呪縛

小林勇太(2年/FW/海城高校)


3月某日。
春休みの1日、怠惰な故、気がつくとなぜかもう夕方だ。1日の終わりを感じ始める間もなく、愛犬のマロンをゲージに入れ、家を出る。自転車に乗り、最寄駅に向かう。行きの道は下り坂が多く、心地良い風を受けながら自転車を漕ぎ進める。大通りに出ると駅方面から家に帰るであろう学生や社会人とすれ違う。駐輪場に着くと、いつも通り上段のラックに自転車を収め、イヤホンを装着し、ZARDの曲を流し、駅に向かう。同じ方向に歩く人は少なく、すれ違う人ばかりである。乗車すると席は空いていて端っこに座る。音楽を止め、WOWOWのアプリを開き、ダウンロードしたチャンピオンズリーグの試合の視聴を開始する。15分ほど経ち、眠気が襲ったところで音楽を再びかけ仮眠。飯田橋駅で乗り換えのため降りると仕事終わりのサラリーマンとぞろぞろとすれ違う。世間では1日が終わり始めるこの頃、自分は1日のメインイベントであるア式の練習に向かう。みんなが帰る頃に練習に向かうこの時間はいつも憂鬱だ。たまには早く家に帰ってみたいものである。ふと思い返すと、ア式に入部してからの1年間はサッカーにほぼ全てを捧げた1年間だった。というか今までの人生のほとんどをサッカーに捧げているような気がする。



初めてボールを蹴ったのはいつだっただろうか。自分では覚えていない。祖父、父と野球家系に生まれた僕は母の勧めで長野県に住んでいた幼稚園の時に初めて週一回のサッカー教室に通い始めた。母は幼少期僕がよく走りまわっていたのを見て勧めたのだそうだ。お母さん英断すぎる、の一言。まさか大学生になってもやっているとは想像もできなかったでしょう。父は野球をやらせたかったらしいのでそこはごめん。



小学校に上がるタイミングで地元船橋に戻り、小一の夏頃から地元の船橋海神スポーツクラブ(略して海スポ)というサッカーチームに入った。船橋はサッカーが盛んで今考えてみると周りには強いチームが多く、海スポも結構強かったと思う。そのため、覚えている限りだと楽しんでやるという雰囲気もあるにはあったが、勝ちにこだわる姿勢が強く、親御さんたちの熱量もすごかったと記憶している。我が家も例外ではなく、小学校二、三年時には週末によく自分の試合でのプレーに関してやリフティングの回数が伸びない件に関して怒られていた思い出がある。(俺はイッテQが見たかったよ!)小三の終わり頃にはチームの中でうまい人たちが続々とwingsなどの千葉県内の強豪チームに移ってしまったこともあり、いつしか最弱の代と呼ばれるようになってしまった。逆にチームの弱体化に伴い、SBからFWに転向した自分は試合に出られるようになり、段々と点も取れるようになった。しかし中学受験を控え、小六の時には週一の練習へと頻度も減り、小学校で仲が良かった友達もサッカー好きが少なくプロ野球好きが多く自分もプロ野球の観戦にハマったためサッカーの情熱は失われてしまった。



辞めないでよかった。飯田橋駅での総武線から南北線への乗り換えは一度改札を出て旧江戸城の堀を渡る橋を渡って地下へと続く階段を降りるという経路である。改札を出て見える堀と夕陽の景色はいつでも格別であり、みんなにもぜひ一度見てもらいたい景色である。橋を渡りながら考えてみると小学生の時が一番サッカーが上手くいかなかった気がする。辞めなくてよかった。



受験の結果、海城中に進学すると、サッカー部への入部を決めた。人工芝のグラウンドがあり心躍った記憶がある。でも5月末の中間試験までの体験練習期間に体験練習に一回しか行かなかった。なんかわからないけどビビって前庭で仲良くなったクラスメイトと野球をしていた。何してんの俺。多分サッカーにはあまり良い思い出がなかったからであろう。しかし、いざ入部してからは順風満帆だった。小学校の時は当時は思いもしなかったが割とレベルが高い環境でやっていたし、進学校である海城は当然強豪校じゃなっかったからであろう。早くからトップチームに絡んで主力になれたし、自分たちの代では6年ぶりの都大会に出場することができた。中3の時にはコロナの影響で試合も練習もできない日々が長く、気がついたら高校カテゴリーに合流していた。



