悪らしあ

岡部惇貴(4年/MF/武蔵高校)


日本橋から約470キロ。歩いて向かった伊勢神宮は、それはそれは荘厳なもので、記憶に強く根差した経験となりました。
 
私の行動指針には「走馬灯を延ばす」という文言が存在します。走馬灯とは中国から伝来した、影絵の細工が施された、筒状の紙灯籠のことです。そして現代では、人が死ぬ間際や大きく感情が揺さぶられた際に、これまでの人生の記憶がよみがえることを言い表した、比喩表現に使われる言葉となっています。だからこそ、実際には「走馬灯を延ばす」といった表現は間違っていると言えるでしょう。まあそんなことはどうでもいい。とにかく記憶に強く残る思い出を多く作りたいのです。雨の箱根越え、さわやかハンバーグ2個食い、圧倒的な顔面力。たったの15日で数多くの思い出が爆誕しました。
 
一方、16年間続けたサッカーはどうだったのでしょうか?何時間、何日、何年時間を費やしたか分からないサッカーが走馬灯漏れしていいはずはありません。
 
サッカーと共に歩んだ16年は走馬灯に食い込めるのか?やれんのか?サッカー人生を振り返り、判断してみたいと思います。
 
 
サッカーと関わってきた16年。その長い年月は私にとってあまりに巨大な塊のままで、どこから手をつければいいのか分からなかった。振り返ろうとするたび、記憶は形を変えた。言葉にしようとするほど、どこか自分を偽っているような気がして筆が止まってしまう。
 
これまでのサッカー人生、私は何度自分を納得させてきたのだろう。ある時は自分に暗示をかけ、ある時は純粋な熱狂に身を任せ、そして最後の一年はこんな自分には重すぎる肩書きを背負って、ただ逃げないためだけに走り続けた。
そんな一貫性のない日々の「答え」を、引退して半年、ようやく見つけつつある。
 
それが、たまたま今の自分に重なっただけの一時的な答えだとしても構わない。普段人には述べないことも、このfeelingsが公開されることは良い機会だと思って、今の私が感じている自分の姿をいつか振り返った時に、楽しめるように書き記しておきたい。
 
 
最初は、空っぽな自分に「形」を与えるための長い作業だった。
 
小学1年生。スタートは三菱養和のスクール。おそらく綺麗な芝生の上で一つのボールを追いかけるチームスポーツに惹かれたのだろう。のちにバルセロナを倒すことになる少年たちが身近にいるような、極めてレベルの高い環境。ほぼ初心者の私が、辞めてもおかしくない場所であった。ただ子どもはそんなことを気にしない。
 
小学3年生。試合をしたいと思い、地元のチームに入団。すぐに試合にも出してもらえた。そこでは「勉強もサッカーもできる自分」になれた。
 
ここがサッカーにこだわり始めた起点かもしれない。チームに属することで、自分が人より少しサッカーもでき、勉強もできる人間だということに気づき始めた。生きやすかった。そのような存在として認めてくれるから。何か人とは違う特徴を持てたから。
 
なぜ生きやすくなったのか?
 
ひとりっ子である私は、どこかで「独りになること」を極端に恐れていた。生まれた時から歳の近い友達が少なかったからであろうか?自分を何らかの記号で規定し、他者にそれを認めさせ、どんな人間だか理解してもらう。そうすることで関係構築が簡単になった気がした。初めていった場所で「サッカーが好きです!」と言っておけば、「サッカー好きの岡部くん」というラベルで何となく理解され、話も弾む。そんな具合である。
 
当然この時も養和では一番下の環境で己の実力を突きつけられ続けている。いつの日かそんな環境に疲弊し、養和へ通う気を無くしていた。近くのスーパーマーケットに併設されていたゲームコーナーのドラゴンボールのゲームに熱狂し、スクールに遅れることもあった。
 
この極端なギャップの中で、私は「諦念」を覚えた。世の中には敵わないものが存在することを悟り、抗うことなく受け入れる。サッカー自体が嫌になり、サッカーで築いた地元での居心地の良さを無くさないように。自己防衛をすることで自分の輪郭を守ろうとした。
 
サッカー好きを加速させるように、気づけばボールを追い続ける日々が始まっていた。ピアノも水泳も辞め、かつて夢中になった歴史の本や小説も開かなくなった。時間はすべてサッカーに注がれ、受験が近づく頃には、私の手元にはサッカー以外のアイデンティティは何も残っていなかった。
 
中高という進学校の環境においても、その構図は変わらない。
 
周囲に勉強ができる人間が溢れる中で、私は「サッカー部の岡部」という記号を守り続けた。海外の試合に誰よりも詳しくなり、戦術本を読み、サッカーゲームに没頭する。実力そのものよりも、「サッカーを愛している自分」という地位を部内で獲得することで、自分の居場所を確保していたように感じる。
 
