暴走列車、行き先不明の旅

折田舜(3年/MF/三鷹中等教育学校)


 こんにちは、折田舜です。前回のフィーリングス以来一年半ぶりですね。

 まず初めに、提出期限を1月半ほど過ぎてしまったことをこの場を借りてお詫びします。係の上西園くん、すみませんでした。もちろん、書こうというつもりはありました。ただ、この一月半の間に、パソコンを2回も壊してしまったのです。本当に申し訳ありません。

 私のパソコンがぶっ壊れている間に、いろいろなことがありました。Aに上がって、また落ちてきました。正直それもあって、今の自分の考えはまとまっていません。ちょうどフィーリングスの提出期限が上がって1週間ごろ、一回だけ紅白戦でトップの方で出させてもらった週ぐらいでしたから、その絶好調の時に提出できていればまだマシな文章になっていたと思います。それからだいぶ時間が経ちました。二つの草稿を自分でボツにして、この文章が三度目の正直ということになります。

 私は普段文章を書く時、必ず結論を決めてから書きます。そうしないと文章の流れがおかしくなるからです。また、その結論を意識し、自分の考えと文章のニュアンスが乖離していないかを一語一語確認しながら書き進めていきます。(というか、自分が気分屋なせいでそうしないと文章が滅茶苦茶になるからです。そういう努力を普段はしていないせいで、日常生活でヤバい発言をしてる気がします。申し訳ありません。)だから、題名も最初に決めることにしています。

ですが、今の私は結論どころか、文章の軸となる考えも持ち合わせていません。というわけで、今回は初の試みとして、添削、推敲なしで思ったことをひたすら書いていこうと思います。誤字脱字は流石に訂正しますが、普段気にしているような細かいニュアンスの違いだとか、正しい語法とか、論理の流れ、分かりやすさ、必要な説明なんてのは一切気にしません。行き先を決めずに旅行するみたいで楽しそうですね。読みづらい文章になること間違いなしですが、お付き合いいただけると幸いです。(これだけ書いてみると認知療法みたいですね。まあ今の自分にはいい薬かもしれません)

 

 さあ、行き先不明の脳内旅行で、最初に私の頭に浮かんできたのはやはりAチームでの失敗ですね。正直これは約束されていたものと言ってもいいかもしれません。日々の練習で感じるのはAチームのメンバーとの個人能力の差です。純粋にサッカーのうまさが足りていなかった。育成にいた頃には準備と思考が全てを決定するなんて思ってた過激派でしたから、鼻っ柱をへし折られた形になりましたね。加入当初はちょっとうまくいったりして、登録間に合ってればベンチ入りできるっしょって思ってた時期もありましたが現実は甘くないですね。週を重ねるごとにメッキが剥がれていって、前できてたこともうまくいかなくなって、登録されてからは一ミリもトップに絡めなくて、まさに完敗って感じで育成に出戻ってきました。新しく入ってきた一年生も上手くて大ピンチってのが現在の状況ですね。

 こうなってくると日常生活もサッカーの不調に侵食されるのが辛いところです。まーた今日もうまくいかなったって思いながら乗る帰りの電車は死ぬほど長い。サッカーダメなら別のことやればいいじゃないって、SEMモデルに基づいた僕の無意識がほざいてますけど、そもそもそんな気力もないという。まあ負けたまま終わるってのが一番嫌いですから、最後まで死ぬ気で食らいついてやろうとは思いますけどね。そうやって今までサッカーを続けてきたわけで、続けてさえいればいつか勝てるチャンスがあるっていう。なんかそれで強キャラがその姿勢見て仲間になってくれるってのが漫画の王道ですけど、現実だとそんな都合のいい話はなくてただみっともないだけなんですよね。

それでも、それが私のやり方です。というか、それ以外にやり方を知らない。だって勝ったことがないから。そもそも中学生の頃からスタメンだったことは一回もありません。先輩と同期には当然勝てず、後輩にも負けるという。だから、Aチームへの昇格は些細なものとはいえ私の中でも初めての勝利なんですよね。昇格しただけでベンチにも入っていないのに、それだけで大喜びして、調子に乗ってフィーリングスもめっちゃ強気なこと書いて。降格してその文章を泣く泣くゴミ箱にダンクする私の気持ちを考えなかったんですかね。まあその時は降格するなんて思ってないからしょうがないか。なんかその時の自分が馬鹿らしくなってきました。

 だから自分がめっちゃ小物ってのは常に感じてるんですよね。早くAに戻りたいと思っている(というか一回しか上がってないのに戻りたいっていう表現がおかしい)けど、何をしたらいいかがわからない。ただ、1日1日頑張るしかない、もっとも落ちてきた(戻ってきた)週はそれすらも怪しかったですね。その週の練習試合でそこそこうまくいかなったらメンタル崩壊してたかも。それでも、別に状況は良くなっていないという。自信を持ったことがないから、自信の持ち方がよくわからない。俺は育成の奴らとは違うんだみたいな余計なプライドがどうしてもある気がする。それでも、俺が特別だから俺がチームを勝たせるんだっていう気持ち自体は大事なものだと思うから、そこらへんの塩梅は難しい。というか、サッカーにおいてまともな自尊心を持ってこなかった僕には難題すぎる。

