島智哉(4年/MF/湘南高校)
高校時代の悔しさを胸に大学サッカーでリベンジすると誓い、東大に合格したその瞬間からア式への入部を心に決めていた。
そのために親父に頼んで1年生ながらに本郷近くで一人暮らしを始めた。全てはサッカーのためだった。
1 年目
仮入部期間に北川と毎日グラウンドに行った。
2 人でフクダ電子アリーナの側のグラウンドに行って試合に出たことを未だ に鮮明に覚えている。 ア式のサッカーなんて分からずにただサッカーが楽しかった。最初の時期に先輩に囲まれてサッカーができてよかった。生意気な態度で先輩を困らせたけど、自分のサッカー観を少しずつ広げてくれた。
サッカーへの解像度が上がり、試合をみる楽しさを知った。セカンドの試合にも出場でき、成⻑できている実感があった。
2 年目
育成のチーム事情もあってインサイドにチャレンジした。というよりも、試合だったか前日練習だかに寝坊してしまい、杉が代わりに 左SBでスタメンでいいプレーをし、スタメンを奪われた。サタデーでの出場機会を求めてのポジション変更だった。人生で初めてバックライン以外を主戦場として戦うことを決め、ピッチでの世界が 360 度になった。最初は難しかったけれど、東くんにめちゃくちゃ助けられ、毎日新しい刺激を感じながら練習できる感覚は忘れられない。それまで適正ポジションが左SBしかなかった自分のプレイヤーとしての可能性を広げるための挑戦だった。
1月にはAチームにも昇格できたけど何もできずに育成に落ちた。その後は育成の試合でいいプレーができても、中々評価されず、難しい時間だった。当時は評価されないと感じていたけれど、それは間違いであったと今なら思う。
自分のプレーの幅を広げられずに、目の前の試合で自分の持っている武器を多少上手く使っただけだった。大きく成⻑したわけではなく、相手が強くなれば通用しない選手に見えていたのだろう。というかそうだと思う。そんなこともわからずにヘソを曲げてセカンドの監督をしていたオカピと少し話しにくくなった。プレーで見返そうと思っていたけれど、人としてしょうもなかったなと今では感じる。
3 年目
新入生が入ってきて、合流する直前に怪我をした。詳しくは書かないけれど、まだサッカーと向き合う覚悟はあった。ただなんで自分が、なんでこのタイミングで、という思いはあった。
3 年生になり、同期がAチームに上がって戦う姿を外から眺めるしかなかった。
田中がリーグ戦にデビューしていくのを遠くから見ていた。少しずつ置いてかれていくことから逃れられずに一個上の代が引退していった。
代替わり直後に復帰をした。
同期はみんなAチームにいて、折田や榎本は東京カップにスタメンで出ていた。
育成練で同期が1人もいなかったことや公式戦の応援で同期プレイヤーがみんなベンチ入りしているのを見て悔しさを募らせた。徹さんの練習は外からはとても楽しそうに見えた。でもどうしようもない。怪我したのが悪いし、現実と向き合うしかなかった。 成蹊リーグの試合に左SBで出た。最初は下級生しかいなくてしんどかったけど、まあそんなこと言っても仕方ないし、この期間に初めて一緒にプレーをした2個下の後輩のことをよく知れた。でもやっぱりアウェイの成蹊に行く時に同期プレイヤーがいなくて少し寂しかった。
年が明けてまた怪我をした。
サッカーが嫌になってしまいそうだった。実際逃げてしまおうかとも思った。
でもまだサッカーを続ける決意をした。
4年目
育成のコーチから始まった。最初は松葉杖でグラウンドに居て、球出しもろくにできなかった。
練習に混ざれるようになるまでは育成の時間はコーチ、A 練の時間にリハビリをした。
松葉杖が外れた時、ジョグができるようになった時、ボールを蹴れるようになった時、ロンドに混ざれた時、全ての瞬間が嬉しかった。
手術をすると決めた時からプレイヤーとしての自分に残された時間を数えていた。
だから試合に出られるようになってから自分には 12 週しかないと自覚していた。最初はちょっとずつ動けるようになる感覚が嬉しかった。ただ練習に戻れるようになる直前に 100%が出しきれないことに気づいた。というか、100%でやっているつもりでも力が足りない。想像よりも一歩が出ない。
練習に戻ってからその感覚は顕著に表れた。最初はサイドバックで復帰をしようと思っていたけれど、全く上手くいかない。
インサイドをやる以外の道はなかった。やるしか無いからまあしょうがない。そう思いつつも、思い通りにならない自分の体を少し恨んだ。
