何がダメなのか気づけずにいたと思う。最後の1年間は、フィードバックのおかげもあって解像度がどんどん上がっていっている気がした。それを消化しきれなかったのは、ひとえに自分の実力不足だったと思う。Aチームに戻ることが正直厳しい時期になってきてからも、駿平は変わらずフィードバックをしてくれた。本当に感謝している。
 そして、特に最後の一年一緒にやることが多かったえのけん、りょう、島。ありがとう。同期が頑張っているのを見ると、自分がやらないわけにはいかなくなった。えのけんは昔からずっとチームの盛り上げ役でいつも頼もしかったし、りょうが絶対無理だと思ってたのに大金稼いでひょっこり戻ってきてくれたのも嬉しかった。島とはポジションが近いのもあってめっちゃ言い合いしたけれど、どちらも絶対に譲らなかった記憶がある。もっとみんなで勝ちたかった。
 Aチームのみんな、特に最後の1年間は外から見ててマジで上手いなと思ってた。特にひかるとか希一とかは、1,2年の頃一緒に育成でやってたのにAで主力張ってて本当に尊敬していた。みんなと同じ代で良かったと思うし、だからこそ同じピッチで勝ちの喜びや負けの悔しさを共有できなかったのが残念だった。なぜか引退しなかった奴が2人ほどいるらしいので、彼らには引き続き頑張ってほしい。

 

 また、それ以外にもこれまでサッカーを通して自分に関わってくれたすべての人に感謝を。特に小学校の時、まさに今ア式がやっているようなサッカーの基礎を教えてくれた「監督」に。「監督」の家で見た2010-11CL決勝のバルサがずっと自分の憧れだったし、そのサッカーを教えてくれた「監督」からは、自分の中で「監督」がその人を指す言葉になるほどの影響を受けた。
 そして中高の同期。中央公園で毎週ジュースをかけてサッカーをしたことは多分死ぬまで忘れない思い出だ。特に一橋に行った二人とは大学でも対戦できたことは嬉しかったし、だからこそリーグ戦でやりたかった。

 

 最後に家族に。こんな時だけ殊勝なふりをするのもどうかと思うけど、こんな時だからということで。
 1ミリもサッカーに興味がなかったのに、自分がサッカーをやると言ったから審判資格まで取ってコーチを始めた父親に感謝を。中学に上がるときに、クラブチームのセレクションを受けるために色々なところに送迎してくれたし、三鷹に入ったのも父親の勧めからだ。ほとんどサッカーを知らなかったので、アドバイスは基本的に精神論だった記憶があるけれど、自分がサッカーを続けることを、常に一番応援してくれていたのが父であることは間違いない。だからこそ、帝京戦での活躍を見てもらいたかったけれど、それは早死にする方が悪いので仕方ない。
 また自分がサッカーをやるために色々とサポートしてくれた母にもありがとうと言いたい。高校時代朝練で家を早く出る自分よりもさらに早く起きて特大のお弁当を用意してくれていたこと。そして、父親が死んで色々な問題が発生してからも、部活を辞めさせたりもせず変わらず生活させてくれていること。
 それと小さい頃から一緒に練習してくれた妹にも。サッカーをやめないでほしかったけれど。

 

 すべての人に向けて。本当にありがとうございました。

 

 

 そして、最後の最後に、蛇足を。
 今、育成練に向かう電車の中で、この文章の推敲している。馬鹿らしいと思うかもしれない。あれほど苦しい思いをしたというのに、いつの間にか自分は再びグラウンドに戻っているのだ。理由はわからない。OBコーチをやるかどうか聞かれた時、やりたいと即答してしまった。今度こそ研究をするために、死ぬ気で勉強するために大学院に入ったはずだったのに。そして、もうサッカーは諦めたはずなのに。今日も山積みの本と書きかけの草稿を自室に残したまま、今度はコーチとしてグラウンドに足を運んでいる。
 自分がサッカーと関わらないでいるのは不可能だ。生憎とじっとしていられない性分だし、あんまりよくない理由だけれど、サッカーがあるおかげで最低限の社会性を保っていられている気がする。そうでなくても、グラウンドに行くことはもう習慣レベルに刷り込まれているし、そこが一番感動できる場所であることも確信している。一度最低な思いをしたからって関係ない。いつかまた最高の思いができるんじゃないかって戻ってきてしまう。そう簡単に大切なものを切り捨てられないのが自分だ。つくづく、未練がましいものだと思うけれど、自分のそういうところは欠点だとは考えていない。
 何もかも終わった未来と書いた。けれど、自分の人生はまだこの先も続いていく。どうにも、自分はサッカーと関わり続けていくことになるらしい。それはいつまでか、どんな形かはわからないが、少なくとも、今が終わりではないようだった。

 

 終わった未来が、また次の物語の始まりとなる。
 自分がかつてプレーしていた育成の試合で、今度は自分の後輩たちがグラウンドに立つ。最近は彼らの成長が楽しくてしょうがない。どうか、自分に夢の続きを見せてほしい。4年もあれば大きな差だって縮められるんだって、証明してほしい。自分にできなかったことを、自分よりも才能のあるみんななら成し遂げられると、きっと信じている。そのために、至らないけれど自分はできる限りのことをしたいと思う。

 

 今日もまた自分はグラウンドに立っている。この決断の是非は、これまた先の未来の自分にでも聞いてみればいい。

 


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