ここまでの話で、普通にサッカーが好きなんじゃないの?そう思う方もいるだろう。
 
確かに小学生時代にはサッカーの時間も増やし、中学生時代は朝練をし、練習のない日もサッカーをした。他にも上記のようにサッカーに時間を費やしていた。
 
ただ実力に関しては養和で身につけた諦めを発揮し、決して「ガチ」で練習しなかった。小学生時代に上手くなるために自主練なんてあまりしなかったし、やる気を出しても長続きしなかった。中学時代に朝練をし、部活がない日にサッカーをしていたのも部活の友人と一緒にいるのが楽しかったからだ。スタメンから落ちても練習態度は変わらない。試合に出ようと努力もしない。海外の試合も戦術本も見ても途中で飽きて、スマホを見たり、眠くなっていた。FIFAは本当に楽しかったかな。
 
私にとって重要だったのは、サッカーで頂点を極めることではなく、サッカーという輪郭の中に留まり続けることだったからだ。一生懸命になった結果、もしサッカーそのものを嫌いになってしまったら、私は自分を語る言葉をすべて失ってしまう。その「自己喪失」の恐怖から逃れるために、私は無意識に自分をセーブし、安全な距離感でサッカーを消費していた。
 
やがて数ヶ月の猛勉強を経て、私は東大に合格した。
 
「サッカーをやるために東大に入った」
 
何度も繰り返してきたその言葉の真意は、挑戦ではなく、後戻りのできない執着だった。サッカーを辞めることができないから、私は東大という居場所を選んだ。これまでの自分を維持するためには、そこに行くしかなかったのだ。
 
1年目
私は迷うことなくア式蹴球部の門を叩いた。他を検討する余地などなかった。自分を自分たらしめるための場所を、一刻も早く確保したかった。
 
育成チームで始まった私の大学サッカーは、サッカーが嫌いな一人の指導者との出会いによって、これまでの人生にはなかった色彩を帯び始める。
 
大田楓。彼との出会いが、私のサッカー熱を上げた。練習が終われば楓さんを捕まえ、終電間際まで食い入るように映像を見返した。
 
「なんで?」
 
彼から投げかけられるその問いは、鋭く私の内側を突き刺した。今まで無意識の「感覚」で片付けていたすべてのプレーに対して、理由と目的を、5W1Hを積み上げるように再構築していく。どこを見るのか、何を見るのか。ぼんやりと眺めていたピッチに明確な理由が宿り、自分のプレーに再現性が生まれていく。できることが増えていくその過程は、何事にも代えがたい至福の時間であった。
 
当時の私は、まさに夢の中。授業中も休み時間もサッカーを観て、本郷でボールを蹴り、練習後もまた映像を見る。それはかつての「詳しさ」を誇示するためのインプットではなく、自らの身体を思い通りに動かすための、極めて個人的でストイックな探求となっていた。
 
周囲との比較すら、いつの間にか忘れていた。
Aチームで躍動する同期は、もはや別のチームにいる人のように思えた。上に上がりたいという野心よりも、ただ楓さんのもとで、この深く静かな思考の海に潜り続けていたかった。チームのことなんて、正直どうでもよかった。私は人生で初めて「サッカーを好き」になった。
 
この年唯一の後悔は、最後の怪我。この年の育成チームは負け知らずであった。サタデーのチャンピオンシップ1回戦を前に、私は怪我をした。もしあの試合に出られていたら。あの日、あの場所で戦うことでしか掴めない「何か」を得て、私はもっと上手くなれたのではないか。そんな未練さえもが、当時の熱狂の深さを物語っている。
 
自己暗示でも、生存戦略でもない。理由のあるプレーを積み上げ、自分という存在が確かにピッチを支配しているという手応え。その至福の時間が、ア式生活の土台となった。
 
2年目
私は2つの相反する世界で苦しむことになった。
 
1つは、川上皓大と過ごした、夜な夜なの熱狂である。練習から帰り、夕飯と風呂を済ませて、寝るだけの状態にしてからベッドに潜り込む。時計の針が0時を回った頃から、私たちは画面の中の試合に齧り付いた。毎週無限に湧き出てくる欧州のサッカーシーン。それを肴に、あーだこーだと語り合う時間は、私たちの情熱を加速させた。眠気と戦いながらも、あの狭いベッドの上でサッカーの真理に触れようとしていた時間は、間違いなく至福だった。あの時はすぐ先に眠くなってごめんね。
 
その一方、選手としての時間は、残酷なまでに私の「人権」を削り取っていった。
3月にAチームへ昇格した私は、リーグ戦の勝利に責任を負い、リーグ戦出場を目指す集団の中で、違和感を感じ始めていた。
 