復帰戦は県立浦和戦。高校生で復帰戦にはちょうどいいとかと思っていた。真夏の日中の御殿下でクソ暑いし、体は動かないし、Aから落ちてきた田中はイライラしてるけど久しぶりのサッカーは楽しかった。
15 分の給水までってこんなに⻑いんだと驚いた。
45分でビックチャンスも作れた。まあいつも通り橋本大輝が外したけども。コーナーで失点して自分の出た時間で0-1。出鼻を挫かれた。
滝高校との平日の練習試合をして、次は双⻘戦。
1年生の時はコロナで中止、2 年生の時は怪我で京都まで行って観戦。3 年は半月板の怪我で出られず、初めての出場だった。京都のあのスタジアムで試合に出る。怪我期間中に立てた目標の1つとして位置付けていた。最初のメンバー発表では双⻘戦の出場時間があまりに短く矢島に Slackのdmで文句を言った。ごめんね、やじ。けど言わないで受け入れるのは無理だった。結果的に45分は出られることになり、そもそも出場制限もあったし、まあ納得した。 ほんとは2軍戦で出たかったけれど、まだ体が動かないしプレー面でそこまでの信頼を得られていないのは明らかだった。
45分でもあんなピッチで試合ができたのは良い経験だったと思う。流石にたけびしのあのピッチに立つと緊張した。ボールを受ける度にいろんな人に見られるし、いいプレーをすればスタンドから部員がチャントを歌ってくれ、悪いプレーをすればため息のようなものと切り替えろと声がかかる。まあいつもの試合も同じなんだけれども、いつも以上に見られていると感じて緊張した。
試合では田中のロングボールから上⻄園が抜け出してGKと1vs1をしっかり決めた。
点取りたい欲が薄かった自分でもこの日に1点取れるのは羨ましいと思った。自分は正直パッとしないプレーだった気はするけれど 45 分で勝ち越して終われたのはまあよかった。
夏オフが明けて復帰後初のサタデー。相手は横国。結果は負け。やれたことが全然なかった。相変わらずゴールに向かうプレーが選べない。怪我以前からあった自分の課題と直面した。
皓太は75分くらいまで使ってくれたけど、この時間までゴールを奪えなかった一因は自分にあったと思う。途中交代で自分と変わって入った大楽が点を取ったとき、こういうプレーが求められてるんだよなと素直に思った。試合に負けて失点に絡んだ若柳が泣いていた。入部してすぐの1年に責任を感じさせてしまった。もっと俺がやらないといけなかったのに。 あと少しの短い時間でもチームを勝たせられる選手になろうと思った。
復帰をしてから唯一の同じ学科の駿平とのフィードバックで間違いなく自分の課題への解像度は上がり、毎週少しずつプレーの内容を変えることはできていた。
2 年生の頃に東くんに言われたことを当時は毎週、毎日の練習で意識していたように、駿平に言われた改善策をひたすら練習で、いや練習前の準備の時間から試し続けた。少しずついい方向へ改善はできていると信じていた。間違いなく成⻑できているという実感もあった。でもチームを勝たせるにはまだまだ足りてない。
8月の終わり頃、田中にインサイドはなんかもっとすごいプレーをしてほしいと言われた。ア式でサッカーをしている人間かと思えないほど頭の悪い発言だったけど、まあ言いたことはわかる。
振り返ると、3 年で怪我をするまでもインサイドでは自分こんなプレーできますよ、とできることとできないことが分かり、そこから大きく殻を破れていない自覚はあった。そういえば久野にも、もっとスーパーになれとか言われたっけ。
ア式のOBコーチとは思えぬ解像度。言ってることほとんど田中と同じじゃねえか笑。でも実際にそれまでは殻を破りたいと思っても、大きく改善させるトライが少なかった気がする。ボールを失うことを恐れて、相手にとって怖いプレーを選べてない、選ぼうとしていない自分がいたのだ。リーグ戦の谷を見て、こいつドリブル仕掛けてめっちゃボール取られているやんって思う試合は過去にあった。でも1試合の中で何本もチャンスを作っていた。あぁそうか、ボール取られても得点につながるプレーをできる奴が、そのトライをして成功させる選手がスーパーと言われるだとようやく気づけた。
4年になってやっとようやく。遅すぎるけども。