 あーなんか書いてたらしんどくなってきたので別の話でもしましょうか。人間ってのは可能性と必然性の総合(弁証法的な意味で)とキルケゴールが言ってました。(意訳)。私的にはこれ以上人間を適切に表した言葉はない気がする。個人の解釈なので間違ってたら申し訳ないんですけど、この可能性ってのが精神であり、必然性ってのが身体です。考えるだけなら誰でもできます。例えば、金持ちになった空想をしてみるとか、自分がシャビ並みにうまくなったところを想像してみるとかそういうことです。想像には壁というものがない、思考には制限がない。「俺がブスケツ並みの選手だとするじゃん」っていう仮定も思考上なら可能なんですね。一方で、身体、あるいは物体ってのは必然性の象徴なんですね。どんなに妄想を膨らませたところで、俺の財布には金がないし、ブスケツ並みのプレーヤーの俺は今日もロンドでパスをずらす。

 この必然性と可能性の両方が結びついて人間が成立しているわけです。必然性だけになったら当然人は死にます。まあ自由がなかったらそらそうよなって感じですね。でも、面白いのが可能性だけになったとしても人は死ぬんですね。詳しく知りたい方はアノミーって調べてデュルケームの自殺論でも読んでみてください。まあ要は何するか何でも自分で決められるようになると人間って絶望しちゃうんですよね。何してもいいってのは何をしても意味がないってことなわけで、要は自由の刑に処されているってことです。

 スポーツ全般は必然性に偏ったものだと思います。自分の技量、周囲の状況、それらを勘案すると必然的に選択肢は決まってくる。それでも、一つには絞られない。自分の行動で状況は変わる、そうすると選択も変わる。サッカーには精神と身体の両方が必要だ、まさに人間的な行為と言えるじゃないですか。

 まーだからこそ、私はサッカーをしている自分について文章で語ることが嫌いだ。サッカー選手としての私は、グラウンドでのプレーのみで評価されるべきだ。そこにはそれ以外の一切が介在するべきではない。昔は、それゆえにサッカーが嫌いでした。どれだけ練習を頑張っても、サボってるあいつに勝てないのが不愉快だった。でも今は違う。だからこそ、サッカーは素晴らしいんだ。グラウンドの中では思想も出自も環境も関係ない。受験勉強や就活よりよっぽどフェアだ。

 私は文章が好きだ。精神が好きだ。それは私が必然性の地平である現実であまりいい思いをしたことがないからなのだろう。「弱者の崇高な武器にして復讐の具なるもの、すなわち精神と言語」みたいなことをトーマス・マンも言っていました。現実がうまくいっているならば、文学なんてのにハマるわけがないんだ。現実がクソくらえなのを知ってしまったのも、別にまあ早死にしちまった親父のせいでもあるかもだけど、自分のせいでもあるんだ。

 だから、サッカーだけは、本物だと信じられる現実だけは確保しておきたい。うまくいかなくたっていいなんていうと、視座が低いって言われるかもだけど、真剣にやっているのは本当だ。俺はうまくなりたいし、もう一回Aチームに上がりたい、スタメンで試合にも出たい。無理だとは言わなくても、難しいことはわかってる。必然性ってのはそういうもんだ。だけど、Aチームに絡めずに終わるかもなんて思ってたのは間違いだったじゃないか。私には、まだ可能性がある。私は、まだ完全に必然性に囚われきってはいない。体だって、完全に必然性の奴隷なわけじゃない。確かにへし折れた腰なんてのは必然性の象徴だけど、ヤバいと思った時に咄嗟に出てくる足技に、小さい頃から積み重ねた無意識に、何度救われたことか。それに、まだまだ俺はうまくなれる。体だってもっとうまく動かせるようになる。足が遅くて、まるで拘束具のように思えた体だって、少しずつ走り方も変えて良くなってきた。体は鎧じゃない、檻じゃない。肉であることはなんの牢獄も意味しないんだ。

 やっぱ精神てのはすごいもんだ。書いてるうちに、どんどん飛躍していく。どんどん現実という地面を離れて、無秩序に拡大していく。まあ、そういうもんだ。元気は出ただろう。やはり、精神に浸る、可能性に浸るというのは悪くない。やりすぎると電車のホームから身投げしそうになるけど、必然性に囚われている時にはいい薬だ。

 こんなことまで書くつもりはなかったのだが、まあしょうがない。やる気は出た。私なら可能だ。もっとも、必然性もきちんと大切にしなければならない。俺はブスケツではない。できないことはできないんだ。だからちゃんと思考しておかなきゃいけないし、首を振っておかなきゃいけないし、ちゃんとポジションを取っておかなきゃいけない。けど、それをちゃんとやればうまくなれる可能性があるなんて最高じゃないか。運動神経悪すぎて友達できないかもとか親に思われてそれを治すためサッカー始めたこんな人間が、サッカー推薦の奴らに勝てるかもしれないんだ。中高で勝てなかった先輩や同期に勝つことだってできるかもしれないんだ。そんな痛快なことはない。必然性に勝利すること以上に、人間らしいことはない。