結果は良かった。明海との試合で点を決めたし、頭上をボールが飛び交うだけであったが、リーグ戦もデビューでき、数試合に出場した。初めて応援をもらう側になって、リーグ戦に出場することの重みと先輩たちが必死にその舞台を目指す意味を少しだけ感じた。
 
そんな中でも私はリーグ戦出場に興味はなく、サッカーを知っていくその過程に楽しみを見出していた。Aを別のチームのように感じ、チームなんぞどうでもいいと考えていた1年の時と自分は何ら変わっていなかった。
 
リーグ戦出場を果たした時、自分の無力さが気になるようになった。何も劇的な瞬間があったわけではない。紅白戦での何気ないボールロスト、パスのズレ、へなちょこシュート。その一つ一つのミスが塵のように積もり、私は自分自身で自分の人権をすり減らしていった。このような下手で責任も感じない人間がチームにいてもいいのだろうか、、
 
「本当に楽しむ為には強さが要る」
 
ハイキューの名言である。上手かったらこんな悩みも持たないのだろう。実力を持たない人間が、真剣な人間たちの中でサッカーを享受することは、もはや罪悪感に近い苦痛だった。
 
「なんでプレーしているのだろう」
 
八代さんのクロスに当たって骨折するという己の弱る気持ちが現れたような怪我でピッチを離れた際、私は開放感を覚えてしまった。育成に落とされることを待っていた。リーグ戦に出られるかどうかという評価基準から外れ、他人の目に怯えることなく、自分の望むようにサッカーに向き合える自由。
 
その期待はありがたいことに裏切られ、何故か育成に落とされずに夏オフを迎えた。夏オフを終えれば再びマイナスな感情を抱きながらプレーすることは確定していた。そして私はついに自責の念に耐えきれず、衝動的にテクニカルスタッフへの転身を願い出た。実はサッカーを知ることが楽しかった中で、その延長線上にあると思っていた指導者としての道に憧れを抱いていた。
 
陵平さんに伝えた際、意外なほどすんなりと受け入れられた。そのあっけなさに、少しの寂しさを感じたことを覚えている。しかし、のちに俊哉さんや高口さん、吉本先輩からもらった言葉に、私は自分の軽率さを深く恥じた。
 
「どうして相談してくれなかったのか」
「自分ならきっと力になれたのに」
 
リーグ戦に出る機会をいただいた中で、出たい気持ちはない。そんなこと人に言えなかった。独りで抱え込み、独りで答えを出したつもりになっていた。その傲慢さと、自分の知らないところで自分を思ってくれていた人たちの存在に気づき、言いようのない辟易とした感情が込み上げた。
 
この期間、ア式の人とはあまり会話をしていなかった。その代わりに、数多くのサッカー指導者の方に話を伺った。福山ではこんな方になれたら幸せなのだろうなと思わされる憧れのコーチに出会えた。選手を続けた方がいいとアドバイスをくれる方、直ぐにでも指導者になった方がいいとされる方。十人十色とはまさにこのこと。この行動の結果として得られたものは、自分の行動力を自覚できたことと、サッカー界の温かさを感じられたことのみであった。聞かせていただいた話に意味がなかったわけではない。全ての方が不躾な私の願いを聞き、親身になってくださった。ただその話を咀嚼し、自らの血肉となすだけの能力と思考を持ち合わせていなかった。サッカーを知ることと、指導者は異なるものであるという何となくの感覚は持つものの、結局迷いは消えることはなく、鬱屈とした日々は続いた。
 
そんなある日、オカピさんに胸の内を明かした。自分の歪なスタンスを否定されることを恐れていた私に、彼は言った。
 
「別にそんな人がいてもいいんじゃない?」
 
その一言で、重い荷物が一瞬で下りた。視界が滲んだ。私はこの偉大なヘッドコーチの寛大なお下知のお陰で、組織の一員として、もう一度「選手」として生きる踏ん切りがついた。この短い言葉だけで決断するなんて、結局は自分のスタンスや存在を認めてほしかっただけだったのだな。
 
復帰後、盟友川上が率いる育成チームで過ごした時間は、有限である選手としての喜びを噛み締める、心身ともに充実した最後のひとときだった。成蹊リーグで初めてチームに貢献できた気がした。
 
その後、私は休部してスペインへ渡った。建前は「指導者プログラム」への参加だったが、本音はただ、本場のサッカーを見てみたかった。
 
カタルーニャの乾いた風の中で私が見たのは、狂気的な情熱を燃やすホンモノの指導者たちだった。昼は別の仕事で生計を立て、夕方からほぼ無給でグラウンドに立ち、成績不振なら即座に更迭される。そんなシビアな環境で叫び続ける彼らを見たとき、私は確信した。
 
「自分には、この生き方はできない」
 
人生のすべてをサッカーに捧げるほどの火種は、私の中にはなかった。指導などという傲慢な言葉を使う責任を負う気になれなかった。この潔い諦めは、指導者という道への未練を完全に断ち切る、救いのような悟りだった。
 