新たな発見はいつだって可能性を広げてくれた。 駿平にも相談し、どうボールを持ってどうプレーをするのが自分の良さを出すために、得点に繋げられるのかを考えた。 すぐに練習で実践し、意外にもすぐに紅白戦でいいプレーができた。 今まで怖がっていたドリブルが、運ぶドリブルならやりようがあった。 毎日の練習で新たな武器を磨けている感覚が楽しくて仕方なかった。
出た試合全部振り返りそうになったんで割愛します。
迎えたサタデーの一橋戦。前半途中で右サイドから綺麗に前進し、⻑田のヘッドで先制した。 得点に直接的ではないが、絡めた。小さくてもチームに貢献ができたように思えた。次の東経戦でも折田のゴールの起点になれた。東経には引き分けたけど、チームで戦えたと言える試合だった。
この後の試合も全く負けなかった。埼玉大、東工大、理科大の3試合で3勝できた。
そしてサタデー最終節の都立戦。 自分たちに残された試合は残り2試合で公式戦と呼べる試合はこれが最後だった。
自分が育成で終わることはこの頃にはなんとなく察していた。この試合でどんな活躍をしても今の中盤を入れ替えることはないなと思っていたし、A へ昇格する可能性は客観的に見てほとんどなかった。 それでも、自分がサッカーをすると部に戻ってくると決めた以上最後までやり抜くと決めていたからなんとしても勝ちたいと、点を取りたいと思った。試合前には色々な人に頑張れよと声をかけられてグラウンドに向かう。いつもよりちょっとゴールを意識してプレーしていた。
前半の終わり頃、ごちゃっとしたところから秋馬がシュートを打とうとし、相手DFにブロックされる。
そのこぼれ球を右足で押し込んだ。小学生からずっとおもちゃと言われ続けてきた右足はこの時だけは仕事をした。手術をしてから今まで以上に使い物にならなくなったガラクタでも少しは役に立った。
後で振り返ってもまあ今まで積み上げてきたものと関係のなさすぎるゴールだった。 それでも、逆サイドからわざわざせいしろうが一番乗りで走って祝ってくれ、ベンチからも応援からも自分の名前が呼ばれていたあの光景は忘れられない。え?同期は? 今でもたまに映像を見返すけれども、同じピッチにいた折田も榎本も俺のとこには来てくれなかった。うそやん、びっくり。 まあ点とった時は興奮していてそんなこと気にしてなかった。
結果は3-1とかだっけ、ちゃんと勝ったのは覚えている。チームを勝たせる選手になるという目標を掲げていた自分にとって、最後のサタデーで数字という形で勝利に貢献できたことはこの数ヶ月の集大成としてはこれ以上ない特別なことだった。
翌週の引退試合には高校同期や親父がわざわざ見にきてくれた。
御殿下のリーグ戦じゃないけれど、それでも嬉しかった。
いいプレーをしようと気合いを入れたけれど、まあなんかパッとしないプレーだった。
もうちょっといいプレーできる日あるんだけどなとか思いながら気づいたら引退していた。
色んな人に労われ、農グラを後にするのは少し寂しさがあり、名残惜しかった。
この半年間で何ができただろう。サッカーを続ける決断は正しかったのかな。4月からの半年で自分の弱さに何度も出会った。半年間、リーグ戦を見るのが辛かった。チームがうまく行かない時に何もできない自分が⻭痒かった。チームが負けていてもヘラヘラできている人間にはイライラしていた。負けた時に吉本からごめんと言われて、リーグ戦で戦う同期の責任の一つも 背負えない自分が情けなかった。
結局最後まで、途中で辞めていった同期の期待にも先輩からの応援にも応えられなかった。
怪我をして逃げようとした目標とまた向き合おうとしたけれどそこには届かなかった。
2 月に手術をすると決めた時に、こうなる未来が起きることは考えていた。リーグ戦に関われる可能性が高くないと理解していた。でも少しの可能性を本気で信じて挑戦せずに終わることはできなかった。自分に失望するとしても、後悔するよりはマシだと思った。結果として、多くの人の期待を裏切る4年間になってしまった。大学4年間をサッカーに捧げる覚悟をして入部したはずだったのに。望んでいたものは手に入らなかった。
しかし、2月の復帰するという決意は今では間違っていなかったと胸を張って言える。復帰をしなければ、見られない景色が多くあり、出会えない人が多くいた。十数試合で唯一のゴールの光景。 親父や高校同期に自分の引退試合を見せられたこと。駿平のおかげでプレイヤーとしての成⻑ができたこと。引退した時にフィジカル陣がお疲れ様と労ってくれたこと。あの時サッカーを続ける選択したことは意味があったのだと感じられた。小さなことで自分の決断を少しずつ肯定してくれたように思う。