中学生年代では、上手い人たちはクラブチームに所属しており、強豪の中学校はさほど多くないため、対戦して通用しないと思ったチームや選手はほとんどなかった一方、高校カテゴリーでは多くのクラブチームが中学生までのこともあり、多くの選手が高校の部活に吸収され高校サッカーは中学と比べレベルが跳ね上がる。それでも徐々に適応できた。高一の12月には今でもサッカーを続けるきっかけとなった出来事が多々あった。まず東大フェスティバルという東大が全国の進学校を招待して開催するサッカーの大会に参加した。そこで東大には体育会のサッカー部があることを知った。勉強もサッカーも本気で取り組んでいた当時の部員が自分にはとてもカッコよく感じた。その大会で優勝でき、個人としても得点王とMVPになれたためなんとなくここなら活躍できそうと直感で思った。今考えるとなんて甘っちょろいことを考えているんだと感じたが、東大を目指すモチベーションとしては最適だった。かといって勉強は全くしておらずお呼びじゃないレベルだったが、、。同じ時期に東京都U-16の高体連選抜を選ぶための前段階としての地区選抜のセレクションに参加した。計3回あるうちの自分は2次からの参加だった。小学生の時にビビってセレクションの参加を拒否し続けていた自分にとっては初めての経験だった。アップをしたらひたすら3チームで紅白戦をした。なぜかは自分でもわからないが2次も年始に行われた3次選考も通過することができ、最終選考の石神井高校との練習試合も通過し、最終メンバーの20人に選ばれることができた。自分の高校史上選ばれたのは二人目だったらしい。周りの選手は帝京や成立、駿台学園など全国区の強豪校ばかり、足を引っ張っていることはわかっていたが上手い人たちとやるサッカーは最高に楽しかった。今でもサッカーを続けている人が多く、関東リーグでプレーしている人もいれば同じ都リーグでやっている奴もいる。いまだに連絡を取り合っている奴もいるぐらいだ。各地区の地区選抜同士の大会の結果、高体連選抜が選抜される(荒さんは多分これ?)のだが、コロナの影響で大会は開催されず、選抜チームも何回か練習したのみで打ち切りになってしまった。不完全燃焼である。



順調だった1年生に比べて自分たちの代になってからは負傷に苦しむようになってしまった。手首の骨折に始まり足首の捻挫、そしてハムストリングスの肉離れと最後の1年の3分の1は離脱していた気がする。特にハムストリングスに関しては復帰しては怪我をしの繰り返しだった。幸いにも大会など大事な時期には被らなかったもののプレーのキレは落ちてしまったなか最後のインターハイの時期になってしまった。うちの高校では選手権まではやらず、インターハイで引退するのが通例である。インターハイでは格上であるT3所属の東京成徳に勝ち5年ぶりに都大会への出場を決めることができた。そして都大会の初戦では同地区の高校と当たったのだが、地区選抜のチームメイトが三人いる高校だった。運命だと思ったのと同時にワクワクが止まらなかった。結果は後半アディショナルタイムに失点し0-1で敗北した。あっけない終わり方だった。チームを勝たせられなかった。高校史上最高の成績を残すと決めたのに。こうも一瞬で自分の高校サッカーが終わると思っていなかった。大学でリベンジをすることに決めた。



こうやってサッカーの呪縛に囚われていったなあと思いながら飯田橋から南北線に乗り込む。東大前までは飯田橋→後楽園→東大前の順で止まるため南北線に乗っている時間は一瞬で過ぎ去る。



引退してからは意外と勉強にすんなり移行することができた。部活をやっていた時はほとんど勉強していなかったからか伸び代しかなくやればやるほど成長できている実感があった。それでもサッカーの魅力から逃れることはできず、家から自転車の距離にある市立船橋高校の練習場にプレミアリーグイーストの試合を見にいったりした。郡司璃来(現清水エスパルス)はまじでうまかった。こんなストライカーになりたいと思った。勉強の方はというと英語が絶望的にできず、他の教科は悪くなかったものの遠く及ばず、現役時にはサッカーと同じくこちらもあっけなく不合格。東大以外行く気がなかったので早々に浪人が決まった。浪人時は現在9年目となるア式同期の飯田など高校の同期が多く、新しく仲良くなった奴らと予備校近くのフットサルコートを借りてフットサルをしたりなどそれなりに勉強しながら楽しい日々を過ごせた。その一方でサッカーからほとんど完全に離れた生活はどこかもどかしいものであった。やはりサッカーから自分は離れられないものなんだと悟った。無事ギリギリではあったものの合格することができア式への入部がかなった。


ア式に入って1年が経つが思うようにはいかないことばかりだ。しかし今まででは考えられないほど環境は整っている。試合はもちろん練習まで映像が残っていて、振り返れる環境が揃っているし、フィードバックをしてくれるスタッフもいる。



東大前駅のホームで降りると、長いエスカレーターに乗り、改札を出て地上に出る。3分ほど歩くと部室が見えてきた。今日も今から練習が待っている。



四年間で無事にサッカーの呪縛から解き放たれるよう引退まで走り抜けたい。

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