人生で初めてサッカー人生で精神的に苦しい時間があった。一度はピッチを捨てた。しかし、サッカーを捨てるという選択には至らなかった。寄生されたカマキリが水辺に向かうように、私は再びピッチへ向かうのであった。長い長い2年目が終わる。
 
3年目
20244月。Aチームへと昇格した私の前にいたのは、新監督の徹さんだった。
 
初めて練習参加した日、ビルドアップの練習であった。その日、徹さんはDFラインの立ち位置、プレーする方向、タイミング、全て細かく教えていた。その時、私の楽しみは、瞬時に虚無感へと塗り替えられた。
 
彼が語る内容は、私が3年間かけて自力で紐解いてきた思考の結晶と、驚くほど一致していたのだ。自分の考えが正しかったという確信と同時に、突き落とされたような感覚があった。私がどれほど心血を注いでパズルを解こうとも、すでにその完成図を持っている人間がいる。自分が成長しても、それは誰かが通った道をなぞるだけで、その先には常に他人の背中がある。
 
「この人の話を聞いていれば、上手くなるのだろうな」
 
そう思った瞬間、自分でハンドルを握って上手くなりたいという渇望は消え失せた。私は、答えを待つだけの人形に成り下がった。
 
プレー面でも変化が起きた。久々のAで最初は圧倒された。育成とは、スピードも強度も何もかもが違う。かつての「人権をすり減らした日々」が頭をよぎった。徹さんは練習の合間に、懇切丁寧に立ち位置やキープの仕方を説いてくれた。私はそれを理解しようと努めながら、一方で、ある決断をした。
 
思考を、投げ出すこと。
 
私の処理能力では、このスピードの中で考え抜くことは間に合わない。だから、今まで積み上げてきたものを信じて、無心で身体を動かすことに決めたのだ。
 
すると、何かの歯車が回り始め、それに引きずられるようにすべてが好転していった。試合にも出場し始めたし、初ゴールも決めた。双青戦ではMVPも取れた。2部で首位を走っていた理科大相手に練習試合。45分で3-0、アシストも記録、チームとしても相手にほぼシュートも打たせないなど圧倒。チームのリーグ戦の結果とは異なり、個人的には最高の状態であった。去年の自分にはできなくなってしまったことを容易くやっていた。この年の夏はボールを失う気がしなかった。「あー、楽しい」と心から思えた。
 
この「楽しさ」はどんな楽しさなのであろうか?
 
答えが転がってくる日々、自分で試行錯誤する楽しさを忘れ、当然自我を無くした私はチームの雰囲気に呑み込まれ、試合に出ることが目的になった。それが達成され、しかもサッカーが上手くなっているという実感が伴う日々は、ただ純粋に「楽しかった」。それはつまりただ自分がうまくいっていることの高揚感であった。外的な要因での楽しみなんぞ続くはずがない。
 
この時、私が1年生時に出会った「サッカーが好き」という感覚は、すでに枯死していたのだと思う。
 
けれど、もうそれでよかった。私は、スペインまでサッカーを観に行った「イカれた奴」であり、誰よりも動画を観る「求道者」であるというキャラを、すでに確立してしまっていた。高校生まで必死に求めていた自分を規定するための記号としての、「サッカー好き」 はもはや何もしなくてもそこに完成されていたのだ。
 
試合に出られる満足とキャラの安定が、私からより一生懸命さを奪った。
 
誕生日に行ったサウナでダニに噛まれ、一週間ほどダウンした頃、私の調子は目に見えて落ちていった。
 
この期間で、思考を捨て、感覚だけでやっていた高校時代の「惰性」に引き戻されたのだ。調子を取り戻したかったのなら、やるべきだった動画を見るということはできなかった。楓さんと共に積み上げた、思考して上手くなるというあの至福の日々と思考法を忘れていた。
 
無論、練習動画や試合動画はVeoやテクニカル陣の頑張りにより毎日Slackに届いていた。思考法を思い出す素材やヒントが無かったわけではない。調子が上がるきっかけとなった井筒のフィードバックもやってもらっていた。だが当時の私には、再び思考の海へ潜る気力も体力も残っていなかった。試合に出るという目標はすでに叶い、自分を象徴するエピソードも手元にある。それ以上に、何が必要だというのか。そのまま何がダメで調子を落としたのかはわからず、井筒からの答えを待ち続ける日々。調子が上がるはずもなかった。
 