高校時代の悔しさを晴らすことも、色々な人の期待に応えることも、自分の立てた目標にも届かなかったけれど 4 年間が無駄だったとは思わない。自分がサッカーを嫌になってしまった時はサッカーを嫌いになった時ではなく、プレイヤーとして上手くいっていない時であって、サッカーを嫌いになった訳ではなかった。むしろ常にサッカーは平等であったと思う。サッカーを通じて自分と向き合い、自分の弱さに気づき、見習うべき人の背中を追った。結果は最悪だったとしても戦い続け、足掻いた自分を認めてあげたい。4年間で自分のことをより深く知れたことは一つの財産になった。
そういえば、ラストイヤーの練習で1つ心掛けていたことがある。毎日の練習で手を抜かずに自分の出せる全力を出し続けること。当然ではあるが、皆ができているわけではないと思う。これは、奥谷や真鍋、おがなどが引退するまで見習うべき先輩の振る舞いを見せ続けてくれていたから意識しなければと思わせてくれた。自分の模範の1人になってくれた。どんな時も腐らないで自分にやれることをやり続ける。簡単ではない。だから覚えているのだ。そんな姿を残さなければと思った。後輩には鬱陶しいとか思われたかもしれないけれど、やれることはやれたと思っている。
4年間を振り返り、反省することは多いけれどやらなくての後悔は少ない。一つ後悔しているのは、努力の仕方を間違えた時間があったのではということだ。
毎日グラウンドに向かい、100%のつもりで練習をしていたがその100%の方向を間違えていた時が⻑かった。 本当にいい選手がどんな選手でどんなプレーをできるようになりたいのか。その選手に近づくために自分ができるようにならないといけないことは何か。そのために今日の練習でチャレンジすることは何なのか。本当に今の練習でチャレンジできていたのか。一つ一つ突き詰めて考えずに、なんとなくの上手くいかないな、今回は上手くいったを繰り返しても成⻑には繋がりにくいのだとこの 3 ヶ月で実感した。こんなことに気づくのにとても時間を使ってしまった。後悔しているのはこれだけ。あとは後悔していない(ことにしておこう)。その時その時に自分がやれることはやってきたのだ。後悔しようがない。ア式に入って今までよりもサッカーに夢中になれた。 素晴らしい仲間に出会えた。
心から愛しく思える場所ができた。
この事実は消えない。
引退してからOBコーチをしていく中で新たな発見もあった。高口に「島はMBTIがコーチやん」と言われた。高口からはそんな風に見えていたのか。やる気のないと思っていた後輩が実はやる気があったことも、アフターバーナーの後押しをくれた潤はア式にこんなにも取り憑かれていることも、自分がプレイヤーの時は知らない一面でおもしろかった。追いコンで中村とりおんと若柳がプレゼントをくれたのも嬉しかった。部に戻ってこなければ 1年生に出会うこともなかったし、OBコーチにならなければ中村やりおんとはあまり話さずに卒業していただろう。
まだまだア式と関わっていきたいけれど次の世界が迫ってくるのでお別れです。
春から就職する僕にOBコーチのオファーをくれてありがとうございました。サッカーと関われる最後の 1 ヶ月、何かを少しでも残せるようにグラウンド に向かいます。
二度と戻れない学生時代を、自分の17年をサッカーに費やしたことに後悔はない。それはこれまでのサッカーを通じた出会いが自分を成⻑させてくれたと心から感じるからだ。 最近では久しぶりに会った友人によく変わったね、と言われるが、自分でもそう思う。
中学生の頃、思春期ど真ん中をこじらせたクソガキだった。他人を傷つけ、自分も傷つけられ、人を信じず、小さなことでイライラしていた。黑歴史でしかない。けれど、高校時代の3年間でサッカー部同期のとてつもないイジられを乗り越えて性格は明らかに丸くなった。それでも大学に入った当初は東大生には変な奴しかいないという偏見から少し同期に壁を作ってしまった。反省しています。その後のア式での生活のおかげで知らない人に壁を作ったり、距離をとるよりも何も考えずにその環境に飛び込んだ方が楽しめるのだと今では思える。10 年前の自分よりも今の自分の方が好きだ。これは今までサッカーを通じて出会った人が自分を少しずつ変えてくれたからこそ、感じるのだと思う。
自分なんて、どうせこいつなんてと達観したふりをするのではなく、人を信じて未来に期待できる人間でありたいと今は願う。