 認知療法というやつは効果があるのかもしれない。今私の心はこれ以上なく落ち着いている。私はとんでもなく未熟だし、まだまだ成長しなきゃいけない。でも、ア式ならそれが可能だ。何度も、必然性から、うまくいかない現実から逃げようとしてきた。退部だって怪我している時に考えた。それでも、何やかんやあって、俺はまだア式にしがみついている。それは一緒にDLしてくれたおがさんだったり、期待してるって言ってくれたたでぃさんだったり、無理だと思うまでやってみろって言ってくれたよしりょうさんだったり、教えてくれるコーチの方々だったり、一緒にいてくれる同期やチームメイトの先輩、後輩のおかげだ。

 だから、このままじゃ終われない。サッカー人生、最後に一花咲かせたっていいだろう。結局、お世話になった人たちや、いつも一緒にサッカーしてくれるチームメイトに恩を返せるのはピッチ上でだけだ。だから、こんな駄文じゃなくて、ピッチで感謝を示す。そりゃ、もう俺のことなんか気にしてないかもだし、向こうからしたら忘れてるようなことかもしれないけど、それが俺なりの感謝の示し方、誠実さの表し方だと思う。

 決意を固めた。こんなやぶれかぶれ、それこそ歪な決意かもしれないけど。俺は間違ってない、そのためには、こんなとこじゃ終われない。とっととAに上がって、早くスタメンを勝ち取らなきゃいけないんだ。一試合でも多く、1分でも長く出たい。そりゃプレーできればその瞬間は満足かもだけど、(そもそも高校時代フル出場した覚えが数えるほどしかない)そんな低次元なことは言ってられない。それに、正しいサッカー、そうあるべきプレーを知ってしまった以上、そこからは離れられない。理想から離れた分、その空隙が私の息を詰まらせる。

 なんか、おんなじようなことばっか言ってるような気がするので、そろそろこのメチャクチャな旅を終わらせて、暴走列車を車庫に入れよう。結局、今どんな言葉を吐いたところこで、私はグラウンドでそれを実行しなければならない。だから、旅は一回終わりだ。現実に戻ろう。一歩、一歩、必然性の地平を開拓しよう。私は、まだ負けてない。私はまだ生きている。生きているのならば、勝ち目はある。さっきも言ったかもだけどそれが俺のやり方だ。

 

 

暴走はここで終了です。ここまで読んでくださった方、本当にお疲れ様です。そして、ありがとうございます。読み返していましたが、まさにはちゃめちゃというのがふさわしい、書き殴ったかのような文章ですね。敬体と常体が入り混じり、一人称も決まっておりません。

一応補足しておきますと、「私」というときは一般的に他者に向けている自分、「僕」というときは内省によって明らかになるナヨナヨしい自分、「俺」というときは熱くなっている自分、というような感じだと思います。多分。あと途中から筆が乗って敬体が吹っ飛んでますね。それと脳内旅行である以上、旅行者である読み手(無自覚的に書いている以上、今ここで本文の後始末をしている「私」も読み手に含まれます)に対して語りかけるという形になっているので、書き言葉ではなく話し言葉で書かれている部分がほとんどです。ですから、違和感を覚えたという方も多いかもしれません。逆に言わせてもらうとなぜ書き言葉と話し言葉が分裂しているのかという話ではありますけどね。英語はほぼ完全な言文一致なわけで。ここは不完全に終わった言文一致運動を引き継ぐ革命的な取り組みとでも位置付けておきましょうか。狂気がまだ抜けきっていないようですね。

 提出するに当たって整形することもちょっと考えたのですが、それは違うなというような気がしたのでそのまま提出します。普段なら頭を捻って文章を彫琢するところを、全く気にすることなくそのままにする。要は私の思考の原石というわけです。恥ずかしいけれど、同時にスッキリもした。なんかところどころ文章が詩的だったりかっこつけてたりするけれど、それが素なのだからタチが悪い。彫琢しないんじゃなかったのか。

 まあ、最後にこのふざけた文章に題名をつけて終わりましょう。最後の方で抱いたイメージをそのまま採用しましょうか。レールが引かれているはずなのに、その上を暴走する。私はレールから脱したがっているけれど、それでもレールなしには生きていけない。まさに私にふさわしいような気がします。

『暴走列車、行き先不明の旅』

 最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

 ああ、私の魂よ、不死の生に憧れてはならぬ、

 可能なものの領域を汲みつくせ

                       ―ピンダロス『ピュティア祝捷歌第三』

                                   折田 舜

(座右の銘を名前の前に貼り付けるの、一回やってみたかった)   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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