自らの調子とは反対に、チームの調子は上がりギリギリで1部残留を決めた。祝祭の影で私の心は完全に冷え切っていた。
 
こうして、自己の輪郭だけを完璧に完成させたまま、私は「副将」という空虚な肩書きを背負う、最後の一年へと足を踏み入れた。
 
4年目
東京大学運動会ア式蹴球部副将
 
2024/10/14から2025/10/19の間、私が持っていた重すぎる肩書きである。
 
輝のfeelingsにも書かれていたように、そもそも私は副将をやるタイプでは決してない。一人っ子として育ち、どこまでも自分本位。伸び伸びとさせてくれる環境でしか力を発揮できないことは自分が一番よく知っていた。
 
副将に立候補した理由、それはかつて自分が誘った彼が主将だったからだ。107期のメンバーの力不足、意識の欠如、挙げればキリのない欠点により、彼には相当な心労をかけてしまっていた。
 
彼をア式に勝手に誘っておきながら、3年間自分はサッカーをのうのうと楽しみ、スペインまで行き、リーグ戦でも美味い汁だけを吸った。一方彼は3年間責任あるリーグ戦、それと途方もないであろう孤独と闘っていた。
 
だからこそ、副将をやるのは自分しかいないと思った。岡部惇貴にのみ務められる役割であり、責務だと思った。彼が背負うチームを後ろから押してあげられるような人間になりたかった。最後は彼に認められたかった。
 
しかし、その決意の裏側には、もう一人の自分が潜んでいた。
 
「来年は一勝もできず、降格する」
 
私はそう感じていた。何人かにも溢したと思う。東大レベルの選手が成長するには正しい努力と運が必要だが、それは決して容易ではない。自らを守るために身につけた諦念が、最悪の形で首をもたげていた。チームを信じ切れない。負けチームの代表になりたくなかった。そしてそんな人間が代表を務めることへの後ろめたさを抱えながら、私は最後の一年をスタートさせた。
 
結果は、残酷なまでに予感通りだった。
 
開幕戦。唯一、成蹊とのアウェイ戦だけは、あの夏の日のような全能感が戻り、悪くないパフォーマンスができた。だが、そこから先は地獄だった。20試合、勝ちなし。
 
その中でも1番の地獄は試合直後に訪れる。全ての試合で、本気で悔しがり、ピッチにうずくまる後輩。すぐに次に向けて動き出す自分。責任感を持ってすぐに片付けに参加し、チームメイトを次に切り替えさせるために声をかける自分。20試合繰り返された光景である。
 
もちろん、そのような責任感も持っていたと思う。ただ、すぐに動き出せたのは、敗戦をこんなもんやなと片付けてしまえる自分がいたからだった。現実を見て、負ける可能性が高くて当然と理解してしまっている自分が本当に嫌だった。
 
チームメイトが立ち直れなくなるほど、1試合にかけて望んでいる。その一方で副将なのに、本気で悔しがれていないのではないか。このギャップに毎度ゲロ吐きそうになっていた。
 
私は必死に、その「空虚な自分」を隠そうとした。食事を制限し、筋トレを増やし、脳震盪になっても、顔の骨が折れてフェイスガードを余儀なくされても、足首が動くたびに痛くてまともにボールを蹴れなくてもピッチに立ち続けた。今までの自分なら確実に大事をとって休んでいただろう。けれど、主将を独りにしないために、今年だけは自分を追い込んだ。
 
しかし、熱量を上げれば上げるほど、冷めている自分との乖離は鮮明になり、自己嫌悪は増すばかりだった。部室のドアを開ける直前、毎日「自分は副将だ」と強く念じ、その人格を憑依させてから足を踏み入れていた。負けに納得していることがバレるのが、怖くて仕方がなかった。半ば、自分に課された枷のような気持ちで、義務であるかのように取り組んでしまっていたことを後悔している。
 
東大ア式の歴史、スポンサーの方、応援に来てくれる両親や、何度も激励をくれる武田さん、和田さん、そして何より一試合に命を懸けている指導陣や応援してくれるチームメイト。その期待に応えられない自分。私は、応援席を直視できなくなった。もはや「ごめん」という言葉さえ嘘臭く感じられ、チームメイトと会話ができなくなっていった。私の思いは、敗戦後の礼を誰よりも長く続ける、それくらいの行動でしか表せなかった。かつてのように健康な精神状態でサッカーに向き合うことは、もう無くなっていた。
 
こうして責任が目に見える時、より己の力不足に目が行くようになる。こうしてまた苦しむ。人には言えなかったが、リーグ戦後期には引退までの日数のカウントダウンが始まった。頭がおかしくなって試合前日にラーメンを食べたこともあった。他にも人に見えないところで禁忌を犯していたと思う。ルームメイトが安いウケを取るためにベラベラと話していたらしいが。
 
全試合記憶に刻まれているが、特に思い出すのは2試合。
 
1試合目は双青戦。いつも以上に特別な思いを持って臨んでいた。なぜなら、前期全く勝てなかった中で、グラウンドにこれだけ応援してくれる人がいる。主将は怪我でベンチスタート。報いるならここだと思った。去年の良いイメージはあった。
 
結果は引き分け。いつものリーグ戦よりかはレベルが落ちる相手ではあったが、勝ち切れない。一瞬の隙での失点、プレスラインを切れないビルドアップ、そのシーズンを象徴するかのような試合だと思った。自分が気合いを入れただけで勝てるほど、優れた人間ではなかった。
 
2試合目は後期日文戦。この日もキャプテンマークを巻いた。そして4年間で1番不甲斐ないプレーをした。自分が背負うと息巻く心、普段ならしないプレーを選択し、繰り返すミス、負のサイクルに陥っていた。双青戦で学んだ己の力不足を学んだはずではなかったのでは?
 