そうやって生きたいのが自分だと少しずつ知れた。
何年も連絡をとっていなくてもただ元気にしているかな、とふと気になることがある。
そうやって昔を懐かしみ生きていくのが自分なのだろう。 この4年間も忘れずにいたい。
10年後の自分はどうだろうか。環境が変わると会えなくなる人が多いけれども、それでも繋がりがある人を大切に生きていこう。
最後に感謝を
今まで指導してくださった方々へ
陵平さんや徹さん、OBコーチや学生コーチなど4年間で多くの方々に指導していただき、ありがとうございました。 徹さんに引退試合の後の御殿下で1月に怪我をしていなければAに上げるつもりだったと言ってくれて嬉しかったです。これまでの自分が少し報われた気がしました。
OBコーチの中でも東くんにはとても感謝してます。2年の時の新しいポジションで戶惑っていた自分に対して、1回の練習で何度もフィードバックをいただき、その年のサタデーでシャドーとしてプレーできたことは思い出になってます。オカピにもサイドバックの頃から多くのことを教わりました。まだ育成の選手だったとしても聞いたことを映像を用意したり、実際に試合や他の選手の動きを見せて丁寧に説明してくれて自分の中のサッカー理解が深まったと思います。ありがとう。
皓太へ
2 年後半とかにフィードバックをしてくれるようになったところからの付き合いで、最初育成の監督をすると聞いた時は驚いたけれど、ラストイヤーを一緒にコーチとしてもプレイヤーとしても戦えて良かった。感謝してます。あと1年、どんな形でも悔いのないように頑張って。
駿平へ
最後の3ヶ月間、サッカーを楽しめたのは間違いなく駿平のおかげだと思います。何気なく頼んだフィードバック担当だったけれど駿平に頼んで良かった。ありがとう。
フィジカル陣へ
リハビリで何度もお世話になりました。特に大智と米田には2度目の半月板の時に支えられました。テンションが上がらないリハビリでもストイックな2人の姿勢を見ていると俺もやんなきゃなと常に思わされました。大智に引退後に言われたお疲れ様に一番胸を打たれたし、支えてくれたことにとても感謝しています。ストレスが多いと思うけれどまた飲みにでも行こう。スタッフへ
コーチもマネージャーもテクも毎日の練習に真剣に向き合ってくれているからプレイヤーがサッカーを楽しめているのだと思います。スタッフ陣が頑張っているからア式がア式として成立しているのだと上級生になってから少しずつわかるようになりました。支えてくれてありがとうございました。
先輩へ
色々な人にお世話になりました。生意気な後輩だったと思いますが、これでもちゃんと尊敬しています。 怪我をした時に話を聞いてくれてありがとうございました。忙しいと思いますがぜひご飯に連れてってください。
後輩へ
一緒にプレーした選手がAで活躍をしている姿を見ると羨ましくもあり、誇らしくも感じます。 活躍して欲しい選手が多いので名前を誰まで出せば良いのか迷いました。角が立つので出さないことにしましたが心当たりがある方、応援してます。 怪我で苦しんでいる後輩も多いですが、その辛さは誰よりもわかるつもりです。何か悩んだ時はいつでも言ってください。
同期へ
最初に壁があったのはすみません。最後の方はどんな時でもグラウンドで同期の顔を見ると少しほっとしたし、OBコーチになってからのグラウンドは少し寂しく感じました。一緒にサッカーしたことも、部室で過ごした時間も、旅行に行ったことも忘れずにいたいと思います。
この代でよかったなと強く思ってます。
陶山と歌はあと1年楽しんで。公式戦も少しは見に行けるようにするつもりです。親父へ
幼い頃から男手一つで育ててくれて、その苦労を少しずつですが理解できるようになりましおた。当然のように大学まで行かせてくれたことは、恵まれていたのだと感じます。
17年のサッカー生活を応援してくれて、自分の夢に進む力をくれて、ありがとう。
リーグ戦で活躍する姿を見せることはできなかったけれど、4年間サッカーと向き合えたことに後悔はありません。これからはちょっとずつですが貰ったものを返せるようにしたいと思います。もう選手としてサッカーをすることは(多分)ないけれど、サッカーに出会えて良かった。
今度は応援する側としてサッカーを楽しみたいと思います。
ア式の仲間に出会えて良かった。
島智哉
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