ここまで突きつけられた力不足とは何だったのだろうか。ボールタッチの技術、フィジカル的な弱さ、人間としての度量。否、頭のキャパシティ不足である。もちろん先ほど挙げた3点もリーグの基準には足りてはいなかった。ただ、副将として自分が担おうとした役割に対して、頭のキャパシティが足りていなかった。
 
私が自分に課した役割は、いわば去年の吉本先輩のロール。ピッチ内でチームのことを客観的に見て、徹さんの手足となり、状況に応じてチームを変えていく役割だ。チームの始動時期くらいに徹さんからも、チームのコントロールを期待されていた気がする。
 
試合中の思考が増えた。次第にチームのことが見えるようになり、試合中の修正を徹さん、井筒と話せることも増えていった。一方で自分のプレーに使える頭の余白は無くなった。今まで感覚でやっていたプレーも、できなくなった。やるべきプレーも忘れた。立ち返る場所も去年に失っていた。次第に自分のプレーはチームを勝たせようとする気持ちにコントロールされていた。
 
去年までチームのことなど考えていなかった。そんな人間がチームを考えつつ、自分のプレーも維持するというキャパシティを持ち合わせるはずもなかった。
 
そして訪れた降格の日。この日ももちろん全力でぶつかった。極上のゴールも決まったが、気づいたら試合は終わっていた。
 
その夜、私は逃げるようにやけ食いに走った。家系ラーメンを胃に流し込み、その足でバーガーキングを平らげる。バカになりたかった。今年の記憶も口から肛門までのたったの9mで消化され、クソとして流されることを願った。無謀な食事のあと、夜の本郷、図書館の前で星と旭の3人で語り合った。
 
実はこの一年、私は星には、どうしても本心を明かせずにいた。一緒に旅行に行くほど仲は良いが、それは別の話。彼は主務として心身を削ってチームを背負い、その一方で怪我に泣き、満足にピッチに立てない悔しさを抱えていたであろう。そんな彼を前にして、副将である私が「降格を予想していた」とか「副将になるべきではなかった」などといった身勝手な本音を漏らせるはずがなかった。
 
けれど、降格という現実が、あるいは度重なるやけ食いが、私の理性を壊したのかもしれない。
 
あろうことか、すべてを話した。自分が副将をしていることへの罪悪感も、無力さも、冷めた予感も。星が何と返してくれたのかは、不思議とあまり覚えていない。自分が思い出さないようにしているだけかもしれない。ただ、彼らと別れて一人になった瞬間、激しい後悔が押し寄せた。
 
「なぜ、あんなことを言ってしまったのか」
 
大事な局面で、相手のことを考えずに言うべきでないことを口走ってしまう。そんな自分の未熟さに、辟易とした。
 
最終節。「これで終わりなのだ」と悟った瞬間、私の身体からすべての毒が抜けた。
 
副将という役割からも、自己嫌悪からも解放され、ただ一人の選手としてピッチに立った。久々にゴール前へ走り込み、仕掛け、そしてゴールネットを揺らした。あの堪らない主人公感。アシストは、10年共に歩んできた盟友だった。よくできた物語だ。
 
勝利した瞬間、抱いてきた私の気持ちが全て成仏したわけではないが、少しの安堵を覚えた。グラウンドに溢れるこの沢山の笑顔を1年間咲かせないまま終わらせるわけにはいかなかった。最低限の目標だけは、最後に達成できた。
 
副将という肩書きを背負った1年。この役割を引き受けて良かったとは失礼ながらも思えていない。今でも、この部に自分が存在しない方が良かったのでは?あの時辞めた方が良かったのでは?他の人が副将をしていた方が良かっただろうか?といったタラレバばかり考えてしまう。
 
それだけではない。このサッカーであっていたのか。正しいことを続けてきたのに、なぜ勝てなかったのか。正しいことではなかったのか。正解を探すのではなく、勝ちを探すべきではなかったのか。可能性を広げるためにやっていたことが、自分達の可能性を狭めていたのではないか。後輩たちが勝利を掴むたびに、去年の過程を疑ってしまう。
 
存在を規定するためにやっていたサッカーで、自己否定に陥るとはバカな話である。サッカーなんて所詮遊びなのに。
 
未練は1ミリもない。もうプレーしたいとは思わない。あそこまで熱量をかけてプレーはできないから。サッカー無しで生きていける気がするから。
 
自分の存在意義を傲慢にも否定してしまうから、今はア式と距離を置きたい。サッカーと距離を置きたい。OBコーチを断ったのも、それが理由だ。申し訳ない。
 
今、私はようやく、自分を規定していた「サッカー」という重い鎧を脱ぎ捨てた。初めて何も持たない自分になった、次は何で自分を定義しようか。そう考えることが、今はただ楽しい。
 
 
この半年でいい意味で自分のサッカー人生を他人事として捉えられるようになりました。だからこそここまで自分の解像度が上げられたと思います。当事者は必ず視野狭窄になりますから。この変化は、何よりも変えられない過去になってしまったことが大きいのかもしれないし、脱サッカーできたことが大きいのかもしれない。ひゃくえむを観たから起きたのかもしれません。どんなに辛い思いも、嫌な思いも過ぎたこと。今幸せなので、良い意味で気にしなくなっています。
 
自分の中身を覚えている限り書いてみましたが、あまりにも暗い文章になってしまいました。勘違いしてほしくないのは最後の1年は毎試合がスリリングで、己の力以上のことが常に求められる環境をあのメンバーで戦えたことは宝物です。自分のマイナスな部分が記憶として強く残っていて、文章になってしまったので悪しからず。
 
結局、走馬灯にサッカーボールは映り込んでいるのでしょうか?
 
私は映り込んでいると信じています。こんな文章に起こせるほどの経験をしたのだから。でも出てくるのは多分ゴールシーン。どれも特別なゴールです。何度も錦谷の実況を聴きました。最後の2シーズン、私のゴールは全てワンタッチゴールでした。自分の元にボールが溢れてくる瞬間って、ボールがゆっくりで、頭の中にシュート外したらどうしようとかいう考えは全く浮かばないのですね。だから朝鮮戦のシュートもあんなに振り切って打てました。最終節の朝鮮戦のクロスも死ぬほどゆっくりだったな。この経験はもう味わえないから、さすがに走馬灯入りでしょ。
 
結果は死ぬ時の楽しみにしておきます。
 
最後に感謝を述べたいと思います。
 
徹さん
謝らないといけないことが沢山あります。まず、練習初日の話で、ネガティブな表現になってしまって申し訳ないです。またとある日、徹さんに「練習を楽しめない」と漏らしてしまった時に、悲しそうな顔をさせてしまったことも謝らせてください。負けが続く状況でも自分を強く保ち、サッカーの楽しさを享受し、自分たちにも味合わせようと命をかけて努力している人に対して、なんて酷なことを言ったのかと、後悔しています。徹さんを勝たせることもひとつ目標でしたが、遅くなってしまって申し訳ないです。徹さんが求める副将になれなかったこと、徹さんが求めるレベルの選手になれなかったことも申し訳ないです。
一方で感謝も伝え切れないほどあります。自分と同じ考えなんて烏滸がましいことを書きましたが、徹さんの指導は自分で得られること以上のものばかりで、これ程、教えられ成長した時間は初めてでした。人生で1番輝けた瞬間が得られたのも、この2年でした。新しい景色を見せてくれたこと感謝しています。またサッカー界で見ることを楽しみにしています。東大に来てくれてありがとうございました。
 
楓さん、オカピさん、高口さん
まずは楓さん、呼び捨てしてしまってすみません。お三方には私のア式人生を前に進めてくれて感謝しています。楓さんに遅くまで試合映像を見ることを付き合ってもらったこと、オカピさんの一声で選手として続けられたこと、高口さんがくれる気づきの一言でプレーが改善していったこと。これらの中で何か一つが欠けていたら、今の自分に間違いなくなれていませんでした。全員サッカーに関わり続けてくれると嬉しいです。私のようにサッカー人生が好転する人を増やしてくれると確信しています。出会えて幸せでした。
 
歌さん、陶山さん
引退した今、2人の異常性を強く感じています。5年目をやる決意は簡単にできることではないと思います。1年一緒に戦ってくれてありがたかったです。陶山さんのゴールをもっとお膳立てしたかったし、歌さんともっとボール持っていたかったです。
 
吉本先輩
自分の憧れの選手でした。30番も8番も吉本先輩を追いかけてつけました。引退後にも伝えたと思いますが、吉本先輩にたまに褒められたあの瞬間はとても嬉しかったです。サッカー選手として高い基準を示し続けてくれて感謝しています。
 
ましろさん、ひかるさん
去年コーチを引き受けていただいてありがとうございました。引退したのにも関わらず、後輩のためにグラウンドに出ることは、ある意味現役の時よりも労力の必要なことだったかもしれません。ア式には珍しい人間性を兼ね備えたお二方だったからこそ、試合前の声かけ、ハイタッチ、たまにする談笑、力になっていました。最後に一緒に勝利を味わえてよかったと思っています。本当に感謝しています。
 
久保さん、大智、桃香
今年1年特にお世話になりました。ハムの肉離れから始まり、変な怪我ばかりする1年で、東大病院にあそこまで行くことになるとは思いませんでしたが、リーグ戦に全試合出ることができました。久保さんの厳しいメニューと桃香の的確な管理のおかげです。ありがとうございます。大智には話し相手にも、練習相手にも、フィジカルチャットGPTにもなってもらいました。これからもよろしくお願いします。それとリーグ戦後の打ち上げで、大智と源登で話してくれたことはこの4年間でトップクラスに嬉しかったです。忘れないと思います。ありがとう。
 
優柔不断な人間で申し訳なかった。クラスから始まって、ゼミも一緒になるとはね。荒を恐れている時期もあったけど、なんかもう全部いい思い出です。頼りない人間で申し訳ない。部に残ってくれてありがとう。最高のキャプテンでした。何度荒がいてくれて良かったと思ったことか。これからは自分のために伸び伸び思いっきりサッカーやってください。応援しています。社会人になって会わなくなるなんてことがないように予定立てを押し付けすぎず、お互いに努力しましょう。
 
こうた
昔、夜に試合観ていた時間まじで楽しかった。最後はなんか落ち着いた男になっていたけど、パッションでかまして、レアルの会長になる日を楽しみにしています。ここからは自分のエゴを押し付けるので、聞き流してください。やっぱり最後の1年は一緒にやりたかったです。自分の感覚ではこうたがいてくれたら、もっと成績は良かったと思っています。そしてもっと楽しかったと。バイエルンの試合を観ながら確信していました。そんなこといってもしょうがないので、代わりと言ってはなんですが自分と一緒にプレミア見に行ってください。
 
井筒
去年井筒のフィードバックを受けてから、気づいたら人生史上に残る最高の時間を過ごせました。それから段々と井筒に頼るようになってしまったな。そこの甘さに井筒は気づいていたのだろうと思います。今年調子出なかったのも井筒との時間が減ってしまったからなのかもしれない。そのせいにしてはいけないのだけれども、それだけ最高で楽しい時間でした。あとシンプルに井筒が将来どうなっているのかめっちゃ楽しみです。
 
輝、石井、竜蔵
伊勢神宮までナイス歩きでした。輝の誰も知らない一面を見られたことはこの旅の1番の収穫だと思います。輝は突発的に変な行動をして、おもろい。石井はあの感じで長男で、俺らの仲をうまいこと取り持ってくれる。御明はボス。間違いなく全員おもろいです。この1年、聞いてもマイナスにしかならない自分の本音を受け入れてくれて、ありがとう。感情を吐き出す場所が無かったら、どうなってしまっていたのだろうと思います。これからもビチ笑いしながら遊びましょう。次はシルクロード歩こうね。
 
どんなことでも常に一歩先を行く旭を追いかけて、サッカーを続けてこられました。10年楽しかったです。何度も見返すけど、あのパスは旭にしか出せなかったと思います。ナイスアシストありがとう。サッカーに関しては自分が文句を言うことは絶対に無いし、その資格もないけれども、それ以外の部分は成長してくれることを切に願っています。少しはgiveしましょう。少しでは足りませんが。これからもよろしく。
 
108
全員仲良くしてもらいました。ありがとう。こんなに全員と心置きなく笑顔で話せるようになるとは思っていませんでした。長田、げんとは似たものを感じるので特に応援しています。はやととせいじろうは笑いすぎです。遼一は下の学年も銭湯に連れて行ってください。対応しきれません。大変なものを押し付けてしまったけど、まじで応援しています。これからもよろしく。
 
トシさん
福山まで練習見学に行った際、お時間を頂き、尚且つ親身に対応してくださりありがとうございました。大人として、指導者として、数少ない時間ではありますが、憧れの人間でした。私の指導者としての夢は潰えてしまいましたが、いつの日か違う形で再びサッカー界に関われたらと思っております。SNSでは発信を追わせていただいているので、陰ながら応援させていただきます。次は試合観に行かせてください。
 
両親
22年間多くのサポートありがとうございました。多分全部の試合を観に来てくれていたかな。今年は中々勝利を届けられませんでしたが、現役最後に見せられて安心しました。毎週試合に来てくれるという事実はとても恵まれていることだと思っています。少しずつ人生のレールを外れつつありますが、何とかするので、親孝行まで少々お待ちいただけると幸いです。これからよろしくお願いします。
 
その他、今まで関わってくださった全ての人に感謝を申し上げます。サッカーに取り憑かれていた時間は幸せでした。

コメント